2019年8月20日火曜日

黒島結菜とNHKドラマ「アシガール」~相対的時空論:タイムトラベルに関する形而上的考察~

はじめに

人間は、太古の昔から物語を空想してきた。そして、夢物語のいくつかは、現在の社会に於いて現実のものになった。しかし、タイムマシンとかタイムトラベルに関しては、様々なアイデアや世界観が提案されてきたにも関わらず、実現はおろか、その可能性さえも否定されているのが現状である。にもかかわらず、タイムトラベルがSFの王道であり続けるのは、人間の思考遊戯として、それが格好の素材だからに他ならない。

アシガールは、タイムトラベルものでは稀である、超ハッピーエンドな物語という構想を持っている。この斬新な構想に対して、SFの常識を無視しているとか、戦国時代で二人で暮らすなど有り得ない、などと云った批判は多い。そして、これらの批判に対して、空想の物語なんだから、という反論しかできないとすれば、寂しい限りで或る。

このことについて、原作者さんは、かなり無頓着な感じである。まあ、そうでもなければこんな物語は作れないとも云えよう。ならば、少しでも理論武装のお手伝いをしようと試みたのが、今回の投稿で或る。人間は、空想をする能力を与えられた存在で有り、空想を楽しまないのは、実に勿体ないことなのだ。

では、アシガールに相応しい世界観を求めて、思考遊戯を始めようと思う。

何故、過去を変えてはいけないのか

タイムトラベルに関する思想に「バタフライ効果」と「時間線の自己修復能力」と云われているものがある。

バタフライ効果とは、蝶の羽が巻き起こした風が、やがて大きな気象現象となって現れるという例えで表される事象である。過去へのタイムトラベルで引き起こされる小さな出来事、例えば石ころを1つ動かす、枝を1本折る、という些細な事でも、ゆくゆくは大きな事態につながってしまうという考えで或る。
例えば、唯之介が若君を助けたことによって、死ぬはずでなかった高山軍の足軽が死んでしまったとする。もし、その足軽が唯の祖先の一人であったら、速川家の存在そのものが否定されることになり、タイムパラドックスが生じてしまう。一人の人間に連なる先祖の数は鼠算的に多いから、どこでどんなふうに血がつながっているか分からないのである。
どんな小さなことでも、過去を変えることは、現在に影響を及ぼす可能性があるのだから、過去へのタイムトラベルは慎重になるべき、或いは、おこなってはならないと云うことになる。

その一方で、時空は多少の変動に対して修復能力があり、歴史を変えようとする働きかけを無効にできるという思想がある。これが、「時空の自己修復能力」である。石ころを1つ動かしたくらいでは歴史は変らないという便利な概念である反面、歴史を変えようとする試みは、時空によって無効にされてしまうという思想につながっていく。
アシガールで例えるならば、唯之介はどんなに頑張っても若君の命を助けることはできない、という結末になる。唯之介の活躍で一時的に救えることはあっても、若君が死んでしまう運命からは、逃れることができないという思想である。

この2つの思想は対照的であるが、過去へのタイムトラベルで歴史を改変しようとする試みに対し、否定的であることは共通している。


パラレルワールドはタイムトラベルの救世主か?

パラレルワールド(平行宇宙)は、元々は量子力学によって提唱された概念であったが、タイムパラドックスの解決方法として注目されている思想である。

この宇宙は時空のゆらぎによって生成されたと考えられているが、そのゆらぎは1つではなく、その結果、同時に複数の宇宙が生成されたとする。つまり、この宇宙には、一卵性の兄弟「パラレルワールド」が無数に存在していると考える。パラレルワールドは、同時に生成された宇宙であるので、進化のゆらぎによって若干の相違が生じるものの、基本的には同じ世界であるとされている。

過去へのタイムトラベルは、タイムパラドックスが生じてしまうのが課題であったが、ここでは、タイムトラベルとは、パラレルワールドへの転位と定義される。他の宇宙への転位であれば、そこで歴史を改編したとしても、自分たちの宇宙への影響は起きないことになる。

しかし、考えて見れば迷惑な話である。パラレルワールドだって1つの宇宙である。他の宇宙からやってきた奴に歴史を変えられたら、たまったものでは無い。自分の宇宙に影響が無いからと云って、他人の宇宙を勝手に荒らして良いわけが無いし、逆のことだって起きないとも限らないのである。

それに対して、パラレルワールドは無数にあるから、その中には、若君が死なない世界ぐらいあるだろうとする思想がある。唯之介は、タイムマシンによって羽木家が御月家を継ぐパラレルワールドに転位したと考えるのである。パラレルワールドは無数にあると云っても、そんな都合の良い世界が存在するとは、随分虫のいい話であるが・・・。
平行宇宙には、唯が永禄に転位する世界、しない世界、したけれど若君に出会わない世界など、ありとあらゆる世界があると考える。ただ、そんな調子で分岐していくと、ほぼ無限大の数の宇宙を、ほぼ無限大の回数掛け合わせる、つまり∞の∞乗の宇宙が存在することになって、トンデモナイことになる。

