2020年1月27日月曜日

NHK朝ドラ「スカーレット」松永三津退場で、黒島ファンに訪れる平穏な日々

週刊誌の新聞広告見たときは焦りましたよ。東出君の不倫相手が、9才年下の清純派女優って書いてあるじゃありませんか。

笑福亭鶴瓶師匠のトーク番組で、二十歳になった時に東出君ちでウイスキーを飲んだこととか、保護犬のサイトを紹介されて犬を飼うようになったこととか話していて、随分、仲が良いんだなって思ってましたからね。あの時も、これって熱愛?なんて一瞬頭をよぎったんですけど、よくよく考えれば、東出君は既婚者でしたからね。お家に招かれたとしても、それは無いかと思ってました。

で、いきなりの不倫報道ですからね。新聞広告には、お相手の女優さんの名前が書いて無かったんで、心配してしまいました。でも、後ろめたい気持ちがあれば、テレビのトーク番組であんなに喋るはずもありませんし、鶴瓶師匠も番組の後で、「黒島結菜は良い子だ」って褒めまくってましたから、まあ、それは無いだろうと思ってました。

でも、二十歳になったばかりの女の子にウイスキーのロックを飲ませるのって、ヤバくないですか。黒島さんがお酒に強い女の子だから事なきを得たのかな・・・なんてね。


さて、NHK連続テレビ小説「スカーレット」に黒島結菜さん演じる松永三津が登場して3週間。嫌いな女優だか、見たくない女優だかのランキングで1位になったという話まで出てしまいました。

登場した週は、八郎沼さんをはじめとしたスカーレットの常連ファンからのバッシングが凄かったですね。その直後から、黒島結菜さんのファンと思われる方々の応援コメントがSNS上に多く見られるようになりました。
それが、先週あたりからは、一般視聴者からも「いい加減にしろ」コールが出るなど、ますますヒートアップするバッシングに、ファンもフォローしきれない情況に陥ってしまいました。


そんな中、ネットニュースで「黒島結菜さんは、松永三津と違って、本当は物静かで素敵な女の子なんですよ」みたいなフォロー記事が出ました。まあ、これは、彼女のイメージダウンを心配した事務所とかNHKサイドが、書かせたんじゃないかって(勝手に)予想してます。
最終的には、「嫌われ者を演ずる黒島結菜さん頑張ってる」みたいなコメントが、主流になったようですけど。

ずっとドラマを見てきたファンの方々は、喜美子に自身を重ねているでしょうから、途中から割り込んできた何処の馬の骨とも知れない若い娘が、八郎に対して不躾な態度をとるのが許せないのでしょう。これで、黒島結菜さんが世間的に評価の定まっている女優さんであれば、見ている側の印象も違ってきたでしょうから、やっぱり時期尚早だったのかなぁ、なんて考えてしまいました。

で、此処に来て、東出君の不倫騒動ですからね。文春砲が、NHK朝ドラ「スカーレット」炎上商法への援護射撃になってしまいました。
このタイミングで、このストーリーは如何なものか、なんていう抗議がNHKにあったようですけど、今放送しているシーンなんて昨年のうちに撮っているわけで、NHKにとっては、とんだトバッチリでありますし、東出君がコトを起こしたからといって、NHKが遠慮しなきゃならない謂われはありませんしね。

今回の騒動で、改めて感じたのは、世間(特に奥様方?)の不倫に対する拒絶反応の凄さです。ですから、僕が前回と前々回に投稿したような、不倫して離婚したって、結果的に陶芸家として大成功したんだから良いじゃん、なんて論理は嫌悪感をいだかせるだけなんだって思いました。だから、黒島結菜さん演じる松永三津が、こんなに叩かれるのだと。


史実の信楽自然釉は、神山清子氏が全てを失った極限状態にあったからこそ再現できたのも事実。全財産を薪代にぶっ込んで、16日間も焚き続けるなんて、正気の沙汰ではありません。幸せな家庭生活からは絶対できなかったモノであるのは確かです。

結局、三津は想いを隠したまま、(八郎夫妻にはバレバレでしたけど、そこは大人の対応でしたね)川原家から去ってしまい、不倫は未遂に終わりました。それでいて、八郎と喜美子の夫婦生活は破綻するみたいです。となると、離婚の主因は、陶芸に取り憑かれてしまった喜美子であり、彼女を支えきれなかった八郎にあるわけで、だったら、松永三津というキャラクターの存在意味って何だったのでしょう。

