2016年11月30日水曜日

飯島真理「1グラムの幸福」他 ~唯一無二のアイドル系シンガーソングライター~

 「1グラムの幸福」は、飯島真理さんの4枚目のシングルになります。アニメ映画「超時空要塞マクロス」の主題歌「愛・おぼえていますか」(1984年6月)の大ヒットを受けて、同年11月にリリースされました。作詞:松本隆、作曲:飯島真理、編曲:清水信之とありますから、彼女がいかに期待されていたかが分かります。


 なかなか素敵なテイクでしょ。だいぶ強くエコーがかかっていますけど、口パクではありませんよね。自ら作詞作曲して、このくらい歌えて、ルックスもこのくらいですから、僕がファンになったのもお分かりいただけるかと思います。
 ラストの「せえのお。まりぢゃああああん。」のかけ声は、昭和の証です。スタジオに親衛隊を入れていたのか、声だけを被せたのか分かりませんけど、まあ、当時の彼女がこういう扱いだったということが分かります。

 でも、飯島真理さんは、ちゃんとしたアーティストですから、楽曲発表は、アルバムが基本になっていました。彼女がマクロスに出演した直後にリリースしたのが、坂本龍一プロデュースによる1stアルバム「Rosé」です。
 いいですか、ここ大事ですよ。マクロスで人気が出たからアルバムを出したんじゃなくって、マクロスに出ている時には、既にオリジナルアルバムの制作を開始していたと云うことです。
 ファンから最初にして最高と讃えられているこのアルバムは、19才のシンガーソングライター、飯島真理の魅力が遺憾なく発揮された名盤と云われています。

 では、アルバム「Rosé」の中から「まりン」、貼りつけさせていただきます。ライブテイクのようです。


 これっ、これ聴いてましたよ。まさにアイドル系シンガーソングライターですよね。動画を見ていたら、泣きそうになりました。この頃だと「今井美樹」なんかも聴いてたはずですけど、やっぱり僕は、飯島真理でした。
 ちなみに「まりン」と云うのは、ピエロの人形のことだそうです。決して飯島真理さんが連続逆上がりをしているわけではありません。

 当時、飯島真理さんは、国立音大のピアノ科に在学中でした。ピアノ科ですよ。音大では、ピアノ科はヒエラルキー最上位ですからね。彼女の作品に、転調するものが多いのも、幼いときから音楽の英才教育を受けてきたことと関係があるように思います。この「私、音楽知ってるんで」って云わんばかりの生意気な態度も、僕にとっては、魅力の1つでした。
 
 続いても、1stアルバムから「きっと言える」を貼りつけさせていただきます。この楽曲は、アルバム発売の直後にシングル盤として発売されています。アイドル歌手のように、シングル盤を出してからアルバムにまとめるのでなく、ちゃんとアーテイストっぽく、アルバムが先行してからシングルカットされています。


 ただ、これらがリリースされる半年ほど前に、NHKアニメ「スプーンおばさん」の主題歌「夢色のスプーン」が発売されていて、一般的には、こちらがデビュー作とされています。
 このことについて、本人は、ご不満のようで、「そんな曲知らない」ぐらいな態度をとっていたそうです。「夢色のスプーン」は、作詞:松本隆、作曲:筒美京平となっていて、自作曲ではありません。
 実は、「愛・おぼえていますか」も作詞:安井かずみ、作曲:加藤和彦で、自作曲では無いんですよね。つまり、彼女のデビュー曲と最大ヒット曲が、共に自作曲で無く、共にアニメの主題歌だったということになります。このことは、アーティストとしての自覚と高いプライドを持つ彼女にとっては、認めたくないことだったようです。
 「愛・おぼえていますか」は名曲とされていますが、多分にマクロスの威光の結果もあり、このレベルの楽曲ならば、彼女が自作することも可能だったと思います。もし「愛・おぼえていますか」が、彼女の自作曲であったなら、ライブで、ワザと歌わないなどと云う態度をとることもなかったでしょうし、その後の展開も大きく変わっていったように思います。

 ただ、「夢色のスプーン」が、松本隆&筒美京平という、当時のアイドル曲制作の最強コンビによるものであることや、歌手デビューの直前に、リン・ミンメイ役のオーディションを受けさせていることを考えると、所属していたビクターが、彼女のアイドル的な部分を強調して売ろうとしていたのは明らかです。オーディションにあたって、「度胸試しに受けてみないか」なんていう誘い言葉は、いかにも若い女の子を騙くらかしているみたいに聞こえます。マクロスの楽曲は、ビクターからリリースされることが既に決まっていたと云いますから、オーディションそものもが出来レースだった可能性だってあります。

 ザ・ベストテンに出演したときの映像がありました。「愛・おぼえていますか」は、彼女の最大ヒットですが、このことが彼女の後の音楽活動の足枷になったとされています。でも、足枷かどうかなんて、本人の考え次第だと思うのですが。


 アニメの主題歌が社会的なヒット曲になるというのは、今は珍しいことではありませんが、当時は、アニメの主題歌と云うのは、どんなにヒットしても、しょせん子ども相手の楽曲として、一段低く見られていたように思います。そんなアニメの主題歌を、映画から独立しても成立できるほどに地位を向上させたのが、飯島真理でした。
 声優にしても同じです。今でこそ、声優は、憧れの職業の1つになっていますけど、当時は、女優、歌手などと比べると、一段低く見られていたと思います。声優を憧れの職業に引き上げた最大の功労者も、やはり、飯島真理だったと思います。

 でも、そんなことは、彼女にとって、何の魅力も価値もないことだったようです。 

 彼女は、その後、レコード会社を移籍して、数多くのアルバムを発表しました。マクロスの封印に成功した彼女は、彼女が望んでいた形での、つまり普通のシンガーソングライターとしての活動を続けていきます。
 でも、それは、僕にとっては、彼女が唯一無二の存在から、大勢の中の一人になってしまったと云うことでもありました。

 別に、アニソン歌手になってくれとか、声優をやってくれなんて思っていたわけでは無いんです。歳を重ねるにつれて、彼女の音楽性が変わっていくのは仕方のないことだし、それによって、ファンが付いたり離れたりするのも当然のことだと思います。
 ただ、彼女が確かに輝いていたあの時代を、彼女が黒歴史扱いしてしまったことが悲しかったんです。
 
 お終いは、もう1回この曲で、


2016年11月27日日曜日

飯島真理「天使の絵の具」feat. 初音ミク

 実は、このブログの最初の投稿記事は、「風の谷のナウシカ」で、2番目が「飯島真理」さんでした。松浦亜弥さんのファンブログとしてスタートしたはずなのに、最初から脱線していたんですよね。
 で、先日、初音ミクの最新ヴァージョンによる「天使の絵の具」のカバー作品を見つけて再びハマってしまいました。ということで、再脱線を承知で投稿させていただきます。

