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2022年9月17日土曜日

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の舞台を巡る その8 ~「修禅寺」「指月殿」「安達盛長墓」「源範頼墓」~

「修善寺温泉」は、平安時代前期に開湯された、伊豆で最も歴史ある温泉である。昔、冷たい川の水で病気の父親の体を洗っているのを見た旅の僧侶(実は弘法大師)が、独鈷で岩を突いたところ、岩が割れ温泉が湧き出てきたのが、修善寺温泉の始まりらしい。


修善寺は、大同年間に空海によって創建された「修禅寺」の門前、桂川に沿ってひらけた温泉街である。隣町には、同じように古い歴史をもつ「伊豆長岡温泉」がある。皇室御用達の超高級旅館「三養荘」が有名だが、僕らのイメージは、伊豆長岡は忘年会でハメをはずして、温泉まんじゅうを買って帰るところである。


一方、修善寺温泉は、伊豆の小京都とよばれ、文人墨客に愛された落ち着いた佇まいの温泉である。この違いは、やはり修禅寺の存在が大きい。鎌倉時代の修禅寺は大変広大で、現在の温泉街も寺域の一部に過ぎなかったそうだ。この地が範頼や頼家の幽閉先に選ばれたのも、修禅寺の存在と無縁ではないと思う。

こちらが以前、1200年の伝統を誇る修禅寺でいただいた御朱印である。今までたくさんの御朱印をいただいてきたが、このシュールさは五本の指に入る。

こちらが修善寺温泉のシンボル「独鈷の湯」である。以前は入浴できたが、(但し、道路からは丸見え)現在は見学だけで、足湯も禁止とのことである。桂川の中なので洪水によって流失してしまうこともあり、台風が接近する度に、東屋を解体していたらしい。2004年の台風では、土砂に埋没してしまった。この時は、修善寺の温泉街も大きな被害を受けた。桂川が氾濫したのは、独鈷の湯で川の流れが妨げられたからとされ、近くの公園に移設する話がでたそうだ。温泉街を守るために独鈷の湯を撤去するってことだが、独鈷の湯あっての修善寺温泉なわけで、当然のことながら反対運動が起きた。で、解決策として、19m下流の川幅の広い場所に岩ごと引きずって移動することになった。独鈷の湯の源泉は既に枯れていて引き湯をしていたそうだから、モニュメントとしては、これでOKなんだろう。せっかく来たのに入浴できなくて残念という観光客の書き込みを見るが、草津温泉の湯畑だって入浴してる奴はいないし、すぐ近くには、足湯も日帰り温泉施設もあるから良しとしていただこう。

「指月殿」は、独鈷の湯からすぐ、桂川の右側の斜面を登った所にある。1203年(建仁3年)に「北条政子」が、頼家の菩提を弔うために建立したという伊豆最古の建築物だそうだ。鎌倉時代の建築物ならば国宝指定されてもおかしくないのだが、市の指定文化財で留まっているのは、修繕されている部分が多いのだろう。

安置されているのは釈迦如来坐像で、こちらは県の指定文化財である。檜の寄木造りで、像高203cmという堂々としたお釈迦様だ。鎌倉時代の作とのことであるが、重要文化財に指定されないのは、やはり後補の部分が多いと云うことだろうか。

以前は、両脇に等身大の仁王像が置かれていたのだが、こちらは最近、修禅寺の山門に移された。平安時代作とされているが、文化財の指定は無いようだ。仁王像は野外の過酷な環境にあるから、何度も修繕されていることが多い。結果としてオリジナルの部分が少なくなってしまい、文化財の指定が受けられなくなる。ただ、この像は、後補の部分が多いとしても、ユーモラスで藤原時代の仁王像っぽさは十分に感じることができる。修禅寺の山門に移った仁王像は、ガラス窓で囲まれていて、風雨からは守られるようになった。ただ、修禅寺を訪れた人たちは、そのまま門を通り抜けてしまうので、指月殿に居たときの方が、存在感が何倍もあったように思う。