何だか、中途半端に嫌われただけで終わっちゃった気がします。一話ごとに乱高下する好感度。叩きまくるヤフーのコメント。たった3週間でしたけど、見ていて疲れちゃいました。推しが嫌われ役を演じるって、こんなにもストレスなことだったんですね。


ただ、松永三津については、もう少し演じ様があったように思います。僕は大阪編を見ていないんで、そっちの方は分からないんですけど、スカーレットって、全体的に芝居のトーンが低いように思いました。だから、可愛らしさとか、憎めなさを出そうとしていた芝居がウザくなって、浮いちゃったんですよね。設定年齢が24才にしては、大人の芝居の中に子供がひとり入ってきた感もあったし。
彼女って、目が大きくて、眉毛が太くって、目と眉が近くって、だから表情が豊かです。食事のシーンなんて、ホントに美味しそうに見えるし。それって凄い長所なんだけど、逆に頑張りすぎるとクドく感じてしまう。リアクションなんかもっと控えめでも十分こっちには伝わってくるんで、もう少し演技を落ち着かせてもいいように思いました。

珍しく叩かれなかったシーン。お芝居のテンションが違いすぎて、何となくかみあってないけど、それが、かえって大人と子どもの会話っぽく思えたりして。


あと、演出的には、三津が真面目に頑張っている姿を分かりやすく出して欲しかったです。内弟子として家事や雑用もしているし、陶芸の修行もそれなりにしているはずなんだけど、それが見ている側に伝わってこないから、コイツ何しに来てるんだっ、みたいに思われてしまう。ラストシーンで釉薬のノートをプレゼントされるんですけど、それって陶芸家の卵としての彼女を認めていた証なわけで、それがこっちに全然伝わってこなかったことが、残念でなりません。

お終いは、世間から叩かれまくっていたこのシーン。そりゃあ、不道徳かもしれないけどさぁ。好きになった順番が遅かっただけじゃないですか。
女優「黒島結菜」が、このシーンを演じたことを、僕は評価しますよ。


ドラマの中でも、そしてスカーレット視聴者の方々からも、温かく送り出してもらえて一安心です。内田Pさんのチームは、ドラマに悪人を置かないと信じてはいましたが、それでも、しんどい3週間でした。

ネットニュースでは、嫌われ役を好演したんで民放ドラマでも引っ張りだこになるだろうなんて記事が出てました。もう、新しいドラマの撮影に入っているそうですけど、せめて次くらいは、ストレス無しで見られる役が良いなぁ。

2020年1月19日日曜日

或る知人の話

知人が癌で亡くなりました。
知人と云っても、知り合いの知り合いといった感じで、
彼と直接会ったことはありませんし、話をしたこともありません。
共通の知り合いを通し、同じ抗がん剤を使って治療をしていた者として、
互いの存在を知るといった仲でした。

彼が癌を患っていることが判明した時、癌は進行していたそうです。
希少がんであったことが、発見が遅れた理由でした。
手術には成功したものの、まもなく転移が見つかり、
末期がんの診断を受け、抗がん剤治療が始まりました。
治療によって、症状は落ち着いてきたかに思えました。

僕が彼のことを知ったのは、そんな時でした。
その頃の僕は、手術後の抗がん剤治療が終了して、半年ほど経ったときでした。
彼が僕と同じ薬剤を使っていたこともあって、会ったこともない彼に妙な親近感を持ちました。

末期がんの宣告を受けた後、彼は、がん関連のサークル活動に精力的に参加していました。
社交的な性格で人を惹き付ける魅力のあった彼は、常に活動の中心にいたと云います。

10年先の未来を描くことはできないけれど、今、君と語り合えることを幸せとしよう。

やりたいことは、全部やると宣言して、国内ばかりでなく海外にまで旅行へ出かけたりしました。
歩くことがままならないほどに病状が進んでも、大好きなアーティストのライブに参戦したそうです。
大人しくしてれば、あと数ヶ月くらいは長生きできたかもしれませんが、
そんな数ヶ月間には、何の意味も見いだせなかったのでしょう。

通夜の終わり、彼は、自らしたためておいた会葬御礼で、
己の人生を、そう悪いものでもなかったと総括しました。
生きること以外のやりたいことは全部できたのだと総括して、彼は逝きました。