 飯島真理さんの「天使の絵の具」は、伝説のロボットアニメ「超時空要塞マクロス」の劇場版においてエンディングテーマに使われた曲です。1984年リリースですから、32年前のことになります。
 アニメに登場するアイドル「リン・ミンメイ」役の声優として起用された「飯島真理」さんは、当時、国立音楽大学音楽学部ピアノ科に在学中の本物のシンガーソングライターで、「天使の絵の具」は、自身の作詞・作曲になるものです。
 その後、飯島さんが、いつまでも自分につきまとう「リン・ミンメイ」のイメージやアイドル歌手、声優歌手としてしか扱ってもらえないことに苦しみ、逃げるようにアメリカへ移住してしまったのは有名な話で、そのあたりのことは、以前、ブログの記事として書かせていただきました。それから、22年の時を経て、飯島さんは再びマクロス関連のオファーを受けるようになるのですが、ブログ最後の「飯島真理は、リン・ミンメイではありませんが、リン・ミンメイは、飯島真理だったんです。」って上手いこと書いたなって自分でも気に入ってるんですよw

 マクロスにおいて飯島真理さんの貢献度は、計り知れないものがあります。もし、リン・ミンメイの担当が既存の声優さんであったら、ここまでの、社会現象ともいえる事態にはならなかったはずです。楽曲群は、アニソンの革命とも云えるものだったと思いますし、アイドル系シンガーソングライターとしての現実世界での彼女の活躍がなければ、現在の声優ライブなど存在しなかったと思います。

 皮肉なものですね。

 で、1つめは、飯島真理さんのライブ動画になります。僕は、彼女がテレビの歌番組に出ていたのを見たことはあったのですが、ライブ動画を見たことは無かったので、大変興味深く視聴させていただきました。当時、飯島真理さんは、21才くらいでしょうか。       
     

 アイドルが否定されていて、いわゆるアーティストたちがアイドル的な役割を兼ねていた時代です。松浦亜弥さんのライブ動画を見慣れている者からすると、何ともお粗末なところもあるんですが、アイドル系シンガーソングライターの渾身のライブということで評価させていただきます。
 紙テープが飛んでくるのが昭和ですよね。怪我をさせないように、テープの芯は抜いておくのがマナーだったんですよ。

 2つめは、初音ミクの初期のカバー作品になります。動画の制作者さんと歌の制作者さんは別のようです。MMD動画が妙にぎこちなく見えるのは、恐らくアニメの再現を意識しているからだと思います。当時のアニメにおける歌の振り付けってこの程度のものだったんですね。


 飯島真理さんは、ご自身の楽曲がアニソンとして扱われるのは不本意だったと思いますけど、ボーカロイドとこれほど相性が良いことを考えると、「天使の絵の具」は、やっぱりアニソンだったのかなあ、って思ってしまいます。

 3つめは、ちょっとお姉さんっぽい歌わせかたの作品です。ボーカロイドカバーは、かくあるべしって感じの作品だと思っているんですよ。


 伴奏のアレンジが素晴らしいですね。ギターアレンジが格好良いし、初音ミクのセルフコーラスも可愛いです。基本的なスコアーは、人間用の伴奏の流用だと思いますけど、音の選び方がボーカロイドの特性にバッチリ合っているように思います。

 4つめは、初音ミクV4Xによる歌唱です。打ち込み伴奏ですけど、パーカッションは、ボカロPさんが自ら演奏しているとのことです。


 初音ミクV4Xには、2つの音声ライブラリーを混合して新しい歌声を作る「クロスシンセシス」という機能があるのですが、この声の場合は、「SOLID」と「DARK」をクロスシンセシスして、落ち着きのある歌声を表現しているようです。
 どうですか、少しは、大人っぽくなりましたかね。初音ミクも来年で発売10周年、16才でデビューしていますから、人間だったら現在25才ですからね。いつまでも可愛いだけでは困ります。

 ロボットに変形する可変戦闘機「バルキリー」と飛び交う自動追尾型のロケット弾、三角関係においてヒロインが失恋すると云うまさかの結末と云ったところがマクロスの特徴とされていますが、中でも特筆すべきは、劇中で「リン・ミンメイ」が歌う挿入歌のレベルの高さだったと思います。劇中のアイドルライブは、やがて現実のものとなります。アニメという虚構の世界と現実の音楽市場がリンクするという現象は、後のヴァーチャルアイドルの先駆けと云えるものでした。
 しかし、その結果、飯島真理さんは、アニメの世界だけで無く、現実世界でも、虚構の姿を演じつづけることを求められました。

 お終いは、「セシールの雨傘」。脱マクロスと云えるような作品です。これは、ボーカロイドでは歌えないですね。


 マクロスの偉大さは、飯島真理という若きシンガーソングライターの才能をも飲み込んでしまったのでしょうか。
 でも、純粋に彼女の歌が好きだってファンは、少なくなかったんですよ。彼女がマクロスを封印しようとしまいと、純粋に彼女を応援していたファンは、少なくなかったはずです。
 今も残る数多くのボーカロイドカバーは、マクロスへのリスペクトだけでなく、作曲家飯島真理へのリスペクトの表れでもあるはずなんです。
 

 才能がプライドを生み、そのプライドがファンとの決別を決意させたのならば、これほど寂しいことはありません。飯島真理さんは、リン・ミンメイを「あの人」と表現したといいます。

 何だか、どこかの元アイドル歌手さんとカブっているように思えてきました。

 ってことは、脱線なんてしてなかったのかも。

2016年11月19日土曜日

いきものがかり「ありがとう」feat.松浦亜弥&初音ミク

 いきものがかりの「ありがとう」については、今さら説明するまでもないと思います。相変わらずのご活躍のようで、先日の「ベストヒット歌謡曲」にも出演していましたね。デビュー10周年とのことでしたが、もっと前からやっていたように思っていました。
 さっそく御本家のテイクを聴かせていただきましょう。歌は38秒後からです。


 今はもう解体されてしまった国立競技場でのライブテイクのようです。それにしても大掛かりなライブですね。動画はミキシングされた音で聴くことができますけど、実際の会場ではどんな感じで聞こえるのでしょうか。僕は、こんな大きな野外ライブというものに参戦したことがありませんから、よく分かりませんが、一度体験してみたいものです。

 では、続いて、松浦亜弥さんのお馴染みのテイクになります。歌は3分25秒からです。


 会場の大きさは何百分の一、バンドのメンバーも何十分の一なんですけど、バンドって5人いれば、とりあえずフルバント構成の音を再現することは可能なんですね。

 「また~いつ~もの~町へ出かけるよ」のところの、ちょっと、ねちっこい歌い方がいかにも松浦亜弥さんらしいです。松浦亜弥さんって、カバーでは、あっさり歌うという印象が強いので、没個性と思いがちですが、それでも、所々にこのような松浦節が出てくるように思います。

