伊豆の国市「北条邸跡」の背にある守山の展望台から、田方平野を眺めてみる。
足元を流れる狩野川の対岸にあるのが、江間氏の館跡。領主である「江間次郎」は、頼朝の旗挙げには加わらずに伊東祐親に従ったとされている。田方平野の他の豪族たちは、皆、頼朝の旗挙げに参加しているから、江間氏が反源氏方になったのは極めて不自然だが、何か特別な事情があったのだろう。ドラマでは、江間次郎を伊東祐親の家人のような存在で描いていた。江間氏が滅亡した後、北条義時は頼朝からこの地を与えられ、江間義時を名乗ることになる。実家のすぐ隣に、次男が家を建てた感覚であろうか。
江間の南、伊豆長岡の辺りは、後に九州惣追捕使に補任された「天野遠景」の領地。その対岸、北条の南隣には、「南条」を名乗る小豪族(北条の家人とも)の館があったらしい。その先は、田代信綱や加藤景廉、狩野茂光の領地と続いている。東側には、旗挙げの最初の標的になった山木判官「平兼隆」と後見役「堤信遠」の屋敷がある。そして、北条の北隣、函南町仁田郷を領地としたのが「仁田忠常」である。
北条邸から半径数kmの範囲には、分かっているだけでもこれだけの豪族の領地がひしめいているわけで、いかに北条が伊豆の小領主であったのかが分かる。
北条の屋敷から仁田の屋敷までは、直線で約4km。私鉄ローカル線伊豆箱根鉄道(いずっぱこ)で2駅の距離である。北条と仁田に姻戚関係があったかどうか分からないが、これだけのお隣同士であれば、両家はドラマのように近しい間柄だったのだろう。
ちなみに、2つの領地の間に「長崎」という地区がある。ここは、鎌倉時代末期に活躍(?)した内管領「長崎円喜」の領地があったところで、地区内には円喜の墓もあるらしい。長崎氏は、ドラマで出てきた「鶴丸(平盛綱)」の子孫で、この地を領有したことがきっかけで「長崎」を名乗った。長崎氏は、北条家の家人であったので、北条の領地を分けて貰ったのだろう。政治を腐敗させ、鎌倉幕府を滅亡に導いた張本人とされる有名人の名前の由来が、地方のこんな小さな字名だったとは驚きである。
彼は四郎と呼ばれていたから四男だったようだ。ドラマでは忠常しか登場しなかったが、兄の次郎忠俊は、石橋山の合戦で討ち死にしたとある。他の兄たちも、早くに亡くなったようで、忠常は若くして当主となり、二人の弟たちと共に仁田家を盛り上げていくことになる。
北条にとっても、若年で気心の知れた仁田は、使い勝手の良い存在だったのだろう。平家追討軍として全国を転戦し、富士の巻き狩りの猪退治や、人穴伝説などの武勇伝も伝わっているから、優れた武将であったことがうかがえる。
源頼家からの信頼も厚かったようだが、そのことが仁田氏滅亡の要因になってしまったのは気の毒なことである。忠常の最期は、吾妻鏡と大河ドラマで大きく異なるが、忠常が亡くなった後の仁田氏は、鎌倉幕府と関わることも無く、政治の舞台からは消えてしまう。
忠常と二人の弟の墓もここにある。墓は屋敷内の私有地にあるが、仁田家のご厚意により自由にお参りすることができる。
マジックインキで書かれた案内板。「ティモンディ高岸」の直筆とのことであるが、だったら、ちゃんとサインをしてもらうべきであろう。知る人が居なくなれば、捨てられそうで心配になる。
ティモンディ高岸さんは、仁田忠常を演じるにあたって、函南町に挨拶に来たそうだ。高岸さんは、体育会系のお笑い芸人で、声も大きく極めて礼儀正しいから、町のお偉方は、「今時珍しい若者だ」とえらく気に入ったらしい。売れっ子で忙しそうだけど、これを機会に交流を始めていただければ嬉しい限りである。
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