同じ死ぬなら癌が良いと言います。
最期の最後まで人間らしく生き、人としての尊厳を保ったまま死ねる癌死は、
人生の終え方としては、或る意味、理想的なものかもしれません。
彼の人生とその死は、とても真似できそうには無いけれど、
末期がん患者の生き様としては、あっぱれとしか言いようのない、正にお手本と言えるものでした。

通夜の後、僕は初めて彼と対面しました。
棺に寝かされた彼の顔は、にこやかに微笑む遺影とは別人の、癌との激しい闘病を物語っていました。
理想的な人生の終え方をした彼の、現実の姿でした。

僕は、思わず声を上げそうになり、そして、必死に手を合わせました。

思えば、それは、彼の冥福を願う祈りではなく、
癌死という現実を目の当たりにし、恐怖に駆られた自分を守るための祈りだったのかもしれません。

2020年1月13日月曜日

NHK連続テレビ小説「スカーレット」 ~川原八郎と松永三津を巡る史実~

NHK朝ドラ「スカーレット」の後編が始まりました。

「黒島結菜」さん演じる「松永三津」が登場してからの5話が終了。ストーリー的には、ほぼ想定通りなんですが、あのマジうぜぇキャラ(アシガール若君の台詞から借用)は想像以上でしたね。まあ、これから少しずつ落ち着いていくのでしょう(と信じてます)。

それにしても、同じテレビ局の同じ制作統括とチーフ演出の下で演じているとはいえ、スカーレットの松永三津と、アシガールの速川 唯との区別がつきません。おむすびを食べているところもそうですし、リュックの中から陶芸の材料を取り出すところなんて、永禄にタイムワープした唯が、おふくろ様たちに米やお菓子などの土産を取り出すところそのものでした。「弟子にしてください」のフレーズも、「天野の下人に雇ってください」と同じだし・・・。まあ、悪く云えば演技の幅の無さ。良く言えば女優としての個性と云ったところでしょうか。
って、「女優としての新境地」とか「大人の匂いが香る女」って云う話はどこにいっちゃったんでしょうか。

それにしても、ジャニーズと共演すればジャニオタさんから叩かれ、スカーレットに出演すれば八郎沼さんから叩かれと、女優さんってストレス溜まらないのかなと心配になります。


で、登場して早くも今後の展開を暗示する台詞が出ましたですね。「才能のある人間は、無意識に人を傷つける。」だそうです。これで、ストーリー的には、史実をなぞっていく可能性が大きくなったように思います。

で、今後の史実(と云われていること)をもう一度整理してみました。

①「神山易久」「神山清子」夫妻は共同で自宅に穴窯「寸越窯」を開く。
②清子氏の陶芸家としての評価が高くなるにつれ、二人の関係が悪化していく。
③二人は離婚し、易久氏は内弟子の女性を伴い家を出る。子供の親権と窯の権利は清子氏が得る。
④窯の顧客は易久氏についたため、残された「寸越窯」の経営が苦しくなる。
⑤逆境の中、清子氏は自然釉薬を使った古信楽の再現に成功し、陶芸家として高い評価を得る。
⑥長男「神山賢一」氏も陶芸家になり、釉薬を使った「天目茶碗」の研究に没頭する。
⑦賢一氏が白血病で亡くなる。この時のドナー探しの活動が現在の骨髄バンク設立の元になる。
⑧易久氏は「自然釉」「須恵器」などの研究を重ね、「メトロポリタン美術館」をはじめ多くの美術館に作品がコレクションされるなど、国内外から高い評価を受けるようになる。

これを残り3ヶ月間でやってしまおうというのですから、怒濤の展開になりそうですね。物語が小さいとか、単調で退屈などといったコメントも一掃できることでしょう。

で、SNSでは、史実通りになるのはツラいとか、離婚するならもう見ないなどといったコメントが寄せられているようです。
しかし、この史実のどこがツラいんでしょうか。二人は共に陶芸家として大成功するわけですし、そりゃぁ、若くして亡くなった賢一さんは気の毒ですけど、その死は決して無駄にはなっていません。
夫婦仲良く日用雑器を焼いている、ささやかだけど幸せな人生を期待しているのでしょうか。でも、それでは波乱に満ちた人生のドラマにはなりませんし。