 最初に聴いたときは、何か物足りなくって、あまり好きなテイクでは、なかったのですが、最近は、普通に良い歌を普通に歌ってくれれば十分と思うようになりました。もともと、そんなに気持ちを込めて歌う曲でもありませんからね。彼女に対するハードルが下がったとは思いませんけど、歳のせいか、気持ち込めまくってガンガン攻めてくるような歌い方に疲れちゃうのかもしれません。

 では、貼りつけなくっても良かったんですけど、ボーカロイドカバーも。


 当たり前なことかもしれませんけど、伴奏が、菊ちゃんたちと同じなんですよね。こっちの伴奏は、打ち込みかと思いますが、元にしたスコアーが同じなんでしょうかね。
 作りものだからといって馬鹿にしないでくださいね。口を見ていると分かると思いますが、ちゃんとリップシンクしているでしょw
 初音ミクのカバーもいくつかあるんですけど、一番普通に歌っているこのテイクが、一番良いように思います。キーもあまり高くしない方が良いみたいですね。あまり高いとキンキンしてきて、聴いていて疲れちゃう、って、これも歳のせいかなあ。

2016年11月16日水曜日

桑原薬師堂と仏の里美術館 Ⅱ  ~収蔵仏像に関する私見~

 もし、薬師堂にある仏像をプレゼントしてもらえるのなら、「観音菩薩」「地蔵菩薩」のペアセットがいい。大きさも手頃だし、平安後期の穏やかさと、地方仏の素朴さを合わせ待つ、正に癒やしの仏さんだからだ。
 この2躯は、明らかに同一の仏師によるものである。観音さんと地蔵さんをペアで祀るというのは、珍しいことらしい。でも、地蔵は大地に、観音は水に関係のある仏さんだから、2躯をペアで祀ることには、それなりの説得力がある。
 上原美術館の田島先生によると、観音・地蔵菩薩は、阿弥陀如来の脇侍として祀られることもあるそうだ。だとすれば、このペアには、かつて、共に仕えていたご主人様がいたということになる。まあ、三尊が並んでいるのを想像するのも楽しいが、このペアは、センターが不在でも十分やっていけるだけの実力を持ったタレントだと思う。


薬師堂の仏像群の中で、最も有名で、評価の高い仏像と云えば、阿弥陀三尊像である。唯一の重要文化財であるし、平成3年には、あの大英博物館で展示されたという輝かしい経歴をもっているからだ。
 この阿弥陀さんは、鎌倉時代の前期に慶派の仏師「實慶」によって造られたことが分かっている。實慶という仏師は、運慶願経の記述から、存在だけは古くから知られていたが、その作品は長い間、未発見だった。ところが、昭和59年、近くの修善寺の大日如来から墨書銘が発見されたのに続いて、この阿弥陀三尊の胎内からも「實慶」の名が発見されたのだ。實慶の現存する作例は、今でもこの2例、計4躯だけだ。

 阿弥陀さんを乗せている台座は、仏像が造られた当時のものだという。確かに、蓮の花弁の脈がくっきりと彫られていて、いかにも鎌倉期の作品という感じではある。
 仏像の台座とか光背というものは、後の時代に造られたものがほとんどで、当初のものがそのまま残っているというのは、極めて貴重だ。お寺が火事になったとき、仏像は抱えて持ち出しても、台座まで持ち出すのは大変だろうし、仏像は、傷んできたら修理するが、台座などは、壊れたら新調することが多いからだ。

 實慶の墨書銘は、美術館に行けばパネル写真で見ることができる。面白いことに、「實」のところに「しんにょう」のようなものが付いていて、一見すると「運慶」って書いてあるように見える。後の世の人が、仏像の価値を上げようと、しんにょうを付け加えて實慶を運慶に書き換えた、なんて解釈もあったようだ。
 ただ、よくよく見ると、意図的に書き加えたにしては下手過ぎるから、何かの墨が付いちゃって、それがたまたま「しんにょう」っぽく見えているんだと思う。だいたい、何百年に一度の修理の時にしか見てもらえない仏像の内側にそんな細工をしたって、意味のないことだ。

 脇侍は、観音・勢至菩薩さんだ。なかなかの良像で、ピンでも十分通用すると思うし、実際、勢至菩薩さんは、仏像のカレンダーにピンで採用されたこともある。ただ、この両像は、阿弥陀さんの脇侍にしては、ちょっと違和感がある。普通、観音菩薩が阿弥陀さんの脇侍を務めるときには、蓮台を持っているのが普通だからだ。僕は、この像を初めて見たとき、奈良薬師寺の日光・月光菩薩を連想した。

 ただ、このような観音・勢至菩薩像が他に無いわけではない。横須賀の浄楽寺の運慶作の阿弥陀三尊の脇侍は、ここのと同じで、日光菩薩っぽい観音菩薩さんである。慶派の阿弥陀三尊像には、このような形式のものが普通にあるということなのだろうか。


 桑原薬師堂の名の由来となっている薬師如来さんは、榧材の一木割矧造という、マニアには、ちょっと気になる仏さんである。土地の人たちは、国の重要文化財である阿弥陀さんより、県の文化財に過ぎないこの薬師さんの方を主に祀ってきた。切実な信仰の前では、県より国の方が偉いなどという尺度なんて存在しないのだろう。
 もっとも、薬師さんが県文止まりなのは、長い間秘仏であったことが関連しているのかもしれない。或るお寺さんの話によると、国の文化財に指定されるといろいろと煩くなるらしい。だからといって、補助金がたいして増えるわけでもないので、仏像は、県の文化財くらいが丁度いいそうである。とは云っても、美術館にあって、お客を呼ぶためには、箔がついている方が良いのも確かだ。

 かなり古風な造りであるので、平安時代初期の作品と言われていたこともあったようだ。しかし、円満な顔立ちや衣文の彫りが浅いことなどは、平安時代後期と云えるし、堂々とした胸や腹の厚さを考えると藤原期より遡るようにも思える。ということで、先生方の見解は、平安時代中期(11世紀半ば)頃の作と云うことである。
 この薬師さんの特徴は、素地造りで、漆や金箔を貼られた痕跡がないことと、膝の張り出しが小さいことだそうである。田島先生によると、これらは神社の御神体として造られた像に共通することだそうだ。仏さんが御神体というのは、神仏が習合されていた昔の日本では、極々普通の事である。
 そう考えると、衣文の彫りの浅さも膝の小さな張り出しも頷ける。神像というのは、御神木を彫って造られることが多いから、あまり深く彫り込まれない。京都の松尾大社の神像なども、平安時代初期の作と云うことだが彫りはかなり浅い。それから、祠に入れることを考えると、膝を張り出して立派に見せることよりも、箱の中にきっちり収まるように、膝の張り出しを抑えた造りのほうが好ましいはずだ。どこかのブログに、下半身が小さくてバランスを欠く、なんて書かれていたが、造り手には造り手の言い分があるのだ。
 両腕が細く感じるのは、後の時代に補修されているからだそうだ。後頭部を見ると、縦横に碁盤の目のように刻まれていて、確かにこうすれば手っ取り早く螺髪を彫ることが出来るとは思うが、雑な造りである。このへんが地方仏とされる所以なのだろう。
 ただ、薬師堂にいた時のように、厨子の中に収まと、何か強い威厳を感じるから、やはり、この薬師さんは、この地方の神社の御神体として造られたのかもしれない。
 

