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2024年9月16日月曜日

炭焼きレストラン「さわやか」に爽やかな気分で来店するために

3連休を迎え、静岡県限定レストラン「さわやか」の待ち時間が、とんでもないことになっています。従業員の働き方改革(?)で、木曜日を定休日にし営業時間を22時までに短縮したことと、10月から再値上げが予告されていることが、混雑に拍車をかけている要因のようです。

で、恐いモノ見たさもあって、この時期に、敢えて「さわやか」に行ってきました。午後1時に整理券を取りに行って、320分待ちであります。ご案内予想時刻18時16分ですから、お夕飯にちょうど良いですね。待ち時間は、ホームページを見ればリアルタイムで分かりますから、食べたい時刻から逆算して整理券を取りに行ったわけで、全ては計画通り。午後は、家事などをして過ごしました。

よく「3時間待ちとか5時間待ちとかして食べる価値ある?」なんてコメントを見ますけど、ハッキリ言って「無い」です。生焼けのハンバーグを食べるために半日費やすなんて悲し過ぎます。「さわやか」で並ばずに食べる方法などを紹介しているサイトもありますけど、そもそも320分を待ち時間と考えることが間違っていて、これは、320分後に予約が取れたと解釈すべきことであります。だって、来週の土曜日にイタリアンレストランの予約を取ったときに、96時間待ちなんて云いませんでしょ。

大事なことは、この320分間をどう過ごすかってことです。な~んにも無くってぼ~としてたら、本当の待ち時間になっちゃいます。地元民なら、一度帰って出直しますけど、観光で来ているのなら、この待ち時間をどう過ごすのか、計画をしっかり立てて来店することを強くお勧めします。

開店が11時で整理券の発券が10時からでしょうか。たまに、店頭で8時頃から整理券をもらうための行列を見ますけど、あれってツラいですよね。並ぶのがスキって云うのなら良いんですけど、発券までの2時間って只の待ち時間じゃないですか。で、1番の整理券をもらったところで、入店は3時間後の11時ですからね。だったら、開店の11時に行って、3時間待ちの整理券もらった方が、時間を自由に使えるぶん、良いんじゃないかと思います。

御殿場店はアウトレットがありますから、整理券をゲットしてから、アウトレットで1日遊んでいれば問題ありませんが、他店では、待ち時間の過ごし方の計画を立てておくのがベストに思います。短い時間でしたらタリーズとかコメダ珈琲でしょうけど、長泉店だったら箱根方面かな。三島スカイウォークとか、巨大アスレチックとかが人気スポットですけど、芦ノ湖まで足を伸ばせばノンビリできるところはたくさんあります。函南店だと、待ち時間1時間なら「かんなみ仏の里美術館」がお勧めです。涼しい展示室で、重要文化財の阿弥陀如来さんが、食事前の高ぶった気持ちを厳かに静めてくれるでしょう。あとは、「函南ゲートウエー」、ここには「めんたいパーク」なんかもありますから、ちょっとした時間を潰すには良いと思います。ただし、美味しそうな「明太子おにぎり」の魅力に負けて食事に差し支えることのないようにしましょう。3時間あれば「韮山」「伊豆長岡」。5時間あれば「三津シーパラダイス」にも行けますけど、ここまでくると、何しに来たのか分からなくなってしまいますね。函南店の待合室には、観光案内マップもあるようですから、待ち時間を予約時間にするためにも活用していただければと思います。

整理券のQRコードから、残り何組待ちか分かりますし、来店案内のメールも来ます。でも、300分待ちとかになると、整理券をもらっていても来店しない奴とかが結構いるので、思いの外、早く呼ばれてしまうことがあるんですよね。こんなときは、整理券に印字されてる「ご案内予想時刻」が大事になります。予想時刻より前であれば、順番が過ぎていたとしても、すぐに案内してもらえます。ただ、予想時刻を過ぎてしまうと、原則キャンセル扱いになりますから、時刻を確認してから予定を立ててくださいね。

連休中の「さわやか」は激混みなのが分かっていますから、地元民は寄りつきません。平日の夕方でしたら、待ち時間0分なんて日も多いですからね。ですから、連休中の駐車場は県外ナンバーの車ばかりです。この日は、北は「八戸」から、西は「長崎」。首都圏の車も多くって、品川ナンバーのフェラーリとかありました。

さて、開店時から閉店までずっと満席状態の「さわやか」店内ですけど、とにかく笑顔で溢れておりました。さわやかのバイトさんは、高給だけど激務と云われてますが、とにかく笑顔の接客です。メニューを置いて水を出してくれると「決まった頃に伺います。」と云って去って行きます。呼び出しボタンはありませんが、頃合いを見てオーダーを取りに来ます。料理をサーブされた後は、焼き加減を聞きに来て、水をついでくれます。満席なのになんでこんなことができるのかと云うと、クルーが多いんですよね。ざっと見ても、フロアーで5・6人、キッチンに4・5人はいます。人的に余裕があって、店員さんがテンパってないからこそできるサービスであります。だから、「さわやか」の店舗は集客力は凄いけど、人件費がかかるので、利益率はそれほどでもないと云われています。