指月殿の左には「源頼家」の墓がある。正面の大きな石碑は五百年忌に建てられた供養塔で、その裏に隠れている小さな塔が墓なんだそうだ。三基ある五輪塔の真ん中が頼家で、両側が若狭局(ドラマでは「せつ」)と「一幡」といわれているが、正面からは供養塔しか見えないから、誰だってこれが墓だと思うだろう。本当の墓を見るためには、ぐるりと回り込まなくてはならず、写真を撮るために墓域に入ってしまう人もいるそうだ。何故、このような配置にしたのかは謎である。

指月殿は、北条政子が頼家の冥福を祈って寄進した経堂である。さらに政子は、七回忌には重要文化財に指定されている「大日如来座像」を造らせている。頼家は北条氏によって暗殺されたが、供養を蔑ろにされていたわけではない。そう考えると、供養塔の裏側にある五輪塔は、頼家の墓としては不自然なほどに小さい。まあ、全成の墓も実朝の墓も小さかったから、鎌倉時代は大きな墓石を造らない時代であったのかもしれない。

境内には、頼家に殉じた13人の家臣の墓もある。彼らは、頼家暗殺の6日後に謀反を企てるも、北条義時が派遣した金窪行親に討ち取られたとある。家臣だけで謀反など起こせるわけはないから、攻められて致し方なく反抗したのであろう。もともと墓は別の場所(頼家が幽閉されていた庵の跡地)にあったそうだが、2004年の台風による土石流で埋没してしまい、ここに移設されたらしい。右側の古い3基が本来の供養塔で、他は土石流によって失われてしまったとのことである。

こちらは、ネットで見つけた、移設前の貴重な写真である。

大河ドラマでの頼家は、伝えられてきた人物像が、上手い具合にデフォルメされていて良かったし、「金子大地」君の好演が光っていた。伊豆では、悲劇の武将「源頼家」の好感度は高い。二代目鎌倉殿として尊敬と憧れの存在であったのだろう。

「安達藤九郎盛長」の墓は、修禅寺の左の脇道を登りつめたところにある。伝安達盛長墓というのは、全国にいくつかあるらしいが、藤九郎は、頼朝が亡くなった後、出家して修善寺で隠居したと伝わっていて、それが、墓がこの地にある理由だ。

頼朝は14才で伊豆に配流されたが、その時の最大の援助者が「比企の尼」である。藤九郎は比企の尼の娘婿で、尼の命で頼朝の従者になったようだ。頼朝より12才年上で、佐殿の人脈の形成から女性の調達まで、流人時代を支えた唯一の家臣である。旗挙げの際には、坂東の豪族への根回しに帆走し、鎌倉殿の13人に名を連ねる宿老となったが、生涯無位無官であったと云う。自身の出世よりも、頼朝の従者の勤めに徹した一生だったのだろう。安達氏が御家人の筆頭として勢力を伸ばすのは、5代執権「北条時頼」の時代からである。

「野添義弘」さんが演じた安達盛長は、癒やし系キャラで人気も高かった。今回の大河ドラマでは、定説とされている人物像にアレンジを加えることが多いようだが、藤九郎に関しては、こうあって欲しいというキャラクターで描かれていて嬉しい限りである。

今、配られている観光マップには藤九郎の墓が紹介されているが、少し前に設置された案内板には、頼家と範頼の墓は載っているが、藤九郎の墓は記載されて無い。大河ドラマのおかげで、安達盛長も世間に知られるようになり、墓を訪ねる者も見られるようになったとのことである。


「源範頼」の墓は、藤九郎の墓の近く、温泉街を見下ろす丘にある。「正岡子規」は修善寺を訪れた時に「此の里に かなしきものの 二つあり 範頼の墓と頼家の墓」と詠み、「夏目漱石」は「範頼の 墓濡るゝらん 秋の雨」という句を残しているそうだ。和歌のことはよく分からないが、有名な人の作なので、きっと名歌なのだろう。立派な墓石は、昭和7年に、日本画家「安田靫彦」のデザインにより建立されたとあるから、子規らは、この墓石を詠んだわけではない。