 十二神将は、薬師堂にあった頃は、江戸時代の修理で白く塗られていてチープな感じだったが、毎年、数躯ずつ修理されて、精悍な仏像に変身した。
 修理を担当した、吉備文化財修復所の牧野先生の手法は、文化財保存の考えからするとやや直しすぎの感があるが、直すのが商売だから致し方ないことだ。まあ、十二神将は国でなく県指定の文化財だから問題にはならないのだろう。痛んだ顔に補材を付けて、彫り直したりすれば、見違えるように素晴らしく蘇るわけだが、そんな仏像を前にして、面相がどうだから時代は・・・などと素人が偉そうに云ってしまうと、思わぬ間違いをしでかすことになる。
 もちろん、修理された仏像には、必ず修理報告書が作成されているから、それを見れば良いのだが、そんなものは、美術館の書棚か金庫にしまわれていて、部外者が目にする機会などないわけだし。
 ただ、あまり直しすぎると、重要文化財の指定の際にマイナスポイントとなるのではないかと心配になってくる。まあ、重文になりそうもないから、大胆に修理したのだろう。

 ただ、ここの丑神将は別格である。細かいところまで神経が行き届いている優れた仏像だ。例えば、バックルに通した紐1つにしても、キツく縛ったときとユルく縛ったときとでは、皺のでき方が違うし、素材が布か皮かによっても変わってくる。優れた仏師というのは、それらをちゃんと表現できるのだ。丑神将は、明らかに中央の一流の仏師の作である。もし、奈良・京都にあれば、ピンでも重要文化財に指定されているだろう。

 ここの十二神将は、それぞれ造られた時代が異なっているのが特徴だ。長い年月の間に、12躯あった神将像は、1つ、また1つと失われていったのだろう。そして、それぞれの時代の人々は、失われた像を1つ、また1つと補ってきたわけだ。
 それぞれが造られた年代については、一番古いものが平安時代で、新しいものが江戸時代とされてきた。ところが、最近の調査で、1つの像の内部から墨書が発見されて、平安時代とされていた像が鎌倉時代中期の作と分かった。そこで、各像の年代を見直しした結果、造られた時代は、鎌倉前期から室町時代までの間と変わり、上下に年代が縮まったかたちになった。
 
 一番出来の良い丑神将は、古い方から4番目だったのが、一番古い像にかわった。このことは、かなり重要である。丑神将は、失われた仏像の代わりに造られた補作品でなく、最初に造られた12躯の唯一の現存作ということになるからだ。つまり、当初は、丑神将レベルの像が12躯揃って、薬師さんを守っていたことになる。


 これだけの造仏ができる仏師。つまり、鎌倉時代の前期に、この地方の造仏に関わった一流仏師と云えば、實慶以外に考えられない。實慶は、阿弥陀三尊像だけでなく、薬師如来の周辺仏の造仏にも携わったのではないだろうか。

 実は、以前の薬師堂の仏像群は、今とは違う祀られ方をされていた。

 現在の阿弥陀三尊像の観音・勢至菩薩は、もともとは薬師如来の脇侍の日光・月光菩薩として祀られていたのだ。阿弥陀如来の脇には、江戸時代に補作された、観音・勢至菩薩が置かれていたらしい。その後、文化財調査によって、薬師如来の脇に置かれている像は、阿弥陀如来とセットであるとされ、現在のかたちになったという。つまり、阿弥陀さんの脇侍は、失われていないのだから、補作など必要なかったということになる。
 しかし、これは不思議な話である。現在の阿弥陀三尊像は、文化財調査をするまでもなく、明らかにセットに見えるからだ。見た目も同じで、造った人も同じなのだから、そんなのは、ど素人でも分かる。
 問題は、なぜ昔の人たちは、これをセットと見なさなかったのかと云うことである。誰が見てもセットに見えるものを、セットとして扱ってこなかったということは、それなりの理由があったと考えるべきではないだろうか。しかも、観音・勢至菩薩を補作までしているのである。
 もしかしたら、間違っているのは、江戸時代の人たちでなく、我々ではないだろうか。

 以下は、僕の私見である。

 この地で阿弥陀三尊像を造った實慶は、続いて、薬師如来の関連仏の造仏に携わった。人々に深く信仰されていた薬師如来は、元来、神像であったために、単独の像として祀られていたが、北条氏がスポンサーとなって、脇侍を揃えることになったからだ。實慶は、薬師如来の脇侍として日光・月光菩薩と十二神将を造る。
 やがて、長い年月の中で、神将像は失われていき、当初の像の中で丑神将のみが残った。一方、阿弥陀如来の脇侍であった観音・勢至菩薩も失われ、代わりの脇侍として江戸時代に補作された像が置かれた。

 ある講演会で、この考えの真偽を質問させていただいたことがある。講演会の先生は、僕の質問に対して、面白いでもなく、有り得ないでもなく、「それは恐ろしい考えですね」とおっしゃた。肯定でも無く、否定でも無く、スルーに近いお返事だ。所詮、素人考えなのでそのことは別に良いのだが、「恐ろしい」と云われたのが愉快だった。
 像の配置を入れ替えるきっかけとなった文化財調査を行ったのは、東京芸術大学名誉教授の水野敬三郎先生である。入れ替えたことが間違いであるなど、考えるだけでも恐ろしいことなのだろう。

 丑神将から「實慶」の名前でも出てきてくれれば、面白かったのだが・・・。

2016年11月13日日曜日

冨田勲 追悼特別講演「ドクター・コッペリウス」に行ってきました。

 渋谷のオーチャードホールで11月11日(金)12日(土)の2日間で開催された特別講演。僕は、2日目の昼公演に参戦してまいりました。
 公演前に新宿のヨドバシでプラモデルを見ていたんですが、時計を見たら開演30分前。慌ててしまいました。渋谷駅からBunkamuraまで、人混みをかき分けながら走ってしまいましたよ。3分前に席に着けてセーフだったんですけど、座ったとたんに汗が噴き出してきて、困ってしまいました。
 