そこで、パラレルワールドは、タイムマシンなどで、時空に対する働きかけがあった時に、分岐生成されるとする思考が登場してきた。こうなると量子力学の理論は何処行っちゃったって感じだが、都合の良いパラレルワールドを生成できるという点では、極めて有効な世界観であると云える。

例えば、唯が永禄に転位した時点で、新しいパラレルワールドが分岐生成されたと考える。そこでどんなことをしようと、新しい宇宙で新しい歴史を作るわけだから、誰の迷惑にもならないし、現在の宇宙に影響を及ぼすこともないわけである。

ただし、問題は、唯が平成に戻ってきた時である。現在に影響を与えないということは、こちらの宇宙では羽木家は滅亡したままである。唯之介がどんなに頑張って若君を助けたとしても、それはパラレルワールドの若君であって、この宇宙の若君では無いのである。
SF小説のオチとしては面白いかもしれないが、唯やアシ・ラバの皆さんは、それで納得できるであろうか。


相対的時空論における現在・未来・過去

ここまで、過去へのタイムワープが多くの困難と矛盾を引き起こすことについて空想してきた。どのようにしても、過去は変えることはできない、変えてはいけないという結論になってしまうようだ。
では、未来はどうだろう。未来は、これから切り開いていくモノだから、まだ決定しているわけでは無いと云える。しかし、それでは、未来へのタイムワープで行き先を確定できない。未来へのタイムワープを可能にするためには、未来だって一義的に決まっている必要がある。

若君は永禄に戻るときに、「運命は己の力で変えてみせる」と云った。永禄を生きている人々にとっては、永禄が今である。しかし、現代人からみれば、若君が永禄で頑張って歴史を変えてしまうのは迷惑な話となる。では、現代の我々が頑張ったらどうなるか。その時は、未来の人間がやってきて、こう云うだろう、君が頑張ったところで歴史はもう決まっていると。未来人にとっては、現代は過去なのである。

つまり現在とは、相対的なモノなのだ。現在が相対的な存在である以上、未来も過去も相対的なモノにすぎない。この宇宙では、全てが未来であり、過去でもあるのだ。そして全てが過去ならば、この宇宙の時間軸は一義的に決まっていることになる。この宇宙では、生成から終焉まで、全ては運命通りに進み、切り開くべき未来など存在しないのだ。

宇宙の時空には、現在・過去・未来という区別は存在しない。これが相対的時空論で或る。


唯之介は歴史を変えたのか

ドラマ「アシガールSP」では、唯は、小垣城が落城する前夜に、平成に戻ってきた。そして、忠清の墓を訪ねるのであるが、その墓石には、櫓に突き刺さった刀が刻まれている。刀が櫓に突き刺さるのは、二人が永禄から平成にとぶときである。唯が新しい起動スイッチで永禄にタイムワープしていない時点で、すでに刀の絵が墓石に刻まれているのは、どういうことであろうか。もしも、唯が歴史を変えたと云うのであれば、刻まれた刀が墓石に現れるのは、唯が永禄にタイムワープした後でなければならない。

さらに、コミック第12巻のラストでは、郷土史家の木村先生が、新たに発見された御月家の系図を持って速川家を訪ねる場面がある。そこでは、若君が「御月清永」と名を変えたことが推察されているのだが、御月清永は、緑合藩御月家の礎を築いた名君として、現在の世に語り継がれていることになっている。その御月家は、明治維新まで続いたことになっていて、初代藩主は、若君と唯の間に産れた子である。しかし、唯が永禄にタイムワープする以前から、御月家はすでに存在しているのである。

これらは、時間軸が永禄と平成でループしていることを表している。ループが形成されるためには、永禄が現在である時点で、未来である平成が確定していて、唯のタイムワープが約束されている必要がある。

我々は、自分が存在している今を現在と捉えている。その結果、永禄が現在であったとき、そこに唯は存在せず、永禄が過去になってから、即ち、平成が現在となってから、唯がタイムワープしたと考えてしまう。唯が歴史を変えたと考えるのはこのためである。しかし、時間軸がループしていると云うことは、永禄が現在であった時点で、未来から唯がやってきたと捉えるべきなのである。永禄年間に唯は最初から存在し、この宇宙には、唯が若君を助けた歴史しか存在しないのである。

アシガールには、もう一つ、同様の思想が登場するところがある。それは、尊が未来の自分にタイムマシンの新しい起動スイッチを作ってもらう場面である。未来の自分、或いは子孫に助けてもらうというのは、アシガールの斬新な世界観を象徴する場面といえる。

未来の尊が新しい起動スイッチを作れるかどうかは、平成からは予測不可能であるので、これは一種の賭けである。で、問題は、その起動スイッチを未来の尊が送る行為である。平成に存在しないものを送るのであるから、これは明らかに歴史を変える行為と云える。しかし、我々からすると、未来から起動スイッチは送られてくる。これが全てである。我々には、未来の尊によって歴史が変ってしまったという認識は生じないのである。

歴史の謎を解き明かす

このように、タイムワープした者の働きかけが既に歴史に内包されているという思想は古くからあって、それに基づいた作品も発表されているらしい。ウィキペディアに次のような記述があったので紹介しよう。

