2021年12月30日木曜日

フィギュアスケート「紀平梨花」全日本選手権欠場と、ロシア代表選考

紀平梨花選手(梨花ちゃん)が、北京オリンピックに出場しないなんて考えもしませんでした。ジュニア時代から怪我の多い選手でしたけど、丸々一年間ですからね。オリンピックの出場枠を取るために無理をして、自分がオリンピックに出ないんですから話になりません。まあ、愚痴は、ここまでにしておきましょう。

もし、梨花ちゃんの誕生日が2週間早かったら、平昌オリンピックに出られたかもしれないけど、あの頃のメンタルじゃあ、満足な結果は残せなかったと思うし、世界選手権で台乗りしていれば、北京オリンピックに出られただろうけど、こんな状態じゃあ、出場したとしても最終グループに残ることもできないでしょう。ギリギリまで全日本の出場を模索していたそうですけど、今までもそういうことをやってきたから、悪化させちゃったわけですし。周りの大人たち(オーサ・コーチかな?)が、よくぞ止めてくれたと思います。

で、オリンピックの派遣選手が決まりましたね。女子の3枠目は河辺選手になりましたけど、フィギュアファンは、圧倒的に三原選手推しだったようです。三原選手がツラい時期を乗り越えてきたことを、皆さんよく知っていますからね。だいたい、強化部長が「若いから選んだ」みたいなことを口走っちゃたのが問題だと思いますよ。全日本選手権の成績で上から3人を選んだって云っておけば良かった話です。

河辺選手は、梨花ちゃんとコーチが同じですから、スケーティングもどことなく似ていますね。結果を出せば、外野も静かになるでしょう。

それにしても、梨花ちゃんがツイッターで「みんなおめでとう。テレビで観戦していて感動しました」みたいな投稿をしたのにはビックリしました。本人の投稿か、疑っちゃいましたよ。どういう心境で、どういう情況で投稿したのか分かりませんけど、ファンの多くは、試合を見る気にもならなかったのにですよ。それを、

テレビで観てたんだ

落ち込んで損した気分です。さすが、ツッコミどころ満載の梨花ちゃん、推している甲斐があるというものです。

さて、ロシアの代表選びも、いろいろと炎上しているみたいですけど、「コストルナヤ」選手の怪我には驚きました。北京で最も金メダルに近いと云われていた選手です。北京オリンピックは、梨花ちゃんとコストルナヤの対決って、ずっと思っていましたから、その2人がいなくなってしまうなんて誰が予想したでしょうか。でも、コストルナヤは、あと4年間はスケートを止めない、って宣言したそうです。(その後は、医学部に進学するとか。)

ロシア選手権では、絶望的強さの「カミラ・ワリエラ」選手が、当然のように優勝。2位に「トルソワ」選手(サーシャ)が入って、この二人が代表内定のようです。残りの一人は、3位に入った「シェルバコワ」選手(アーニャ)か、ベテランの「トゥクタミシェワ」選手(リーザ)のどちらか。ヨーロッパ選手権の結果で決めるそうですが、そう云っておきながら、リーザは補欠ですから、余程のことがない限りアーニャになりそうです。プレーオフにするんだったら、二人とも出場して決着を付けるべきだと思うんですけど、ロシアのスケート界は、日本以上に陰謀が渦巻いていますからね。

アーニャは、フリー演技でクワッドを転倒したのに、得点がリーザより5点も多いモノですから、いろいろと叩かれているようです。プロトコルを確認した限りでは、リーザがアーニャの上になるとは思えませんでしたけど、エテリ帝国に対するヤッカミからの嫌がらせってところでしょうか。選手そっちのけで、いい大人が大喧嘩ですけど、日本みたいに裏でじめじめするより良いかもです。(いっそのこと、ロシアに4枠あげちゃえば)

記者会見でも、アーニャに意地悪な質問が出たそうで、「コストルナヤが記者に苦言!」なんていう記事がヤフーに出てました。コストルナヤって良い子だなって思いましたけど、同じチームですからね。援護射撃ってこともあろうかと。

アーニャも4回転なんて封印してしまえば良いのにって思いますよ。あんなに綺麗なスケートをしているのに、プレローテーションがどうとか、こんな批判ばっかりですから。北京オリンピックでも、アーニャが3位で、坂本選手が僅差で4位とかになったら、日本中のファンから叩かれまくるんだろうな。隠れシェルバコワ・ファンの僕としてはツラいところです。

北京オリンピック、推しが出場しないのは、残念だし寂しいことですけど、出たら出たで、テレビを見ながら「カミラ転べ」とか「サーシャこけろ」とか念じてしまうと思うので、かえって、純粋に競技を楽しめるかもです。(若干、負け惜しみ)

まあ、梨花ちゃんも「もっと強くなって戻って来ます」って云ってましたから、信じて待つことにしましょう。って、僕が推すと、何でみんなそうなるんだ?

お終いに昨シーズンのフリー演技を貼り付けさせていただきましょう。このプログラム、曲は良いんだけど、編集がぐちゃぐちゃでしたからね。オーケストラバージョンで合わせてみました。


梨花ちゃんは、もう今シーズンは全休でしょうから、ちょっとはスケートを離れた生活をして欲しいなあ。ディズニーランドに遊びに行くとか、彼氏をつくるとかさぁ。で、まずは、2023年の世界選手権ですよね。だいたい、世界選手権の台乗りもしてないのに、オリンピックでメダルを目指すなんて、10年・・・3年早いってことだったのでしょう。

クワッド・ジャンプが跳べなくなったって良いじゃないですか。怪我を治して、大人のスケーターになって帰ってきて欲しいです。その時は、梨花ちゃんじゃなくって、ちゃんと紀平選手って呼びますね。

2021年12月22日水曜日

「北条宗時」と仏の里美術館「阿弥陀三尊像」

JR函南駅近く、大竹・神戸坂に、地元の人たちから「ときまっつあん」と呼ばれている神社がある。神社の名は、宗時神社。その名のとおり「北条宗時」を祀っている神社で、五輪の小塔が二基あり、大きい方が北条宗時、小さい方が狩野茂光の墓と云わっている。
NHK大河で宗時を演じた「片岡愛之助」さんも、大型二輪に乗って、お忍びで訪れたらしい。


北条宗時は、2022年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主役「北条義時」の同母兄である。父「時政」とともに頼朝の旗揚げに加わり、山木館の襲撃では先導役を務め、石橋山の合戦で戦死した鎌倉時代の武将だ。その最期を「吾妻鏡」では、次のように伝えている。

又北條殿。同四郎主等者。經筥根湯坂。欲赴甲斐國。同三郎者。自土肥山降桑原。經平井郷之處。於早河邊。被圍于祐親法師軍兵。爲小平井名主紀六久重。被射取訖。茂光者。依行歩不進退自殺云々。將之陣与彼等之戰塲。隔山谷之間。無據于吮疵。哀慟千万云々。

(訳文)又、北條(時政)殿と四郎(北条義時)様は、箱根の湯坂道を通って甲斐国へ向かおうとした。三郎(北条宗時)は、土肥山から桑原へ降りて平井郷へ向かうところ、早川の辺りで祐親法師(伊東祐親)軍に囲まれて、小平井の名主「紀六久重」に討ち取られた。(工藤)茂光は、怪我のため歩けなくなり、自害した。頼朝様の陣と彼等の戦場とは、山谷を隔てていたので助けることができず、(頼朝は)嘆き悲しんだ。

「早河」は、神社の近くを流れる「冷川」の誤記として、この地を戦死した場所とする説がある。宗時の墓が、函南町の桑原にあったことは確かだが、討ち取られた場所に墓所が作られるとは限らない。もし、宗時が敗走の途中で、追撃してきた伊東祐親の軍に冷川で討ち取られたとすると、頼朝がその情況を知っていることが不自然となるからだ。桑原から平井へ向かうとは、来た道を引き返すことであり、宗時たちが退却しようとしていたところを、後方から攻めてきた祐親の軍勢に包囲されたのではないだろうか。宗時は、早川で戦死し、桑原に葬られたと考えるのが自然に思う。

吾妻鏡には、もう1つ不思議な記述がある。時政と義時が箱根の湯坂道を通って甲斐国へ向かったことである。時政が、甲斐源氏に援軍を要請に行くのは、もう少し後のことであり、結局、この時は甲斐へは行かず、引き返したことになっている。

これによって、北条親子は、当主と嫡男で別行動をとったことになり、関ヶ原の戦いでの真田家の行動に準えて、家を存続させるための行動とする考えもある。ただ、敗走中の時政の行動は、不明なところが多いそうだ。恐らく、宗時が祐親軍に包囲された時、時政親子は、逃亡した後だったのではないだろうか。結果として、(逃げ遅れた)嫡男を見捨てたことになってしまった時政は、言い訳として、この一文を挿入させたという説を支持したい。

大河ドラマでは、北条宗時は「片岡愛之助」さんが演じることになっている。わずかな期間しか登場しない人物に、こんな大物俳優を抜擢するなんて、さすがNHKの大河ドラマである。この場面は、序盤のクライマックスになるだろうから、どんな描き方をするのか楽しみである。

さて、若くして討ち死にし、歴史の舞台に立つことのなかった「北条宗時」であるが、その死から21年後の建仁2年の吾妻鏡に再び登場する。

建仁二年六月小一日甲戌。晴。遠州令下向伊豆國北條給。依有夢想告。爲訪亡息北條三郎宗時之菩提給也。彼墳墓堂。在當國桑原郷之故也。

(訳文)建仁二年(1202)六月小一日甲戌。晴れ。遠江守(北条時政)は、伊豆の北条へ向かった。夢のお告げがあり、(石橋山合戰で)亡くなった息子「北条三郎宗時」の菩提を弔う(追善供養の)ためである。その墳墓堂(墓の上に建てられたお堂)が、伊豆の桑原郷にあるからである。

桒原の墳墓堂は、以前からあっただろうし、時政も何度か訪れていたと考えるのが普通であろう。建仁二年になって、わざわざ夢のお告げがあって伊豆に向かったと記述したのは、何故だろう。

建仁2年というと、時政が第二代将軍「源頼家」を追放する前年であり、北条氏が比企一族を滅ぼし、幕府の権力を握る直前である。北条家の行く末を決める大事な時期に、石橋山で討ち死にした嫡男の追善供養をしようとしたのだろうか。もしかしたら、夢のお告げを理由にして、何らかの行動を起こすための根回しに赴いたのかも知れない。

その墳墓堂に安置されていたのが、「かんなみ仏の里美術館」に収蔵されている「阿弥陀三尊像」だ。国の重要文化財で、鎌倉時代の慶派仏師「實慶」の作であることが分かっている。

仏像に関する過去ログはこちら

 桑原薬師堂と仏の里美術館Ⅱ ~収蔵仏像に関する私見~    

阿弥陀三尊像は、檜材の一木割矧造だそうだ。写実的で力強い表現は、如何にも鎌倉時代の慶派仏である。如来像の蓮華座が、鎌倉時代のオリジナルというのも貴重である。

美術館に収蔵される前、薬師堂に祀られていた頃の阿弥陀三尊像である。復元修理前なので、左脇侍「観音菩薩立像」の左前腕部が亡失した状態になっている。

實慶という仏師は、運慶願経の記述から、その存在は知られていたが、作品は長い間未発見だった。昭和59年、伊豆市修禅寺の大日如来から墨書銘が発見されたのに続いて、この阿弥陀三尊の胎内からも「實慶」の名が発見されたのだ。實慶の現存する作例は、今でもこの2例、計4躯だけである。 


修禅寺の大日如来は、承元四年(1210年)に造立されたことが分かっている。承元四年は、この地で暗殺された鎌倉幕府二代将軍「源頼家」の七回忌にあたる年で、北条政子が我が子を弔うために作らせたと云われている。

一方、桑原の阿弥陀三尊像の制作時期については、建久年間(1190~1198)の末頃とされている。墳墓堂の建立に合わせて造仏されたのならば、時政が建仁2年に訪れたときには、すでに祀られていたことになり、二像の制作年の隔たりが気になる。元々墳墓堂は仮堂であって、追善供養を機に造仏した可能性はないだろうか。だとすれば、造仏は1202年前後になる。

いずれにせよ、阿弥陀三尊像を作らせたのは、時政で間違いないであろう。頼朝の舅とはいえ、伊豆の小豪族に過ぎなかった北条氏が、幕府の実権を握るまでになった最初の一歩が、石橋山の合戦である。その合戦で命を落とした嫡男「宗時」を弔うことは、特別の意味があったはずだ。


宗時の墓(五輪の塔)が祀られている「宗時神社」であるが、宗時神社の呼称が使われるようになったのは、比較的最近のことで、地元では、ずっと「ときまっつあん」と呼ばれていたそうだ。「ときまっつあん」とは、「時政さん」つまり、北条時政のことである。宗時を祀っている場所の名が「時政」というのも不思議な話である。また、これだけの仏像を納めるには、それなりのお堂が必要であるし、宗時の墳墓堂は桒原にあったと明記されているから、この地に墳墓堂があったとは考えにくい。

時政が「牧氏の変」により、鎌倉から追放されたのは、元久2年(1205)。宗時の追善供養からわずか3年後のことである。

牧の方と謀って実朝暗殺を企てたため、北条家の子孫から謀反人と扱われ、歴史上の人物としても評判の良くない時政だが、嫡男の墳墓堂のために一流の仏師に阿弥陀三尊像を造仏させたり、地元民から「ときまっつあん」呼ばれたりと、従来のイメージと異なる一面を持っていたことは興味深い。

肉親に裏切られ、孤独となった時政にとって、石橋山で共に戦い討ち死にした宗時に、特別な思いがあったことは想像に難くない。この地を度々訪れていたことが、「ときまっつあん」の地名となって伝わったのであろう。宗時神社の地は、元々「時政」所縁の場所だったのだと思う。

北条の地に隠居させられた時政は、再び歴史の舞台に立つことなく78才で生涯を閉じた。鎌倉を追放されてから、10年後のことである。


#片岡愛之助  #かんなみ仏の里美術館  #鎌倉殿の13人

2021年12月18日土曜日

上國料萌衣「VIVA!!薔薇色の人生」

「松浦亜弥」さんは、相変わらずの音沙汰無しですが、このブログで応援してきた「丸山純奈」さんや「黒島結菜」さんが、いきなり活動をし始めましたので、嬉しいこと此の上ありません。今年の夏なんて、全くネタがありませんでしたからね。フィギュアスケート全日本選手権に臨む「紀平梨花」選手も気になるところですし、僕の住んでるところが舞台になる、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」も話題にしていかなくてはなりません。

でも、今回は、それら全てを横に置いといての「上國料萌衣」さんであります。ハロプロのイベントで歌った「VIVA!!薔薇色の人生」のテイクが素晴らしかったモノですから、投稿してしまいました。


 「VIVA!!薔薇色の人生」は、作詞:児玉雨子、作曲・編曲:加藤裕介。2017年にリリースされた「嗣永桃子アイドル15周年記念アルバム♡ありがとう おとももち♡」に収録された楽曲とありました。元々は「ももち」のソロ曲だったようですけど、「カントリーガールズ」のライブで披露されていたようです。ハロヲタ君たちの間では神曲とされていて、シングルカットも期待されていたようですけど、グループは2019年に解散してしまいました。

ハロプロの良いところは、松浦曲も含めた過去曲を、後輩たちが歌い繋いでいくところにあります。この曲は、カントリーガールズでは6人で歌割りしていたようですが、ソロで歌いきってしまえるのが、「上國料萌衣(かみこ)」さんの魅力ですね。

また誰かの脇役だ でも君の助演賞ならば なんでも頑張れる
浮いてる人は個性的 前向きすぎちゃってごめんね
未熟者は将来がある 未来しかなくてごめんね
明日の明日の幕開け 私なら大丈夫です 薔薇色の人生

暗い話題ばかりの一年だったなぁ、なんて思いながら聴いていたら、なんだか、泣きそうになりましたよ。歌で暗い世相を吹き飛ばすなんてできなくても、聴いている間は忘れていられるような気がします。この世にアイドルという職業が存在する価値って、こういうことなんでしょう。

スローバラードを歌うことも多い「かみこ」ですが、彼女は、やっぱり、前向きなアイドル曲が似合います。「元気を貰う」という表現は好きではないので、何か適当な言葉はありませんかね。