大好きな「さわやか」の季節のパフェも、メロンとかシャインマスカットとか1000円超えのものが多くなり、来月の再値上げでは、看板メニューのげんこつハンバーグも1500円を超えることになります。接客のクオリティを維持するために、働く環境を整え、来店者数の減った分は客単価を上げて対応するという方針でしょうか。お客さんを笑顔にするには、まず従業員が笑顔であること。そして、その笑顔には、コストがかかるってことなんでしょう。


過去の記事です。古い情報もありますが、参考までに。         

さわやか」にひたすらウンチクを傾けてみた

GWの御殿場店が400分待ち!

パフェ歳時記

「さわやか」語る。その6

          


2024年3月3日日曜日

JR東海 新CMが「静岡」愛に溢れているらしい。

JR東海「新幹線」の新CMが公開されました。JR東海のCMは、素敵なものが多いですよね。まあ、新幹線は、走っているだけで格好いいからCMも作りやすいのかもしれません。過去に何度も貼り付けさせていただいてますが、新幹線と云えば、やはりこれでしょう。

で、この前まで使われていたのが、「賀来賢人」さん出演のこちら。

格好いいですよね。良いCMであることは間違いありませんが、まさか、この曲が車内チャイムになるとは思いませんでした。

さて、今年もダイヤ改正に合わせて、CMが新しくなりました。キャッチフレーズは、「いこう。待ってる人がいる。」。出演は、大河女優「吉高由里子」さんです。

新CMは静岡駅が舞台。インタビュー記事によると「今回、静岡駅は3月のダイヤ改正で16年ぶりに『ひかり』が増えて、ますます便利にご利用いただけるタイミングにもなっているので・・・」だそうです。

改正と云っても、東海道新幹線のダイヤはガチガチですから、ほとんど変わることがなかったのですが、今回の改正では、静岡県東部の僕らにも嬉しいことがあったんですよ。

今までは下りの始発が6時51分だったんですが、それが6時14分発になりました。凄いでしょ、30分以上早くなりました。で、そのまま「こだま」に乗ってても良いんですけど、静岡駅で「ひかり」に乗り換えると、何と8時13分に新大阪に着けるんですよ。京都には8時前に着くことができます。今までは、この「ひかり」に乗ろうとすると、東海道線の始発鈍行で1時間かけて行くしかなかったんですから、利便性爆上がりです。

CMとしては、前作の方が良かったように思いますけど、どうでしょうか。吉高さんの出番が少ないのは、今回のCMコンセプトが「待っている人」ですから、致し方ないところでしょう。


さて、この吉高さんのシーンは、実際に走行している「のぞみ」の1両を貸し切って撮影したそうです。JR東海が、自社の車両を使って撮影するときも、貸し切りって云うんですね。けど、「のぞみ」に乗って降りてくるのが、静岡駅の改札口ってのも・・・

そして、静岡駅の改札口のシーン。牧瀬里穂さんの時は、旧名古屋駅の終電後に撮影したそうですけど、今回は、自然な光の中で、ということで日中に撮影を行ったそうです。スタッフは、エキストラを入れて総勢80人。つまり、周りにいる乗降客は全てエキストラさんであります。そりゃそうですよね。周りで「あっ、吉高だ!」みたいなリアクションとられたら撮影になりませんから。でも短い時間とはいえ、県庁所在地の駅で、営業中に改札口を止めても大丈夫ってのも複雑な気分です。

静岡市は、全国に20ある政令指定都市の中では人口69万人と最小で、若者を中心に人口流失が止まりません。沿線の自治体では、首都圏の大学に新幹線通学する場合は、補助金を出しているそうです。東京に下宿しちゃったら、もう戻ってきませんからね。

CMでは、他にも静岡愛に溢れたシーンがあるとのことでしたが、画面に映っていた「うなぎパイ」と「治一郎」は浜松じゃなかったかなぁ。折角、静岡を出すのなら、例えば・・・?