「タイムトラベラーによる歴史の改変自体が歴史に含まれているという思想は、主人公に活躍の余地がなく、努力も報われず、カタルシスとエンターティメント性を欠くため、理論的には成り立つかもしれないが、文学的には受け入れられない。」

結果が決まっている物語はツマラナイということのようだが、そもそもドラマ、特に時代劇というのは過程を楽しむものだから、エンターティメント性を欠くというのは、いささか言い過ぎの感があろう。

唯が最初にタイムワープしたとき、羽木家は永禄2年に滅亡するとされていた。しかし、それは、限られた資料を元に推測されていたにすぎない。物語は、唯之介がタイムワープを繰り返し、永禄で活躍するたびに、新資料が発見されていく。まるで歴史が、唯之介の活躍の場を空けて待っていたかのようだ。

物語が進むにつれて、羽木家滅亡の謎が解き明かされていくという演出は、秀逸である。これは羽木家が架空の存在であるからこそ成せる技であるが、ここに織田信長という強烈な実在の人物を絡めた構成は、見事としか云いようが無い。アシガールは、歴史ミステリーの要素も含んだ作品と云える。

羽木家の滅亡の歴史が空白だったこと、つまり、後の世に伝えられなかったのは、永禄年間における唯の活躍や、唯が未来からやってきた女の子であることが、当時の人々の理解を超えていたことと、織田信長との関わりの中で秘密とされたから、と云うことで如何であろうか。

エンターティメント性などは、作者の力量次第なのだ。


過去で未来を切り開く

この宇宙では、現在・過去・未来は相対的なモノに過ぎず、時間軸は一義的に決定していると空想してきた。その結果、パラレルワールドに頼ること無く、タイムパラドックスもそれなりに回避することが可能になったと思う。

では、そのような世界観の中で、唯の行動は、どんな価値を持つのだろうか。

唯が永禄にタイムワープした時点で、唯之助にとって永禄は現在となった。だから思う存分暴れまくれば良い。もちろん、その結果は、歴史的事実として一義的に決まっていることであるし、頑張っても、頑張らなくても、同じ明日は来るだろう。その頑張りは未来から見れば滑稽なことなのかもしれない。でも、それは、この令和の今だって同じなのである。

この宇宙では、全ては過去であると同時に未来でもある。だから、与えられた今を全力で生きる。永禄だって、平成だって、切り開くべき未来は目の前にあるのだから。

2019年8月18日日曜日

丸山純奈「どこから来たの?」PV ~すーちゃんと入間市の縁~

「どこから来たの?」は、入間市出身のミュージシャン「杉山勝彦」さんが、入間市からの委嘱を受け、「入間の子どもへ贈る歌」として制作した楽曲です。

楽曲には、丸山純奈さんがボーカルを担当したメイン版、地元の合唱団による合唱版、ダンスリミックス版があるようです。ライブ動画では、杉山勝彦さんのフォークデュオ「TANEBI」による演奏もあってYouTubeで視聴することができますし、入間に縁のある歌手によるカバーもあるようです。
徳島県出身で、入間とは縁も所縁も無さそうな丸山純奈さんが、メイン版のボーカルを担当したのは、杉山勝彦さんとの「音楽チャンプ」からのお付き合いによるものと思われます。

で、この楽曲のPVの再生数が、6月29日の公開以降、2ヶ月足らずで10,000回を越えました。
YouTube動画で再生数10,000回なんて、全然たいしたことないって思われるかもしれませんが、行政の公式動画が短期間で10,000回を越えるのって、結構凄いことなんです。試しに、お住まいの市町が作成した動画を開いていただれば、お分かりいただけるかと思います。
                     
これがそのPVです。


入間の人たちが、この歌にかける想いの強さは、SNSなどを通じて伝わってきます。
それにしても、地元色満載で手作り感満々の動画です。

しかし、このPV、どうして「すーちゃん」のボーカルで作ったんでしょうか。

メイン版をレコーディングしたのは、一年近く前のことです。あの頃のすーちゃんだったら、杉山勝彦さんの依頼を受けてレコーディングするのも理解できます。しかし、今のすーちゃんは休業中でタレント活動を一切行っていません。これほど、地元「入間」にこだわって制作したPVなんですから、TANEBIが歌うとか、入間の合唱団に歌ってもらうとか、そっちの方がずっと主旨に合っていると思うんです。

PVの完成イベントに丸山純奈さんが参加したという話はありません。それどころか、丸山純奈さんは、今まで一度も入間市を訪れていないのではないでしょうか。

そんな「すーちゃん」のボーカルを採用する理由がよく分からないんですよね。丸山純奈さんが優れた歌唱力の持ち主であるのは確かです。此手の楽曲をクセなくストレートに歌い切るのは、すーちゃんの得意とするところです。しかし、「どこから来たの?」は、誰もが口ずさめるというコンセプトで作られている楽曲ですから、特別に歌唱が難しいわけではありません。どうしても、すーちゃんでなくてはならない理由があるとは思えません。

それでも丸山純奈さんのボーカルを採用するのは、杉山勝彦さん始め関係する方々に何かしらの想いがあるということでしょうか。

一方、丸山純奈さんは、入間市とは縁も所縁も無いにもかかわらず、公式ソングのメインボーカルという縁を得たのです。何故、その縁を大切にしようと思わないのでしょうか。これもまた、不自然です。何か特別の事情でもあるのかと勘ぐってしまいます。