2022年は、素敵な年になると思います。

2021年12月12日日曜日

「サンダーバード」込められた平和への願い ~映画「サンダーバード55」公開に寄せて~

「サンダーバード55/GoGo」(Thunderbirds 55/GoGo)は、2022年公開予定の映画で、2015年にクラウドファンディングによって製作された「サンダーバード1965」(Thunderbirds 1965)を劇場公開用に再編集したものだそうだ。


サンダーバードは、今までにも、実写版、リブート版と作られてきたが、成功しなかったように思う。まあ、サンダーバードのファンていうのは、「第一作至上主義者」の集まりだから致し方ないことではある。今回、ペネロープの声を「満島ひかり」さんが担当するらしいが、「黒柳徹子」氏じゃなきゃヤダというコメントがあった。第一作至上主義にも程があると云うものだ。字幕で見れば良いだけの話だと思うが、ファンにとっては、吹き替え版こそがサンダーバードなんだろう。

今回の「サンダーバード55」が期待されているのは、当時の手法(スーパーマリオネーション)を使って忠実に制作されたとされているからだ。しかも、脚本は、ラジオドラマとして制作され、映像化されなかったものとあった。ハリウッドに改作された、2004年の実写版にガッカリさせられた僕らの期待は、高まるばかりだ。

クラウドファンディングによって制作されたのは、30分ドラマが3話。集まった資金は日本円にすると3,300万円ほどで、制作されたドラマは出資者にDVDとして配られたらしい。それを劇場版映画に再編集したのが「サンダーバード55」だそうだ。「55」というのは、公開から55周年という意味だろうが、元になったドラマは50周年の時に制作されているものである。(どうでもいいことですね)

こんな興行が企画されるのは、日本くらいなものだろう。逆に云えば、日本において、サンダーバードの人気は根強いモノがあるってことだ。サンダーバードは、1966年のNHK放送から始まって、2004年まで7回に渡って再放送を繰り返してきたそうだから、幅広い年代に刷り込まれている、憧れの存在なのだ。秘密基地・・・何てワクワクする言葉だろう。

さて、サンダーバードについては、映画の公式サイトにある「サンダーバード入門」を参照されたい。サンダーバード愛に溢れた、良くまとめられている解説である。

サンダーバード入門

YouTubeで見つけた発進シーン集である。新作の映像のように見える。映画公開がますます楽しみになってきた。僕は、2004年の実写版を見るまで、1号は長男、2号は次男と単純な順番になっているのだと思っていた。

何度見ても牧歌的な雰囲気である。地元の消防団だってもっと早く出動できるだろう。ただ、1号のスクランブル発進までの所要時間は2分だそうで、意外と早い。のんびり感じるのは、マリオネットの緩慢な動きのためと云うことか。

ウィキペディアからの引用である。これもまた、サンダーバード愛に溢れた、良くまとめられている解説である。

「人形劇でありながら、その模型のリアルさ、質感の充実、子供でも理解できる単純なストーリー、「人命救助」というスリリングかつ前向きで健全なイメージ、これら全てが明確な世界観を提示して大好評を博した。ロケット噴射の描写などの特撮技術も優れており、その後の特撮作品への多大な影響を及ぼした。登場するメカもデザイン的に極めて斬新かつ洗練されていた。音楽もオーケストラサウンドを基本に、質が高く映像にマッチしたものだった。」

では、サンダーバードに影響された日本の特撮シーンを紹介させていただこう。まずは、1967年の「ウルトラセブン」。地球防衛軍の秘密基地からウルトラホーク1号が発進するシーンである。

「Fourth Gate Open(4番ゲート開け)」って云ってたんだ。スクランブル発進って、命令を受けてから何秒で出発できるかが勝負だと思うのだが、牧歌的雰囲気を確実に継承しているのが分かる。サンダーバードと比べると、ジェット噴射がちょっとショボいように思う。

続いて、1968年の「マイティジャック」。主演は二谷英明さん、音楽は「冨田勲」大先生である。水流をリアルに見せるために、採算を度外視した最新鋭の高速度カメラを導入したらしい。納得できる作品を作るためなら会社が傾いても構わない、という円谷プロの信念が伝わってくる。

以下は、2015年のブログ記事の再編集である。

サンダーバードが制作された1965年は、第二次世界大戦からまだ20年しかたってない頃である。制作者のジェリー・アンダーソンは、自身も従軍経験があり、戦争で兄を亡くしている。そしてロンドンは、ドイツ軍の最新兵器V2ロケットによって無差別爆撃をされたところだ。

サンダーバードは、原子力機関で動いているという設定だ。そして、TB1号のフォルムは、ナチス・ドイツ軍のロケット兵器V2を連想させる。サンダーバードの設定年は2065年。つまり当時からすると100年後の未来だ。そこに描かれているのは、原子力やロケットの平和利用であり、国際紛争の無い世界だ。 

第2話「ジェットモグラ号の活躍」は、アメリカ陸軍の新型装甲車が実験中に遭難するというものだった。装甲車が大きな穴に落ちてしまうのだが、それは、昔、陸軍が不要になった兵器を処分して埋めていた穴だという。冷戦を背景に軍拡競争に邁進していた、当時のアメリカに対する皮肉ともいえるストーリーになっている。

つまり、「国際救助隊」は戦争のアンチテーゼなのだ。戦争とは、国家と国家が、科学技術を利用した兵器を使って人を殺し合うことである。でも「国際救助隊」は、イギリス独特な階級社会のテイストはあるものの、国籍関係なく科学技術を駆使した機材で人命を救助する。作品の底流には、科学技術は人を救うために使われるべき、という思想がある。科学技術の粋を結集しているが決して兵器ではない。そして誰も殺さないという理念がある。「国際救助隊」は、原爆やロケット兵器で街を焼かれ、世界平和など夢物語だと承知していながらも、本気でそれを願っていた1960年代という時代が生んだ物語だ。

やがて、その後の特撮作品、SF作品は、正義をかざして悪を撃つものばかりになる。スターウォーズに代表されるように、科学技術は、再び最新兵器となり、敵を殺戮するために使われるようになってしまった。

サンダーバードも、その危うさを予見していたはずだ。良いことをしている彼らが「秘密基地」を作り、極秘に活動しなければならない理由が、子どもの僕には理解できなかったけど、今ならば分かる。リアルな2065年が、設定以上の素敵な世界であることを祈るばかりである。

2021年12月5日日曜日

丸山純奈「落ち葉」「この街」at渋谷gee-ge.

活動再開してからの1ヶ月間で、3回の配信ライブなんて。これって、最初から決まっていたことなのかなあ。のんびり構えていると次のライブが始まってしまいます。急激な展開に付いていけません。

11月23日の配信ライブでは、オリジナル曲を6曲(僕が聴けたのは4曲)披露してくれた丸山純奈さん(すーちゃん)、そのうちの3曲がギターの弾き語りでした。ギターの腕前も、弾き語りには十分に思いましたよ。

弾き語りの2曲目だった「落ち葉」ですけど、聞いたことがある気がしたので、もしかしたら、曲の一部がTikTokで公開されていたのかもしれません。切ない女の子の恋心を歌った曲とのこと。曲自体は、特にすーちゃんが歌わなくても、って感じでしょうか。でも、今までは歌うことのなかったようなアップテンポの曲を、見事に歌いこなしていましたから、歌のジャンルが広がったのは確かに思います。

チューニングの後、「はい、では、次が最後の曲になります。」「え~。」の声。「懐かし~。」とのリアクション。次回からは、このやりとりが、お約束になるでしょうね。

で、ラストソングは「この街」。上京してすぐに作った曲で、特に思い入れの強い曲とのことでした。これもTikTokで歌っていたかも知れません。曲のテーマとか弾き語りのアルペジオとか昭和のフォークソングっぽい曲でしたね。兎に角、歌が上手いので、5割増しで名曲に聞えてきます。

「あおぐみ」さんたちの投稿にもありましたけど、「はみ出ないように、だけど染まらないように」のフレーズが印象に残りました。何回も繰り返して出てきますので、これが一番云いたいことなんでしょう。歌に説得力があるので、メッセージ性のある曲は、良いかもしれません。

今回、ギター1本の弾き語りでステージを成立させられたのは、すーちゃんの成長に思います。今のすーちゃんは、弾き語りはもちろんのこと、アコースティックな伴奏でも、ロックバンドのボーカルでも、オーケストラをバックにしても歌えるだろうし、曲だって、自作したり、作ってもらったり、カバーしたりと、幅が広がってきたと思います。

あさってのライブは、どんな感じでくるのかなぁ。

2021年11月28日日曜日

丸山純奈「雨音」at 渋谷gee-ge.

 待ちに待った「丸山純奈」さん(すーちゃん)の配信ライブ。

すーちゃんだけがアーカイブ無しという意地悪な(?)設定は、さすが大手芸能プロダクション所属のタレントさんですね。アーカイブに置いとくと違法ダウンロードされるとでも思ったのかなあ。用事を済ませてから、ゆっくり見れば良いと思っていた僕ですから、めちゃくちゃ焦ってしまいました。どうにか都合を付けてリアタイに備えましたけど、一度聴いたら消えてしまうライブの配信料2400円は、2年8ヶ月ぶりのライブと活動再開へのご祝儀といったところでしょうか。

配信は、定刻より3分ほど遅れて、いきなり始まりました。「幾田りら」さん似のギターを抱えた女の子が歌っているんだけど、音声がおかしい。何重にもズレて聞こえてきます。再読み込みしても変わりません。もしかしたら、こういう演出なのか、なんて思っていると、どうやら歌っているのは、丸山純奈さん(すーちゃん)のようです。3年ぶりのナントカラって云っています。

慌てて、ブラウザを閉じて、もう一度立ち上げると、ようやく正常になりました。結局、僕が聴けたのは4曲。今回はオリジナル曲を6曲歌ったそうですから、最初の2曲を聞き逃したことになります。

まあ、1人だけアーカイブ無しとなっていましたから、トップバッターで出てくる可能性もあるなって考えてはいたんですけど、いきなり出てきた女の子が、あまりにも可愛かっ・・・四国音楽祭の時の雰囲気と全然違っていたものですから、すーちゃんだと思えなかったんです。

四国音楽祭の時は、無理して大人っぽく見せてた気がしたんですけど、今回は自然な感じで、18才の女の子の可愛らしさに溢れています。歌うときの表情や仕草も自然で、100倍こっちの方が良い。それにしても、幾田りらさんに似ています。デビューしたら、みんなに云われるかもしれませんけど、最初に云ったのは、僕ですからね。このブログ記事が証拠です。

流れてきたのは、打ち込み伴奏のスローバラードでした。どうやら、雨の降る夜に、失った恋を想い焦がれる歌のようです。
たまに雨に濡れ 帰りたくなる 傘をわざと忘れて
今日みたいな日は 弱くてもいいと 聞こえてきそうだ

楽曲は、好きな(?)ミュージシャンの方との共作とのことでした。歌詞は行間の深読みが必須で、サビ前のメロディーが独特に思いました。雨音を連想させるようなギターのアレンジ。特に盛り上がるとこもなく、淡々と歌っています。

この歌は そんなときに聞きたい
冷たく濡れた髪は あなたを消すため

中学生シンガーだった頃の「頑張ってる感」は影を潜めて、すーちゃんの優しい歌声が、心に届いてきます。サビのところは転調しているのかなぁ。1,2番で1回ずつしか歌わないのは勿体ないので、アルバムに収録する際は、リピートして欲しいです。

この雨音は 私の中のあなた
ここにいた ただひとつの証

mpで始まったバラードは、声を張り上げることなく、そのまま終わりました。歌うだけなら、中学生の時だって、余裕で歌えたでしょう。でも、すーちゃんは、単調な歌唱の中にも、細かい襞のように感情を込めていました。ひけらかさず、押しつけず、それは18才になった女の子の偽りのない、でも、ちょっとだけ背伸びをした想いに聞こえました。

僕は、この1曲を聴けただけで満足でした。


残りの3曲については、忘れないうちにまた。

2021年11月14日日曜日

「黒島結菜」プリンシパル ~恋する私はヒロインですか?~ (ネタバレあり)

 「プリンシパル〜恋する私はヒロインですか?〜」は、黒島結菜さんとジャニーズWESTの小瀧望君のW主演映画である。原作は「いくえみ綾」さんの恋愛漫画「プリンシパル」。黒島さんの数少ない主演作品が、GYAO!で無料配信中ということなので、有り難く視聴させて頂いた。

公開は、2018年3月とあった。主演作品の公開順では、時をかける少女→サクラダリセット→アシガール→プリンシパルだが、物語の始まりが雪景色の札幌なので、撮影時期はアシガールよりも前かもしれない。まあ、これだけ忙しくては、大学に通う時間も無かったっていうのも分かる。沖縄生まれの黒島さんは、どんな気持ちで北海道ロケに参加していたのだろう。

それなりにちゃんと作った映画のようだが、全く話題にはならなかったようだ。認めたくないが、黒島結菜は、やはり視聴率クラッシャーなのか。

主演の2人に、「高杉真宙」君と「川栄李奈」さんを加えた4人がメインキャスト。登場人物の皆が良い人。「鈴木砂羽」さんが演じるヒロインの母親だって、ウザくて迷惑な人だけど、ちゃんと娘の事を理解して指針を与えている。舘林の母親は若者の恋路を邪魔するイヤな存在だが、一般の社会常識からすれば彼女が普通。三十路手前の娘が高校生と恋仲になったら、反対するのは当然の話。少女漫画じゃないん・・・でした。 

原作では、高校1年生から物語が始まるようだが、映画では高校2年生からになっている。それでも二十歳を超えた俳優陣には厳しいように思うが、学園ドラマとは、そういうものだから良しとしよう。男優さんの多くは、高校生の役が決まると減量すると聞いた。ストイックでないと務まらない仕事である。

描かれている期間は、高2の冬から卒業までの一年半ほど。映画では話の展開が早いので、時間の流れを感じる暇が無い。次のシーンが、いきなり数ヶ月後だったりして焦る。冒頭の雪景色とラストシーンの雪景色が、一年後の冬だと直ぐには気付かなかった。(まとめてロケしているから、同じ景色だし)コミックは7巻まであって、映画では感情描写とかエピソードとか、だいぶ割愛しているようで、不満を持っているコミックファンは多いようだ。

コミックの映像化が如何に難しいかってことなんだけど、逆に云うと、「アシガール」の映像化が、如何に良くできているのかが分かる。

エンディングテーマが Little Glee Monsterの「ギュッと」で、これが無駄に良曲。朝ドラの主題歌でも使えるんじゃないかってくらいの前向きな好曲だった。で、YouTubeで見つけたMVがこれ。この映像を見ただけで、あらすじは十分にお分かりいただけるかと思う。ドンデン返しなど皆無の王道ストーリー。巷で流行っている、お金欲しさで殺人ゲームを繰り広げるどこかの映画とは真逆の作品。つまり今の世間ではウケない。

「時かけ」から始まった主演作品群で、これだけ可愛く撮ってもらってたのにブレイクしなかったのは不思議。ファンの中核となるべき若い男どもは、水着姿がグラビアに載るような女の子にしか興味が無いってことか。

恐らく、映画を喜んで観ていたのは、ジャニヲタさんたち。けど主演のもう1人、「舘林弦」を演じたジャニーズWESTの「小瀧望」君が、歌舞伎町のホストにしか見えない。テレビで見た小瀧君は、映画とは随分違う、普通の好青年でびっくりした。原作モノだからキャラを寄せるのは仕方ないけど、もう少し自然に演じた方が良かったんじゃないかと思う。

原作にもキスシーンとか、あるのかなぁ。ジャニヲタさんから嫉妬されるのは覚悟の上だろうけど、共演が結菜ちゃんで良かった、なんてヲタさんのコメントを見ると不思議な気持ちになる。いつもながらの、ジャニヲタさんの大人の対応に感謝。嫉妬されても叩かれないのは、彼女の魅力の1つだが、女子に嫌われないことと、若い男にウケないことは、表裏一体だから複雑な気分。

ハブられても直ぐに和解したり、親の再婚で、素敵な彼氏と血のつながらない兄妹になるとか、男子生徒と10才年上の女教師との禁断(?)のプラトニックラブとか、これぞ少女漫画という設定。ストーリーが予測可能なのも少女漫画の特徴、だから安心して見てられる。「もっと自分の気持ちに正直になれよ」なんて台詞も、少女漫画の世界ならでは。