まあ、ツッコみどころはいろいろありますけど、「1本早いので帰れそう」とか「乗ったらラインしてね」なんてのは、新幹線を普段使いしている人たちのあるあるですし、「直接会うのは、初めて」なんていう台詞も今を表していて面白かったです。

東海道線の鈍行も昔よりは速くなりましたし、高速バスも安くて便利ですけど、やっぱり新幹線が良いです。行きは高速バスでも、帰りは新幹線でってことも多いですしね。新幹線乗客歴50年以上、0系の頃から新幹線と暮らしてきましたから、JR東海が静岡愛に溢れているように、静岡県人、特に沿線の住人は、新幹線愛に溢れているわけです。

お終いに「UA」のフルコーラスバージョンを。


2023年2月4日土曜日

炭焼きレストラン「さわやか」を語る(その6) ~至極のパフェが遂に900円超え~

炭焼きレストラン「さわやか」が相変わらず繁盛しています。特に、首都圏に近い県東部の店舗の混み具合が半端ないようです。平日は、それほどでもありませんが、成人の日の三連休なんて、どの店舗も5時間待ちとかになっていました。

「さわやか」は、炭焼きレストランと名乗っている通り、肉は炭火で焼いています。随分前になりますけど、開店前のキッチンをちょっとだけ見せてもらう機会がありました。炭火なんて云っても下からガスで煽っているんじゃないの、なんて思ってたんですけど、本当に炭火だけで焼いてました。そういえば、この上に油をこぼして、火事になった店舗がありましたね。

「さわやか」は、土日になると約900人のお客が来店するそうです。週末の「さわやか」は、午前11時の開店から午後11時の閉店まで常に満席ですから、900人という数は1店舗当りが対応できるお客さんのマックスになります。つまり、さわやかは、定員900人の来店予約制ファミレスであります。これを、7名のキッチンスタッフと10人のフロアー係でまわしているそうです。店長さんもアルバイトさんも「さわやか」で働くことに誇りを持っているのが分かります。どんなに混できても決してパニクりません。こういうところはテーマパークのクルーと似ています。

1月4日には、御殿場アウトレット店の整理券が、フリマサイトに出されていたそうで、ネットニュースになっておりました。何時間も並ぶなんて馬鹿馬鹿しいみたいなコメントもありますが、アウトレット店の待ち時間はネタみたいなものですから、皆さん「400分待ち」みたいな整理券をゲットして面白がっているわけです。念のため話しておくと、さわやかは整理券方式ですから、5時間待ちと云っても店の前に並ぶ必要などなく、番号が近づいてメールで呼ばれるまでは何処で何をしていても構わないわけであります。よく、行列必至なんて書き込みがありますけど、さわやかの店舗前に行列なんてありません。2時間待ちなのであきらめましたなんて書き込みもありましたが、できることならば2時間前に整理券を取っておくことをおすすめしますね。

地元民だったら、食事したい時間を逆算して整理券を取りに云って、家に帰って出直しますし、観光客の皆さんは、待ち時間の計画を立てておくことをお勧めします。アウトレットならばいくらでも時間はつぶせますし、チョット足を伸ばして箱根方面で遊ぶこともできます。さわやかの待合室には、周辺の観光施設のパンフレットなども置いてあります。駐車場には、ちゃっかりとタリーズの看板も出ています。こう云うのを経済波及効果というのでしょう。コメダ珈琲も近くにありますが、コメダは食事に差し支えますのでやめておきましょう。

そんな「さわやか」も3月からは、いよいよ値上げをするそうです。全品10%程度とのことですが、このご時世では致し方ありません。

さて、さわやかは、年5回、季節毎にパフェメニューを変えるですが、冬の「三ヶ日みかんパフェ」が終了する前に行ってきました。僕は、さわやかで一番のメニューは、あの生焼けハンバーグではなく、パフェだと信じております。ネットでも「この程度のハンバーグならば他でも食べられる」なんて書き込みがありますけど、確かにそうです。けど、パフェは特別です。税込み800円未満で、このクオリティーのパフェを出してくる飲食店を僕は知りません。でも、注文する人、全然いないんですよね。僕が行った時間帯で三ヶ日みかんパフェを食べていたのは、僕だけだったみたいです。勿体ない話です。

ファミレスのパフェといっても、缶詰の蜜柑なんかじゃなくって、生の蜜柑を丸ごと一個使ったパフェですから侮れません。三ヶ日みかんと云っても、ピンからキリまでありますが、さわやかの蜜柑は、今シーズン食べた蜜柑の中で一番美味しかったです。まあ、生クリームが付いていましたけど。

「季節のフルーツパフェ」は、今は苺に変わっております。今年も静岡県産完熟大粒「紅ほっぺ」7粒使用の苺パフェです。昨年は、確か丸ごと使っていたはずですが、今年のパフェは、スライスしてあるようです。これで、税込み935円ですから、食べるしかありません。

って、ここまで書いてきて思ったんですけど、昨シーズンの苺パフェは、800円以下だったような・・・。3月を待たずに、デザートメニューは先行値上げってことなのかなぁ。まさか、ここからさらに10%アップってことは無いですよね・・・。