 チケットが簡単にとれてしまいましたから、観客の入りを心配していたんですけど、3階席までいっぱいの満席状態でした。まあ、僕が予約した時は、冨田先生は、まだご存命でしたからね。追悼公演に変わってから、一気に売れたということなんでしょうか。満席になったのは嬉しいけど、写真の冨田先生にしか会えなかったのは、本当に悲しいです。

 さすがに、中高生や若者カップルはいませんでしたね。初音ミクのライブでは、僕は、ほぼ最年長なんですけど、今回は平均年令が、ちょうど僕ぐらいで、僕みたいに、一人者のオジさんが多数派でした。84才で亡くなられた冨田先生と同世代と思われる年配の方々も多かったです。
 早々と予約しましたので、座席は、前から6列目という良席でした。ただ、ミクのライブならば最高のポジションですけど、オーケストラのコンサートだと、ちょっと前過ぎでしたね。
 フルオーケストラ+合唱団+バレエ+初音ミクの機材一式でS席1万円ですから、オタク相手の初音ミクライブSS席9000円が、いかにボッタクリかが分かります。
 
 コンサートは、挨拶とか、何も無くって、追悼公演ではありましたけど、通常のコンサートと同じように、極めて普通に始まりました。

 1番目は、「イーハトーヴ交響曲」です。全部で7楽章ありますけど、各楽章がそれぞれ独立した合唱曲という感じでしたから、交響曲と云うよりも合唱組曲みたいでした。合唱団は、男声10名・女声10名と、児童合唱団が30名ほどでしょうか。それから、ソリストとして「初音ミク」ですね。前回公演や紹介番組の動画がYouTubeに幾つかあります。


 初音ミクは、ステージ中央の上段に設置されたディラッドスクリーンに、裏からではなくって、前から投影されていました。後ろにプロジャクターを設置するスペースがなかったからでしょうか。ですから、スクリーンを透過した映像が後ろの壁にも映っちゃっていました。影が2つ横に並んでいましたから、2台のレーザープロジェクターを左右に並べて使っていたということになります。
 会場の皆さんは、初音ミクについてどう思っていたでしょうか。初音ミクが目当てで来た人は、1割もいないと思います。で、3割は初音ミクって何?って感じで、3割がこれが初音ミクなんだ?って感じで、残りの3割が何で初音ミクなの?ってところだと思います。

 楽曲は、宮沢賢治の世界を表現した、分かり易い作品だったと思います。ただ、初音ミクでなければ歌えないものではありませんから、ソプラノの歌手さんが歌っても全然問題ないと思います。この先、初音ミク抜きで演奏されることもあるでしょうね。YouTubeに、「機械に頼ることなく人間を信じるべき」みたいなコメントがありましたけど、今さら初音ミクを使ったからと云ってチケットが売れるわけでもないし、人間がやったほうがお金も時間もかからないわけで、こんな無駄なことを単なる好奇心だけでやってしまうのが、冨田勲だと思います。

 2番目は、「エイドリアン・シャーウッド」氏による、組曲「惑星」のライブ・ダブ・ミックスでした。サポートでパーカションのお兄さんが1人とストリングスの人たちが4人出てきました。
 この方は、ダブ・ミックスの分野では、巨匠とか、鬼才とか呼ばれているみたいですけど、僕はこの分野に関しては全く知識がありませんので、どのくらい凄い人か全然分かりませんです。
 曲が始まる前に、通常のクラシックコンサートでは有り得ないほどの音量であること、気分が不快になった場合は途中退席を認めること、などの場内アナウンスがあって会場の笑いを誘っていました。
 ダブ・ミックスというのは、楽曲を加工して別物に作り変えることだそうです。ところどころに、知っているメロディーが出てきますので、これは火星だな、これは木星だなってかろうじて分かりました。ホルストの惑星でなくって、冨田先生の惑星のダブ・ミックスでした。(って当たり前ですね)
 まあ、音量はともかく、低音の響きが凄くって、スピーカーのウーファーが破れてしまうんじゃないかというくらいに強調していました。これじゃあ、お年寄りだったら心臓発作を起こしかねないと思います。ネットで調べてみましたら、単独ライブでは、サブウーファーを特設して行うこともあるみたいです。

 20分の休憩をはさんで、3番目が「ドクター。コッペリウス」でした。スペース・バレエ・シンフォニーだそうです。先生が逝去されたのは、今年の5月5日でしたが、倒れる1時間前まで、この作品についての打ち合わせをしていたそうです。
 全7楽章構成ですが、第1楽章と第2楽章が欠番になっているのが悲しみを誘います。ただ、いきなり第3楽章から始めるのも不自然だったみたいで、新たに第0楽章を付け加えて完成としたようです。

 バレエのダンサーさん(っていうのかなあ)は、女性が1人と男性が2人、あと女の子が8人出てきました。普通のバレエ公演というのは、楽団はオーケストラボックスに入っていて、ステージを空けるものだと思うのですが、今回は、オーケストラの前や後ろで踊っていて、バレエ公演と云うよりは、オーケストラに合わせて踊るコンテンポラリー・ダンスみたいでした。僕は、この分野も全く知識がありませんが、ダンサーさんの「風間無限」氏はクラシックバレエ界で有名な方のようです。ただ、バレエ組曲と云うのは、歌も台詞もありませんから、あらすじをちゃんと理解していないと、何が何だかさっぱり分からないということを学びましたです。

 初音ミクのスクリーンは、オーケストラ後ろの上段に設置されていました。スクリーンは透過型では無いようにも見えましたが、投影は後ろからしていたようです。ただ、あまりにも映像が不鮮明でした。もうボケボケです。座っている位置のせいかもしれませんけど、こんなのは初めてです。あと、人間とCGのからみもイマイチでしたね。1st PLACEの「IA」のライブの方が何倍も良く出来ています。
 ステージをオーケストラが占領していたのが原因かもしれません。まあ、1回の公演で、合唱組曲とバレエ交響曲の両方をやろうって云うんですから、致し方ないことですが。
 客観的に申し上げて、作品の完成度としては、「イーハトーヴ交響曲」の方が上だと思いました。

 最後に、アンコールがなかったことが、寂しかったですね。オーケストラだけの演奏で良いんで、みんなが知っている冨田先生の楽曲を1つでも2つでも最後に演奏して欲しかったです。

 来年の4月に再演決定だそうです。それはそれで嬉しいのですが、できれば、もっと皆が知っている、これぞ冨田勲と云う作品を演奏する、正式な(?)追悼公演もやって欲しいです。