お墓の周りは、小さな公園のようになっていて、立派な案内板も立っている。明治までは、ここに八幡宮と称された小さな祠があり、範頼の墓として密かに祀られていたらしい。つまり、この地が範頼の墓だと公にされたのは、明治以降ということになる。謀反人であるがゆえに、幕府を憚って偽祭したとのことであるが、鎌倉時代が終わった後も、偽祭されつづけたのは気の毒な話である。
実は、範頼は、修善寺に幽閉された記録は残っているが、暗殺されたという確かな証拠は無いそうだ。範頼が落ちのびたとされる地は、全国各地に伝わっている。


墓苑のすぐ隣に古民家カフェがあるので、お庭を眺めながら抹茶白玉あずきをいただこう。縁側には、範頼を演じた「迫田孝也」さんの色紙が置かれていた。日付がドラマが始まる1年も前だったので、配役が決まったときにお参りにきたのだろう。源平合戦では、名将である義経と凡将な範頼というように、二人は対照的な人物として描かれてきた。大河ドラマでも変わりはないのであるが、義経をサイコパス的に描いているために、蒲殿がとても良い奴になっていて面白かった。範頼は、歴史の教科書に出てくる有名人であるにもかかわらず、大変地味な存在なので、ドラマが始まる前までは、カフェを訪れる人はいても、墓を訪れる人はほとんどいなかったらしい。


小さな庭だが、手入れは行き届き、伊豆の山並みが借景になっていて、のんびりと素敵な時間を過ごすことができる。明治時代の建物そのままということでエアコンは無いが、蚊取り線香の匂いと風鈴の音、吹き抜ける風が心地よく、散策のゴールにするには至高の場所である。ただし、不定休であるので、ここまで来て休業日だったときのダメージは計り知れない。

2022年9月4日日曜日

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の舞台を巡る その7 ~「阿野全成」と沼津「大泉寺」「興国寺城跡」

「阿野全成」は、源頼朝の異母弟、義経の同母兄である僧侶・武将です。

平治の乱で源義朝が敗れたとき、側室の常磐御前は「今若」「乙若」「牛若」の3人の男子を連れて逃げましたが、都に残った母が捕らえられたことを知り、清盛の元に出頭したと伝えられています。助命された3人の子のうち、鞍馬寺に預けられた「牛若丸」が、やがて「源義経」となって源平合戦で活躍したのは有名な話ですが、その兄たちについては大河ドラマが始まってから知った次第です。

醍醐寺に預けられた「今若」は、やがて「全成」と名乗り、寺を抜けだし、打倒平家の兵を挙げた頼朝と合流しました。全成は範頼や義経のように戦で活躍することもなく、吾妻鏡にもほとんど記述が無いとのことですから、大河ドラマの全成は、三谷幸喜氏の創作部分が多いと云えましょう。

全成は、頼朝から、駿河国阿野荘(静岡県沼津市)を与えられ、阿野氏を名乗るようになりました。阿野荘は、沼津市から富士市にまたがる愛鷹山の南麓一帯で、ここには浮島沼という大きな湿地帯がありました。江戸時代の「東海道」は、浮島沼の南側、駿河湾沿いを通っていますが、それ以前の人たちは、沼の北側、愛鷹山の山裾を通る「根方街道」を使っていたようです。根方街道(県道22号線)は、トラックやバスとのすれ違いに苦労するような狭い道ですが、街道沿いには、城跡や大きな前方後円墳、古い寺院や神社が点在していて、由緒ある道であることが分かります。