まあ、苺のパフェは、他のファミレスでも美味しそうなのがありますから、無理に注文しなくてもという方には、「静岡抹茶プリン」をお勧めいたします。抹茶スイーツは地味な存在でありますが、クオリティーは「京都辻利」レベルと云っても過言ではありません。レギュラーメニューにして頂きたいです。苺チーズケーキと抹茶プリンを両方注文しても900円以下ですから、これは悩みます。

・・・決めました、次回のさわやかでは、苺チーズケーキのお皿に抹茶プリンものせて写真を撮りましょう。

2022年11月13日日曜日

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の舞台を巡る その9 ~函南町「仁田忠常 墓」~

伊豆の国市「北条邸跡」の背にある守山の展望台から、田方平野を眺めてみる。

足元を流れる狩野川の対岸にあるのが、江間氏の館跡。領主である「江間次郎」は、頼朝の旗挙げには加わらずに伊東祐親に従ったとされている。田方平野の他の豪族たちは、皆、頼朝の旗挙げに参加しているから、江間氏が反源氏方になったのは極めて不自然だが、何か特別な事情があったのだろう。ドラマでは、江間次郎を伊東祐親の家人のような存在で描いていた。江間氏が滅亡した後、北条義時は頼朝からこの地を与えられ、江間義時を名乗ることになる。実家のすぐ隣に、次男が家を建てた感覚であろうか。

江間の南、伊豆長岡の辺りは、後に九州惣追捕使に補任された「天野遠景」の領地。その対岸、北条の南隣には、「南条」を名乗る小豪族(北条の家人とも)の館があったらしい。その先は、田代信綱や加藤景廉、狩野茂光の領地と続いている。東側には、旗挙げの最初の標的になった山木判官「平兼隆」と後見役「堤信遠」の屋敷がある。そして、北条の北隣、函南町仁田郷を領地としたのが「仁田忠常」である。

北条邸から半径数kmの範囲には、分かっているだけでもこれだけの豪族の領地がひしめいているわけで、いかに北条が伊豆の小領主であったのかが分かる。

北条の屋敷から仁田の屋敷までは、直線で約4km。私鉄ローカル線伊豆箱根鉄道(いずっぱこ)で2駅の距離である。北条と仁田に姻戚関係があったかどうか分からないが、これだけのお隣同士であれば、両家はドラマのように近しい間柄だったのだろう。

ちなみに、2つの領地の間に「長崎」という地区がある。ここは、鎌倉時代末期に活躍(?)した内管領「長崎円喜」の領地があったところで、地区内には円喜の墓もあるらしい。長崎氏は、ドラマで出てきた「鶴丸(平盛綱)」の子孫で、この地を領有したことがきっかけで「長崎」を名乗った。長崎氏は、北条家の家人であったので、北条の領地を分けて貰ったのだろう。政治を腐敗させ、鎌倉幕府を滅亡に導いた張本人とされる有名人の名前の由来が、地方のこんな小さな字名だったとは驚きである。


さて、北条家と近い関係にあった「仁田忠常」は、頼朝の旗挙げには最初期から参加していたようだ。ドラマの中で「初めての戦で腕が鳴ります。」という台詞があった。旗挙げ時の忠常は未だ13歳で、初陣だったとされている。子役が演じていても良いくらいである。今回の大河ドラマでは、実年齢と見た目が大きく離れていることが多い。

彼は四郎と呼ばれていたから四男だったようだ。ドラマでは忠常しか登場しなかったが、兄の次郎忠俊は、石橋山の合戦で討ち死にしたとある。他の兄たちも、早くに亡くなったようで、忠常は若くして当主となり、二人の弟たちと共に仁田家を盛り上げていくことになる。

北条にとっても、若年で気心の知れた仁田は、使い勝手の良い存在だったのだろう。平家追討軍として全国を転戦し、富士の巻き狩りの猪退治や、人穴伝説などの武勇伝も伝わっているから、優れた武将であったことがうかがえる。

源頼家からの信頼も厚かったようだが、そのことが仁田氏滅亡の要因になってしまったのは気の毒なことである。忠常の最期は、吾妻鏡と大河ドラマで大きく異なるが、忠常が亡くなった後の仁田氏は、鎌倉幕府と関わることも無く、政治の舞台からは消えてしまう。


しかし、仁田忠常の子孫は、御家人でなくなった後も、百姓として仁田郷に住み続けた。百姓と云っても、広い土地をもつ豪農である。仁田氏の館跡には、今も仁田さん(忠常から40代目)が住んでいらっしゃる。今でも広い屋敷であるが、かつては一町歩(1ha)あったという。屋敷の周りには、土塁や堀の跡が残っている。何よりも凄いのは、800年以上経った今も、仁田さんが住んでいるということ。権力を握った北条氏は滅亡し、韮山の地には伝承しか残っていないことと対照的である。