 冨田先生がシンセサイザーを手掛けたとき、周囲は全然理解できなかったと云います。冨田勲は、シンセなんかに手を出さなくても、売れっ子の作曲家としてやっていけたはずでした。しかし、その後シンセサイザーは驚異的に進歩して、現在があります。
 冨田先生が初音ミクに関わったときも嘲笑するコメントが多く書かれました。先生が初音ミクに関わったことを、音楽人生の汚点とする意見もあります。でも、先生が初音ミクに関わるのは、必然のことだったと思います。シンセサイザーで音楽を再現することができれば、次は、歌うことを再現しようと考えることは、当然の思考だからです。
 冨田先生は、すでに音楽界の大御所であったのにもかかわらず、初音ミクを面白いと云ってくれました。ライブにも出掛けていきました。これを待っていたとも言ってくれました。ただ、初音ミクが発売されたとき、先生はすでに75才を越えていました。

 初音ミクが先生の期待に応えるには、あまりにも時間が無さ過ぎました。

2016年11月6日日曜日

「桑原薬師堂」と「かんなみ仏の里美術館」 ~賛美歌と薬草茶と~

 静岡県に函南町という町がある。「はこなん」ではなく「かんなみ」と読む。どこにもあるような平凡な町というと、住んでいる人に怒られそうだが、ちなみに、昨年のふるさと納税額は、2万円という断トツの最下位だったそうである。

 函南町には、過ぎたるものが2つある。1つは酪農の丹那ブランド。そしてもう1つが薬師堂の仏像群だ。

 その薬師堂は、桑原という地区にある。桑原と云っても桑畑があるわけではない。桑原の語源は、「河原」からきているそうだから、箱根山麓の原生林から流れてくる川に沿った谷間についた地名、ということになる。今は、何も無い長閑な田舎の村であるが、近くにある高源寺は、源頼朝が平家打倒の旗揚げをしたときの「軍勢ぞろいの地」だったそうである。馬揃い、つまり軍勢の集合場所に指定されるということは、そこが交通の要所であった証拠だから、900年前は、この谷筋が箱根を越えて関東へ抜けるための重要な街道だったということになる。

 薬師堂の仏像群は、そんな平安時代から鎌倉時代にかけて、此の地に建立されたいくつかの寺社で祀られていたらしい。立派な仏像というのは、有力なパトロンがいなければ造ることができないが、恐らく北条氏あたりが造らせたのだろうと推察されている。
 寺は、とうの昔に無くなってしまったが、仏像は地区の人たちによって、900年間、この地で守られてきた。900年もの間、守り続けるというのは簡単なことではないが、朽ち果てさせるにはあまりにも惜しいと思わせ続けるだけのオーラが、この仏像にはあったということである。

 仏像は、20躯以上あるが、主要なものは、慶派仏師「實慶」作の阿弥陀三尊像、平安期の「薬師如来像」、あとは、同じく平安期の「地蔵・観音菩薩」と「毘沙門天」、それから、十二神将の内の「丑神将」あたりであろうか。

 薬師堂は、この地に伝わる仏像を守るため、桑原にある長源寺というお寺の裏山の中腹に、明治時代に建てられたのが最初らしい。寺の境内にあるが、お堂の所有者は桑原区ということだった。と云っても、実際の管理は、お寺でやっていて、長源寺の奥さんは、この地に来て40年の間、このお堂と仏像を管理してきたそうである。

 お堂は、毎週土日に開けられていて、最初に訪ねた時も、奥さんが番をしていた。拝観料をとられなかったので、お賽銭を入れた覚えがある。怪しげな薬草茶なるものをすすめられて飲まされた。
 薬師如来は、秘仏ということになっていたので、厨子の扉は閉められていた。ほかに観音菩薩と地蔵菩薩の扉も閉められていたように思う。静かに時が流れていて、別世界のようなところだった。
 僕がいた30分ばかりの間にも、2,3人の拝観者がやってきていた。仏像ブームの頃であったし、パワースポットだと云う噂を聞いて、遠くから訪ねてくる人も増えてきたという話だった。

 薬師堂の仏像群の中では、鎌倉期の阿弥陀如来が有名だ。阿弥陀如来は、北条時政が、石橋山の合戦で討ち死にした嫡男、北条宗時の墳墓堂の本尊として造らせたと伝わっている。だが、地区の人たちは、薬師如来のほうをメインに祀ってきた。だから、お堂も「阿弥陀堂」ではなくって「薬師堂」と呼ばれてきた。村の人たちにとっては、死後に極楽浄土へ誘ってくれる阿弥陀さんより、現世御利益のある薬師さんのほうが大切だったのだろう。阿弥陀さんは、お堂では客仏的な扱いだった。

 それから、しばらくして、美術館建設の話が伝わってきた。文化財調査によって、阿弥陀如来の胎内から「實慶」の銘が発見され、仏像は重要文化財に指定されていた。2008年、桑原区は、仏像の管理を町に委譲する。仏像の所有者となった函南町は、仏像群を展示する美術館を建設することを決定したのだ。4億円近い建設費が、箱物行政だとオンブズマンから批判されたらしいが、3年の歳月を掛け2012年4月に「かんなみ仏の里美術館」は開館する。

 その前年の12月、仏像の搬出が行われる前にと、薬師堂を再訪した。薬師堂に入ると、驚いたことに、全ての厨子の扉が開かれていた。「もう最後ですから。全部開けてしまいました。」と奥さんは言った。しかも、お堂の内陣に入って良いと言う。「写真も好きなだけ撮って良いですよ。もう最後ですから。」奥さんは、最後ですからを繰り返した。



 お堂に置かれた電気ごたつに足を入れ、薬草茶を飲みながら、奥さんは、薬師如来にまつわる話を聞かせてくれた。雲水が訪ねてきて、ここの薬師如来は広く世に知られる仏になると預言をしたこと、東日本大震災が起きた日の朝、仏像の様子がいつもと違っていたこと。

 奥さんは、立ち上がると、よかったら歌を聴いて欲しいといって、お堂の隅にあるオルガンを弾きながら賛美歌を歌い出した。何で賛美歌なのか分からないが、お堂で賛美歌を聴くというのは、かなりのレアな体験なので、奥さんの賛美歌は、仏像の研究者や仏像マニアの間では有名だった。

 新しくできた美術館は公設だ。公共団体は、宗教活動をしてはいけないから、仏像は、信仰の対象ではなく、彫刻として扱われなければならない。もう、お賽銭も献花も灯明も許されないのだ。仏像たちは、美術館に移される前に、魂抜きをされる。抜かれた阿弥陀如来の魂は、西の彼方の極楽浄土へ、薬師如来の魂は、東の彼方の浄瑠璃浄土へ帰っていくのだという。
 