歌とダンスが苦手という黒島さんがバレエを踊るシーン、頑張っているけど未経験者のつま先立ちには無理があるかも、あっ、だから挫折という設定だったのか。ところがこのシーン、原作には無いらしい。だとしたら、ムリヤリ挿入した理由が分からない。黒島ファンへのサービス・シーンだろうか。

速川唯と芳山未羽と住友糸真が、見た目もキャラも芝居も全て同じで混乱する。足をくじいて夜の森の中を彷徨うシーンは「アシガール」の第一話。群衆をかき分けながら路面電車と併走するのは「アシガール」第三話の小荷駄組そのもの。アスパラを食べるシーンは、瓜を食べるシーンと、川栄さんと黒島さんのやりとりは、阿湖姫と唯之助のノリと同じ。恋敵になるも互いに気を遣って身をひくところも完全に「アシガール」。

川栄さんは、阿湖姫みたいなキャラよりも、こっちの方が生き生きしている。4人の中で一番お芝居が良かったのは、「国重晴歌」を演じた「川栄李奈」さんに思う。

で、黒島さんが、タイプの違うイケメン君から同時に好かれるところは「時をかける少女2016」と同じ。選ぶ相手が逆だろってツッコみたくなるのも「時かけ2016」そのものだった。あんなデリカシーの無いヤツのどこが良いんだ?(望君のことでなく、役のことです。)

それに僕が「和央」だったら、親友の姉貴で10才年上の女教師なんかより、目の前に居る黒島結菜を選ぶ。年頃の男子と女子が一つ屋根の下で暮らしていて、頭なでなで程度で終わるなんて、有り得ないだろ。

その和央を演じた「高杉真宙」君は、確か、朝ドラの出演が決まっていたのにも関わらず、アイドル俳優はイヤだといって、事務所を退社して独立したと聞いた。それって、こういう映画じゃなくって、もっと大人の芝居がしたかったってことか。爽やかな演技だったけど、これもイヤイヤ演じていたのかなあ。でも、オジさんは、望君とのキスシーンよりも、2人で見つめ合ってるこっちのシーンの方が、キュンキュンしたぞ。兎に角、この2人が醸し出す雰囲気が素敵すぎる。今回は結ばれなかったが、いつの日か、ちゃんとした(?)大人の恋の物語を共演して欲しい。「ちむどんどん」の相手役は、高杉君が良かったな。

まあ、いい歳をした大人が見るような映画でないのは確かだけど、無料だと思えば腹も立たない。原作ファンには不満もあるだろうが、話の展開もサクサク進むので、退屈することなく、楽しく見ることができた。現実離れしたストーリーだって、これからリアル社会を生きる女子には応援歌になる(?)だろうし、現代社会に疲れ果てたオジさんには癒やしになった。

全編を通して、黒島結菜さんが可愛く撮れているので、ファンだったら長編PVとして鑑賞すれば良い。まあ、他人には、絶対お勧めしないし、この映画を観たことだって内緒にしたほうが無難だろう。でも、こんな映画を、微笑ましく鑑賞できる自分って、あめでたくって、幸せなヤツに思う。

#黒島結菜 #川栄李奈 #高杉真宙 #小瀧望

2021年11月7日日曜日

「黒島結菜」のオールナイトニッポン

何十年振りかで、オールナイトニッポンを聴きましたよ。僕が、喜んで聴き始めたのは、笑福亭鶴光さんの頃ですからね。次の日に学校がありますから、聴いていたのは土曜日の深夜限定だったように思います。学生になってからも聴いていましたけど、印象に残っているのは、タモリさんの「中森明菜コーナー」でしょうか。いつやるか分からないものですから、明け方まで放送に付き合って、結局、内容にガッカリの繰り返しでした。今思えば、あれ詐欺ですよ。

オープニングの音楽って、今でもアノ曲なんですね。週末の夜とはいえ、この年齢で深夜放送をリアタイするのもツラいので、radikoで聴かせていただきました。2時間の放送といっても、CMと音楽をスキップすると、中身は半分くらいでしょうか。(スポンサーさん御免なさい)「#黒島結菜ANN」がトレンド入りしたとかSNSに出てましたけど、黒島ファンにトレンドを形成できるような勢力があったとは驚きです。

さて、ラジオのメインパーソナリティが、ほぼ初挑戦という「黒島結菜」さん。ツッコミ不在の独りパーソナリティですので、グダグダ放送になることは、ある程度予想はしてました。事前録音のようでしたが、何回も録り直したりはしないでしょうから、ほぼ生放送みたいなものだったのかなぁ。黒島さんは、緊張すると笑っちゃうタイプのようで、ひとこと話す度に笑っていましたよね。自分のコメントに、自分で照れて、自分で笑っているって感じ。ファンはカワイイって思うでしょうけど、聴いているオジサンは、疲れてしまいましたよ。

で、曲をかけてくれるんですけど、曲名紹介がカンペ丸読みの咬みまくり。ファンはカワイイって思うかもしれませんけど、辿々しく紹介されると、こちらはテンションが下がってパスしてしまいました。(radikoですからね)で、自分で選曲してないんだって思っていたら、最後の方で、好きな曲でもタイトルとか全然覚えないとの言い訳。それ言うんだったら、一曲目の時に言えよ。って云うか、6曲しかないんだから、曲名くらいちゃんと云えるようにしておけ、ですね。選曲した理由とかも言ってくれれば、ちゃんと聴いたのに・・・悲。

番組内容は、メールを読んでコメントしたり、リモートでつないでインタビューしたりって感じ。「マドレーヌ現象」とか、「赤い服着て」とかコメントが雑だったのは、事前に応えとか用意しているわけじゃないってことでしょうか。構成作家が全部書いてたんだったら、それはそれで凄いと思います。

自分の話もしてくれました。こっちの方が安心して聴けたかな。妹さんと住んでいることとか、一人旅でキューバに行ったこととか、まあ、ファンだったら、知ってるような話が多かったように思いますが、大学進学を考えたきっかけの一言が、当時のマネージャーさんだったってのは知りませんでした。それから、推薦入試で小論文のヤマが当たった話とかは、面白かったです。大学入試って、そんなものですよね。それで、人生の方向が決まったりするわけで。

暗室の実習は頑張っていたけど、写真色彩学などの単位が取れなかった話とかもありました。アシガールを収録している頃は、大学に全然通えてなかったようですからね。黒島さんは、大学4年の時に日大芸術学部を中退されたので、随分もったいないなあって思ってたんですけど、4年間では単位不足で卒業できなかったのかも知れませんね。実習だけ頑張ってるんだったら、専門学校でも同じじゃんって思いましたが、今回のラジオ出演も、「オールナイトニッポン×日藝100周年記念スペシャル特番」ですし、四月には第15回日藝賞を受賞したりと、日藝に在籍していたことが、しっかり役に立っているようで何よりです。(中退でも貰える賞ってあるんだ)

放送が進むにつれて、話し方も落ち着いてきたように思いました。何事も経験ってことでしょうか。グダグダ感は、考えを変えればヤラセ無しってことでもありますし、一般のリスナーさんはどう感じたか分かりませんけど、自然体な彼女らしさは伝わったかと思います。最後には、もっとラジオの仕事がしたいみたいなことも言ってましたので、期待しましょう。吉岡里帆さんの「LIFESTYLE COLLEGE」みたいな J-WAVE系やミュージックバード系の番組だったら、コミュニティFMで聴けるから嬉しいなぁ。

#黒島結菜ANN  #日藝100周年

2021年10月31日日曜日

米津玄師の「Lemon」を歌った「丸山純奈」の進化

この歌を聴くために、ちゃんとNHK+に登録しましたよ。MCを別撮りにするなど、コロナ禍での苦労が窺えた放送でした。公開収録でありながらのノーレスポンス・ライブですから、音楽祭っぽさは感じられませんでしたけど、開催できて何よりです。丸山純奈さん(すーちゃん)は、収録のステージでは2曲歌ったとのことでしたが、放送されたのは米津玄師氏の「Lemon」のみ。まあ、よくある話であります。


さて、「Top-Girls1」さんが、歌唱テイクを上げてくださいましたので、早速、視聴させていただきましょう。確か、埋め込み不可ですので、リンクになるかと思います。東京の高校3年生が、アコースティックバンドをバックにして歌う「Lemon」ですよ。

なんか、ドクターの声が聞こえてきた気がしますけど、それ必要かなぁ。

で、3年前、徳島の中学3年生の「Lemon」が、こちらになります。こちらも生バンドですね。さて、進化の具合は如何でしょうか。

真っ先に気付いたのは、キーを上げたことでしょうか。前のは、一番高い音を地声で出せるキーに合わせといて、出だしの低音を頑張るっていうチャレンジングな歌唱でしたけど、今回は、低い音を無理なく出せるキーにして、高音は裏声を使う正攻法の歌唱に変えてきました。歌を聴かせるか、声を聞かせるかってところですけど、感情を込めやすい今回の方が、無難な選択かと思います。歌怪獣さんだったら、きっと地声で張り上げてくるでしょうね。

最後のレモンの「レ」は、難しいですね。地声だと上がりきらないし、裏声だと戻すのが大変そうです。たくさんの歌自慢がカバーに挑戦してますけど、皆さん苦労しているところでした。

後は、ブレス音が少し気になったでしょうか。まあ、楽曲によってはワザと入れる時もありますから、良い悪いの話ではないんですけど。それから、最後の方で時々視線が下がるのは歌詞のプロンプターでも見てたのかなぁ。

すーちゃんは、前回歌った「ハナミズキ」とか、TikTokに投稿した「糸」みたいなバラード系の方が良さを出せるとされていたし、その通りだと思っていたから、「Lemon」を歌ったと聞いた時は、ちょっとビックリしました。でも、歌うだけで精一杯になりそうな曲を、情感込めて歌えたのは、さすが、すーちゃん。特に、歌の出だしからサビ前のところが良かったです。あんな優しい声で歌うことって、今までなかったように思います。サビから先は、いつもの純奈節になりましたけど。

ただ、びっくりするくらい上手くなっているかって云われると、どうなんだろう。確かに、発声とかは安定していると思うけど、高校1年生の時から、このくらいは歌えてたような気もしないではありません。

同じ三年間だったら、高校の3年間よりも、POLUのボーカルとして活動していた中学の3年間の方が、歌唱は確実に進化したと思います。歌唱力を向上させる一番の方法は、ステージに立って人前で歌うことでしょうから。でも、あのまま、歌い続けていたら、今頃は燃え尽きていたかもしれません。

僕は、すーちゃんの進化の時計は、それほど進んでないと思います。でも、それは、これから進化していくために、つまり、内面を成長させるための必要な停滞なんだと思いますし、そうあって欲しいです。

インタビューでは、デビューの話もしてくれました。見出しが「デビュー控える高3シンガー」ですから、来年のデビューは、ほぼ確実(!?)のようで、嬉しい限りです。なにせ、事務所は天下の「トライストーン」。小栗旬さんとのバーターで、大河ドラマに村娘の役でカメオ出演したり・・・妄想は膨らむばかりです。

すーちゃん、中学2年生の歌唱を貼り付けさせていただいてお終いにします。小柳ゆきさんの「あなたのキスを数えましょう」ですけど、この時は、山田姉妹(妹)に惨敗したそうですよ。

上手いかも知れないけど、それだけですかね。一本調子になっているのは、感情の込め方が分からないのかなぁ。でも、「Lemon」を歌った今のすーちゃんだったら、きっと良い勝負になると思います。

2021年10月23日土曜日

フィギュアスケート「紀平梨花」~女子4回転の功なき絶望の時代~

紀平梨花選手(梨花ちゃん)ですが、今シーズンから念願のカナダ入りしたかと思えば、あっちが痛い、こっちが痛いと言って、全然試合に出てきません。左足首を痛めて一年近くルッツを封印していたのが昨シーズン、その後は腰を痛め、今度は右足首の「骨軟骨損傷」だそうです。

体が少しずつ変化していく中で、高回転ジャンプの練習ばかりしていましたからね。どこか1カ所を痛めると、その影響で別なところも痛めてしまうなんてことは、よく聞く話です。フィギュア選手は、どこかしら故障を抱えているものだそうですけど、症状が長引いているのは心配です。

夏には、デービッド・ウィルソン氏の振り付けによるフリー演技「タイタニック」の披露がありましたけど、楽曲も振り付けも、それからスケーティングもわくわくしないんで、コメントもスルーしてしまいました。今の梨花ちゃんのスケートは、見ていても全然楽しくありません。きっと梨花ちゃんだって、滑っていても楽しく無いんじゃないかと勝手に思っています。


ダイジェスト映像のようですね。腰を痛めていて、狭いアイスショーのリンクで、これだけ滑れればたいしたものです。わくわくしないと言った前言は、訂正、お詫びさせていただきます。

解説が入っていませんから、代わりに私がジャンプ構成を・・・。
①3S  ②2A+1Eu+2S  ③3S  ④3S+2T  ⑤2A+1Eu+2S
で如何でしょうか。2アクセルとサルコウしか跳んでませんね。絶不調の時の構成であります。まあ、フリーのお披露目にはなってませんけど、アイスショーとして見れば問題ないでしょう。

今になって思うと、代表枠を3つ取れていたのは、良かったです。梨花ちゃんは、NHK杯も欠場して、年末の全日本選手権での一発選考にかけることになるでしょう。結果如何によらず代表に入るでしょうけど、調子が上がらないのに代表決定なんてことになれば、アンチがすぐに騒ぎ出すに違いありません。でも、そのための3枠目ですからね。1,2枠は実力でも、3枠目は大人の事情で決まるというのが、昔からの日本式選考方法です。


イマイチなのは、梨花ちゃんだけではありません。北京オリンピックでは金メダル確実と言われていた「コストルナヤ」選手も本調子ではないし、僕が密かに応援している「シェルバコワ」選手(アーニャ)も怪我の後遺症に苦しんでいるようです。「トルソワ」選手(サーシャ)も怪我をしているとのことです。アメリカも韓国の選手も、みんな全然輝いてません。結局、頑張れてるのは、ベテランの「トゥクタミシェワ」選手(リーザ)と新人の「ワリエラ」選手だけの印象です。ロシアのオリンピック代表枠も日本と同じ3人。これをリーザとワリエラが獲得すると、今まで表彰台を独占してきた「コストルナヤ」「アーニャ」「サーシャ」の中で、オリンピックに出場できるのは、一人だけであります。僕が新横浜で、3人娘を見た時は、本当に輝いていましたからね。こんなことになるなんて予想もしてませんでした。

先月、世界選手権で4Sを女子で初めて成功させた、カザフスタンの「トゥルシンバエワ」選手が引退してしまいました。無理もありません。減量をしながら4回転の練習ばかりしていたら、体に良くないのは素人にも分かります。こんなことをしていれば、誰だって、いずれ怪我をしてしまいます。

怪我をする前、つまりシニアに上がったばかりの年に、運良くオリンピックを迎えられた選手が活躍するという、生年月日でメダルが確定するような情況は、スポーツとして正しいはずがありません。

腰を痛めてから、4回転ジャンプについて消極的な発言が目立つ梨花ちゃんですけど、今回の怪我で、4Sや4Tへの挑戦は完全に無くなったと思います。北京オリンピックまでに、2018年のグランプリファイナルのレベルに戻せれば御の字じゃないでしょうか。グランプリシリーズを欠場したのは、「ブライアン・オーサー」新コーチの指示とも伝えられています。良い結果を期待するばかりです。

恐らく、アーニャは、もう4回転ジャンプを跳ぶことはないと思います。4Lzなどは、ずっとプレローテーションとかで叩かれていて、今までは、ぎりセーフという扱いでしたけど、ジャンプの質が下がってくると、もう見逃してはくれないと思います。昨シーズンの世界選手権は、3Aも4回転も無しでチャンピオンになっていますからね。疑惑の4回転に固執するよりも、演技の質を高めた方が彼女は輝けるし、僕も嬉しいです。

サーシャは跳び続けると思います。彼女にとって4回転はスケートそのものですから。でも、成功の確率は確実に下がっています。強豪揃いの中で3枠しかないロシアの代表権を獲得できるか微妙です。

結局、北京オリンピックで4回転を跳ぶ選手って、ワリエラだけなんですよ。ワリエラのニックネームは「絶望」。相手に勝ち目のない演技を見せつけて絶望に追い込むのが彼女の凄さ。北京オリンピックは絶望の時代になるのは確実とされています。でも、そのワリエラだって、次のオリンピックは分からないわけです。