街道沿いにある「興国寺城」跡です、戦国時代初期の城で、続日本百名城に選ばれたそうです。宅地や茶畑になっていたのを、何十年もかけて発掘整備しました。戦国大名「北条早雲」の居城として地元では有名なところで、僕も子どもの頃から知ってましたけど訪れたのは初めてです。

北に向かって、三の丸、二の丸、本丸と階段状になっていて、本丸は高い土塁で囲まれています。

土塁の上には、石垣で囲まれた天守台があって、その北側は深い空堀になっていました。写真では分かりにくいかと思いますが、かなりの急斜面です。

城の正面から南に真っ直ぐ延びている道を「矢通り」と云います。湿地帯を抜けて根方街道と東海道をつなぐ道で、昔「阿野全成」と「阿野時元」親子が弓の稽古をした故事から名付けられたそうです。大河ドラマ紀行でも紹介されてましたね。(僕は、興国寺城があったからだと教わった記憶がありましたけど・・・)

矢通りは、昭和の頃までは、本当に何も無い田んぼの中の一本道でしたが、今では道幅も広がって、マックスバリュやCoCo壱などの郊外型店舗が並んでいる、まあ、どこにもありそうな通りになっています。


さて、全成ゆかりの寺院「大泉寺」は、興国寺城から街道を西に1kmほど行ったところにあります。街道と寺域の間には、大きな土塁があります。大泉寺は阿野氏の館だったところで、土塁は、その名残りとのことでした。

大泉寺は、素敵な御朱印を授けてくださるので、マニアの間では有名なお寺さんであります。阿野全成が大河ドラマに登場してから、拝観者も多く訪れるようになりました。ご住職が大変アクティブな方で、イベントも多く企画されているようです。

門を入ると、線香を2本取るように云われました。1本はご本尊さんに、もう1本は全成さんのお墓に供えます。案内役の僧侶から、全成さんの話を聞きながらの墓参りです。拝観者が増えたので、お手伝いに来ているとのことでした。

本堂に入ると、先代の老住職が待っていて、観音さんのお話をしてくださいました。ご本尊の聖観音立像は、寺伝では運慶作となっています。北条時政や和田義盛も運慶に造仏してもらってますし、当初像であれば時代的にも合ってますけど、お寺さんも半信半疑と云ったところでしょうか。近くから拝観というわけにはいきませんでしたけど、像高1mほどの金ピカな観音さんでしたよ。ちゃんと調査すれば何か出てくるかもしれません。

阿野全成を演じられた「新納慎也」さんの写真や色紙が飾られていました。3回ほど訪れているそうで、7月に沼津で「鎌倉殿の13人」のトークショーがあったときには、「実衣」役の「宮澤エマ」さんと一緒に来寺されたそうです。

御朱印です。1つ500円で、2ページ分ですから1000円でした。今まで頂いた338体の御朱印の中で最高額です。ご本尊さんのだけで良かったんですけど、成り行きで2つお願いすることになってしまいました。まあ、いろいろと案内していただきましたから、拝観料の代わりと思って納めてきました。ご住職は、消しゴムはんこが特技ということで、御朱印として押してくださいます。本堂にもいろいろと展示されてましたよ。

全成が誅殺されたとき、嫡男「阿野時元」は北条氏の助命嘆願によって連座を免れました。その16年後には源実朝」が暗殺されます。時元は鎌倉殿の座を狙って兵を挙げますが、北条義時が派遣した「金窪行親に討ち取られてしまいました。もはや、北条氏にとって源氏の血統は邪魔な存在だったのでしょう。子孫は、その後も阿野荘を治めていたようで、南北朝までは記録が残っているそうですが、やがて勢力を失っていったとありました。

全成には、京の「藤原公佐」に嫁いだ娘がいて、その系統は阿野荘の一部を相続して阿野氏を名乗るようになりました。「後醍醐天皇」の寵愛を受けた「阿野廉子」はその末裔にあたるそうです。阿野廉子は知っていましたけど、阿野全成の子孫とは知りませんでした。北条氏を滅ぼした後醍醐天皇とこんなところでつながっていたとは驚きです。阿野廉子は後村上天皇の母ですから、全成も自分の子孫が天皇になるとは思ってもいなかったことでしょう。