恐らく、泥沼の不倫騒動という言葉に引っかかっているのでしょう。仲睦まじい夫婦の間に、内弟子の若い女性が割り込んできて、夫を誘惑して泥沼に引きずり込んだ、みたいな昼ドラ的展開を予想されているのかもしれません。でも、それって、誰が言い出したことなんでしょうか。夫の易久氏がこの問題について一切発言をしていないものですから、出てくる資料が清子氏サイドからのものに限定されているんですよね。
易久氏が、(清子氏の自伝映画で描かれているように)才能も無いのに先生を気取り、妻の才能に嫉妬し、挙げ句の果てにDV、若い女性に誘惑されて家庭を放棄するようなロクデナシだとすると、陶芸家として国際的にも高く評価され、彼を慕って多くの弟子が集まったという史実をどう捉えればいいのか分かりません。

世の中には、夫婦で俳優とか夫婦で医者とか、夫婦で同じ仕事をしている例はたくさんありますけど、芸術家同士っていうのは、少し違うと思うんです。しかも同じジャンルですからね。八郎は、妻の才能に嫉妬する情けない夫ではありますけど、彼も才能ある陶芸家であるがゆえに苦しんでいるわけです。妻が焼いて夫が売る、みたいな生活ができれば楽なんでしょうけど、彼の才能がそれを許さないわけです。
才能が夫婦をライバルに変えてしまったんですよね。史実では長男も陶芸家になるのですが、自然釉に取り組む母親に対抗して、異なる技法の天目茶碗に没頭したそうです。実の親子にしてそうなんですから、夫婦ならば尚更のことに思います。

この夫婦が破局するのは、悲しい必然に思います。三津が弟子入りする前から、スキマ風が吹き始めていましたからね。今後は、夫婦共同の個展などを開催して、すき間を懸命に繕っていく展開が予想されます。


「才能のある人間は、無意識に人を傷つける。」

僕は、この台詞を聞いたとき、漫画家「竹宮惠子」氏と「萩尾望都」氏の「大泉サロン」でのエピソードを思い出しました。
明朗快活で社交的な竹宮氏と、物静かでオタクチックな萩尾氏。若く才能溢れた二人の漫画家は、共同生活をすることで、互いに刺激し合い創作意欲を高めていくのですが、やがて竹宮さんは萩尾さんの才能に嫉妬していく自分に苦しむようになります。竹宮氏が創作に苦しむ横で、いとも簡単に新しいモノを生み出していく(ように見える)萩尾氏。大泉サロンでの共同生活は3年で終わります。竹宮氏が決別を決断したとき、萩尾氏はその理由を理解できていなかったとされています。

僕は、黒島結菜さんが、川原喜美子の内弟子を演じると知ったときに、いやぁ、彼女もとうとう不倫相手などと云う大人な役を演じるようになったのかと、関心と期待を持っていたのですが、松永三津のキャラを見て、これは違うぞと思うようになりました。
三津のあのマジうぜぇ(アシガール若君の台詞からの借用)キャラ設定は、喜美子と八郎の離婚の主因を女性問題に求めていないからではないかと。そりゃぁ、男女間の感情描写は当然あると思いますよ。でもそれが全てでは無い。

史実では、神山易久氏と神山清子氏は、別々の道を歩むことによって、共に陶芸家として成功を収めました。ならば、ドラマでも、喜美子と八郎は、陶芸家として成功するはずです。そして、僕は、突然現れた三津は、八郎の才能の救い主となることを期待しているんです。
でも、それって、アシガールの速川唯のキャラ設定そのもの・・・あぁ、だから演技に幅が無くなっちゃったんですね。と話がループしたところで今日はお終いです。

最後にもう1つ、アシガールのスタッフさんたちの素敵なところは、登場人物に悪人をおかないところにあります。どんな敵役に対しても、ちゃんと憎めないところを描いてくれるんです。だから、あとは、それを黒島結菜さんがどう演じきるかだと思います。これが、女優としての新境地ってことなのかな。

2020年1月10日金曜日

黒島結菜「サクラダ・リセット」と伊豆半島ジオパーク「鮎壺の滝」

「サクラダ・リセット」は、2006年に「河野 裕」氏によって刊行されたライトノベルだそうだ。

2017年に、前篇・後篇の2部作として実写映画化されて、同時期にテレビアニメ化もされたようだ。で、アニメ版は評価が高いが、実写映画版はめちゃめちゃ低い。ネットで検索しても悪口ばかりが引っかかってくる。
前篇の興行収入が5,000万円。後篇にいたっては、上映してくれる映画館そのものが激減してしまい、わずか2,000万円という惨憺たる結果である。キャンペーンにも力を入れていて、宣伝費もかなりかけていたはずだから、記録的な大コケ映画だと云える。