フィギュアスケート女子に、4回転時代なんて来てたんでしょうか。

2021年10月17日日曜日

「もちまる日記」の炎上に心を痛めている人間がこちらです

世の中には、犬派と猫派がいるようだ。僕は、どちらも飼った経験が無いのだが、圧倒的に猫派である。

犬は、上下関係の中で生活する生きものである。対等は有り得ない。自分より偉いと思えば、尻尾を振るし、下だと思えばマウントを取りに来る。人間にもそういうヤツがいる。そして、僕は、下に見られることが多かった。だから、相手によって態度を変えるヤツは、例え僕がチヤホヤされる側だとしても、嫌いなのである。

仏像巡りで寺院に行くと、よく野良猫に出会う。拝観していたお堂の中から、猫が出てきて驚いたこともある。(危うく、野良猫を拝むところだった。)ここを縄張りにしている彼らは、重要文化財の建物だろうが自分の物だと思っているから、侵入者である僕を睨み付けてくる。一方、僕だって、拝観料を支払っているわけだから、引き下がるわけにはいかない。こういう対等な緊張感は、相手が犬では味わえないだろう。

猫の仕草は、見ていて飽きない。その理由の1つは、前足の使い方にある。犬にとっての前足は、足でしか無いのだが、猫の前足は、手として使われている。怪しいものをつんつんしたり、獲物をキャッチしたりできる。親猫が仔猫を前足で抱きかかえて舐め回す仕草も猫ならではである。

犬の喧嘩は、野蛮に噛みつき合うだけだが、猫の喧嘩は、取っ組み合って、キックもパンチも繰り出す、正に格闘である。世の中には、暇な人も多いようで、YouTubeには、猫の喧嘩を撮影した動画がたくさんアップされている。

そんな猫の動画を面白がって見ていた僕に、ユーチューブのAI機能が、お勧め動画を提案してきた。リモートワークで在宅勤務をしている「下僕」さんが、立ち耳のスコティッシュフォールド「もちまる」との暮らしを綴った、YouTubeチャンネル「もちまる日記」の動画である。

猫との平凡な日常を記録した、何の刺激も無い動画なんだが、ついつい見てしまった。清潔感有りまくりな部屋で、猫との優雅な二人暮らし。かなりの人気チャンネルのようで、2021年9月には「YouTubeで最も視聴された猫」としてギネス世界記録に認定されたそうだ。チャンネル登録数が150万以上、総再生回数は、7億回を超えているそうだから、かなりのものである。フォトブックやカレンダーも発売されているらしい。

「もちまる日記」の人気の理由は、もうすぐ2才の雄猫「もち様」の可愛らしさにあるのはもちろんだが、飼い主である「下僕」氏の動画センスが大きいだろう。動画には、飼い主の手が写ることはあっても、顔や声が入ることは無く、動画は字幕だけで進んでいく。で、この字幕の付け方が、じつに上手い。そりゃあ、中には、本当にそうなの?ってのも無いことはないが、表情豊かな「もち様」の仕草に、あの字幕がつくと、見ているこちらが癒やされる。それを、4分程度の動画とはいえ、ほぼ毎日更新してくるんだから、恐れ入るばかりである。

もう一つは、「もち様」と「下僕さん」の、男同士の友情と信頼関係であろう。もち様が去勢手術を受けることになったとき、下僕さんは猫にだけ絶食させるのは申し訳ないと、(多分、本当に)自らも絶食したらしい。そりゃあ、中にはヤラセもあるだろうけど、下僕さんが、愛情を込めて飼育しているのは、確かなことに思う。

そんな「もちまる日記」だが、注目されるにつれて、叩かれることも多くなってきたようだ。マネジメント契約とか、フォトブックの発売など、ビジネスが絡むと風向きも変わってくる。ワニの時もそうだったけど、ネットの世界というのは、未だにビジネス化への拒絶反応があるからだ。動画の人と猫との素敵な関係が嘘っぱちじゃないかというのがアンチの指摘するところだが、そう云われてしまうと、そんな気になってしまう自分がいる。人の心は、猫以上に変わりやすいってことか。             

でも「もちまる日記」は、ドキュメンタリーでなくって創作物なんだから、作られた舞台での演出は視聴者も承知しているはずだ。年収が億を超えたとしても、それは下僕さんの動画編集の才能に対する正当な対価であるし、人間様が飼い猫を金儲けに利用したことだって、悪いこととは思えない。

ユーチューバーとして生計を立てるのであれば、期待される動画を上げるのは至上課題だろうし、確かに挑発したり、からかっているような動画を配信している時もある。僕は猫の習性に関する動物実験だと思って見ていたけど、中には、それを動物虐待だとする人もいるってことのようだ。気ままな猫が相手なんだから、ネタが無い日は休止すれば良いと思うし、日常なんだから同じような動画が続くことも致し方ないと思うけど、仕事とあれば、そういうわけにもいかないとすれば悲しいことである。

このチャンネルで視聴者が癒やされていたのは、もち様の可愛らしさだけでなく、下僕さんの優しさによるところが大きかったと思う。人って、こんなにも優しくなれるんだってのが、伝わってきた。飼い主の優しさに癒やされる・・・それは、擬似的とは云え、猫と人間との「対等」な関係が演出されていたからこそで、「もちまる日記」の人気の秘密もそこにあったんじゃないのかなぁ。

ではこのへんで、ばいばーい

#もちまる日記  

2021年10月9日土曜日

「丸山純奈」がNHK「もっと四国音楽祭2021」で米津玄師の「Lemon」を歌うらしい

高知県民文化ホールで行われた「もっと四国音楽祭2021」の公開収録は、無事終了したとのことである。今は、10月29日の放送にむけての編集作業を行っている頃だろうか。

コロナ禍での収録となった今回は、観覧者数がかなり絞られていたようだ。元所属事務所のアクアチッタさんも落選したらしい。(僕的には、落選したことよりも、応募したことの方が驚きでしたけど)

「あおぐみ」さんたちも観覧希望の葉書を出したものの、ことごとく落選との報告があった。そのため、収録時の情報が全然伝わってこなかったのだが、番組のテーマソングである「ふるさとの色」と米津玄師氏の「Lemon」を歌ったらしいことが分かった。情報元は、公開収録に参戦されていた「三山ひろし」さんのファンの方とのことで、感謝である。

「Lemon」は、過去にも歌っているし、米津氏は徳島県の出身ってこともあるから、完全な予想外ってわけではないんだけど、ちょっと意外な選曲ではあった。

で、誰?

音楽祭も今年で4回目だから、四国を一巡したことになる。丸山純奈さん(すーちゃん)は、皆出席(昨年はVTR出演)だ。公開収録された歌は、過去2回ともカットされていないから、今回も大丈夫と信じている。

すーちゃんは、最近は精力的にTikTokへの投稿を行っていたようだ。僕もいくつかは、聴いてみたんだけど、どれも声を張り上げるだけの似たような歌唱に思えた。まあ、これは、60秒間という制約のなかで歌を披露しているからであろう。そういう意味でも、すーちゃんが、1曲丸ごとちゃんと歌うというのは、本当に久し振りのことなので大変楽しみである。

放送は四国限定のようだが、BSかオンデマンドで流して頂けると信じている。

NHKの金曜日の7時30分というのは、ローカル局の時間帯である。先週の静岡放送局では、新東名の浜松SAに置いてある街角ピアノに定点カメラを設置して・・・なんて番組をやっていた。それなりに面白かったんだけど、60才でピアノを始めました、なんていうオジさんの拙い演奏を県民に聴かせるんだったら、ちゃんとお金をかけて制作した、歌怪獣さんや、けん玉演歌歌手さんのステージを放送した方がずっと良いと思う。29日の放送が、街角ピアノの続編とかだったら悲し過ぎる。

さて、すーちゃんは、3年前の、2019年2月9日のライブでも「Lemon」を歌っていて、母上様が歌唱の一部をツイッターに投稿してくださっている。

当時のブログの記事を再掲させていただこう。

ついこの間までのテイクだと、低音は厳しいかなと思ってしまう場面があったのだが、確実に成長しているのは、嬉しい限りである。歌手の世界では、高音が出せる男と、低音が出せる女こそが無敵だからだ。そして、特筆すべきは、Cメロの部分であろう。時間制限のあるTwitter動画で、この部分を選んで貼り付けたのは、このCメロを聴いて欲しかったからに違いない。この歌は、渇ききった無機質のような世界観が特徴で、米津氏の歌唱も正にその通りなのだが、歌詞の内容は、それとは真逆の昭和の演歌調であるところが面白い。多分、そのギャップが、彼と、この歌の魅力なのだろう。米津氏のそれと比べると、彼女の歌唱は、切なく重く湿ぼったい。そして、血の通った人肌の温もりを感じる。これが純奈節である。純奈節である限り、彼女の歌唱はモノマネにはならない。実は、歌詞の世界観からすれば、こちらの歌唱の方が自然だと云えなくも無い。もちろん、米津氏のファンからすれば、こんなの「Lemon」じゃないとなるだろうが、虫の音と鳥のさえずりのように、質的に異なるわけだから、どちらが好みかということはあっても、どちらが良いかという比較は意味を成さないのだ。彼女は、このステージから一週間後のライブでは、「Lemon」は歌わなかったらしい。これだけ完成度の高いカバーを、たったの1回しか披露しないと云うのだろうか。ファンからすれば勿体ない話だが、彼女にしてみれば、これも数ある挑戦曲の1つに過ぎないのだろう。

もっと四国音楽祭のステージでは、どんな歌唱を披露してくれるのだろう。3年間の進化を実感できる日が楽しみである。

本当にあの(東京っぽい?)お姿で出演したのかなぁ。

#丸山純奈 #もっと四国音楽祭2021

2021年10月3日日曜日

斎藤佑樹投手と早慶戦

 汗はハンカチで拭うようになった。以前は、(子どもの頃からずっと)シャツの袖か何かで、適当に拭いていたんだけど、試しにハンカチを使ってみたら、調子良いこと此上なかったからだ。きっかけは、もちろん「ハンカチ王子」こと「斎藤佑樹」選手である。

その斎藤選手が、現役を引退するらしい。ここ数年は、怪我とかもあって、全く結果を出せていなかったようだから、早いとこ見切りを付けた方が良いんじゃないかって思ってたんだけど、ここまで引退しなかったのも、契約を打ち切られなかったのも、きっと深い理由があってのことだろう。まあ、プロ野球に全く詳しくない僕には、難しくて関係の無い話である。

何だかんだ云っても、2006年の甲子園は面白かったし、凄かった。その後の「ハンカチ王子」のフィーバーぶりはドン引きするレベルだったが、それは、斎藤投手の甲子園での活躍があってこそだ。キレのあるストレートに多彩な変化球。クールなマウンドさばきにクレバーな投球、それでいて、ここぞという場面では、明らさまに三振を取りにくるハートの熱さ。まるで水島新司の野球漫画から、そのまま飛び出てきたようだった。早稲田実業の試合を見た僕は、彼の投球に魅了され、それからの早実の試合は、都合の付く限り見るようなった。

決勝戦は、奈良のホテルで見た。仏像巡りを始めた頃で、とにかく暑い日だった。早めにホテルにチェックインして、テレビを付けた。マー君と投げ合って再試合になった、あの試合である。スコアは1対1。延長15回まで、互いにピンチを凌ぎ合う展開は、スリリングで水島新司の世界そのものだった。

やがて、斎藤選手は、早稲田大学に進学した。それもスポーツ科学部でなくって教育学部だ。

彼が大学2年生の頃、父を誘って、2回ほど早慶戦を見に行ったことがある。僕の父は漁師の倅で、大学進学を希望したものの、結局、叶わなかった。そのためだろうか、父は大学スポーツが大好きで、野球も駅伝も、ずっと早稲田を応援していた。正月には、箱根駅伝のラジオ中継を聴いていたのを覚えている。テレビでの中継が始まるずっと前、箱根駅伝が今のように注目されていない頃の話だ。そんな父と、自分の興味半分、親孝行半分で、神宮球場に行ったわけである。

早慶戦は、「佑ちゃん」人気で賑やかだった。外野席までほぼ満席だったし、おばちゃんたちの黄色い声援もあった。慶応の応援席には、付属の子どもたちも来ていた。応援団は、内野と外野に1つずつ、双方合わせて4つあって、それぞれがエールの交換をするので、やたら時間がかかる。内外2つの応援団は、連携しているようだが、厳密にコラボしているわけでは無いから、熱が入ってくると、球場全体がカオスになって、何が何だか分からなくなった。

早慶戦では、早稲田が一塁側と決まっている。これは、1933年に慶應の三塁手「水原茂」に早稲田の応援席からリンゴが投げられて、騒動になったことが発端らしい。以来90年間、早稲田の応援席は、一塁側に固定されているそうだ。でも、それだと今度は慶応の一塁手が困る、って、物を投げることを止めさせれば良かっただけの話じゃないのか。まあ、早慶戦というのは、そんな感じで、1つ1つが伝統という名の決まり事で支配されている、面白い世界だ。

僕は、中学生の頃、吹奏楽をやっていて、中体連の野球部の応援に駆り出されたことがあった。僕らは、高校野球のマネをしていたわけだけど、その高校野球の応援団は、大学野球の真似事をしていたわけで、それはプロ野球の応援スタイルにも影響を与えているはずだから、日本式野球観戦の原型は早慶戦にあると云って良い。

僕らは一塁側の、でも応援団からは少し離れた席に座った。そこからは、慶応の応援団がよく見えた。ちょっと考えれば分かることだけど、応援というのは、相手に見せるためにある。だから、一塁側に座ってしまっては、自分たちの、つまり早稲田の応援は聞こえないのだ。でも、慶応の応援も凄く格好良かったし、僕らは、無縁ではあったけれど憧れだったその場に居ただけで満足だった。

昨年の秋の早慶戦らしい。音速と光速の差がよく分かる。コロナ禍により、観客は内野席に入れて声無し応援。応援団は外野席で活動とのことだった。これって野球と応援が、両方バッチリ見れて最高のステージになっている・・・けど、声無しじゃぁ、つまらないか。

 肝心な試合についてだけど、早稲田が斎藤投手の好投でリードするのものの、終盤に打ち込まれて、逆転負けみたいな試合だったと記憶している。斎藤投手は、大学でも活躍はしていたけど、早稲田実業の時のような凄さは、もう感じられなくなっていた。

スタンド裏の売店で弁当を買っていたら、斎藤選手がすぐ横を通り過ぎていったことがあった。オーラはあったけれど、普通の男子だったように思う。調べてみたら、身長176cmとあったから、野球選手の中では小柄な方だ。桑田真澄選手の例があるにしても、プロのピッチャーとして活躍するには難しかったのかもしれない。大谷君をみていると、体がデカいというのは最高の才能なんだと、つくづく思う。

引退試合の発表もあった。プロで15勝しかあげていない投手に、如何なモノかという批判もあるようだ。たぶん、先発して、先頭打者と対戦したら、すぐに交代じゃないかと思う。相手打者がわざと三振ってこともあるらしいけど、その時は、裏の先頭バッターも打たないというのが、暗黙のルールらしい。そんな茶番劇を公式戦で行うことに、プロ野球を冒涜する行為という意見もある。けど、それで、最下位に低迷するチームの観客動員がちょびっと増えて、多少なりともグッズが売れるんだったら、興行的にはアリなんだろう。プロ野球の世界では、客寄せパンダの価値しかなかったことは悲しいが、それも仕事(プロ)ならば、致し方のないことである。

斎藤選手を指導者に、みたいなコメントもあった。ファイターズに残るという報道もあるらしいけど、アマチュア野球の指導者なんて如何だろうか。(教育学部卒なんだし)アマチュア野球で輝いていた選手なんだから、アマチュア野球に戻ってくるのが一番に思う。早稲田大学のコーチにでもなって、ゆくゆくは監督ってのも良いし、高校野球の解説者とかやってくれれば、嬉しいこと此上ない。