 春になって、開館した美術館を訪ねた。照明も工夫されていて、小さいながらも、居心地の良い美術館だった。仏像たちは、それぞれガラスケースに入れられていた。特に展示室の中央に置かれた薬師如来は、4面ガラス張りになっていて、背中まで見ることができた。もっとも、12世紀の作と云われている薬師如来は、後ろから見られることを想定して造られてないから、後頭部の螺髪などかなりいい加減な彫り方だ。こんなことになって、薬師さんも恥ずかしいのではないかと思う。
 ボランティアガイドのおばさんに、長源寺の奥さんのことを訪ねたが、ガイドさんは奥さんのことを知らなかった。知らないということは、奥さんは美術館とは関わっていないと云うことだろうか。美術館のパンフレットには、仏像は桑原区の人々が守り伝えてきたと書かれているが、この40年間に限って言えば、守っていたのは、長源寺の奥さんのはずだ。「これで最後ですから。」という奥さんの言葉の本当の意味がようやく分かった。

 「仏の里美術館」は、この秋、入館者数10万人を達成したそうである。他に何もない田舎の美術館としては、なかなかの健闘ぶりである。
 それから、ふるさと納税の話だが、今年の函南町は、「さとふる」でもランキング上位に食い込むなど、こちらも、なかなかの健闘ぶりである。昨年度比、数千倍らしい。

                
 仏像群については、次回ということで。まあ、美術館のホームページを見れば良いだけのことであるが。

2016年11月3日木曜日

スキマスイッチ「奏」feat. 松浦亜弥&初音ミク&雨宮天

 前回、スキマスイッチさんの「全力少年」を取り上げさせていただきましたが、引き続き、「奏」についても投稿させていただきます。気がつきませんでしたけど、300本目の記事だったんですね。松浦亜弥さんと初音ミクとのコラボ記事ですので、ちょうど良いかもです。

 「奏」は、スキマスイッチの2曲目のシングル曲です。発売当初は、ほとんど知られることもなかったようですが、スキマスイッチがメジャーになるにつれて、この曲も広く知られるようになり、今では、スキマスイッチの代表曲になりました。
 この曲の最大の特徴は、たくさんのアーティストにカバーされていると云うことです。ウイキペディアで調べると、この曲をカバーしたたくさんのアーティストがでてきますが、初音ミクと松浦亜弥さんは出てきません。CD化されたわけではありませんからね。
 
 では、御本家のオフィシャル動画から貼りつけさせていただきます。視聴回数4200万回ですって、さすがですね。


  君が 大人になああああってく その季節が
  悲しい歌で溢れないように
  最後に何かきみいいいいに伝えたくて
  「さよなら」に代わる言葉を僕は探してた

 だそうです。こんな歌詞を考え出したのは、お二人のうちのどちらの方でしょうか。

 2つめは、「雨宮天(そら)」さんのテイクです。雨宮さんは、今年23才になる声優さんです。2014年に「奏」がアニメ「一週間フレンズ」のエンディングテーマに使われた際、主人公「藤宮香織」の声を担当した雨宮さんが、自身でカバーしました。「奏」は2004年リリースの楽曲なんですが、このアニメにより、若い世代にも知られるようになりました。


 こちらも、視聴回数250万回越え、関連動画もいれると500万回は越えていると思います。いかにも声優さんのカバーって云う感じですけど、並みの歌手さんよりも良いと思いますよ。しかも可愛いです。声優さん=大山のぶ代、と云う昭和のイメージから脱却しなければいけませんね。

 3つめは、松浦亜弥さんです。いつのまにかの視聴回数24万回越えです。1年半で20万回ほど再生されたことになります。ファイル名が「奏」だけという正体不明の動画ですから、松浦亜弥さんが歌っているってこと、分かってない人もいるかもしれません。


 他にも「島谷ひとみ」さんのカバーなどもあって、YouTubeにアップされているだけでもかなりの数になります。まあ、それぞれに良さもイマイチなところもあるのですけど、松浦亜弥さんのカバーの魅力ってどこにあるんでしょうか。
                                                             
 感情を込めているというならば、島谷さんのほうがこもっています。歌に気合いも入ってます。でも、松浦亜弥さんの、Cメロから大サビへの盛り上げかたは、さすがだと思います。最後を盛り上げて終わりたいから、初めは押さえぎみでってことなのでしょうか。決め球のストレートを速く見せるためにスローカーブから入るってやつですよね。

 でも、そんなことは、素人でも考えつくことです。何で、松浦亜弥さんの歌のときばかり感じられるんでしょうか。

 他のアーティストさんが盛り上げきっていないように感じるのは、最初から気合いが入っちゃているからじゃないかと思います。感情込めまくりと云うのは、聴いている側にとっては、感動を押し売りされているようなもので、合う人には良いんだろうけど、こっちが引いちゃう感じになるときがあります。聴き手の心に入り込むためには、やっぱりスローカーブから入るほうが良いんじゃないかと思うんです。
 力を抜くというのと、手を抜くというのは違います。70%の力でもしっかり歌う、あるいは、歌っているように思わせる、というのは、それを支えるだけの余裕、潜在的な歌唱力が必要となるわけで、そう簡単にできることではないと思います。松浦亜弥さんだって、マニアックライブⅤ以降のテイクでは、頑張らないと歌いきれないレベルになってしまったように思います。スローカーブが使えない。そこが、悪くないんだけど、何となく物足りない感じになっている理由かもしれません。

 4つめは、初音ミクです。こちらは、究極の一本調子。最後までスローカーブだけで勝負です。人間だったら、ここまで感情を抑えきって歌うのって、逆に怖くって出来ないと思いますよ。


 初音ミクの歌が「一週間フレンズ」のスライドに合っていますよね。僕は、このアニメは、あらすじ程度しか知らないんですけど、それでも感動してしまいました。あらすじ読みながら初音ミクの歌を聴いていると、泣きそうになるんですよ。やはり、アニソンにはボカロですね。年明けには、「川口春奈」さんの主演で実写映画版が公開されるようです。
 でも、「君が大人になああああってく」のところですよね。ここが上手く歌えてません。人間たちは、高音を出したときにファルセットになって軽く抜いたような感じに歌っているんですが、コンピューターだと、そのあたりの微妙な調教が難しいようです。もしかしたら、コンピューターのほうが、馬鹿正直に歌ってしまっているのかもしれません。人間は、そこの部分を誤魔化しているのにもかかわらず、逆に違和感なく聞こえてしまっているのかもしれません。雨宮さんの場合は、ファルセットというよりは、悲鳴り声に近いんですけど、わあっ可愛いって思わされちゃいます。

 初音ミクの可愛いテイクというと、こちらになります。


 典型的なボカロ歌唱ですが、声を裏返したりと、実験的な試みも多くって、そりゃあ生身の女の子の歌には敵いませんけど、かなりの努力賞だと思います。「君が大人になああっっってく」のところは・・・良しとさせてください。