富士山の手前の山が愛鷹山で、その麓が阿野荘があったところです。

室町時代になると、この地は今川領となりました。今川氏親から興国寺城を与えられた北条早雲こと「伊勢新九郎」は、この城を足がかりとして伊豆を平定し、戦国大名「後北条氏」の祖となりました。早雲が攻め滅ぼした「茶々丸」の館は北条時政邸の跡地にあり、早雲が居城とした韮山城は蛭が小島のすぐ近くにあります。鎌倉時代も、関東における戦国時代も、全く同じ場所から始まったのです。

伊勢氏が、縁も所縁も無いはずの「北条」を名乗るようになった理由は、諸説あってはっきりしません。現代では、鎌倉幕府の執権「北条氏」というと陰謀を張り巡すダークなイメージがありますが、戦国時代においては、相模国守護職として、あやかりたくなるブランド名だったのでしょう。

2022年8月4日木曜日

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の舞台を巡る その5 ~「鎌倉国宝館」「大河ドラマ館」「寿福寺」「和田塚」~

かんなみ仏の里美術館の「阿弥陀三尊像」が、「鎌倉国宝館」の特別展(北条氏展)で公開されているとのことで、陣中見舞いに行ってきました。阿弥陀さんは、主賓扱いで中央のガラスケースに展示されていました。仏の里では見ることができない後ろ姿を拝観することができましたが、まあ、特に変わったところはなかったです。この阿弥陀さんは、鎌倉時代の慶派仏師「実慶」の作で、石橋山の合戦で討ち死にした「北条宗時」の墳墓堂に祀られていたという、北条氏所縁の仏像であります。

右手のケースには、修禅寺の大日如来像も飾られていました。こちらも実慶の作で、北条政子が2代将軍「源頼家」の7年忌に造らせたと云われています。実慶の大日如来は、運慶の大日如来と比べると腕の張りも控えめで、温和しい印象を受けます。像内からは、銘文と毛髪などの納入品が発見されて貴重な資料となっております。現存する実慶の仏像は4躯ですから、ここに全てが揃っていることになります。

詳しくは、過去ログ 

北条宗時と仏の里美術館の阿弥陀三尊像

今回の収穫は、鎌倉「光触寺」所蔵の重要文化財「頬焼阿弥陀」を拝観できたことです。光触寺は、拝観寺院ではありますが、10名以上の予約制という敷居の高さから、未拝観仏でありました。事前のチェックをしてなかったものですから、仏の里の阿弥陀さんと並んで展示されていたのは、嬉しいサプライズでした。

この阿弥陀さんは、「頬焼阿弥陀」の名で知られ、盗みの疑いをかけられた法師の身代わりになり頬に焼印が残ったという話が伝えられています。そう思って頬の辺りを見たのですが、漆のヒビ割れしか分かりませんでしたです。寺伝では、運慶作となっていますが、イメージ的には快慶の「安阿弥様」に近いように思います。鎌倉時代前期の作ということですから、慶派仏師の作であることは、間違いないかと思います。顔が小さくてスタイルが良いし、細かいところまで良く彫られている素敵な阿弥陀さんでしたよ。

さて、大河ドラマ館の入館料は1000円ですけど、ドラマ館のパンフレットを見せると国宝館の入館料が無料になります。あと、鎌倉歴史文化交流館も無料になりますから、ドラマ館の実質入館料は400円であります。ただ、先に国宝館に行ってしまうとドラマ館では返金してくれませんので、巡る順番に要注意であります。