#斎藤佑樹引退  #ハンカチ王子 #早慶戦 

2021年9月26日日曜日

黒島結菜が「明大前」と「清澄白河」の街を駆けるらしい

 「黒島結菜」さんが本気の自転車好きだったとは知りませんでした。それにしても、この夏の3ヶ月間どこで何をしてたんでしょうか。たまーに、犬と一緒のインスタが出てくるくらいで、情報無さ過ぎです。結菜さんらしいと云えばそうなんですけど、インスタのフォロワーだって、呆れちゃったのか、ここのところ減り気味でしたからね。まあ、良い方の妄想としては、映画の撮影に没頭してたってところ。あとは、朝ドラの撮影をひかえて沖縄でのんびりしてたとか。早めに撮影に入っていたとか。単純に仕事が無いだけだったとか。同年代の女優さんたちが、ドラマに映画にバラエティにと、お仕事してるのを見ると心配になってしまいますけど、とりあえず動いている結菜さんを拝見できて、一安心であります。

こんなシーンもありましたね。

「清澄白河」って、「リカシツ」のあるところですよね。何年前だろう。1回だけ訪れたことがあります。

理科の実験器具をインテリア用品にしているお店で、お客さんは、若い女の子ばかり。ビーカーやフラスコ、試験管を売っている店なのに、オジサンが入るのには、ちょっと勇気が必要でした。あと、近くにチーズの専門店があって、あまりにもソフトクリームが美味しそうだったので、こちらも若い子に混じって買ってしまいましたよ。

「清澄白河」は、大通りから1本入ると、人気の無い静かな街で、東京にも普通に人が住んでるところがあるんだって思いました。動画に写っているのは、東京都現代美術館でしょうか。最近は、倉庫をリノベーションした、お洒落なカフェとかも開店して人気の街とありましたけど、行く機会、あるかなぁ。

もう1つの話題は、映画「明け方の若者たち」の公開ですね。こちらは、明大前とか高円寺が舞台とのことです。主演は、ただいま絶好調の「北村匠海」君。黒島さんが、匠海君の相手役にオファーされたのは、ファンから叩かれにくいと思われたからでしょう。匠海君のファンから「結菜ちゃんなら安心」とか云われてそうな気がする。

たしか、2月には、明大前での目撃情報も出てましたね。密になりながらの撮影でしょうから、いいろいろと大変そうです。匠海君は、8月に感染したとの報道も出てましたが、黒島さんは元気だったのかなぁ。

公開劇場の少なさが話題(?)になってますけど、静岡県では、東、中、西部の4劇場で公開予定ということで嬉しい限り。R15だそうで、だとすると、メディアに露出しての宣伝活動ってどうするんだろう。その頃って、黒島さんは、朝ドラの撮影が大変なはずだし、元々、バリバリ仕事ができるタイプにも思えないし。北村君と井上君が中心になってキャンペーンすることになるのかなぁ。

一昨年の暮れに「カツベン」を見に行ったときは全然OKっていうか、来てるのは、同年代の中高年ばかりだったんだけど、今回の映画では、想定されている視聴者層に、僕が入ってるとは思えません。のこのこ劇場に入っていって、匠海くんのファンたちから、冷たい視線を浴びせられたらどうしよう。

まあ、行くんだったら、新鮮な気持ちで見たいから、原作を読もうとは思わないんだけど、でも、何でR15なんだ。撮影に入る頃には、朝ドラヒロインは内々定していたはずだから、過激なシーンは事務所的にもNGだと思うけど、暴力シーンとかあるとイヤだな。


#黒島結菜 #北村匠海 #清澄白河 #夜明けの若者たち

2021年9月25日土曜日

ふきのとう「柿の実色した水曜日」

学生の頃、「ふきのとうLive1979風をあつめて」というライブレコードをカセットにダビングしたやつを毎日聴いていた。「ふきのとう」や「オフコース」が絶好調の頃だ。ライブ録音だから、曲と曲の間のおしゃべりもあった。全部暗記しちゃたけど、飽きもせずに聴いてたことを覚えてる。

「ふきのとう」は、「山木康世」さんと「細坪基佳」さんの大学の先輩後輩による、フォークデュオだ。名前と声のイメージから、年下の細坪さんっぽい方が山木さんで、山木さんっぽい方が細坪さんだったから、よく間違えていたし、今でもよく分からない。

アルバムの中の曲は、どの曲も、お気に入りだったけど、特に印象に残っているのが「柿の実色した水曜日」だった。

これこれ、前奏が始まってから、曲名を云うこの感じ、間違いありません。

「柿の実色した水曜日」は、「ふきのとう」の14枚目のシングルで、オリコンチャートは、87位とある。知名度のわりには、売れてないように思えるけど、フォークグループは、レコードセールス(シングル盤)よりも、ライブ活動が中心だったから、まあ、こんなところだろう。

あの頃は、(今もそうだけど)男性ボーカルは、高音が出せることが格好良いとされてたし、コーラスも上でハモるのが多かった。だから山木さんの、教科書の合唱曲のような下でのハモりは、逆に新鮮に感じた。この音域なら、僕にも歌えたから、ラジカセの細坪さん相手に、山木さんになりきって歌ったものである。

「ふきのとう」の代表曲と云うと、デビュー曲の「白い冬」とか「風来坊」「思い出通り雨」「春雷」といったところだろうか。「柿の実・・」は、人気ベストテンなどでは、ギリギリの10位くらいの扱いのようだが、僕は、この曲がお気に入りだった。漠然とした不安を抱えてた学生時代、日曜日の昼下がりみたいな、気分の落ち込む時に聴くには最高の曲だった。ああ云う時って、余計、落ち込むような曲が聴きたくなるものですよね。下宿の部屋で、灯りもつけずに「森田童子」を聴いてるヤツとかもいたし。落ち込んでる僕って青春?・・・なんて、今なら、厨二病の診断がくだされるだろうな。

2021年9月23日木曜日

「ごんぎつね」~自筆版で味わう新美南吉の魅力~ に寄せて

今年も彼岸花が咲く季節になった。毎年この季節になると、5年前に投稿した「ごんぎつね」にアクセスがある。きっと、小学校の先生たちが、授業の準備のためにと検索して、思いもかけず引っかけてしまうのだろう。自筆版の「ごんぎつね」など知ったところで、何の役にも立たないだろうけど、それでも何人かに一人は、記事を読んでくださった形跡がある。有り難いことである。

自筆版ごんぎつねの魅力

僕は、子どもの頃からずっと、作文とか感想文が嫌いだった。宿題に出されても、ほとんど未提出で済ませてきたように思う。その理由の1つは、僕が左利きで、右手で字を書くことにストレスを抱えてたってことだけど、もう1つの理由は、思い通りに書けない自分が嫌だったからだ。こんな文章を読んだ皆は、僕のことをどう思うだろう。そんなことばかりを気にしていた。

そんな僕だけど、一度だけ作文を掲載されたことがある。小学校6年生の時だ。PTAの広報誌か何かだったと思う。僕らは担任から、もうすぐ中学生になる心境を書くように云われた。僕は、家に届いた大量のダイレクトメールについて書いた。どこでどう調べたのか分からないが、6年生の子どもを持つ家には、制服を買えとか、通信教育に入れとかの勧誘はがきがたくさん届いていた。で、まあ、そのへんをネタに、捻くれた作文を書いてみたわけである。

で、どうしたものか、それが担任の気に入るところになったらしい。級友たちの書く作文は、中学生になったら頑張ります!・・・みたいなものばかりだったろうから、僕の捻くれた作文を面白いと思ってくれたんだろう。担任から、お前の作文に決めたからと云われて、それなりに楽しみに待っていた。

何日かして配られた広報誌を見て、僕は、あれって思った。確かに内容的には僕の作文だが、文章が違っているのである。担任が、ぼくの作文に手を入れていたのだ。僕の文章をそのまま広報誌に載せるわけにはいかなかったんだろう。とはいえ、誤字脱字の訂正の域を超えていたのも確かである。子どもの作文が、掲載にあたって添削されるのは常識なのかもしれないけど、なにぶん採用された経験がないのでビックリした次第である。

作文が掲載されたことで、周りから褒められたりもしたんだけど、僕的にはビミョーで、心の底から嬉しいと思えなかった記憶がある。僕の作文は、僕のものだったし、子どもにだってプライドはあるのだ。

大人になって、「ごんぎつね」の赤い鳥版と自筆版を並べて読んだとき、僕はこの時のことを思い出した。新美南吉は、「権狐」が赤い鳥に掲載されたとき、どう思ったのだろうか。確かに「赤い鳥」に掲載されたことで、南吉の名は広がり、原稿の依頼が来るまでになったけど、僕は、改作された「ごんぎつね」を見て、南吉が何を思ったのか知りたい。

「ごんぎつね」が「赤い鳥」に掲載された翌年、北原白秋が鈴木三重吉と絶交するに至り「赤い鳥」と絶縁すると、南吉も「赤い鳥」への投稿をやめてしまう。これは、南吉が、尊敬する北原白秋に追従したためと云われてきたが、「ごんぎつね」掲載にあたって抱いていた、三重吉氏に対する不信感が、根底にあったように思えてならない。

僕は改作された赤い鳥版の「ごんぎつね」を否定するつもりもないし、教科書に掲載され続けることも良いことだと思う。ただ、南吉の他の作品と読み比べたときに感じる「ごんぎつね」の違和感。あの南吉作品独特のぼんやり感の欠如は、やはり改作が原因だと言えるし、改作によって、物語に矛盾点(つっこみどころ)を抱えてしまったのも事実である。問題は、それらが17才の代用教員であった新美南吉の「未熟さ」のせいにされてきたことにある。自筆版「ごんぎつね」は、新美南吉による知多半島を舞台にした創作民話として、完成された作品なのだ。

自筆版の存在は、少しずつではあるが、世間に知られるようになってきた。いつの日か、2つの「ごんぎつね」が対等な扱いとなり、共に書店に並ぶようになれば、嬉しいこと此の上ない。

#新美南吉  #ごんぎつね

2021年9月11日土曜日

「ごんぎつね」~幻の自筆版で味わう新美南吉の魅力~

(1)~3つの「ごんぎつね」~

「ごんぎつね」として伝わる話は、3つあるとされています。

1つめは、知多半島の猟師の間で口伝されてきた「権狐」です。物語の冒頭にある、南吉少年が茂助(茂平)から聞いた話と推測されます。

2つめが、新美南吉が17才の時に創作した「自筆版ごんぎつね」です。

そして3つめが、1932年に雑誌「赤い鳥」1月号に掲載されるにあたって、「鈴木三重吉」氏によって改作された「赤い鳥版ごんぎつね」です。教科書に掲載され、書店に並んでいる「ごんぎつね」は全てこの赤い鳥版になります。

1つめの「茂助爺のごんぎつね」は、民間伝承です。「ごんぎつね」は、具体的な地名、人名で始まります。この、童話としては異色の始まり方は、「ごんぎつね」が完全な作り話でなく、事実とされていることを元にした、民間伝承であることを示していると思います。

物語の冒頭に出てくる「中山様」の末裔「中山元若」は、明治になって岩滑(やなべ)に居住し、家族ぐるみで新美南吉と交流があったと云われています。中山元若は、小学校の校長などを務め、その妻「中山しゑ」は、幼き日の新美南吉に民話を語り聞かせていたそうですから、もしかしたら「中山しゑ」が、「茂助爺」のモデルなのかもしれません。

「茂助爺のごんぎつね」は、兵十のおっかあの葬式の場面で終わるとされています。狐が償いのために栗や松茸を持ってくるのは有り得ない話です。しかし、物語が葬式の場面で終わるとすれば有り得る話に変わります。

狐などの野生動物が村に出没して、人家や畑を荒らすことは、現在でも普通に起きています。そして、葬式が出たのに合わせるかのように、狐が村に出没しなくなった時、村人たちは、葬式を見た狐が反省し、悪戯をやめたのだと考え、伝承が生まれたと推測できます。

そういう観点で物語を読むと、葬式の前と後では、作風に違いがあるように思えます。「ごんぎつね」は、民間伝承に、償いをテーマにした創作部分を継ぎ足した物語であると推測できます。

次は、2つめと3つめの「ごんぎつね」についてです。

沢田保彦著「南吉の遺した宝物」によると、55年ほど前に、半田市の中学校の国語教師、間瀬泰男氏が、教え子から1冊のノートを託されたとありました。その中学生は、南吉の異母弟、新美益吉氏のご子息で、ノートは、益吉氏が兄の遺品整理の際に手に入れたものだったそうです。

ノートには南吉の自筆で、何作かの童話が書かれ、その中に「赤い鳥に投ず」とメモ書きされた「ごんぎつね」がありました。赤い鳥に掲載されるにあたって、「ごんぎつね」が大幅に改作されていたことが明るみになったのは、この時からだとされています。 

「ごんぎつね」は、文字数にして、約4500字の物語だそうです。そのうち削除が約800字、加筆が約700字といいますから、改作の部分は、かなりの量になります。

実は、このような改作は、赤い鳥に投稿された他の作品でもおこなわれていました。鈴木三重吉氏から見れば、南吉は僅か17才の代用教員に過ぎません。未熟だと断定した彼の文章を、掲載に値する児童文学の作品とすべく添削することは、彼にとっては当然なことでした。また、会話文が方言で書かれ、民話的要素が強い自筆版をそのまま掲載するわけにはいかなかったとも考えられます。三重吉氏にとっては、民話と童話は、はっきりと区別されるべきものだったのでしょう。

ちなみに、鈴木三重吉氏は、宮沢賢治が投稿した作品を、全て不採用にしたことでも有名です。

「赤い鳥」を創刊し、日本に児童文学という分野を確立した鈴木三重吉氏の功績は認めざるを得ません。しかし、三重吉氏の改作によって、「ごんぎつね」が文学作品として完成したという、一部の研究者の意見には賛成できません。なぜならば、2つの「ごんぎつね」を読み比べれば、どちらが優れた作品であるかは、容易に判断できることだからです。

南吉は、この改作については、生涯何も語ることがなかったそうです。


(2)~削除されたプロローグ~

これは、わたしが小さいときに、村の茂平というおじいさんからきいたお話です。

これは、「赤い鳥版ごんぎつね」の冒頭文です。三重吉氏による最大の削除がされているのが、この冒頭部分です。「自筆版ごんぎつね」では、次のようになっています。

茂助というおじいさんが、私たちの小さかった時、村にいました。「茂助じい」と私たちは呼んでいました。茂助じいは、年とっていて、仕事ができないから子守ばかりしていました。若衆倉の前の日だまりで、私たちはよく茂助じいと遊びました。私はもう茂助じいの顔を覚えていません。ただ、茂助じいが夏みかんの皮をむく時の手の大きかった事だけ覚えています。茂助じいは、若い時、猟師だったそうです。私が、次にお話するのは、私が小さかった時、若衆倉の前で、茂助じいからきいた話なんです。

まず、茂助爺が茂平になっています。何故、茂助では、だめなのでしょうか。茂平という名前からは、村の物知りのご隠居さんのような人物を想像します。村の子供たちを集めて、のんびり昔話を聞かせる人物の名前は茂平の方が似合うと、三重吉氏は思ったのかも知れません。このように、三重吉氏の改作は細部にわたり行われています。

茂助じいは、年とっていて、仕事ができないから子守ばかりしていました。若衆倉の前の日だまりで、私たちはよく茂助じいと遊びました。

「若衆倉」ですが、村の青年団の集会所のことだと思われます。南吉少年も13才になると地元の山車組に加入して、庶務や会計の仕事を手伝っていたそうです。山車組の一番の活躍の場は村の祭りで、この祭の様子は、「狐」という話に出てきます。

私はもう茂助じいの顔を覚えていません。ただ、茂助じいが夏みかんの皮をむく時の手の大きかった事だけ覚えています。茂助じいは、若い時、猟師だったそうです。私が、次にお話するのは、私が小さかった時、若衆倉の前で、茂助じいからきいた話なんです。

「顔は覚えていないが、手の大きかったことだけは覚えている。」手を見ればその人の生き様が分かると言いますが、この一文で、今は体を壊して子供と遊んでばかりいる茂助爺が、どんな厳しい人生を歩んできたかが目に浮かびます。茂助爺が実在の人物かどうかは分からないそうですが、若衆倉の前の日溜まりで、子供たちが遊んでいたのは、本当のことに思います。

この削除された冒頭部分は、この後のストーリーとは一切関係ありません。しかし、南吉にとって「ごんぎつね」は、自分の故郷を舞台にした大切な話であり、だからこそ、このプロローグが必要だったのでしょう。


(3)~中山様というお殿様~

冒頭部分には、茂助爺の他に、中山様の記述もあります。

赤い鳥版です。

むかしは、わたしたちの村のちかくの、中山というところに小さなお城があって、中山さまというおとのさまがおられたそうです。その中山から、すこしはなれた山の中に、「ごんぎつね」というきつねがいました。