 で、初音ミクでお終いというのも何ですので、最後にもう1つ。日本で最も過小(歌唱?)評価されているアーティスト「玉置浩二」氏とのコラボテイクです。


力の入れ具合は、60%ってとこでしょうか。それでこのクドさですから、恐れ入りますw

2016年11月1日火曜日

「酒飲み」考

 世の中に、お酒の好きな人は多いでしょうが、「酒飲み」とまで呼ばれる人は、多くは無いと思います。
 そう云う僕は、酒飲みでも酒好きでもありません。酒を飲んで記憶をなくすという話は、からっきし酒が飲めない僕には無縁のことです。僕は記憶をなくす前に、気分が悪くなってしまいます。乾杯のビールをやっと半分飲み終わった時に、また、満杯につがれて、振り出しに戻ってしまうのがツラいという人間なんです。
 結局、自分が酒を飲めないので、相手に酒をつぐことが苦手です。タイミングというか頃合いが分かりません。空になっているグラスを見ても、ついで良いものか、余計なことなのか、自分で勝手に悩んじゃうんです。で、面倒なので、飲み会の時は、つぎに回ることなどなく、席も動かず1人で座って料理を完食しています。

 僕のこのようなありさまは、母方の血筋を引き継いだためです。で、僕の父方の血筋というのが、これまた、どうしようもない酒飲みなんです。

 以前にも書かせていただきましたが、僕は、とある半島の、とある漁村で生まれました。僕の祖父は漁師でした。僕は、これでも漁師の孫なんですよ。

 幼い頃、僕の家での手伝いは、祖父さんの晩酌用の焼酎を買いに行くことでした。夕方になると、外で遊んでいた僕は、家に呼ばれて、空の小瓶と白銅貨を渡されます。それを持って、近所の酒屋へ行きます。すると、奥からオヤジさんが出てきて、小瓶に漏斗をさし、樽の栓を抜き、焼酎を注いでくれました。その間、僕は、ずっと黙ったままでしたが、毎日のことでしたから、別に問題はありません。それが、僕の、毎日の手伝いでした。

 僕が生まれるずっと前、焼酎を買いに行くのは、伯母の役目だったそうです。伯母は父(つまり僕の祖父)が毎晩酔っ払うのがとても嫌で、酒屋からの帰り道、こっそり瓶の蓋を開けて、ドブ川に少ーーし焼酎を捨てていたそうです。捨てると云っても気づかれない程度ですから微々たるものですけど、その子ども心、痛いほどよく分かります。

 祖父の家を出てからは、父親の晩酌用のビールを買いに行かされました。買い物かごを持って、大瓶3本を、近所の酒屋まで買いに行きました。僕は、親子二代の酒飲みに、毎日酒を買いに行かされた哀れな少年でした。

 なぜ、毎日酒を買いに行くのか不思議に思う方もいるかもしれません。でも、それが酒飲みの家なんです。酒飲みという奴らは、あればあるだけ飲んでしまいますから、酒の買い置きができないんです。で、毎日毎日、その日の分を買ってきて、飲み終わったらそれでお終い、というルールを作るわけです。
 よく、「ビールが好きだから、冷蔵庫にビールを切らしたことがない」なんて云いますけど、酒飲みの家では有り得ない話です。
 つまり「酒飲みの家に酒は無い」ということです。

 祖父さんは、何を思ったか、時々断酒をしました。子どもの僕には、分かりませんでしたけど、きっと酒で失敗をして、深く反省をしたんだと思います。一切飲まなくなって、牛乳屋に毎朝牛乳を配達させたりして、人が変わったようになりました。でも、何週間かすると結局飲むんですけどね。
 つまり「酒飲みは、時々、極端な断酒をする」ということです。

 祖父さんも、父も、毎晩のように酒を飲みました。でも、ほとんど、外で飲んだことがありません。父は、サラリーマンでしたから、会社の付き合いがありましたが、漁師の祖父さんにいたっては、外で飲んできたという記憶が全くありません。家で飲めば、家族から嫌がられるわけで、そのうち喧嘩が始まるんですけど、それでも毎日、家飲みをしていました。理由は簡単です。外で飲むと高くつくからです。酒飲みは、酒場の雰囲気なんて関係ありません。酒が好きなんですから、同じお金でたくさん飲める、家飲みをすることになります。
 つまり「酒飲みは、外では飲まない」ということです。

 よく、息子が大人になったら、一緒に酒を飲むのが楽しみだ、なんていう、ほのぼのとした話がありますけど、僕は、一度も酒を勧められたことがありません。大人になってからも「一緒に飲むか」なんて言われたことがありません。理由は、お分かりですね。人にやったら、自分の飲み分が減るからです。酒はつぎつつがれつ、なんて云いますけど、酒飲みには、有り得ない話です。酒飲みは、手酌ですし、基本、相手につぐこともしません。
 つまり「酒飲みは、人に酒を勧めない」ということです。

 それから、不思議なことですけど、父は、祖父と同居している時期は、家では酒を飲みませんでした。親子で酒をつぎあっている場面など見たことがありません。父が酒飲みとしての本領を発揮するのは、別居してからです。
 どうやら「酒飲みは、一家に一人しか存在できない」ようです。

 子どもの頃は、当然のことながら、酔っ払いが嫌いでした。臭いし、しつこいし、何より、目が据わってきて、人が変わってしまうのを見せられるのがイヤでした。
 そんな僕も、今では、たまにお酒を飲もうかなって思うときがあります。スーパーマーケットのビール売り場で、期間限定とか云う美味しそうな缶をみると、ふらふらっと買ってくることがあります。で、冷蔵庫に冷やしておくんですけど、結局、何週間も入れっぱなしになって、いつの間にか、無くなっています。
 それから、酒を飲んで騒いでいる人を見ると、羨ましく思えるときがあります。たわいもない話で盛り上がって、楽しそうです。まあ、そのレベルで止まってくれれば問題ないんですけど、酔っ払いと云うのは、そのうち、くだを巻き始めますからね。でも、酔っ払うって、どんな心持ちなんでしょうか。

 祖父さんが67才の夏のことです。やたらと疲れを訴えるようになり、やがて寝付いてしまいました。村のお医者さんに往診に来てもらいましたが、病状は悪くなる一方でした。お医者さんは、「もう、息子さんも立派になられてますから」なんて言い出す始末でした。
 でも、さすがに、このままほっとくわけにはいかない、ということになって、救急車を頼んで、峠を越えた町の病院へ連れて行きました。病室に入れられ、点滴につながれた祖父さんは、さかんに喉の渇きを訴えました。子どもだった僕らは、病室から出されましたが、祖父さんの水を欲しがる声は、廊下にまで聞こえてきました。ようやく静かになったと思ったら、ほどなくして祖父さんは死んでしまいました。病院に着いてからわずか数時間のできごとでした。病名は、おそらく十二指腸潰瘍だろうとのことでした。

 祖父さんが、死ぬ間際に飲みたがっていたのは水でした。ですから、今でも仏壇には、酒ではなく、水が供えられています。