鎌倉のドラマ館は、伊豆の国市のドラマ館の数倍はあろうかという規模でした。(伊豆の国が小さいんですけどね)展示物のメインは、衣装と小道具なんですが、文書類が面白かったですね。アシガールの時にも思ったんですけど、ドラマに登場する手紙などは、デタラメじゃなくって、ちゃんとそれらしいことが書かれているようです。和田義盛の手紙とか、義経の腰越状などが展示されていました。

鎌倉は、仏像巡りで何度も行きましたので、拝観可能な寺院はほとんどお参り済み。特に当てもないので、ノープランで歩き始めます。「寿福寺」は鎌倉五山第三位の寺院ですが、静かな佇まいのお寺さんです。裏山に、北条政子と源実朝の五輪塔があるそうですから行ってみましょう。

裏山一帯は墓地になっていて、檀家さんの多いお寺のようです。五輪塔は「やぐら」内にありましたが、控えめな感じ。檀家さんの墓石のほうがずっと立派です。誕生からお墓までということで、伊豆の国市にある「産湯の井戸」も貼り付けさせていただきます。

寿福寺は拝観寺院ではありませんが、御朱印は庫裡で受け付けているようです。納経済みかと思ってスルーしましたが、帰って調べてみましたら未だ頂いてませんでした。

今小路を下って「和田塚」を訪ねます。「和田義盛」と「北条義時」が争った「和田合戦」は、新田義貞の鎌倉攻めをのぞけば、鎌倉最大の市街戦でありまして、大河ドラマでどう描かれるのか今から楽しみであります。和田塚は、もともとは古墳だったそうですけど、明治時代に大量の人骨が発掘されたことにより、和田一族を葬ったところと推定されて、以後「和田塚」と呼ばれるようになったそうです。

住宅地にある小さな公園です。一番大きな石碑は忠魂碑か何かだったように思います。予想通り、何も無いところでした。何も無いところに佇んで思いを馳せるというのも、楽しみ方の1つなんですけど如何せん暑すぎます。江ノ電の線路際にある有名なあんみつ屋さんで涼んでいきましょう。

「和田合戦」は、通説では義時が義盛を挑発しまくって、反乱を起こさせたことになっていて、後世で義時が不人気であることの理由の1つであります。和田義盛は、今のところイメージ通りの描き方ですが、ブラック義時をどのように演出すのかも楽しみです。巴御前はどうなるんでしょうね。

2022年6月5日日曜日

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の舞台を巡る その4 ~「北条氏邸跡」「願成就院」~

「鎌倉殿の13人」第21話では、久しぶりに伊豆が舞台となりました。奥州合戦をあっさり済ませる一方で、韮山の「願成就院」は丁寧に描いてくれて嬉しい限り。住職役にベテラン声優の「緒方賢一」さんを起用したり、「相島一之」さん演じる運慶のキャラもしっかり立っていて話題性にも事欠きません。

さらに、八重姫=阿波局という大胆な仮説で物語を進めてきて、こういう演出で八重姫伝説に着地させてくるとは恐れ入りました。これで、眞珠院の「梯子の御供え」も面目が立つでしょう。


では、最近整備された「北条の里」駐車場(無料)に車を止めて散策を始めます。ここを起点に、史跡巡りをしながら守山の麓をぐるりと1周する道がありますので歩いてみましょう。


駐車場に隣接している素敵な佇まいの寺院が、2代将軍「源頼家」ゆかりの「光照寺」です。頼家病相の面が奉納されているとのことですが、拝観寺院ではありませんので観ることはできません。

狩野川に向かって歩いていくと、右側の草原が、室町時代の史跡「伝堀越御所跡」。堀越公方「足利政知」と「茶々丸」の本拠地であります。左の道を入ったところにあるのが「政子産湯の井戸」。写真でお分かりの通り、典型的なガッカリ観光地です。その西側に隣接する草原が「北条氏邸跡」で、立派な説明板ができていました。今は、ただの草原ですが、史跡公園として整備する計画もあるようです。

