函南町には、過ぎたるものが2つある。1つは酪農の丹那ブランド。そしてもう1つが薬師堂の仏像群だ。
その薬師堂は、桑原という地区にある。桑原と云っても桑畑があるわけではない。桑原の語源は、「河原」からきているそうだから、箱根山麓の原生林から流れてくる川に沿った谷間についた地名、ということになる。今は、何も無い長閑な田舎の村であるが、近くにある高源寺は、源頼朝が平家打倒の旗揚げをしたときの「軍勢ぞろいの地」だったそうである。馬揃い、つまり軍勢の集合場所に指定されるということは、そこが交通の要所であった証拠だから、900年前は、この谷筋が箱根を越えて関東へ抜けるための重要な街道だったということになる。
薬師堂の仏像群は、そんな平安時代から鎌倉時代にかけて、此の地に建立されたいくつかの寺社で祀られていたらしい。立派な仏像というのは、有力なパトロンがいなければ造ることができないが、恐らく北条氏あたりが造らせたのだろうと推察されている。
寺は、とうの昔に無くなってしまったが、仏像は地区の人たちによって、900年間、この地で守られてきた。900年もの間、守り続けるというのは簡単なことではないが、朽ち果てさせるにはあまりにも惜しいと思わせ続けるだけのオーラが、この仏像にはあったということである。
仏像は、20躯以上あるが、主要なものは、慶派仏師「實慶」作の阿弥陀三尊像、平安期の「薬師如来像」、あとは、同じく平安期の「地蔵・観音菩薩」と「毘沙門天」、それから、十二神将の内の「丑神将」あたりであろうか。
薬師堂は、この地に伝わる仏像を守るため、桑原にある長源寺というお寺の裏山の中腹に、明治時代に建てられたのが最初らしい。寺の境内にあるが、お堂の所有者は桑原区ということだった。と云っても、実際の管理は、お寺でやっていて、長源寺の奥さんは、この地に来て40年の間、このお堂と仏像を管理してきたそうである。
お堂は、毎週土日に開けられていて、最初に訪ねた時も、奥さんが番をしていた。拝観料をとられなかったので、お賽銭を入れた覚えがある。怪しげな薬草茶なるものをすすめられて飲まされた。
薬師如来は、秘仏ということになっていたので、厨子の扉は閉められていた。ほかに観音菩薩と地蔵菩薩の扉も閉められていたように思う。静かに時が流れていて、別世界のようなところだった。
僕がいた30分ばかりの間にも、2,3人の拝観者がやってきていた。仏像ブームの頃であったし、パワースポットだと云う噂を聞いて、遠くから訪ねてくる人も増えてきたという話だった。
薬師堂の仏像群の中では、鎌倉期の阿弥陀如来が有名だ。阿弥陀如来は、北条時政が、石橋山の合戦で討ち死にした嫡男、北条宗時の墳墓堂の本尊として造らせたと伝わっている。だが、地区の人たちは、薬師如来のほうをメインに祀ってきた。だから、お堂も「阿弥陀堂」ではなくって「薬師堂」と呼ばれてきた。村の人たちにとっては、死後に極楽浄土へ誘ってくれる阿弥陀さんより、現世御利益のある薬師さんのほうが大切だったのだろう。阿弥陀さんは、お堂では客仏的な扱いだった。
それから、しばらくして、美術館建設の話が伝わってきた。文化財調査によって、阿弥陀如来の胎内から「實慶」の銘が発見され、仏像は重要文化財に指定されていた。2008年、桑原区は、仏像の管理を町に委譲する。仏像の所有者となった函南町は、仏像群を展示する美術館を建設することを決定したのだ。4億円近い建設費が、箱物行政だとオンブズマンから批判されたらしいが、3年の歳月を掛け2012年4月に「かんなみ仏の里美術館」は開館する。
その前年の12月、仏像の搬出が行われる前にと、薬師堂を再訪した。薬師堂に入ると、驚いたことに、全ての厨子の扉が開かれていた。「もう最後ですから。全部開けてしまいました。」と奥さんは言った。しかも、お堂の内陣に入って良いと言う。「写真も好きなだけ撮って良いですよ。もう最後ですから。」奥さんは、最後ですからを繰り返した。
お堂に置かれた電気ごたつに足を入れ、薬草茶を飲みながら、奥さんは、薬師如来にまつわる話を聞かせてくれた。雲水が訪ねてきて、ここの薬師如来は広く世に知られる仏になると預言をしたこと、東日本大震災が起きた日の朝、仏像の様子がいつもと違っていたこと。
奥さんは、立ち上がると、よかったら歌を聴いて欲しいといって、お堂の隅にあるオルガンを弾きながら賛美歌を歌い出した。何で賛美歌なのか分からないが、お堂で賛美歌を聴くというのは、かなりのレアな体験なので、奥さんの賛美歌は、仏像の研究者や仏像マニアの間では有名だった。
新しくできた美術館は公設だ。公共団体は、宗教活動をしてはいけないから、仏像は、信仰の対象ではなく、彫刻として扱われなければならない。もう、お賽銭も献花も灯明も許されないのだ。仏像たちは、美術館に移される前に、魂抜きをされる。抜かれた阿弥陀如来の魂は、西の彼方の極楽浄土へ、薬師如来の魂は、東の彼方の浄瑠璃浄土へ帰っていくのだという。
春になって、開館した美術館を訪ねた。照明も工夫されていて、小さいながらも、居心地の良い美術館だった。仏像たちは、それぞれガラスケースに入れられていた。特に展示室の中央に置かれた薬師如来は、4面ガラス張りになっていて、背中まで見ることができた。もっとも、12世紀の作と云われている薬師如来は、後ろから見られることを想定して造られてないから、後頭部の螺髪などかなりいい加減な彫り方だ。こんなことになって、薬師さんも恥ずかしいのではないかと思う。
ボランティアガイドのおばさんに、長源寺の奥さんのことを訪ねたが、ガイドさんは奥さんのことを知らなかった。知らないということは、奥さんは美術館とは関わっていないと云うことだろうか。美術館のパンフレットには、仏像は桑原区の人々が守り伝えてきたと書かれているが、この40年間に限って言えば、守っていたのは、長源寺の奥さんのはずだ。「これで最後ですから。」という奥さんの言葉の本当の意味がようやく分かった。
「仏の里美術館」は、この秋、入館者数10万人を達成したそうである。他に何もない田舎の美術館としては、なかなかの健闘ぶりである。
それから、ふるさと納税の話だが、今年の函南町は、「さとふる」でもランキング上位に食い込むなど、こちらも、なかなかの健闘ぶりである。昨年度比、数千倍らしい。
仏像群については、次回ということで。まあ、美術館のホームページを見れば良いだけのことであるが。
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