忠常と二人の弟の墓もここにある。墓は屋敷内の私有地にあるが、仁田家のご厚意により自由にお参りすることができる。

マジックインキで書かれた案内板。「ティモンディ高岸」の直筆とのことであるが、だったら、ちゃんとサインをしてもらうべきであろう。知る人が居なくなれば、捨てられそうで心配になる。


仁田家の当主は代々「大八郎」を名乗り、戦国大名「後北条氏」の家臣と姻戚関係を持ったり、江戸時代には名主を務めていたようだ。時代が変わって支配者が交代しても、しぶとく存続できるのが百姓の強みと云える。


近代になって、37代目「大八郎」は、明治35年に田方農林学校(現静岡県立田方農業高校)の初代校長になった。農学校の設立にあたっては、仁田家が資金の半分を寄付したそうだ。戦前までは、この辺の土地は全部仁田家のものだったんだと思う。

「田方農業高校(でんのー)」は、今年で創立120周年。今では珍しい農業高校である。僕の親世代では、農家の跡取り息子が通う学校だったが、僕が学生の頃には、県立高校なら何処でも良いみたいな奴が通っていた。線路沿いに演習畑や牛舎があって、頭に波動砲を乗っけた奴が朝から農業実習に取り組んでる姿が、電車の窓から見えたものだ。ところが今では、食品や園芸、動物飼育が学べる高校として、女子中学生に人気の学校だそうだ。7割が女子生徒と云うから驚きである。

大八郎氏は、他にも丹那牛乳の売り込みなど函南の産業振興に貢献した。実は、伊豆箱根鉄道を設立したり、伊豆仁田駅を開業させたのも氏の功績なのだそうだ。後に、帝国議会の衆議院議員にもなっている。

ティモンディ高岸さんは、仁田忠常を演じるにあたって、函南町に挨拶に来たそうだ。高岸さんは、体育会系のお笑い芸人で、声も大きく極めて礼儀正しいから、町のお偉方は、「今時珍しい若者だ」とえらく気に入ったらしい。売れっ子で忙しそうだけど、これを機会に交流を始めていただければ嬉しい限りである。

2022年9月17日土曜日

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の舞台を巡る その8 ~「修禅寺」「指月殿」「安達盛長墓」「源範頼墓」~

「修善寺温泉」は、平安時代前期に開湯された、伊豆で最も歴史ある温泉である。昔、冷たい川の水で病気の父親の体を洗っているのを見た旅の僧侶(実は弘法大師)が、独鈷で岩を突いたところ、岩が割れ温泉が湧き出てきたのが、修善寺温泉の始まりらしい。


修善寺は、大同年間に空海によって創建された「修禅寺」の門前、桂川に沿ってひらけた温泉街である。隣町には、同じように古い歴史をもつ「伊豆長岡温泉」がある。皇室御用達の超高級旅館「三養荘」が有名だが、僕らのイメージは、伊豆長岡は忘年会でハメをはずして、温泉まんじゅうを買って帰るところである。


一方、修善寺温泉は、伊豆の小京都とよばれ、文人墨客に愛された落ち着いた佇まいの温泉である。この違いは、やはり修禅寺の存在が大きい。鎌倉時代の修禅寺は大変広大で、現在の温泉街も寺域の一部に過ぎなかったそうだ。この地が範頼や頼家の幽閉先に選ばれたのも、修禅寺の存在と無縁ではないと思う。

こちらが以前、1200年の伝統を誇る修禅寺でいただいた御朱印である。今までたくさんの御朱印をいただいてきたが、このシュールさは五本の指に入る。

こちらが修善寺温泉のシンボル「独鈷の湯」である。以前は入浴できたが、(但し、道路からは丸見え)現在は見学だけで、足湯も禁止とのことである。桂川の中なので洪水によって流失してしまうこともあり、台風が接近する度に、東屋を解体していたらしい。2004年の台風では、土砂に埋没してしまった。この時は、修善寺の温泉街も大きな被害を受けた。桂川が氾濫したのは、独鈷の湯で川の流れが妨げられたからとされ、近くの公園に移設する話がでたそうだ。温泉街を守るために独鈷の湯を撤去するってことだが、独鈷の湯あっての修善寺温泉なわけで、当然のことながら反対運動が起きた。で、解決策として、19m下流の川幅の広い場所に岩ごと引きずって移動することになった。独鈷の湯の源泉は既に枯れていて引き湯をしていたそうだから、モニュメントとしては、これでOKなんだろう。せっかく来たのに入浴できなくて残念という観光客の書き込みを見るが、草津温泉の湯畑だって入浴してる奴はいないし、すぐ近くには、足湯も日帰り温泉施設もあるから良しとしていただこう。