伊豆の国市の公式チャンネルの紹介動画です。公開から3ヶ月で視聴回数38回とありました。応援しましょう。 


発掘調査では、鎌倉時代前期の館跡や中国陶磁器などが見つかったそうです。館が使われていたのは3代執権「北条泰時」の時代までだそうで、その後の北条氏は出身地である伊豆との関わりは無くなってしまったようです。

鎌倉幕府が滅亡した後、執権「北条高時」の生母「円成尼」が、生き残った一族の女性たちと、館の跡地に寺を建てました。これが「円成寺」の始まりとされています。守山の北麓に、「北条氏邸跡」「円成寺跡」「堀越御所跡」という平安末期、室町前期、戦国時代の3つの史跡が重なっているわけです。


狩野川の堤防には、見事な桜並木があります。ここの桜は、今流行の河津桜ではなく、ソメイヨシノであります。昔からある桜並木で、だいぶ老木になりましたけど、まだまだ元気。桜が咲く頃には、河川敷が駐車場に解放されて、地元の人たちで賑わいます。

狩野川の向こうが「江間」です。北条(江間)義時の屋敷があったところで、大河ドラマでは、ガッキーさんが住んでいましたね。舟で川を渡るシーンもありました。

堤防に沿って南に進むと、八重姫ゆかりの「眞珠院」。そこから守山の麓をまわり込んで北へ向かうと「願成就院」を経て、駐車場に戻ることができます。

過去ログへのリンクです。お時間があれば。

「鎌倉殿の13人」の舞台を巡る その1 ~「眞珠院」「北條寺」~

「願成就院」は何度かお参りさせていただいているので、今回はスルーさせていただきました。吾妻鏡によると、北条時政が1189年に奥州合戦の戦勝を祈願して建立したとありますが、仏像に納められていた銘札には、造仏を始めたのが1186年と書かれておりますので、戦勝祈願というのは後から付けた話のようです。時政は、平家が滅亡した1185年に京都守護として上京しているので、その時に新進気鋭の天才仏師「運慶」と知り合い、北条一族の氏寺のために仏像の発注をしたのかもしれません。


その後、北条氏の勢力が大きくなるにつれて寺域も広がり、大きな池を配する浄土様式の寺院になったようです。寺院は、戦国時代の戦乱などで焼けてしまいましたが、運慶作の仏像は、今日へと伝えられました。現在は、耐火建築の収蔵庫を兼ねた大御堂に祀られています。

こちらが、老住職に書いていただいた御朱印であります。今のは、もっと映える朱印に変わったようです。御朱印代は300円が相場ですが、願成就院は、当時からチョットお高めの400円。拝観をお願いすると、仏像について簡単に説明してくれて、あとは、ご自由にどうぞとなって、触れるくらいまで近づくことができました。正面に阿弥陀如来坐像、右に毘沙門天立像、左に不動明王と2躯の童子像が並びます。運慶作を自称する仏像は、日本に数え切れないほどありますが、正式に認定された像は、数えるほどしかありません。願成就院の諸仏は、運慶三十歳代の作で、2013年に国宝に指定されております。

大河ドラマでは、仏像は、京で粗方造ってきて、現地で仕上げるみたいなことを云ってました。仏像はどこで造られたのか、運慶自身は伊豆に来たのかとかは、「運慶の下向・非下向問題」として学会でも論争になっていますが、地元民としては、運慶さんには是非とも下向していただきたいところであります。半丈六や等身大の仏像群を運ぶなんて、物騒だし大変なこと。台座とか光背もとなると、仏師が現地にやってきて造った方が理にかなっていると思います。

実は、初めて願成就院の運慶仏を見たとき、正直言って、嘘っぽ・・・斬新過ぎると思いました。阿弥陀さんは兎も角、毘沙門天と不動明王は、どう見ても鎌倉時代の仏像には思えませんでした。両像は、江戸時代の修復によって綺麗に漆が塗られていて、まるで現代のブロンズ像のよう、でも、それ以上に感じたのは、両像の独特な造形でした。まるで、ディズニーや手塚治虫氏の漫画から飛び出てきたみたいで、あまりにも現代っぽく感じました。恐れ多くて誰も云わないみたいですけど、制吒迦童子なんて、白雪姫の七人の小人に見えてしまいます。