実写映画版の予告動画である。野村周平さんと黒島結菜さんのW主演となっていて、共演者に平祐奈さん、伊藤健太郎さん、玉城ティナさんといった、お馴染みの若手俳優陣が名を連ねている。


 実写映画の公開期間とテレビアニメの放映時期を被せたのは、相乗効果を期待したのだろうか。しかし、ライトノベルのファンは、リアルな役者の演技など求めていなかったようで、この対決は一方的な惨敗を喫してしまった。世界観が特殊すぎて一般人が見るような作品でもないから、ターゲットからそっぽを向かれてしまっては大爆死は必然、というのがネット民の分析である。

健太郎君とのこんな共演シーンもあったらしい。


さて、今回、僕が見てもいない三年前の映画を取り上げたのは、黒島結菜さんが出演してたからだけではない。そのロケ地に「鮎壺の滝」が使われているからである。予告動画に出ていた滝がそれである。

「鮎壺の滝」は、静岡県東部を流れる一級河川「黄瀬川」にかかる滝である。JR御殿場線の「下土狩駅」から徒歩5分、自称「JR駅に一番近い滝」だそうだ。幅65m高さ9mというそれなりに立派な滝が、街中を流れているという面白さで、映画のロケ地に選ばれたらしい。

長泉町のオフィシャル動画である。


今から約一万年前のことである。富士山が大噴火して、大量の溶岩を噴出した。その時の火口の位置は正確には分かっていないが、溶岩の粘性が低かったために、谷を埋め尽くしながら、三島市の北部まで流れて来たらしい。これが三島溶岩流である。
鮎壺の滝のあるところには、小高い丘があったようで、溶岩流はその丘に乗り上げ、堰き止められて固まった。やがて、溶岩盤の上を黄瀬川が流れるようになり、柔らかい丘の部分だけが河川に浸食された結果、段差が生じて滝になったということだ。

元々、御殿場市から三島市にかけては、箱根連山と愛鷹山や富士山に挟まれたV字渓谷だったと云われている。それが、富士山からの大量の溶岩流や土石流で谷が埋め立てられ、広く緩やかな傾斜地になった。地下には富士山からの伏流水が流れており、広い土地と豊富な地下水を求めてたくさんの工場が作られ、やがて街が拓けた。だから、鮎壺の滝が街中にあるのは偶然ではないし、そのようなロケーションであるからこそ、サクラダリセットの撮影が行われたのである。

滝の上流部である。川底は三島溶岩流の岩盤である。黄瀬川はこの岩盤の上を流れ下っている。


滝の下流部である。下部にあった土の部分(愛鷹ローム層)が浸食されたので、溶岩層が庇のように突き出ている。溶岩層の厚さは10mほど。流れの少ない日なら、溶岩層の下に潜り込むことができて、そこから溶岩樹型の大きな穴を見ることができる。


溶岩に埋もれた大木が燃えて無くなり、木があったところが大きな穴になっている。下から覗ける溶岩樹型は珍しいそうだ。


伊豆半島がジオパークの認定を目指していた頃、鮎壺の滝周辺の巡検会に参加した。その時に、案内してくれたのが、静岡大学の小山真人教授だった。

実は、小山先生の案内で巡検するのは二度目だった。

1986年(昭和61年)に伊豆大島の三原山が大噴火して、全島民が避難したことがあった。噴火が収まった頃、伊豆大島の巡検会が一泊二日で開催された。理系オタクで、新しいモノ好きだった僕も参加したのだが、その時に案内してくれたのが静岡大学の小山先生だった。その頃の小山先生は、まだ講師か助手で駆け出しの研究者であったが、背が高くて、ダンディーで、穏やかで、説明が素晴らしく上手だった。初心者の面倒くさい質問にも、丁寧に答えてくれた。巡検参加者の多くは中学や高校の理科の先生たちで、あとは地質調査会社や鉱業関係の企業の研究者などだった。僕は完全に部外者であったが、冷えて固まった溶岩流に上って火山弾を探したりして、楽しい巡検会だったのを覚えている。

小山先生は、その後、どんどん偉くなって、日本を代表する火山学者になった。ブラタモリに出演したこともあったし、どこかの火山が噴火するとテレビで解説することもあった。