「指月殿」は、独鈷の湯からすぐ、桂川の右側の斜面を登った所にある。1203年(建仁3年)に「北条政子」が、頼家の菩提を弔うために建立したという伊豆最古の建築物だそうだ。鎌倉時代の建築物ならば国宝指定されてもおかしくないのだが、市の指定文化財で留まっているのは、修繕されている部分が多いのだろう。

安置されているのは釈迦如来坐像で、こちらは県の指定文化財である。檜の寄木造りで、像高203cmという堂々としたお釈迦様だ。鎌倉時代の作とのことであるが、重要文化財に指定されないのは、やはり後補の部分が多いと云うことだろうか。

以前は、両脇に等身大の仁王像が置かれていたのだが、こちらは最近、修禅寺の山門に移された。平安時代作とされているが、文化財の指定は無いようだ。仁王像は野外の過酷な環境にあるから、何度も修繕されていることが多い。結果としてオリジナルの部分が少なくなってしまい、文化財の指定が受けられなくなる。ただ、この像は、後補の部分が多いとしても、ユーモラスで藤原時代の仁王像っぽさは十分に感じることができる。修禅寺の山門に移った仁王像は、ガラス窓で囲まれていて、風雨からは守られるようになった。ただ、修禅寺を訪れた人たちは、そのまま門を通り抜けてしまうので、指月殿に居たときの方が、存在感が何倍もあったように思う。

指月殿の左には「源頼家」の墓がある。正面の大きな石碑は五百年忌に建てられた供養塔で、その裏に隠れている小さな塔が墓なんだそうだ。三基ある五輪塔の真ん中が頼家で、両側が若狭局(ドラマでは「せつ」)と「一幡」といわれているが、正面からは供養塔しか見えないから、誰だってこれが墓だと思うだろう。本当の墓を見るためには、ぐるりと回り込まなくてはならず、写真を撮るために墓域に入ってしまう人もいるそうだ。何故、このような配置にしたのかは謎である。

指月殿は、北条政子が頼家の冥福を祈って寄進した経堂である。さらに政子は、七回忌には重要文化財に指定されている「大日如来座像」を造らせている。頼家は北条氏によって暗殺されたが、供養を蔑ろにされていたわけではない。そう考えると、供養塔の裏側にある五輪塔は、頼家の墓としては不自然なほどに小さい。まあ、全成の墓も実朝の墓も小さかったから、鎌倉時代は大きな墓石を造らない時代であったのかもしれない。

境内には、頼家に殉じた13人の家臣の墓もある。彼らは、頼家暗殺の6日後に謀反を企てるも、北条義時が派遣した金窪行親に討ち取られたとある。家臣だけで謀反など起こせるわけはないから、攻められて致し方なく反抗したのであろう。もともと墓は別の場所(頼家が幽閉されていた庵の跡地)にあったそうだが、2004年の台風による土石流で埋没してしまい、ここに移設されたらしい。右側の古い3基が本来の供養塔で、他は土石流によって失われてしまったとのことである。

こちらは、ネットで見つけた、移設前の貴重な写真である。

大河ドラマでの頼家は、伝えられてきた人物像が、上手い具合にデフォルメされていて良かったし、「金子大地」君の好演が光っていた。伊豆では、悲劇の武将「源頼家」の好感度は高い。二代目鎌倉殿として尊敬と憧れの存在であったのだろう。

「安達藤九郎盛長」の墓は、修禅寺の左の脇道を登りつめたところにある。伝安達盛長墓というのは、全国にいくつかあるらしいが、藤九郎は、頼朝が亡くなった後、出家して修善寺で隠居したと伝わっていて、それが、墓がこの地にある理由だ。

頼朝は14才で伊豆に配流されたが、その時の最大の援助者が「比企の尼」である。藤九郎は比企の尼の娘婿で、尼の命で頼朝の従者になったようだ。頼朝より12才年上で、佐殿の人脈の形成から女性の調達まで、流人時代を支えた唯一の家臣である。旗挙げの際には、坂東の豪族への根回しに帆走し、鎌倉殿の13人に名を連ねる宿老となったが、生涯無位無官であったと云う。自身の出世よりも、頼朝の従者の勤めに徹した一生だったのだろう。安達氏が御家人の筆頭として勢力を伸ばすのは、5代執権「北条時頼」の時代からである。

「野添義弘」さんが演じた安達盛長は、癒やし系キャラで人気も高かった。今回の大河ドラマでは、定説とされている人物像にアレンジを加えることが多いようだが、藤九郎に関しては、こうあって欲しいというキャラクターで描かれていて嬉しい限りである。