自筆版です。

むかし、徳川様が世をお治めになっていられた頃に、中山に小さなお城があって、中山様というお殿さまが少しの家来とすんでいられました。その頃、中山から少し離れた山の中に、権狐という狐がいました。

まず、「徳川様が世をお治め」という部分が削除されていますが、沢田保彦氏の著書「南吉の遺した宝物」によると、作品が投稿された昭和7年という時代が関係している、という分析をされています。この年の3月には満州国が建国され、5月には「5・15事件」が起きています。南吉が「ごんぎつね」を発表したのは、日本が太平洋戦争への道を突き進んでいた時代です。「皇国史観」の基では、「徳川様が世を治める」という記述は、都合が悪かったと言えます。南吉は尾張の国の人間ですから、徳川家に対して親しみを持っていたのかも知れません。しかし、一歩間違えば「赤い鳥」が発行禁止の処分を受けたかも知れない、そんな時代だったのです。

ところがその後に「わたしたちの村の近くの中山」という一節が加筆されています。ごんぎつねの舞台である「岩滑(やなべ)」は、今は半田市と合併して半田市岩滑ですが、当時は岩滑村でした。中山は岩滑村の地名の1つですから、「わたしたちの村の中山」で良いのです。三重吉氏の感覚では、村の中にお城があるのは、不自然だと思ったのかも知れません。

岩滑村の隣は、半田市(当時は半田町)です。半田は、古くから酒や酢の醸造業が盛んで、運河があり、鉄道もひかれている大きな町です。この「村」が「町」に抱くコンプレックスなどは、南吉の作品「疣」などに面白く描かれています。ところが、この地を治めていた中山氏の居城は岩滑にあった、というのが村の誇りでした。この心情が、次の記述に表れます。

中山様というお殿さまが少しの家来とすんでいられました。

何と、ほのぼのとした表現でしょう。この一文で、中山様がどのような殿様で、いかに村人たちから慕われていたかが分かります。

さて、戦国時代に岩滑城主となり、この地を治めたのは、「中山勝時」という武将です。勝時は、本能寺の変で織田信忠に従い討ち死にしたと伝わっています。その子孫たちは、徳川将軍家の旗本となったり、水野家に仕えたりしたようです。つまり江戸時代の中山氏は、主君に仕える武家であり、大名ではありません。中山様が岩滑の城に住み、この地を治めていたのは、戦国時代のことで、中山様というのは、「中山勝時」に限定されることになります。

その頃、中山から少し離れた山の中に、権狐という狐がいました。

自筆版の「ごんぎつね」は、このように話が始まっていきます。この記述通りだとすると、「ごんぎつね」は戦国時代の話ということになります。しかし、兵十や村人たちの記述から考えると、時代は、江戸時代末期、あるいは明治時代初期のような印象を受けます。兵十のモデルになったとされる「江端兵重」という人の存在も知られています。「その頃」が戦国時代を指し、「ごんぎつね」は戦国時代まで遡るような古い話である、と結論づけるのは難しいと思います。

中山勝時の子孫の中に、尾張徳川家に仕えた系統がいて、御馬廻役や武術師範などを務めていたようです。その末裔「中村元若」氏は、明治になって岩滑に移住しました。中山勝時の子孫が、先祖がかつて治めていた土地に帰ってきたということになります。この中山家は家族ぐるみで新美南吉と交流があり、妻「中山しゑ」は南吉に民話を語り聞かせ、六女「ちゑ」は南吉の初恋の人として知られています。

中山様は、物語には全く関わらない人物です。その中山様を好意的に、物語に登場させたのは、中山家と南吉の個人的なつながりがあったからだと言われています。


(4)~ごんのプロファイル~

自筆版です。  

その頃、中山から少し離れた山の中に、権狐という狐がいました。権狐は、一人ぼっちの小さな狐で、いささぎの一ぱい茂った所に、洞を作って、その中に住んでいました。そして、夜でも昼でも、洞を出ていたずらばかりしました。畑へ行って、芋を掘ったり、菜種がらに火をつけたり、百姓屋の背戸に吊してある唐辛子をとって来たりしました。

赤い鳥版です。

その中山から、少しはなれた山の中に、「ごんぎつね」というきつねがいました。ごんは、ひとりぼっちの小ぎつねで、しだのいっぱい茂った森の中に穴をほって住んでいました。そして、夜でも昼でも、辺りの村へ出ていって、いたずらばかりしました。畑へ入って芋をほり散らしたり、菜種がらの、ほしてあるのへ火をつけたり、百姓家の裏手に吊してあるとんがらしをむしり取っていったり、いろんなことをしました。

権狐のすみかは、新美南吉記念館から直線で600mほど北側、矢勝川(背戸川)の向こうに見える権現山と考えられています。権現山は、山といっても比高は32m。こんもりと木が茂っている丘みたいな所です。

自筆版では、権狐は「一人ぼっちの小さな狐」とありますが、赤い鳥版では「一人ぼっちの小ぎつね」になっています。「小ぎつね」は「子ぎつね」に通じる言葉なので、どうしても「幼い狐」「可愛い狐」という印象がつきまといます。ここでは、「小さな」という中に有る「ちっぽけな存在」「とるに足らないもの」という意味が重要になりますから、やはり「小さなきつね」のままにすべきだったと思います。

あと「洞」が「穴」になってます。確かに「洞を作る」というのは違和感が有りますが、恐らく、南吉は「洞は横に広がるもの」「穴は下に広がるもの」と考えていたと思います。

南吉は、「洞」と「洞穴」という記述をしていますが、これは、「穴」と書き換えたところと書き換えていないところがあって、三重吉氏の添削も意外と杜撰なことがわかります。

その洞(穴)がある所ですが、「いささぎの一ぱい茂った所」となっています。「いささぎ」は、「ヒサカキ」の方言とのことです。「ヒサカキ」は、仏壇やお墓に供える木です。権現山には、今でも「ヒサカキ」が沢山あるそうです。地元の人たちが、お墓参りの季節になると、権現山へ取りに行き、南吉少年もそのことを知っていたという推理も可能になります。

赤い鳥版は、「しだのいっぱい茂った森の中」になっています。方言を直すのであれば、「いささぎ」を「ひさかき」にすれば十分なんですが、シダに変えています。

三重吉氏は、権狐のすみかを「ある程度大きな山の奥の、薄暗い森の中」に設定したかったようです。ただ、村に悪戯をするために山奥からやって来るという設定では、村のことにやたら詳しいことが不自然になります。やはり、権狐は村人の近くで、村の営みを感じながら生きていたと思います。

最後に権狐の悪戯が具体的に書かれています。赤い鳥版では、「掘る」→「堀り散らす」、「取る」→「むしり取る」というふうに表現が強調されています。「散らす」を加えただけで、畑全部を滅茶苦茶にした印象を与えます。権狐1匹のせいで、村がメチャメチャにされたようにも受け取れます。ただ、あまり強調し過ぎると「ごんは、殺されて当然」みたいな感想を引き出してしまいますし、そんな危険な狐であれば、兵十が手を下す前に、誰かがとうに撃ち殺しているでしょう。

南吉が「掘る」とだけにしたのは、狐の獣害の実態に合わせているのだと思います。さらに、沢田保彦氏によると、菜種殻は、自然発火することがあるそうで、これを土地の人たちは、「狐火」と読んでいたそうです。

もう1つは、南吉は、権狐をそこまで悪者にするつもりが無かった、ということです。後述しますが、兵十が銃を使ったのは偶然に過ぎません。懲らしめることができれば、石でも棒でも良かったはずです。南吉は、権狐が、村の営みに寄り添いながらも一人ぼっちであることが、読者に伝われば十分だったのではないでしょうか。


(5)~鈴木三重吉という人~

鈴木三重吉氏は、1882年(明治15年)生まれ、東京帝国大学英文学科卒で夏目漱石の門下生。童話雑誌「赤い鳥」を創刊し、日本の児童文化運動の父とあります。童話など誰も書いたことがない時代、有名作家に原稿を依頼しても、なかなか集まらず、ゴーストライターに書かせて名前だけもらった、という逸話も伝わっています。

「芥川龍之介」が、「赤い鳥」に「蜘蛛の糸」を投稿することになった時、彼はすでに大作家でしたが、添削を受け入れる旨の書簡を書いているそうです。三重吉の添削は、それほど有名で、一目置かれていました。

では、三重吉氏本人は、どのような文章を書いていたのでしょうか。夏目漱石が絶賛し、雑誌「ホトトギス」に掲載されたという、氏の代表作「千鳥」を参考にしてみました。

一番気になったのは、一文が短いことです。表現も明確で、主語と述語の関係がはっきりしています。

もう1つは、「と」が多い。「と、言いました。」とか「と、その時」という表現を好んで使っています。これは沢田保彦氏も指摘されているところで、「ごんぎつね」についても、自筆版には無い「と」が、赤い鳥版では加えられていて、こういうところに、添削者の癖が出ているように思います。

三重吉氏の文体は、氏が英文学者であったことが関係しているように思えます。氏の文章には、英文の翻訳文のような印象があります。情景描写についても、1つ1つの文がクリヤーで、たたみかけるように書いている。赤い鳥版の「ごんぎつね」をそういう観点で読んでいくと、あちらこちらに三重吉氏らしさが出ています。

南吉の他の作品と読み比べたときに感じる「ごんぎつね」の違和感。あの南吉作品独特のぼんやり感の欠如は、やはり改作が原因と言えます。教科書の「ごんぎつね」をいくら深読みしても、南吉の文章に触れたことにはならないのです。


(6)~はりきり網の現場を検証する~

まず、舞台となった「はりきり網」についてですが、記念館のHPに解説がありました。

大雨が降った後に池から落ちてくるウナギを川の下流で捕るための網。普通は待ち網といいますが、川幅いっぱいに“張りきって”使うため、岩滑では“はりきり網”と呼んでいました】

2つのことが分かります。1つは、「はりきり網」が方言だと云うことです。にもかかわらず、赤い鳥版では、そのまま「はりきり網」と書かれています。三重吉氏は、「はりきり網」がどのようなものか分からなかったので、書き換えようが無かったのでしょう。

もう1つ。「はりきり網」は川が増水した時に使うということです。兵十が増水した川で漁をしていたのは、母親にウナギを食べさせるために無理をしていたのではなく、この日がはりきり網漁にとって、好条件の日だったからにすぎません。つまり、うなぎを捕ることが、それほど緊急を要することではなかったことになります。

自筆版です。

兵十がいなくなると、権狐はぴょいと草の中からとび出して行きました。魚籠にはふたがなかったので、中に何があるか、わけなく見えました。権狐は、ふといたずら心が出て、魚籠の魚を拾い出して、みんなはりきり網より下の川の中へほりこみました】

赤い鳥版です。

兵十がいなくなると、ごんは、ぴょいと草の中からとび出して、びくのそばへかけつけました。ちょいと、いたずらがしたくなったのです。ごんはびくの中の魚をつかみ出しては、はりきりあみのかかっている所より下手の川の中を目がけて、ぽんぽん投げこみました。

やっていることは、同じに思えますが、微妙にニアンスが違います。自筆版では、魚籠の中の魚を見たときに、ふと悪戯心が出たのに対して、赤い鳥版では、最初から、悪戯をするつもりで、魚籠に近づいて行くことになってます。

では、ウナギの件です。自筆版です。

とうとう、権狐は、頭を魚籠の中につっ込んで、うなぎの頭をくわえました。うなぎは、「キユッ」と言って、権狐の首にまきつきました。その時兵十の声が、「このぬすっと狐めが!」と、すぐそばでどなりました。

赤い鳥版です。

ごんは、じれったくなって、頭をびくの中につっこんで、うなぎの頭を口にくわえました。うなぎは、キュッといって、ごんの首へまき付きました。そのとたん、に兵十が、向こうから、「うわあ、ぬすっとぎつねめ。」と、どなりたてました。

自筆版では、「兵十の声が、すぐそばで怒鳴りました。」と面白い表現を使っています。南吉にとっては、実験的な表現だったのでしょうが、削除されてしまいました。

その時の台詞ですが、自筆版は「この盗人狐めが」ですが、赤い鳥版は「うわあ盗人狐め」となっています。赤い鳥版は明らかに慌ててます。落胆の色も隠せません。ただ、慌てながら怒鳴るのは、いささか不自然ですから、「わめく」とか「叫ぶ」が適当かと思います。

自筆版の方は、叱り飛ばしている感じです。悪戯する方も、される方もお互い相手のことを承知している。村人たちは、権狐の悪戯に迷惑してますけど、追い払えば良しって感じで、権狐は、ギリギリのところで存在を黙認されているように思えます。

もっとも、網は張った状態ですので、もう少し待てば、次の魚がかかってきます。逃げた狐に関わっている暇があったら、次の漁の支度をした方が良いはずです。だから追いかけて行かなかったのでしょう。

自筆版です。

権狐は、ほっとしてうなぎを首から離して、洞の入口の、いささぎの葉の上にのせて置いて洞の中にはいりました。うなぎのつるつるした腹は、秋のぬくたい日光にさらされて、白く光っていました。

赤い鳥版です。

ごんはほっとして、うなぎの頭をかみくだき、やっと外して穴の外の、草の葉の上にのせておきました。

自筆版の「うなぎのつるつるした腹は」というのは、南吉が好んで書きたがる表現です。赤い鳥版では、削除されていますが、南吉の作品を味わうのであれば、こういう記述は無くてはならない部分だと思います。

気になるのは、三重吉氏が書き加えた「鰻の頭を噛み砕き」です。権狐の残忍さを表したかったのでしょうか、野生の一面を見せたかったのでしょうか、ずいぶん残酷な表現です。

権狐は、鰻を聖なる木である「いささぎ」の葉の上にのせます。捨てたのでは無いことは確かです。赤い鳥版は、「いささぎ」を「シダ」に書き換えてしまったので、草の上にのせましたと書かざるをえません。頭を噛み砕かれた鰻が草の上に置いてあるという残念な情景になってしまいました。

兵十が、はりきり網を持ち出した理由や、母親の死との関係は、はっきりと書かれていません。が、子どもだったら、鰻を食べれば病気が治ったと考えるかもしれません。権狐が兵十の母親の葬式に出会うのは、この10日後のことです。この後、ごんは、兵十の母親の死と、自身がウナギを盗ってしまったことを結びつけて、勝手に自己反省します。これは、10日後という絶妙な設定がそう思わせたのであって、この物語の良くできているところです。

   

(7)~田舎の葬式~

自筆版です。 

鍛冶屋の新兵衛の家の背戸を通ると、新兵衛の妻が、髪をくしけずっていました。権狐は、「村に何かあるんだな。」と思いました。「いったいなんだろう。秋祭りだろうか。でも秋祭りなら、太鼓や笛の音が、しそうなものだ。そして第一、お宮に幟が立つからすぐ分かる。」

ここで如何にも南吉らしい表現がでてきます。「そして第一、お宮に幟が立つからすぐ分かる。」です。自分は村のことなら何でも分かるんだという、権狐の得意そうな顔が目に浮かびます。赤い鳥版では、「第一、お宮にのぼりがたつはずだが。」と普通の表現になっています。

自筆版です。

兵十の小さな、こわれかけの家の中に、大勢の人がはいっていました。腰に手ぬぐいをさげて、常とは好い着物を着た人たちが、表の、かまどで火をくべていました。大きな、はそれの中では、何かぐつぐつ煮えていました。「ああ、葬式だ。」権狐はそう思いました。こんな事は葬式の時だけでしたから、権狐にすぐわかりました。「それでは、誰が死んだんだろう。」とふと権狐は考えました。

ここにも出てきました。「こんな事は葬式の時だけでしたから、権狐にすぐわかりました。」狐にだって分かるくらい当たり前のことという表現です。赤い鳥版では、丸ごと削除されています。

赤い鳥版では、「腰に手ぬぐいをさげて、常とは好い着物を着た人たちが、表の、かまどで火をくべていました。」を「よそいきの着物を着て、腰に手ぬぐいを下げたりした女たちが、表のかまどで火をたいています。」と書き換えています。

この「常とは好い着物」ですが、単純に考えれば、「普段着(野良着)より良い」となります。これを赤い鳥版では「よそいきの着物」と書き換えています。葬式の手伝いに行く時に「よそいき」に手ぬぐいを下げたりするでしょうか。さらに、三重吉氏は「人たち」を「女たち」に直してますが、知多半島では、葬式の準備で火を焚くのは男の仕事とありました。