事務所からタレント活動を禁止されているのでしょうか。しかし、クラスメイトのSNSに顔出しするんだったら、入間に行って、挨拶の1つぐらいすれば良いのにって思ってしまうんです。ライブを開いて欲しいとか、ステージで歌って欲しいなんて云っているのではありません。東京に住んでいるんですから、入間に行くことぐらいわけないと思うんですよね。

10月22日には、1080人で歌おう!「どこから来たの?」というイベントが開かれるそうです。丸山純奈さんが、このイベントに参加するのでは、という噂もあるようですが、まだはっきりしていません。


僕は、是非、出て欲しいと願っています。NHKの歌番組に出れるんだったら尚更のことです。いろいろと事情があって、ステージに上がれないというのなら、1,080人の中の1人になるだけでも良いと思います。
入間の方々のこの歌への想いを受け止めて、丸山純奈さんには入間との縁を築いて欲しいのです。

2019年8月13日火曜日

「紀平梨花」今シーズンのフリー演技が4S+3A×2で8トリプルなんて無謀すぎだろう

アイスショー「ザ・アイス」で、紀平梨花さんの今シーズンのフリー演技が初披露された。実力の半分も出せていない感じであるが、まあ、昨シーズンもこんなスタートだったと思う。フリー演技を、滑りにくいアイスショーのリンクで、敢えてするのも練習の内と考えているらしい。


どうやら、衣装は、2年前のシーズンで着ていたものと同じなようだ。新しい衣装が間に合わなかったのだろうけど、中学3年生の時の服が、高校2年生になっても着れるってことか。

それにしても、なんとも不思議で国籍不明な楽曲で或る。今シーズンは、フリーもショートもエキシビションも、良く言えば斬新なプログラムとなっている。
まあ、時には、こういう年度があっても良いよね、ってことかもしれないが、せめて1つはフツーのプログラムを入れていただきかったものである。

梨花ちゃんは、ジャンプに必要な滞空時間を、飛距離で稼ぐタイプであるから、滑走の加速が得られないアイスショーのリンクでは、これがイッパイ・イッパイなんだろう。でも、リンクのギリギリまで使って何とかスピードを得ようとしている姿は、梨花ちゃんでは無く、アスリート紀平梨花である。リンクサイドに座っている観客は、絶対怖かったと思う。

ジャンプ構成については、宣言通りの高難度プログラムになるようだ。今回は、だいぶ失敗したり、転倒したりしてるんで、本当は何をしたかったのか不明な部分も多少あるが、4回転サルコウとトリプル・アクセルを2本入れるのは、確実のようだ。

動画のジャンプ構成は次の通りである。

①3S ②2A(オーバーターン)③3Lz ④3A(転倒)⑤3Lz ⑥3F+1Eu+3S(転倒)⑦3Lo

で、本当にやりたかったことを予想すると。

①4S ②3A+3T ③3Lz+2T ④3A ⑤3Lz ⑥3F+1Eu+3S ⑦3Loって感じだろうか。

冒頭に4回転サルコウを入れてくるのは、確定のようだ。で、そのサルコウについては、跳び方を変えてきているのが明らかに分かる。昨シーズンまでは、ハの字で構えて両足ジャンプのような、安定感を求めた跳び方だったのが、この動画では右足を完全にフリーにして回転をかけようとしている。以前、ネイサン・チェン選手の生演技を見たときに、4回転ジャンプの凄まじい回転スピードに驚いたことがあったが、あれを女子がやろうというのだから、恐れ入るばかりである。

それにしても、ジャンプの跳び方を変えるというのは、バッティングやピッチングのフォームを改造するようなものだろうから、簡単なことではないと思うのだが、わずかな期間でよくできるものだと感心してしまう。

2番目から5番目までのジャンプは、アクセルとルッツとトゥループの組み合わせでできていて、どれにどんなコンビネーションを付けるかは、試合ごとの状況によって変えてくるのだと思う。
不思議に思うのは、2本目のトリプル・アクセルを、基礎点が1.1倍になる5番目で無く、4番目に跳ぼうとしていることである。5番目に跳ぶのは、やはりキツいのだろう。

あとは、兎に角、4回転サルコウのデキにかかると云ったところだろう。
ただ、気になることが1つある。試合になった場合、その日の調子やリンクの状態によって、4回転サルコウを回避して3回転にしたり、あるいは3回転になってしまったりと云うことは、高い確率で起きそうな気がするのだが、そんなときに構成をどう変更するつもりなのだろう。

同じ種類のジャンプは、2種類、2回までしか跳べないので、後に跳ぶ3アクセルか3ルッツか3サルコウを変えなくてはならないのだ。

まず、3ルッツを2ルッツに落とすのは無理だと思う。3回転の練習しかしてない、3回転でしか跳んだことの無いルッツ・ジャンプを、いきなり2回転で跳ぶなんてできるとは思えないからだ。

一番現実的なのは、6番目に跳ぶ3連続ジャンプを3F+2T+2Loに変更することではないだろうか。3F+1Eu+2Sというやりかたもあるが、+2T+2Loは、今までもずーっと跳んできたコンビネーションだから、これならば何の問題も無いように思う。