だから、こんな小さな巡検会に小山先生が来るなんて有り得ないことなのだが、案内する予定だった講師の都合が悪くなって、先生が直々に案内してくれることになったらしい。
鮎壺の滝を案内してくれた小山教授は、相変わらず格好良くって、紳士であった。偉ぶったところは少しも無くって、初心者の的外れな質問にも的確に答えてくれた。

鮎壺の滝の詳しい説明は、こちらを。「富士山―大自然への道案内」小山真人著(岩波新書)
この滝は、過去にも映画のロケ地に使われたことがある。1つは、2008年公開の「少林少女」。そしてもう1つが、あの超有名な「黒澤 明」監督の「七人の侍」である。下にいるのが主演の「三船敏郎」らしい。


で、映画で侍たちが立っていたのは、この溶岩崖の上である。


この柵を乗り越えれば、侍たちと同じように溶岩崖の上に立てるが、自己責任であるのは云うまでも無い。


こちらは、ネットで拾ってきた「サクラダリセット」の撮影風景の写真である。遠くに見える二人が「野村周平」君と「黒島結菜」さんらしい。


で、手前の岩が予告動画で「平 祐奈」ちゃんが立っていたところ。滝を形成している溶岩層が崩落したもののようだ。祐奈ちゃんと同じポーズをとる行為は特に危険ではないが、自己責任であることには変わりない。この写真を撮影した日は、記録的な渇水期であった。


黄瀬川は、富士山の溶岩流の上を滑るように流れていて、流域面積もそれほど大きく無いから、天候による水量の変化が大きい。

だから、増水するとこんな感じ。昨年の台風19号が上陸した翌日である。川幅いっぱいに滝が流れ落ちていてナイヤガラの滝状態である。


さて、鮎壺の滝がある長泉町では、映画が公開された年の秋に、イベントを開催していたようである。町の文化センターでの映画の鑑賞会を開きが、ジオパークガイドによる滝の見学会、滝のボランティア清掃の3つを同日に実施したらしい。どのくらいの参加者があったのかは知らないが、ボランティアで河川清掃をしようってオジさんたちに、サクラダリセットを見せた時の反応って如何なるものだったのだろうか。

2020年1月6日月曜日

「AI美空ひばり」紅白出場 ~人工知能搭載型ボーカロイド「初音ミクAI」への道 その4~

「AI美空ひばり」NHK紅白歌合戦出場


昨年末の紅白歌合戦は、だいぶ地味な印象を受けた。
まあ、前回と前々回がインパクト有りまくりだったから、余計にそう感じるのだろう。

で、いつものように批評や批判の投稿もたくさん出ているが、
中でも「AI美空ひばり」の評判が芳しくない。
そりゃぁそうだろう。
本物より良い贋物なんて有るわけ無いからだ。
だから、ニセモノは似せ者どうしで比べなければアンフェアである。
例えば、島津亜矢さんが歌う「柔」より劣っているが、
忘年会で上司が歌う「川の流れのように」よりはマシといった具合にだ。

ただ、安直にコンピューターなどで再現させるものでは無い、という意見には賛同できない。
コンピューターにこれだけのことをさせるための技術や労力は、生半可なものではないからだ。
安直な気持ちでは、コンピューターに再現させることなどデキやしない。
どうやら世間は、ボタン一つ押せば、AIが美空ひばりを簡単に再現してくれると思っているらしい。
昨年、「美空ひばり」の歌を誰よりも聴き込んだのは、YAMAHAのエンジニアなのだ。
頑張ってる姿が世間に直に伝わらないのが、エンジニアの悲しさと云えよう。

このプロジェクトがNHKスペシャルで放送されたときは、興味深く視聴させていただいた。
「AI歌唱」は「ボーカロイド」とは全く異なるシステムではあるが、
コンピューターによる歌唱という点では同じだし、
どちらも開発したのがYAHAMAのエンジニアたちということもある。
カバーでなくって、新曲を歌わせるという演出も面白かったし、
秋元氏の起用も、作品に箔を付けるためにはどうしても必要だったのだろう。

でも、天童よしみさんに美空ひばりさんの振り付けを真似てもらい、
モーションキャプチャーして、CGを被せて、コンピューターの歌唱に合わせて、
オーケストラの生伴奏で、4K・3Dホログラムで映し出す?・・・って、

ほぼ初音ミクのライブぢゃないか!!!