今、配られている観光マップには藤九郎の墓が紹介されているが、少し前に設置された案内板には、頼家と範頼の墓は載っているが、藤九郎の墓は記載されて無い。大河ドラマのおかげで、安達盛長も世間に知られるようになり、墓を訪ねる者も見られるようになったとのことである。


「源範頼」の墓は、藤九郎の墓の近く、温泉街を見下ろす丘にある。「正岡子規」は修善寺を訪れた時に「此の里に かなしきものの 二つあり 範頼の墓と頼家の墓」と詠み、「夏目漱石」は「範頼の 墓濡るゝらん 秋の雨」という句を残しているそうだ。和歌のことはよく分からないが、有名な人の作なので、きっと名歌なのだろう。立派な墓石は、昭和7年に、日本画家「安田靫彦」のデザインにより建立されたとあるから、子規らは、この墓石を詠んだわけではない。


お墓の周りは、小さな公園のようになっていて、立派な案内板も立っている。明治までは、ここに八幡宮と称された小さな祠があり、範頼の墓として密かに祀られていたらしい。つまり、この地が範頼の墓だと公にされたのは、明治以降ということになる。謀反人であるがゆえに、幕府を憚って偽祭したとのことであるが、鎌倉時代が終わった後も、偽祭されつづけたのは気の毒な話である。
実は、範頼は、修善寺に幽閉された記録は残っているが、暗殺されたという確かな証拠は無いそうだ。範頼が落ちのびたとされる地は、全国各地に伝わっている。


墓苑のすぐ隣に古民家カフェがあるので、お庭を眺めながら抹茶白玉あずきをいただこう。縁側には、範頼を演じた「迫田孝也」さんの色紙が置かれていた。日付がドラマが始まる1年も前だったので、配役が決まったときにお参りにきたのだろう。源平合戦では、名将である義経と凡将な範頼というように、二人は対照的な人物として描かれてきた。大河ドラマでも変わりはないのであるが、義経をサイコパス的に描いているために、蒲殿がとても良い奴になっていて面白かった。範頼は、歴史の教科書に出てくる有名人であるにもかかわらず、大変地味な存在なので、ドラマが始まる前までは、カフェを訪れる人はいても、墓を訪れる人はほとんどいなかったらしい。


小さな庭だが、手入れは行き届き、伊豆の山並みが借景になっていて、のんびりと素敵な時間を過ごすことができる。明治時代の建物そのままということでエアコンは無いが、蚊取り線香の匂いと風鈴の音、吹き抜ける風が心地よく、散策のゴールにするには至高の場所である。ただし、不定休であるので、ここまで来て休業日だったときのダメージは計り知れない。

2022年9月4日日曜日

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の舞台を巡る その7 ~「阿野全成」と沼津「大泉寺」「興国寺城跡」

「阿野全成」は、源頼朝の異母弟、義経の同母兄である僧侶・武将です。

平治の乱で源義朝が敗れたとき、側室の常磐御前は「今若」「乙若」「牛若」の3人の男子を連れて逃げましたが、都に残った母が捕らえられたことを知り、清盛の元に出頭したと伝えられています。助命された3人の子のうち、鞍馬寺に預けられた「牛若丸」が、やがて「源義経」となって源平合戦で活躍したのは有名な話ですが、その兄たちについては大河ドラマが始まってから知った次第です。

醍醐寺に預けられた「今若」は、やがて「全成」と名乗り、寺を抜けだし、打倒平家の兵を挙げた頼朝と合流しました。全成は範頼や義経のように戦で活躍することもなく、吾妻鏡にもほとんど記述が無いとのことですから、大河ドラマの全成は、三谷幸喜氏の創作部分が多いと云えましょう。

全成は、頼朝から、駿河国阿野荘(静岡県沼津市)を与えられ、阿野氏を名乗るようになりました。阿野荘は、沼津市から富士市にまたがる愛鷹山の南麓一帯で、ここには浮島沼という大きな湿地帯がありました。江戸時代の「東海道」は、浮島沼の南側、駿河湾沿いを通っていますが、それ以前の人たちは、沼の北側、愛鷹山の山裾を通る「根方街道」を使っていたようです。根方街道(県道22号線)は、トラックやバスとのすれ違いに苦労するような狭い道ですが、街道沿いには、城跡や大きな前方後円墳、古い寺院や神社が点在していて、由緒ある道であることが分かります。

街道沿いにある「興国寺城」跡です、戦国時代初期の城で、続日本百名城に選ばれたそうです。宅地や茶畑になっていたのを、何十年もかけて発掘整備しました。戦国大名「北条早雲」の居城として地元では有名なところで、僕も子どもの頃から知ってましたけど訪れたのは初めてです。