ただ、僕的には、どう考えても3アクセルを2回跳ぶのが、一番のリスクに思えてならない。

僕は、冒頭の4サルコウが成功しようがしまいが、最初から3アクセルは1回にして、もう1つを2A+3Tのコンビネーションにしたら良いと思う。3A+2Tを2A+3Tにしても、豪快に跳んでGOEをもらえば、大きな得点ダウンになるとも限らないし、4サルコウの成否によって構成を変えることもないから演技に集中できるし、表彰台に乗れるチャンスも大きくなるはずだ。

でも、やっぱり4回転+8トリプルの構成で来るんだろうな。誰が何と言おうと8トリプルで勝負するんだろう。だからと云って、トリプル・アクセルに取り憑かれた悲壮感がないのは、転んでも笑って済ませられる梨花ちゃんのキャラクターの成せる技なんだろう。まあ、怪我だけはしないようにと、祈るばかりである。

2019年8月10日土曜日

(祝)丸山純奈「もっと四国音楽祭2019」出演決定

丸山純奈さんが、NHKの歌番組「もっと四国音楽祭2019」に出演することが発表された。昨年は、徳島県が会場で、今年は香川県のようだから、これからも持ち回りで開催するのだろうか。1年限りの企画で終わらなかったのは、よほど昨年の評判が良かったのだろう。さすがNHKである。表面的な視聴率だけに左右されないこの姿勢を、いつまでも続けていって欲しい。
ただ、BSでも放送されるとは云っても、総合放送が四国4県だけの放映であるのが残念極まりない。四国の魅力をギュッと詰め込んだ音楽祭だそうだが、四国の魅力は四国だけに留めず、全国に発信していただきたいものである。


昨年のメインゲストは歌怪獣さんだったが、今回は氷川きよしさんのようだ。ただ、リト・グリが出ないのであれば、それに代われるようなアーティストを呼んでいただきたかった。リト・グリの代わりがナンチャンだったら、申し訳ないが、ちょっと悲しい。

それにしても、すーちゃんが出てくるとは思わなかった。これを機にメジャーデビュー・・・なんて気配はないので、この番組限定でNHKが口説き落としたのだろう。番組のテーマソング「ふるさとの色」を今年も歌うのであれば、彼女にオファーを出すのは当然ではある。が、彼女は「しばらくは人前で歌うことは無い」と宣言していたわけで、そんな子を引っ張り出してきたNHKは、これまたさすがである。


逆に云えば、すーちゃんも大したモノである。NHKの歌番組に出ることを熱望している歌手なんてゴマンといるだろうに、当然のように連続出場してしまったからだ。まあ、その凄さと期待が彼女の負担となっていた感はあるけれども・・・。

今回は、ノドを酷使しての体調不良とかないだろうし、準備期間もあるわけだから、存分に実力を発揮ててくれるものと思う。


とは云っても、昨年のこのテイクも素晴らしかった。この2日前に喉を痛めて、2週間後に入院しちゃったんだな、なんて思いながら見ていると、スローバラードにもかかわらず、彼女の歌にかける気魄が伝わってきて、リアルに泣けてきてしまう。

 先月、タレント・モデルの「白井杏奈」さんのSNSに、クラスメイト(丸山純奈さん)とカラオケに行ったことが投稿されていた。
元気でいることが分かったのは良いが、丸山純奈は休業中とは云えプロの歌手のはずだ。それが自分たちで金払って、カラオケボックスでクラスメイトの鳥肌をたたせてどうする。金はこっちが払うから、ステージでファンの鳥肌をたたせて欲しいものだ。なんて思っていたところだったから、今回、手放しで喜べるニュースが発表になったことは、嬉しい限りである。

番組の広報には「今年徳島から東京へと活動拠点を移した丸山純奈が初凱旋し、進化する“天使の歌声”を披露。」とあった。だいぶハードルを上げられちゃったようだが、当然のことである。
僕は、出てきてくれただけで嬉しいなんて全然思わない。何のために上京したのか。何のためにライブ活動を休止したのか。是非とも、進化した丸山純奈を見せていただきたいものである。

もしも、進化が感じられなかったときは・・・その時は、思いっきり扱き下ろしてやろうと思う。

2019年8月8日木曜日

「アルキメデスの大戦」はマニアックに楽しむ地味な映画だった(超ネタバレ)

予定には無かったんですけど、ひょんなことから「アルキメデスの大戦」を見てきました。で、折角ですから、元海軍ヲタクとしての感想を述べさせていただきますね。

こんな映画です。作品紹介では「帝国海軍という巨大な権力に立ち向かい、数学で戦争を止めようとした男の物語」とありました。


いつも思うんですけど、予告編って上手に作るものですね。本編よりも迫力があるように思います。

全体的な印象としては、面白かったです。ただ、かなり地味な映画でした。冒頭の大和が撃沈されるシーンは、それなりに迫力がありましたけど数分間だけでしたし、映画の中で主人公がやったことと云えば、新型戦艦の正しい見積額を算出しただけです。丁寧に作った2時間スペシャル・ドラマって感じでしょうか。戦争映画としては「男たちのYAMATO」が、娯楽映画としては「シン・ゴジラ」の方が何倍も迫力がありましたからね。