こんなことは、初音ミクのライブでは10年も前からやっていることである。
で、ミクがやると、オタクだのキモいだの云われるのに、この扱いの差は何だ!!!
まあ、NHKさんは、ボーカロイドにいろいろと良くしてくれてるので、文句をいうのはやめておこう。

ただ、番組は面白かったけど、美空ひばりのCGは酷すぎであった。
最大の敗因は、4Kなんかで作ったからだと思う。
中途半端に似せるのでは無くって、ザックリ作って足りない部分を見ている側に想像させた方が、
受け入られたように思う。

で、そのAI美空ひばりが紅白で披露されると知って、僕はすごーーくイヤな予感がした。
興味を持ったヤツだけが見るNHK特集と違って、
不特定多数が視聴するNHK紅白歌合戦での披露はキケン過ぎるからだ。
結果は、ご承知の通り。
違和感があるだとか、嫌悪感を感じるだとか、散々な云われようである。
まあ、あのCGなんだから致し方ないけど・・・。
だから「皆さん目をつむって聴いてください」って云えば良かったと思う。
歌だけ聴かせて、あとは聴き手に想像させれば・・・って紅白ではそういうわけにはいかないか。

「ボーカロイド」も今回の「VOCALOID:AI」もコンピューターに歌唱させる技術である。
人の歌唱を人工的に再現することがどれだけ大変か、
逆に云えば、美空ひばりの歌唱は・・・もっと云うと、人が歌うという行為が如何に素晴らしいか。
そのことについて評価すべきなのに、キャラクターの部分が強調されて、
初音ミクと同じことになってしまったのは残念極まりない。


さて、「VOCALOID:AI」は、AI技術を美空ひばりに似せることに使っているが、
これは人工知能搭載型ボーカロイド「初音ミクAI」開発の第一歩だ。
言語習得だって、芸術表現だって、全てはモノマネから始まる。
これを出発点として、真のコンピューター歌唱の実現を目指して進んで欲しいもので或る。

何故、コンピューターで再現するのか。それは、本物が掛け替えのないものだからである。


以下は、二年前の投稿記事で或る。
「AI美空ひばり」には、本物という評価対象が存在するが、
「初音ミクAI」が目指すものは聴き手を感動させる歌唱で或る。
この二年間だけでも、AI技術の進歩はめざましいモノがあるから、
人工知能搭載型ボーカロイド「初音ミクAI」の実現も遠い未来の話ではなくなってきたように思う。



人工知能搭載型ボーカロイド「初音ミクAI」への道


ボーカロイドにおける人工知能の役割とは如何なるものでしょうか。
 
ボーカロイドとは、音符と歌詞を入力すれば、それなりに歌うことのできるソフトです。
ただし、厳密に云うと、そこに「歌う」という行為は存在しません。
正確には「言葉を使って演奏している」と言うべきでしょうか。
聴き手は、その「言葉」の存在によって「演奏」の向こう側に「歌う」という行為をイメージします。
それは、欺されているというよりは、人間が持つ感性によるものです。

ボカロPの役割は、その「言葉を使った演奏」を、あるときは人間の歌唱に近づけて、
また、あるときは機械らしさを前面に出して、作品を完成させることでした。
彼らが「P」を名乗るのは、音楽プロデューサー的役割を果たしていることを自認しているからです。

人工知能搭載型ボーカロイド「初音ミクAI」とは、
ボカロPの関与を必要としない、自立型のボーカロイドと定義できそうです。

「初音ミクAI」が最初にすべきことは、歌詞の内容を理解することです。
「東ロボ君」の記事でふれたように、AIにとって文章理解は最大の難関で、
現在の技術的アプローチでは、真の意味での読解は不可能とされています。
ただ、歌詞というのは、特殊で限定された文章です。
一青窈の「ハナミズキ」が9.11テロを鎮魂しているなんて読解は問題外ですが、
歌唱に反映させる程度の読解はそう難しいものでは無いように思います。

歌詞の内容を理解した「初音ミクAI」は、その結果を歌唱に反映させます。
従来の「調教」は、ボーカロイド歌唱の不自然さを修正するのが主目的でしたが、
それについては、ソフトウェアの改良によってクリアーできようになってきています。
ですから、「初音ミクAI」の最初の課題は、限りなく人間の歌唱に近づく、
つまり、悲しい歌を悲しそうに歌うことを可能にする、ということになります。