自筆版です。

お正午がすぎると、権狐は、お墓へ行って六地蔵さんのかげにかくれていました。いい日和で、お城の屋根瓦が光っていました。お墓には、彼岸花が、赤い錦のように咲いていました。さっきから、村の方で、「カーン、カーン」と鐘が鳴っていました。葬式の出る合図でした。

権狐は、一度帰ってから、出直して来ているようです。葬儀は午前中に行って、出棺はお昼過ぎという葬式のスケジュールや、葬列のルートがちゃんと分かっているみたいです。お城の屋根瓦といい、彼岸花といい素敵な情景描写です。「さっきから、鐘が鳴っていました。」というところも秀逸です。場面全体がのんびりとした時間の流れに覆われています。

赤い鳥版では、「と、村の方から、カーン、カーンと鐘が鳴ってきました。」と書き換えています。権狐が隠れるのを待っていたかのように葬列が出発したという描写になります。鐘の音をきっかけにして場面に緊張感が出てきます。「さっきから、~鳴ってました」を「と、~鳴ってきました。」に変えただけのことですが、情景描写が一気に変わった印象を受けます。

自筆版です。

やがて、墓地の中へ、やって来る葬列の白い着物が、ちらちら見え始めました。鐘の音はやんでしまいました。話し声が近くなりました。葬列は墓地の中へ入って来ました。人々が通ったあと、彼岸花は折れていました。権狐はのびあがって見ました。兵十が、白い裃をつけて、位牌を捧げていました。いつものさつま芋みたいに元気のいい顔が、何だかしおれていました。「それでは、死んだのは、兵十のおっ母だ。」権狐はそう思いながら、六地蔵さんのかげへ、頭をひっこめました。

ここにも、「白い着物がちらちら見えた」という南吉らしい表現があります。ごんぎつねの低い目線から見えるのは、「赤い彼岸花」と「白い着物」の対比された色彩です。赤い鳥版では「白い着物を着た者たちが見えた」となります。文章としてはそれで良いのでしょうが、事実を述べているに過ぎません。さらに、知多半島の風習では、白装束になるのは喪主や近親者だけで、他の者は黒い服を着るとありました。となると、白装束なのは兵十だけの可能性が高くなります。南吉が書きたかったのは、赤い彼岸花の錦の向こう側を、白装束の兵十が進んでいるという映像なのです。

また、岩滑の葬式では、喪主が「白い裃をつけて位牌を捧げる」のは、目上の葬式の場合で、自分の家内や子どもの葬式では、裃は着けないそうです。そこで、裃を着けていることから、兵十にとって目上の家族、つまり母親(もしくは父親)の葬式となるそうで、権狐の「それでは、死んだのは、兵十のおっ母だ。」の台詞につながるそうです。

権狐は、葬式の支度を見ているときに「誰が死んだのだろう」と考えました。権狐が、兵十の母親の葬式だということが分かったのは、兵十が裃を着けているのを見たからです。決して、兵十の顔が萎れていたからではありません。

権狐は、それほどまでに岩滑のしきたりに精通している狐である、ということになります。言い方を変えれば、南吉は、岩滑の風習については、説明するまでもなく分かってもらえると考えていたのでしょう。                        


(8)~栗は鰻の償いなのか~

兵十の母親の死を知った権狐は、一人(一匹)穴の中で思いを巡らせます。

自筆版です。

その夜、権狐は、洞穴の中で考えていました。「兵十のおっ母は、床にふせっていて、うなぎが食べたいと言ったに違いない。それで兵十は、はりきり網を持ち出して、うなぎをとらまえた。ところが自分がいたずらして、うなぎをとって来てしまった。だから兵十は、おっ母にうなぎを食べさせることができなかった。それで、おっ母は、死んじゃったに違いない。うなぎが食べたい、うなぎが食べたいと言いながら、死んじゃったに違いない。あんないたずらをしなけりゃよかったなー。」こおろぎが、ころろ、ころろと、洞穴の入口でときどき鳴きました。

自筆版では、権狐は自分のことを「自分」か「俺」と言いますが、赤い鳥版では、「俺」と「わし」です。「俺」と「僕」は、併用することもありますが、「俺」と「わし」を併用する人は、いませんから、ここは、どちらかに統一するべきかと思います。

あと、自筆版は「鰻が食べたいと言いながら死んじゃった」ですが。赤い鳥版は、「思いながら死んじゃった」です。今際の際の言葉が「鰻が食べたい」というのは、もの凄い場面です。ですから。この部分に関しては、赤い鳥版の方がソフトな表現になっています。

兵十は、赤い井戸の所で、麦をといでいました。兵十は今まで、おっ母と二人きりで、貧しい生活をしていたので、おっ母が死んでしまうともう一人ぽっちでした。「俺と同じように一人ぽっちだ」兵十が麦をといでいるのを、こっちの納屋の後から見ていた権狐はそう思いました。

「赤い井戸」というのは、井戸囲いに常滑焼の土管を使っている井戸のことです。半田の隣町が、焼き物で有名な常滑です。常滑では、昔から焼き物で土管を作っていて、商品にならなかった土管をブロック代わりに再利用しています。この常滑焼の赤い土管を井戸囲いに使うという記述は、「牛をつないだ椿の木」にもでてきます。

権狐が、盗んだ鰯を兵十の家に投げ込む場面です。自筆版です。

いわし売りは、いわしのはいった車を、道の横に置いて、ぴかぴか光るいわしを両手でつかんで、弥助の家の中へ持って行きました。そのひまに、権狐は、車の中から、五六匹のいわしをかき出して、また、もと来た方へかけだしました。そして、兵十の家の背戸口から、家の中へ投げこんで、洞穴へ一目散に走りました。(略)権狐は、何か好い事をしたように思えました。

いきなり、栗を持って行くので無く、その前に「鰯」の場面があるというところが、この物語が良くできているところだと思います。自筆版はこのように続いています。

(略)変な事には、兵十のほっぺたに、すり傷がついていました。どうしたんだろうと、権狐が思っていると、兵十が独言を言いました。「いくらかんがえても分からない。いったい誰がいわしなんかを、俺の家へほりこんで行ったんだろう。おかげで俺は、盗人と思われて、あのいわし屋に、ひどい目に合わされた。」まだぶつぶつ言っていました。 権狐は、これはしまったと思いました。かわいそうに、あんなほっぺたの傷までつけられたんだな。権狐は、そっと納屋の方へまわって、納屋の入口に、持って来た栗の実を置いて、洞に帰りました。次の日も次の日もずっと権狐は栗の実を拾って来ては、兵十が知らんでるひまに、兵十の家に置いて来ました。栗ばかりではなく、きのこや、薪を持って行ってやる事もありました。そして権狐は、もういたずらをしなくなりました。

赤い鳥版では、「いわし屋の奴にぶん殴られて」という記述になるのですが、自筆版では、「いわし屋にひどい目にあわされた」とあるだけです。兵十は、ほっぺたに「すり傷(かすり傷)」をつけていますが、殴られて受ける傷は、打撲です。「ひどい目」を「ぶん殴られた」と書き換える一方で、「かすり傷」は、そのままにするという不徹底なところが気になります。それから、いわし屋に罪が無いことは兵十も承知しているでしょうから、いわし屋の「奴」という表現も不適切といえます。

赤い鳥版では、権狐が持っていく物について、茸と薪が松茸に変わります。薪を(くわえて)持ってくるという行為は、狐らしく素朴な行為ですから、償いのメインは、薪でも良かったのではないかと思います。ちなみに、知多半島では、松茸は採れないとありました。

さて、栗は鰻の償いであるのかという問いについてですが、当然「償いである」となります。赤い鳥版では、鰯を投げ込んだ時に「ごんは、鰻のつぐないに、まず一つ、良いことをしたと思いました。」と書いてあるからです。まず償いの1つめが鰯なのですから、その後の栗も松茸も、償いの延長線上の行為と考えるのが普通です。薪を松茸に改作したのも、鰻との釣り合いを考えてのことでしょう。

ところが、自筆版では、償いという直接的な表現がないだけでなく、「好い事をしたように思える」となっています。権狐は、自分の行為について上手く説明ができず、心地良さだけを味わっているかのようです。

権狐は、初めて尽くす相手を見つけたのです。もちろん、鰻を盗んだことの罪滅ぼしの気持ちもありますし、一人ぼっち同士という連帯感もあるでしょうが、好いことをしているときの心地よい思いを知ったのだと思います。「よい」というのは「好い」「善い」「良い」とありますが、正に「好い」です。今度は「兵十に好かれるようなことをしたい」ということです。

ですから、この後に「そして権狐は、もういたずらをしなくなりました。」となります。悪戯をやめたのは、鰻の件を反省したからというよりも、悪戯よりも楽しいことを見つけたからなのです。兵十への片想いの始まりです。

不思議なことが続いた兵十は、このことを加助に話します。加助は、それは神様の仕業だから、神様にお礼を言うがいいと答えます。

自筆版です。          

権狐は、つまんないと思いました。自分が、栗やきのこを持って行ってやるのに、自分にはお礼言わないで、神様にお礼を言うなんて。いっそ神様がなけりゃいいのに。権狐は、神様がうらめしくなりました。

赤い鳥版です。

ごんは、「へえ、こいつはつまらないな。」と思いました。「俺が、栗や松茸を持っていってやるのに、その俺にはお礼を言わないで、神さまにお礼を言うんじゃあ、俺は、引き合わないなあ。」

ここの記述については、償いの気持ちで始めたことにもかかわらず、感謝して欲しいと願う権狐の身勝手さということになっています。特に「つまんない」という記述のために、案外と見下げた奴だなあ、ってことになってしまいます。

赤い鳥版では、「償い」を強調してしまったことと、「神様がなけりゃあ」という表現を憚って「俺は引き合わないなあ」と書き換えたことで、「止めようかな」というイメージが強く出てしまいます。

しかし、権狐にとって、栗は賠償でなくてプレゼントです。秘密のプレゼントなので、贈り主が分からないのは仕方ないとしても、無関係な人と間違えられたら厭です。そこで、神様がいなけりゃあになる訳です。何もしないのに感謝される神様に嫉妬しているんです。決して、損得勘定でものを云っているわけではないということです。

昭和初期という時代ですから「神様がなけりゃあ」を「引き合わない」と書き換えた三重吉氏の行為も理解できますし、上手いこと書き換えたと思いますけど、やはり損得勘定が出てしまいます。


(9)~兵十の殺意を検証する~

自筆版です。

【その日も権狐は、栗の実を拾つて、兵十の家へ持つて行きました。兵十は、納屋で縄をなっていました。それで権狐は背戸へまわつて、背戸口から中へ入りました。】

続いて、赤い鳥版です。

【その明くる日も、ごんは、栗を持って、兵十の家へ出かけました。兵十は、物置で縄をなっていました。それでごんは、家の裏口から、こっそり中へ入りました。】

「その明くる日」とか「こっそり中へ」など、改作には、表現を強調する傾向があるようです。「栗を拾って持って行く」のと「栗を持って出かける」は、いかがでしょうか。わずかな違いですが、受ける印象は、随分異なってくると思います。

当時は、方言を恥ずべきものとし、正しい日本語を教育することが重要とされていました。ですから、地方色のある表現は、書き換えられる傾向があります。ここでは、「背戸口」を「裏口」に、そして、「納屋」です。納屋は立派な日本語だと思いますが、これを赤い鳥版では、「物置」と書き換えています。

「納屋」についての世界大百科事典の解説です。

【物を収めておくため,独立して作られた建物。同じ性格の建物には倉と物置があるが,倉が物を長期にわたって保存格納する性格であるのに対して,納屋はある行事や作業に必要な道具を格納し,ときには作業場として使われることもある。また,物置は雑多な物を入れておく建物であるのに対し,納屋は使用目的がしぼられた物を収納する。】

この「作業場として使われる」のところが重要になります。栗が物置ではなく納屋に置かれているのは、その方が見つけやすいからです。ところが、今日に限って、兵十が納屋にいるのです。そこで、ごんは仕方なく、背戸に回ることにします。

自筆版です。 

【兵十はふいと顔をあげた時、何だか狐が家の中へ入るのをみとめました。兵十は、あの時の事を思い出しました。うなぎを権狐にとられた事を。きっと今日も、あの権狐がいたずらをしに来たに相違ない。「ようし!」兵十は、立ち上がって、ちょうど納屋にかけてあった火縄銃を取って、火薬をつめました。そして、足音を忍ばせて行って、今、背戸口から出て来ようとする権狐を「ドン!」と撃ってしまいました。権狐は、ばったり倒れました。】

赤い鳥版です。

【その時、兵十は、ふと顔を上げました。と、きつねが家の中へ入ったではありませんか。こないだ、うなぎを盗みやがったあのごんぎつねめが、またいたずらをしに来たな。「ようし。」兵十は、立ち上がって、納屋にかけてある火縄銃を取って、火薬をつめました。 そして足音を忍ばせて近よって、今、戸口を出ようとするごんを、ドンと、撃ちました。ごんは、ばたりと倒れました。】

ニュアンスがだいぶ違います。赤い鳥版は、「こないだ、鰻を盗みやがった、あのごんぎつねめが」です。自筆版は、「あの時のことを思い出しました。」です。この時まで、兵十は、ごんぎつねに鰻を盗られたことを忘れていたのです。許せないこととはいえ、その程度の出来事だった。それを赤い鳥版では、「盗みやがった」「狐めが」と表現しています。鰻を盗られたことを片時も忘れていないし、もの凄く憎んでいることになっています。

さらに、自筆版は、「ちょうど掛けてあった火縄銃をとって、撃ってしまいました。」とあります。兵十は、今日に限って納屋にいたんです。そして、納屋には、たまたま火縄銃があった。偶然に偶然が重なってしまった、というストーリーの構成です。

ところが、赤い鳥版には、不思議な記述があります。「納屋(?)にかけてある火縄銃を取って」です。納屋を物置と書き換えていたのに、ここだけ納屋のままです。この記述では、兵十の家には、物置と納屋と2つあり、物置にいた兵十は、納屋まで行って火縄銃を取ってくることになります。偶然そこにあった凶器を使うのと、わざわざ凶器を取りに行くのでは、心証が随分変わってくると思います。

多くの研究者は、これを単なる書き換えの見落としとしています。だとすれば、国語の教科書でこの文章を学んだ7000万人ともいわれる国民は、50年以上もの間、物置から納屋へ銃を取りにいったという間違った読み取りをさせられていたことになります。

これを、あえて残したと推理します。物置と納屋があることにして、兵十の強い殺意を印象づけるために、わざわざ取りに行ったように読みとらせたと考えてみました。

自筆版の兵十ならば「殺すつもりは無かった」という言い訳もできましょうが、赤い鳥版の兵十から伝わるのは、明確な殺意です。殺そうとして撃ったのか、思わず撃ってしまったのか。納屋という言葉を1つ書き換えないだけで、これだけの違いが出てきます。

ラストシーン、赤い鳥版です。

【兵十はかけよって来ました。家の中を見ると、土間に、栗がかためて置いてあるのが目につきました。「おや。」と、兵十は、びっくりしてごんに目を落としました。「ごん、お前だったのか。いつも、栗をくれたのは。」ごんは、ぐったりと目をつぶったまま、うなづきました。兵十は、火縄銃をばたりと、取り落としました。青い煙が、まだ、筒口から細く出ていました。】

自筆版です。

【兵十はかけよって来ました。ところが兵十は、背戸口に、栗の実が、いつものように、かためて置いてあるのに眼をとめました。「おや。」兵十は権狐に眼を落としました。「権、お前だったのか……。いつも栗をくれたのは。」権狐は、ぐったりなったまま、うれしくなりました。兵十は、火縄銃をばったり落としました。まだ青い煙が、銃口から細く出ていました。】

ラストシーンの書き換えは、最も有名なところです。「うれしくなりました。」を「目をつぶったまま、うなづきました。」と書き換えています。余韻を持たせた終わり方といえます。この「うなずく」というのは、行動であって心情ではありません。「うなずいた時のごんの気持ちを考えましょう。」と質問すると、生徒たちは何と答えるでしょうか。「撃たれるのは仕方ない」「何も撃つことは無いだろう」自由に考えて良いのですから、どれが正解かを判定することはできません。しかし、南吉は自筆版でこう書いています「嬉しくなりました」と。ですから「(一方的だった兵十への想いを)分かってもらえて良かった」が正解となります。