僕は、原作コミックを知りませんでしたけど、こちらはスケールの大きな作品のようで、映画は原作のほんの一部分に過ぎなかったみたいです。映画としてムリヤリ2時間のドラマにまとめてしまうよりも、連続ドラマのほうが世界観を出せたかもしれません。

物語は「山本五十六」とか実在の人物がでてきますけど、実話ではありません。念のため。

でも、海軍ヲタク的には、面白いところもありました。1933年(昭和8年)、太平洋戦争の開戦8年前が舞台ですので、軍艦なども、ちょっとマニアックなのが出てくるんですけど、ちゃんと時代考証されていましたよ。きっと、原作者か映画監督か分かりませんけど、誰かがバリバリの海軍ヲタクなんでしょう。


まず、1つめは三段甲板の空母赤城ですね。山本五十六少将(当時の肩書きは、第一航空戦隊司令官)が、航空母艦からの発艦試験を視察している場面です。VFXとは云え、三段甲板の赤城が見られるとは感動です。


で、発艦していたのが、こちらの戦闘機(九0式艦上戦闘機)ですね。この頃は、まだ複葉機ですし、半分は木でできてるし、そもそも船から飛行機が飛び立てるかどうか分からないっていう時代だったんですよね。それが、この10年後にはゼロ戦が登場するんですから、航空機発達のスピードって凄かったんだなって思います。


次は、戦艦「長門」。主人公の櫂少佐が戦艦を視察するために長門を訪れるのですが、それが、この屈曲煙突タイプの長門なんですよ。2本ある煙突の前のやつが曲がっているでしょ。これは大改修される前のタイプなんですよね。


戦争というのは、刻一刻と戦況が変化します。ですから、軍艦も対空装備を増強したり、機関を改良したり、レーダーを取り付けたりと、どんどん改修されて姿形を変えていくんですけど、今までの戦争映画って、そういうところに無頓着って云うか、適当に作られているものが多かったんです。
 「アルキメデスの大戦」では、建造されたばかりの大和と、撃沈されたときの大和と、ちゃんと描き分けていて、なかなか分かってるじゃんって思いました。

あと米軍では、雷撃機「TBF アベンジャー」とか、急降下爆撃機「SB2C ヘルダイバー」とかも良くできていて、格好良かったです。

ただ、戦闘のシーンは、ほぼVFX。昔の戦争映画みたいに、実物大の戦艦のセットを組み立てて、俳優さんが演技して、本物の飛行機を飛ばして、火薬がドッカーンみたいな映画はもう撮れないんですね。
今回の大和撃沈のシーンとか、本当に頑張って作ったと思うんですけど、VFXの技術が進歩して、いろいろデキるようになった反面、反対にやり過ぎちゃって嘘っぽく思えちゃいました。

戦闘シーンで人間が演じているのは、対空機銃を撃っているところぐらいでした。「大和」って、竣工したときと撃沈したときとでは、乗組員が800人くらい増えているんですけど、それは、飛行機の攻撃に対抗するために対空機銃を大量に増設したので、そのための兵隊さんたちなんです。


「三連装25ミリ高角機銃」って云うんですけど、上下左右に動かすのに、兵隊さんが人力でハンドルを回していて、目測で照準を合わせて撃ってるんです。で、弾倉は15発入りの箱型弾倉。15発撃つごとに弾倉を交換するんですけど、担いで運んでるんですよね。これで、時速300km以上で飛び回っている飛行機を撃ち落とそうって云うんですから、当たったら奇跡です。しかも米軍機は装甲が厚いんで、2,3発当たったくらいじゃなんともないんですから。
(ちなみに、大戦末期の米軍の40ミリ対空機銃は、対空レーダーと連動して自動で照準を合わせる優れもの)

あと、撃墜された米軍機からパイロットがパラシュートで脱出、海上に漂流しているところを飛行艇がやってきて救助、それを日本兵が呆然と見ている(撃てよ!)というシーンがありました。実際は、戦闘中に救助活動を行うなんてのはありませんでしょうけど、米軍がパイロットの救出に全力をあげていたのは事実です。
このブログでも何度も取り上げたように、これは人命尊重なんてことでは無くって、パイロットを育成する時間とお金を考えた合理的な理由からです。飛行機はいくらでも代わりがあるわけですから、パイロットさえ無事でいれば、戦力の低下にはならないわけで、これが、兵士を使い捨てにした日本軍との決定的な違いです。このシーンを象徴的に挿入した映画監督は、そのへんのところがよく分かっている方のようですね。

さて、数学で戦争を止めるという映画ですから、その辺のことも考えなくてはいけません。

この物語は、帝国大学を退学になった22才の軍隊嫌いの天才が、山本五十六少将の口利きで、いきなり海軍少佐に任官する話です。階級絶対主義の軍隊で、トンデモナイ奴が少佐なんですから、いろいろとドタバタが起きるんですけど、ここは一番面白いところだと思ったんで、もう少し見たかったですね。