北に向かって、三の丸、二の丸、本丸と階段状になっていて、本丸は高い土塁で囲まれています。

土塁の上には、石垣で囲まれた天守台があって、その北側は深い空堀になっていました。写真では分かりにくいかと思いますが、かなりの急斜面です。

城の正面から南に真っ直ぐ延びている道を「矢通り」と云います。湿地帯を抜けて根方街道と東海道をつなぐ道で、昔「阿野全成」と「阿野時元」親子が弓の稽古をした故事から名付けられたそうです。大河ドラマ紀行でも紹介されてましたね。(僕は、興国寺城があったからだと教わった記憶がありましたけど・・・)

矢通りは、昭和の頃までは、本当に何も無い田んぼの中の一本道でしたが、今では道幅も広がって、マックスバリュやCoCo壱などの郊外型店舗が並んでいる、まあ、どこにもありそうな通りになっています。


さて、全成ゆかりの寺院「大泉寺」は、興国寺城から街道を西に1kmほど行ったところにあります。街道と寺域の間には、大きな土塁があります。大泉寺は阿野氏の館だったところで、土塁は、その名残りとのことでした。

大泉寺は、素敵な御朱印を授けてくださるので、マニアの間では有名なお寺さんであります。阿野全成が大河ドラマに登場してから、拝観者も多く訪れるようになりました。ご住職が大変アクティブな方で、イベントも多く企画されているようです。

門を入ると、線香を2本取るように云われました。1本はご本尊さんに、もう1本は全成さんのお墓に供えます。案内役の僧侶から、全成さんの話を聞きながらの墓参りです。拝観者が増えたので、お手伝いに来ているとのことでした。

本堂に入ると、先代の老住職が待っていて、観音さんのお話をしてくださいました。ご本尊の聖観音立像は、寺伝では運慶作となっています。北条時政や和田義盛も運慶に造仏してもらってますし、当初像であれば時代的にも合ってますけど、お寺さんも半信半疑と云ったところでしょうか。近くから拝観というわけにはいきませんでしたけど、像高1mほどの金ピカな観音さんでしたよ。ちゃんと調査すれば何か出てくるかもしれません。

阿野全成を演じられた「新納慎也」さんの写真や色紙が飾られていました。3回ほど訪れているそうで、7月に沼津で「鎌倉殿の13人」のトークショーがあったときには、「実衣」役の「宮澤エマ」さんと一緒に来寺されたそうです。

御朱印です。1つ500円で、2ページ分ですから1000円でした。今まで頂いた338体の御朱印の中で最高額です。ご本尊さんのだけで良かったんですけど、成り行きで2つお願いすることになってしまいました。まあ、いろいろと案内していただきましたから、拝観料の代わりと思って納めてきました。ご住職は、消しゴムはんこが特技ということで、御朱印として押してくださいます。本堂にもいろいろと展示されてましたよ。

全成が誅殺されたとき、嫡男「阿野時元」は北条氏の助命嘆願によって連座を免れました。その16年後には源実朝」が暗殺されます。時元は鎌倉殿の座を狙って兵を挙げますが、北条義時が派遣した「金窪行親に討ち取られてしまいました。もはや、北条氏にとって源氏の血統は邪魔な存在だったのでしょう。子孫は、その後も阿野荘を治めていたようで、南北朝までは記録が残っているそうですが、やがて勢力を失っていったとありました。

全成には、京の「藤原公佐」に嫁いだ娘がいて、その系統は阿野荘の一部を相続して阿野氏を名乗るようになりました。「後醍醐天皇」の寵愛を受けた「阿野廉子」はその末裔にあたるそうです。阿野廉子は知っていましたけど、阿野全成の子孫とは知りませんでした。北条氏を滅ぼした後醍醐天皇とこんなところでつながっていたとは驚きです。阿野廉子は後村上天皇の母ですから、全成も自分の子孫が天皇になるとは思ってもいなかったことでしょう。

富士山の手前の山が愛鷹山で、その麓が阿野荘があったところです。

室町時代になると、この地は今川領となりました。今川氏親から興国寺城を与えられた北条早雲こと「伊勢新九郎」は、この城を足がかりとして伊豆を平定し、戦国大名「後北条氏」の祖となりました。早雲が攻め滅ぼした「茶々丸」の館は北条時政邸の跡地にあり、早雲が居城とした韮山城は蛭が小島のすぐ近くにあります。鎌倉時代も、関東における戦国時代も、全く同じ場所から始まったのです。

伊勢氏が、縁も所縁も無いはずの「北条」を名乗るようになった理由は、諸説あってはっきりしません。現代では、鎌倉幕府の執権「北条氏」というと陰謀を張り巡すダークなイメージがありますが、戦国時代においては、相模国守護職として、あやかりたくなるブランド名だったのでしょう。