赤い鳥版では、兵十の問いかけに、ごんは頷いて答えます。遅すぎたとはいえ、最後の最後に心が通じ合ったと云えます。

しかし自筆版では、ごん狐は、「ぐったりなったまま、うれしくなりました」です。全てを理解し後悔する兵十の目の前にあるのは、ぐったりなったままのごんぎつねです。兵十の呼びかけにも応えることも無く、「嬉しくなった」というごん狐の想いが、伝わることもありません。兵十は深い後悔の念のまま立ち尽くしているだけです。

最後の「青い煙」は何を意味しているのでしょう。白いはずの煙が青いのは何故か、いつまでも煙が出ているのは何故か、きっと深い意味があるからだろうと推測する感想も多く見られます。しかし、自筆版では「まだ青い煙」となっています。火縄銃の青い煙は直に白くなり、やがて消えていくという、まるで銃を扱ったことがあるかのような記述です。もしかしたら、若衆倉の前で、猟師だった茂助爺から教わったのかもしれません。

新美南吉生誕100年の時に、ある小学生の感想がネットで話題になりました。それは、「やったことの報いは必ず受けるもの、こそこそした罪滅ぼしは身勝手で自己満足でしかない、ごんは撃たれて当然」というものでした。この児童のように、兵十を弁護する立場からの意見が出てくることは、悪いことではありません。ただ、こういう感想が出てくる遠因の1つに、赤い鳥版の改作があるように思えてなりません。兵十の殺意を強調した結果、ごんが大変重い罪を犯している印象を与えてしまったのではないでしょうか。

兵十は、確かにごんを撃ち殺しましたけど、殺したいほど憎んではいませんでした。そして、ごんは、確かに悪戯をしましたが、兵十の母親の死とは無関係です。死をもって償うべきことなどしていないし、兵十だって、ごんのせいで母親が死んだとは思ってないはずです。思っていれば、栗を持ってきたことぐらいで許せるはずなど無い。

事件の真相は「日頃からゴンに恨みを抱いていた兵十が、絶好の復讐の機を得て撃ち殺した」のではありません。「病床の母親に鰻を食べされられなかったことを思い出して、懲らしめてやろうと思っただけ」これが新美南吉が書きたかった真相なのです。


(10)~おわりに~

「赤い鳥」に掲載された「ごんぎつね」は、そのストーリーの巧みさと、改作によるドラマチックさにより評判を呼びます。南吉は、改作については何も語らず、赤い鳥版のごんぎつねを自らの作品として受け入れたといわれています。新美南吉にとっては、作品を世間に発表できたこと、それだけで充分だったのでしょう。

ところが、「ごんぎつね」が「赤い鳥」に掲載された翌年、北原白秋が鈴木三重吉と絶交するに至り「赤い鳥」と絶縁すると、南吉も「赤い鳥」への投稿をやめてしまいます。これは、南吉が、尊敬する北原白秋に追従したためと云われてきましたが、「ごんぎつね」掲載にあたって抱いていた、三重吉氏に対する不信感が、根底にあったように思えてならないのです。



この投稿記事は、一粒書房の沢田保彦著「南吉の遺した宝物」を参考に書かれています。著書では「ごん狐」の修正の一言一句について、細かい分析がなされており、自筆版「ごんぎつね」に興味を持たれた方は、ご一読されることをお勧めいたします。


(資料)               「権狐」                  新美南吉 著   

茂助というお爺さんが、私たちの小さかった時、村にいました。「茂助爺」と私たちは呼んでいました。茂助爺は、年とっていて、仕事ができないから子守ばかりしていました。若衆倉の前の日だまりで、私たちはよく茂助爺と遊びました。

私はもう茂助爺の顔を覚えていません。ただ、茂助爺が夏みかんの皮をむく時の手の大きかった事だけ覚えています。茂助爺は、若い時、猟師だったそうです。私が、次にお話するのは、私が小さかった時、若衆倉の前で、茂助爺からきいた話なんです。

(1)

昔、徳川様が世をお治めになっていられた頃に、中山に小さなお城があって、中山様というお殿さまが少しの家来と住んでいられました。

その頃、中山から少し離れた山の中に、権狐という狐がいました。

権狐は、一人ぼっちの小さな狐で、いささぎの一ぱい茂った所に、洞を作って、その中に住んでいました。そして、夜でも昼でも、洞を出ていたずらばかりしました。畑へ行って、芋を掘ったり、菜種がらに火をつけたり、百姓屋の背戸に吊してある唐辛子をとって来たりしました。

それはある秋のことでした。二三日雨が降りつづいて、権狐は、外へ出たくてたまらないのをがまんして、洞穴の中にかがんでいました。雨があがると、権狐はすぐ洞を出ました。空はからっと晴れていて、百舌鳥の声がけたたましく、響いていました。

権狐は、背戸川の堤に来ました。ちがやの穂には、まだ雨のしずくがついて、光っていました。背戸川はいつも水の少ない川ですが二三日の雨で、水がどっと増していました。黄くにごった水が、いつもは水につかっていない所のすすきや、萩の木を横に倒しながら、どんどん川下へ流れて行きました。権狐も、川下へ、ぱちゃぱちゃと、ぬかるみを歩いて行きました。

ふと見ると、川の中に人がいて何かやっています。権狐は、見つからないように、そーっと草の深い方へ歩いて行って、そこからそちらを見ました。

「兵十だな。」

と権狐は思いました。兵十は、ぬれた黒い着物を着て、腰から下を川水にひたしながら、川の中で、はりきりと言う、魚をとる網をゆすぶっていました。鉢巻きをした顔の横に、円い萩の葉が一枚、大きな黒子みたいにはりついていました。

しばらくすると、兵十は、はりきり網の一番後ろの、袋のようになったところを水の中から持ち上げました。その中には、芝の根や、草の葉や、木片などが、もじゃもじゃしていましたが、ところどころ、白いものが見えました。それは、太いうなぎの腹や、大きなきすの腹でした。

兵十は、しばらくすると、兵十は、はりきり網の一番うしろの魚籠の中へ、ごみも一緒に、そのうなぎやきすを入れました。そしてまた、袋の口をしばって、水の中に入れました。兵十は魚籠を持って川から上がりました。そして、魚籠をそこに置くと、着物の端から、ポトポトとしずくを落としながら、川上の方へ何か見に行きました。

兵十がいなくなると、権狐はぴょいと草の中からとび出して行きました。魚籠にはふたがなかったので、中に何があるか、わけなく見えました。権狐は、ふといたずら心が出て、魚籠の魚を拾い出して、みんなはりきり網より下の川の中へほりこみました。どの魚も、「とぼん!」と音を立てながら、にごった水の中に見えなくなりました。

一番おしまいに、あの太いうなぎをつかもうとしましたが、このうなぎはぬるぬるして、ちっとも権狐の手にはつかまりません。権狐は一生懸命になってうなぎをつかもうとしました。とうとう、権狐は、頭を魚籠の中につっ込んで、うなぎの頭をくわえました。うなぎは、「キユッ」と言って、権狐の首にまきつきました。その時兵十の声が、

「このぬすっと狐めが!」

と、すぐそばでどなりました。権狐はとびあがりました。うなぎをすてて逃げようとしました。けれど、うなぎは、権狐の首にまきついていてはなれません。権狐はそのまま、横っとびにとんで、自分の洞穴の方へ逃げました。

洞穴近くの、はんの木の下でふり返って見ましたが、兵十は追って来ませんでした。

権狐は、ほっとしてうなぎを首から離して、洞の入口の、いささぎの葉の上にのせて置いて洞の中にはいりました。うなぎのつるつるした腹は、秋のぬくたい日光にさらされて、白く光っていました。

(2)

十日程たって、権狐が、弥助というお百姓の家の背戸を通りかかると、そこのいちじくの木のかげで、弥助の妻が、おはぐろで歯を黒く染めていました。鍛冶屋の新兵衛の家の背戸を通ると、新兵衛の妻が、髪をくしけずっていました。権狐は、

「村に何かあるんだな。」

と思いました。

「いったいなんだろう。秋祭りだろうか。でも秋祭りなら、太鼓や笛の音が、しそうなものだ。そして 第一、お宮に幟が立つからすぐ分かる。」

こんな事を考えながらやって来ると、いつの間にか、表に赤い井戸のある、兵十の家の前に来ました。兵十の小さな、こわれかけの家の中に、大勢の人がはいっていました。腰に手ぬぐいをさげて、常とは好い着物を着た人たちが、表の、かまどで火をくべていました。大きな、はそれの中では、何かぐつぐつ煮えていました。

「ああ、葬式だ。」

権狐はそう思いました。こんな事は葬式の時だけでしたから、権狐にすぐわかりました。

「それでは、誰が死んだんだろう。」

とふと権狐は考えました。

けれど、いつまでもそんな所にいて、見つかっては大変ですから、権狐は、兵十の家の前をこっそり去って行きました。

お正午がすぎると、権狐は、お墓へ行って六地蔵さんのかげにかくれていました。いい日和で、お城の屋根瓦が光っていました。お墓には、彼岸花が、赤い錦のように咲いていました。さっきから、村の方で、「カーン、カーン」と鐘が鳴っていました。葬式の出る合図でした。

やがて、墓地の中へ、やって来る葬列の白い着物が、ちらちら見え始めました。鐘の音はやんでしまいました。話し声が近くなりました。葬列は墓地の中へ入って来ました。人々が通ったあと、彼岸花は折れていました。権狐はのびあがって見ました。兵十が、白い裃をつけて、位牌を捧げていました。いつものさつま芋みたいに元気のいい顔が、何だかしおれていました。

「それでは、死んだのは、兵十のおっ母だ。」

権狐はそう思いながら、六地蔵さんのかげへ、頭をひっこめました。

 その夜、権狐は、洞穴の中で考えていました。

「兵十のおっ母は、床にふせっていて、うなぎが食べたいと言ったに違いない。それで兵十は、はりきり網を持ち出して、うなぎをとらまえた。ところが自分がいたずらして、うなぎをとって来てしまった。だから兵十は、おっ母にうなぎを食べさせることができなかった。それで、おっ母は、死んじゃったに違いない。うなぎが食べたい、うなぎが食べたいと言いながら、死んじゃったに違いない。あんないたずらをしなけりゃよかったなー。」

こおろぎが、ころろ、ころろと、洞穴の入口でときどき鳴きました。

(3)

兵十は、赤い井戸の所で、麦をといでいました。兵十は今まで、おっ母と二人きりで、貧しい生活をしていたので、おっ母が死んでしまうともう一人ぽっちでした。

「俺と同じように一人ぽっちだ」

兵十が麦をといでいるのを、こっちの納屋の後から見ていた権狐はそう思いました。権狐は、納屋のかげから、あちらの方へ行こうとすると、どこかで、いわしを売る声がしました。

「いわしのだらやす。いわしだ。」

権狐は、元気のいい声のする方へ走って行きました。芋畑の中を。

弥助のおかみさんが、背戸口から、

「いわしを、くれ。」

と言いました。

 いわし売りは、いわしのはいった車を、道の横に置いて、ぴかぴか光るいわしを両手でつかんで、弥助の家の中へ持って行きました。そのひまに、権狐は、車の中から、五六匹のいわしをかき出して、また、もと来た方へかけだしました。そして、兵十の家の背戸口から、家の中へ投げこんで、洞穴へ一目散に走りました。はんの木の所で立ち止まって、ふりかえって見ると、兵十がまだ、井戸の所で麦をといでるのが小さく見えました。権狐は、何か好い事をしたように思えました。

次の日には、権狐は山へ行って、栗の実を拾って来ました。それを持って、兵十の家へ行きました。背戸口からうかがって見ると、ちょうどお正午だったので兵十は、お正午飯のところでした。兵十は茶碗をもったまま、ぼんやりと考えていました。変な事には、兵十のほっぺたに、すり傷がついていました。どうしたんだろうと、権狐が思っていると、兵十が独言を言いました。

「いくらかんがえても分からない。いったい誰がいわしなんかを、俺の家へほりこんで行ったんだろう。おかげで俺は、盗人と思われて、あのいわし屋に、ひどい目に合わされた。」

まだぶつぶつ言っていました。

権狐は、これはしまったと思いました。かわいそうに、あんなほっぺたの傷までつけられたんだな。権狐は、そっと納屋の方へまわって、納屋の入口に、持って来た栗の実を置いて、洞に帰りました。次の日も次の日もずっと権狐は栗の実を拾って来ては、兵十が知らんでるひまに、兵十の家に置いて来ました。栗ばかりではなく、きのこや、薪を持って行ってやる事もありました。そして権狐は、もういたずらをしなくなりました。

(4)

月のいい夜に権狐は、遊びに出ました。中山様のお城の下を通って少し行くと細い往来の向こうから誰か来るようでした。話し声が聞こえました。「チンチロリン、チンチロリン」松虫がどこかその辺で鳴いていました。

権狐は、道の片側によって、じっとしていました。話し声はだんだん近くなりました。それは、兵十と、加助という百姓の二人でした。

「なあ加助。」

と兵十が言いました。

「ん」

「俺あ、とても不思議なことがあるんだ」

「何が?」

「おっ母が死んでから、誰だか知らんが、俺に栗や、きのこや、何かをくれるんだ」

「ふん、誰がくれるんだ?」

「いや、それがわからんだ、知らんでるうちに、置いていくんだ。」

権狐は、二人のあとをついて行きました。

「ほんとかい?」

加助が、いぶかしそうに言いました。

「ほんとだとも、うそと思うなら、あした見に来い、その栗を見せてやるから」

「変だな。」

それなり二人は黙って歩いて行きました。

ひょいと、加助が後ろを見ました。権狐はびくっとして、道ばたに小さくなりました。加助は、何も知らないで、また前を向いて行きました。吉兵衛と言う百姓の家まで来ると、二人はそこへはいって行きました。「モク、モクモク、モクモク」と木魚の音がしていました。窓の障子にあかりがさしていました。そして大きな坊主頭が、うつって動いていました。権狐は、

「お念仏があるんだな」

と思いました。権狐は井戸のそばにしゃがんでいました。しばらくすると、また、三人程、人がつれだって吉兵衛の家にはいって行きました。お経を読む声が聞こえて来ました。

権狐は、お念仏がすむまで、井戸のそばにしゃがんでいました。お念仏がすむと、また、兵十と加助は一緒になって、帰って行きました。権狐は、二人の話を聞こうと思って、ついて行きました。兵十の影法師をふんで行きました。

中山様のお城の前まで来た時、加助がゆっくり言いだしました。

「きっと、そりゃあ、神様のしわざだ。」

「えっ?」

兵十はびっくりして、加助の顔を見ました。

「俺は、あれからずっと考えたが、どう考えても、それゃ、人間じゃねえ、神様だ。神様が、お前が一人になったのを気の毒に思って、栗や、何かをめぐんで下さるんだ。」

と加助が言いました。

「そうかなあ。」

「そうだとも。だから、神様に毎日お礼言ったが好い。」

「うん」

権狐は、つまんないと思いました。自分が、栗やきのこを持って行ってやるのに、自分にはお礼言わないで、神様にお礼を言うなんて。いっそ神様がなけりゃいいのに。権狐は、神様がうらめしくなりました。

(5)

その日も権狐は、栗の実を拾つて、兵十の家へ持つて行きました。兵十は、納屋で縄をなっていました。それで権狐は背戸へまわつて、背戸口から中へはいりました。


兵十はふいと顔をあげた時、何だか狐が家の中へ入るのをみとめました。兵十は、あの時の事を思い出しました。うなぎを権狐にとられた事を。きつと今日も、あの権狐がいたずらをしに来たに相違ない。

「ようし!」

兵十は、立ちあがつて、ちょうど納屋にかけてあった火縄銃をとって、火薬をつめました。そして、足音をしのばせて行って、今、背戸口から出て来ようとする権狐を「ドン!」とうってしまいました。権狐は、ばったり倒れました。

兵十はかけよって来ました。ところが兵十は、背戸口に、栗の実が、いつものように、かためて置いてあるのに眼をとめました。

「おや。」

兵十は権狐に眼を落としました。

「権、お前だったのか……。いつも栗をくれたのは。」

権狐は、ぐったりなったまま、うれしくなりました。

兵十は、火縄銃をばったり落としました。まだ青い煙が、銃口から細く出ていました。



#ごんぎつね   #新美南吉   #はりきり網