山本五十六少将の論理はこんな感じ。

海軍で超巨大戦艦の建造計画が持ち上がっている。→そんな戦艦を手に入れたら、日本は戦争に勝てるという幻想を抱いてしまう。→でも、示された建造費が安すぎる。→その不正を曝けば建造を中止できる。→日本は戦争への道を歩まなくて済む。

で、この映画で、櫂少佐が行った仕事は、次の2つです。まずは、全く情報が得られない絶望的な状況の中で、わずかなスペック表と戦艦長門のデータを元に、新型巨大戦艦の基本設計図を作ってしまいます。(さすが天才)次に、その設計図を元に正しい建造費を計算しました。

櫂少佐は、絶対的に時間が足りない状況で、設計図から建造費を割り出すために、鉄の使用量から建造費を計算するという超裏技を編み出します。

大阪の造船所で既存の軍艦のデータを見ていた櫂少佐は、建造に使われた鉄の量と建造費の間に、ある関数が存在していることを発見します。変数が鉄の使用量の1つだけで、他は定数の関数です。それで分かったら確かに凄いです。潜水艦と駆逐艦があって、もしも鉄の使用量が同じだったらどうなるんだろうって、ツッコミたいところですけど、まあフィクションですから良しとしましょう。黒板の一行目にあるのが、その関数ですよ。


で、正しい見積額を曝いて、不正を糾弾して、ついでに新型戦艦の設計ミスを指摘して、戦艦の計画を白紙撤回させて、という感じにストーリーは進んでいきます。

ところが、山本五十六少将の真の目的は、その予算で空母機動部隊を編成して、アメリカとの戦争が始まったときに真珠湾を先制攻撃することでした。結局、櫂少佐は、海軍という巨大組織に利用されていただけだったんです。

櫂少佐は、新型戦艦を設計した平山造船中将から、巨大戦艦にかける思いを聞かされます。

平山中将の論理はこんな感じ。

アメリカとの戦争は避けられない。→日本は滅びるまで戦争をやめないだろう。→もし、日本を象徴する巨大戦艦があって、それが沈めば日本は絶望し降伏を考えるだろう。→巨大戦艦は、日本という国家の身代わりとなって沈むのだ。→そのために、美しく完璧で誰もが誇りと思える戦艦を造りたい。戦艦の名前は「大和」。

結局、櫂少佐は大和の建造に協力してしまいます。大和が完成したその日、櫂中佐(襟の階級章の星が2つになってたのを、僕は見逃しませんでしたよ。)は、数学的に完璧で美しい巨大戦艦に涙を流すのでした。って感じです。

戦艦大和が海軍の象徴だという思想は確かにあったと思います、当時の日本国民の中にも、大和があればアメリカに勝てる、未だ日本には大和があるから大丈夫だ、という考えが存在していました。
それは、アメリカ軍も同じで、大和を沈めることが戦争を終わらせることになると考えていました。


大和が沖縄に向けて出撃したとき、アメリカ軍は、その行動を完璧に把握していました。通常ならば、作戦を阻止するのが正しい戦略のはずなんですけど、アメリカ軍は、追跡している潜水艦に「絶対、手を出だすな」って命令しているんですよね。大和が作戦を中止して日本に引き返したら困るんです。

日本側から見ても、大和が沖縄に出撃したのは、戦略的に全く意味の無いことでした。でも、作戦は実行されました。これは、日米両海軍が、戦争を終えるために行った「セレモニー」だったんですよ。3700名の命を犠牲にしての。

戦艦大和は、1945年(昭和20年)4月7日に沈みましたが、日本は戦争をやめませんでした。日本が降伏を決断したのは、8月9日のソ連侵攻によってです。
もし、日本が、平山造船中将の思惑通り、そして沖縄が占領された時点で降伏していれば、日本の地方都市への空襲も、広島・長崎の原爆投下も、北方領土占領もなかったことになります。

2019年8月4日日曜日

黒島結菜とNHKドラマ「アシガール」 ~小垣城奪還戦と小荷駄組~

「アシガール」は、戦国時代を舞台としたコミックですが、互いの軍勢が白兵戦で斬り合う場面は出てきません。まあ、実際の合戦でも、武将と足軽が斬り合うことなど無かったと云われてますし、アシガールは、そこがメインの作品ではありませんから、無理をして描かないというのは正しい選択かと思います。

一方、ドラマでは、この合戦シーンが一番の見せどころとなっています。コミック、アニメ、実写と物語の表現方法っていろいろありますけど、時代劇に関しては、実写に敵う物はありません。百年以上前の白黒無声の活動写真の頃から、チャンバラ映画を撮っていたわけですし、殺陣師なんて芸術の域ですからね。VFXなんかとは歴史の重みが違います。


アシガールでの最初の合戦シーンは、ドラマ第3話、コミックでは第2巻に描かれている「小垣城奪還戦」です。この時、唯之介は、小荷駄組の足軽として参戦することになります。

リンクは、長野県富士見町の今井建設さんのブログです。今井建設さんは、野外ロケの支援作業を請け負っている企業さんです。10分あまりの合戦シーンのために、たくさんのお金と汗と愛情が費やされているかが分かります。
ロケが1週間、その準備に1週間、ロケハンから含めるとそれ以上なんですね。これを見る前までは、ロケって適当な野原に行って撮影してくるだけかと思っていました。
ロケ現場への大型機材の搬入にそなえての林道の整備、仮設トイレや更衣室用のコンテナの設置、整地に下草刈り・・・すごく勉強になりました。