AIに期待するのは、息成分や声質などの様々なパラーメーターを自らコントロールすることで、
与えられた楽曲に相応しい歌唱を作り上げることにあります。
ネット上に存在する、無数の歌唱から歌唱テクニックを獲得するのも勿論ですが、
重要なのは、強化学習によって、自らの歌唱の中から最適な歌唱を決定させることにあります。
人間だって、レコーディングの時は、何テイクも録って、最良のものを求めるわけですが、
「初音ミクAI」は、そのテイク数が何千万通りも可能であるわけです。

「初音ミクAI」は、各パラメーターの気の遠くなるような組み合わせから、最適な歌唱を決定します。
この場合の最適な歌唱とは、人間のような自然な歌唱です。
例えば、松浦亜弥的歌唱法をAIによって再現させると云うことも可能になります。
本人の音声データを使えば、区別できないくらい似せることも可能になるわけです。

しかし、ここに評価という最大の問題があります。
人間のレコーディングでしたら、コントロール・ルームにいる「P」さんが、
「それじゃあ伝わらないなぁ」なんて1つ1つダメ出しするんでしょうけど、
AIの強化学習は、何百万、何千万通りという歌唱パターンを評価していくわけですから、
AI自身による自己評価が可能なシステムを構築しなければなりません。
ゲーム分野、例えば将棋の評価規準は、勝敗や駒の損得率などから構築することができますし、
車の自動運転だって、安全で効率的なルート設定という明確な目的があります。
それと比べて、歌唱の優劣についての評価規準の構築は、そう簡単なものではありません。
そもそも、歌唱に優劣など存在するのかという問題もあります。

どんな歌唱に感動するのかなど個人の好みの問題で、規準など存在しない、
という考えもあると思います。
しかし、私たちは歌唱に関して、何かしらの共通した認識を持っていることも確かです。
この共通した認識を解明し、歌唱における評価関数を構築することこそ、
「初音ミクAI」を成功させる最重要な課題と云えます。

では、歌手の皆さんはどのようにして自己の歌唱を評価しているのでしょう。
今日のライブは上手く歌えたという印象は、どのようなときに持てるものなんでしょうか。
声が出ていたとか、音を外さなかったというレベルなら、現状のボーカロイドでも自己評価可能です。
今日は気持ちよく歌えたとか、観客と一体になれたなどと云う場合は、
その根拠を探らなくてはなりません。

一方、私たち聴き手は、どのような歌唱に出会ったときに、感動するのでしょうか。
歌に心がこもっているとき・・・よく耳にする言葉です。
しかし、歌といえども音です。
空気の振動という物理現象です。
物理現象ならば、心がこもっている歌唱と、そうでない歌唱には、解析可能な違いがあるはずです。

人の歌唱というのは、大変不安定なもので、揺らぎまくっています。
また、感情が高まれば、心の動揺が歌唱に反映されていきます。
それらには、意図的なもの(テクニック)もありますが、
そういった歌の揺らぎが、聴き手の心の襞に作用することによって、感動が伝わるのです。
この揺らぎこそ、従来のボーカロイドが再現できていない部分であり、
聴いたときに、違和感をもたれる最大の原因です。

しかし、人間の歌唱であっても、YouTube動画やCDで聴いている時点で、
それらは既にデジタル化され人工的に再現されたものです。
生のライブでも、マイクを通して、スピーカーから聞えてくる歌声は、
厳密な意味で、もはや肉声とは云えません。
音という物理現象で考える限り、発生源が人間であれ、機械であれ同等なのです。
それでも、人間の歌唱と人工的に作り出したボーカロイドの演奏が同じでないと云うのなら、
それは違うのでなく、足りないにすぎません。

「初音ミクAI」は、その(膨大な)足りないモノを、評価関数による解析を基に補うのです。

しかし、これは、「初音ミクAI」の最終目的ではありません。

将棋の対戦で、AIは人間だったら絶対に指さない、悪手を平気で指してくると云います。
AIは、恐れを知りません。
人間のように先入観や固定観念に縛られない非常識な発想が、新たな手法を生み出し、
それらは人間にフィードバックされていくわけです。
 
「初音ミクAI」に、真に期待するもの。
それは人間の真似ではない、全く新しい歌唱法です。
歌唱における評価関数が構築されたとき、
「初音ミクAI」は、僕らをどんな世界へ連れて行ってくれるのでしょうか。