不動明王の「天地眼」や「牙上下出相」などの儀軌を完無視したシュールな造仏などは、都だったら貴族たちから嘲笑されたでしょう。運慶も、東国武士の無知につけ込・・・信仰心を利用して、実験的な試みをしたのかもしれません。

毘沙門天のクールな様式は、運慶が勇猛な鎌倉武士と出会うことで生まれたとする考え方がありますが、どうでしょうかね。左手を前に、右肘を横に突き出すことによって、より立体的に空間を作り出しているところなどは、これぞ運慶仏に思います。この格好良さは、現代にも、そして海外にも通用するでしょう。2017年に東博で開催された興福寺主催の展覧会「運慶」にも出品されて、なんと図録のウラ表紙に採用されております。(ちなみにオモテ表紙は無著像、興福寺主催ですから)ディズニー的には、バズライトイヤーってところでしょうか。

阿弥陀如来座像は、螺髪や指などに破損があり、特に顔は彫り直しがされているとのことで、面相の違和感は致し方ありませんが、毘沙門天のように分厚く漆を塗っていないので、古さは実感できます。ドラマでは、出来たての金ピカになっていましたね。NHKの美術さん渾身の作品に思います。これは是非とも伊豆の国市で譲り受けて、大河ドラマ館に展示すべきでしょう。


こちらが、本物の阿弥陀さんです。両手を前に組む説法印が特徴であります。やはり、前に突き出すことによって、空間を作っています。NHK仏と比べて思うことは、衣の彫りの深さと胸板の分厚さでしょうか。まるで力士の体型で、現役時代の貴乃花関のようです。

同時代の仏師「快慶」の阿弥陀立像が「安阿弥様」として後世のお手本となったのに対して、運慶の様式が継承されることはありませんでした。鎌倉時代に於いても、運慶の仏像というのは、唯一無二で、真似した途端にチープになってしまう特別な存在だったのでしょう。

東国武士からすれば、都の有名仏師が、殺生を生業とする自分たちを極楽浄土に導いてくれる仏様を造ってくれるというだけで有り難かったはず。願成就院の仏像は、どうやら御家人の間でも話題になったようで、時政のライバル「和田義盛」が全く同じ仏像セットを運慶工房に発注しております。(子供みたいですね)こちらは、現在、横須賀の「浄楽寺」に収蔵されていて、何年か前に予約拝観をさせていただきました。拝観料は志納で、奥様に収蔵庫を開けていただいた記憶があります。様式は瓜二つでありますが、彫りは簡素化されていて、少し温和しい印象がありました。このころは運慶もたくさんの注文を抱えて忙しくなってきたので、運慶の監修の元、弟子たちが中心となって造仏したのではないかと云われております。当時は「和田義盛」とか云われてもピンときませんでしたが、ドラマを視聴して鎌倉武士にも少し詳しくなりましたので、三浦半島の寺院を再訪してみたくなりました。

現在、願成就院は、国際結婚をされた娘さん(副住職)夫婦が、やりくりをされています。寺の番犬、秋田犬のロッキー君が人気とのこと。仏像は撮影禁止ですから、皆さん犬を撮って来訪の証としてSNSにアップしているようです。犬だけなら拝観料はかかかりませんが、御朱印は受け付けていただけないようです。

聞くところによると、拝観料も御朱印代も値上げされて、コロナ禍の影響でしょうか、仏像にも近づけなくなり、拝観時間を制限されたりと、ネットでの評判が芳しくありません。大御堂の耐震工事とか、阿弥陀さんの光背や台座を新調したりとか、まあ、値上げは致し方ないとしても、以前のようにノンビリ拝観できるようになって欲しいものです。