百姓足軽の唯之介が、小荷駄組(小荷駄隊とも)に配属されたというのは、秀逸な設定です。時代考証が滅裂だなって思わせておいて、こんなふうにキラリと光る絶妙な設定があるんですから、不思議な物語です。

戦国モノって数え切れないほどありましたけど、荷駄組を取り上げた話というのは記憶にありません。僕も荷駄組なるものがあったことは知っておりましたが、映像として再現されたものを見るのは初めてでした。同時期に放送されていた大河ドラマ「おんな城主・直虎」を上回るかのクオリティー。とても、ラブ・コメディーの1コマとは思えませんですね。


ドラマでは、小荷駄組は軍勢の「尻」という名台詞が出てきますけど、尻にあるのは、それだけ大切なものだからです。何千人もの軍勢を運用するには補給が如何に大切か戦国武将達は身をもって知っていたわけで、荷駄組は進軍の時は最後尾に置いて、撤退の時は先頭に配置していました。(太平洋戦争で、輸送船団をおいてきぼりにして撤退してしまった、どこぞの海軍とは大違いです。)


ドラマでは、大荷駄組と小荷駄組という言葉が出てきます。一般的には、陣地の設営に必要な木材とか陣幕などを運んだのが大荷駄組、食料などを運んだのが小荷駄組とされていますが、実際にこのように分けていたかどうかは分かっていません。というのは、単に「荷駄組」と記載されていることも多くって、「大」「小」の使い分けがハッキリしないからです。大小が運ぶ荷物でなくって、荷駄組の規模を表している可能性も考えられます。
 
僕が、荷駄組の存在を意識したのは、川中島の戦いの解説書を読んだときでした。軍記物というのは話を盛っていて歴史の資料的価値はあまり無いと云われてますけど、まあ、雰囲気を知ることはできるかと思います。

永禄4年、春日山城から出陣した、上杉謙信率いる越後勢18,000は、善光寺付近で、大荷駄隊と後詰めの兵5,000を切り離します。謙信は残りの13,000を率いて妻女山に陣を構えて・・・となっていくのですが、僕は、この5,000人を切り離したことがどうにも納得できなかったんですよね。第4次川中島合戦(八幡原の戦い)というのは、数の上で優勢だった武田軍が、軍勢を2つに分けて上杉軍を挟み撃ちにしようとして、(軍師山本勘助が考案したキツツキの戦法ですね)それを察知した上杉軍が伝説の「車懸りの陣」で先制攻撃を仕掛けることで始まります。この時、後詰めの5,000の兵を投入していれば、武田信玄の息の根を止めることもできたのではないかと思ったんです。


でも違うんですよね。謙信が切り離したのは、補給部隊である大荷駄隊です。後詰めの兵は荷駄を守る護衛です。ドラマで再現されているところの、背中に鍋を背負って歩いているような百姓足軽たちなわけです。謙信は、彼らを切り離して、迅速に行動できる戦闘部隊だけで武田軍と対陣しようとしたと考えられます。

ただし、荷駄隊が運んでいる軍事物資というのは、盗賊にとっては絶好の獲物であります。敵方が盗賊を使って荷駄組を襲わせるなんてこともあったかもしれません。荷駄を守るというのは、とっても大切なことで、そのためにも、ちゃんと護衛の精鋭部隊を付けているわけです。(太平洋戦争で、敵潜水艦がウヨウヨしている海域を、護衛艦も付けずに輸送船を航行させた、どこぞの海軍とは大違いです。)

ここから分かるのは、13,000の軍勢を運用するのには、プラス5,000の補給部隊が必要だということです。つまり、総軍の3分の1くらいは、補給部隊とそれを守る護衛なんですよね。
軍勢の3分の1をしめながら、戦国ドラマでは全く描写されなかった荷駄組に、スポットを当てたアシガールの原作者さんは流石です。ただ、この時の、小垣城奪還戦に投入した軍勢は一万!!!?
って、いったい何処から、どんな根拠で出てきた数字なんでしょうか。
ドラマでは、この時の軍勢の数には、一切触れていないんですよね。これもまたNHKのナイス・フォローと云ったところでしょう。


ドラマ判アシガールの第3話のラストは、銃声を聞いた小荷駄組の唯之介が、走って走って前の部隊を追い抜かしていって、最前線に飛び出ちゃうんですけど、僕、このシーンが大好きなんです。


ここでは、足軽の武具が弓とか槍になってますね。荷駄組を追い越して本軍に追いついちゃったみたいです。さすがNHK。きめの細かい演出です。
確認いたしますが、これは黒島結菜ちゃん主演のラブ・コメディーですからね。


生まれて初めて、人が殺されるところを見てしまい、ショックを受けています。平成生まれの女子高生なんですから致し方有りません。

ちなみに、川中島の合戦(八幡原の戦い)では、両軍合わせた33,000人のうち戦死者は、7,000人に上ったと云われていて、戦死率は、20%を越えています。これは、この時代の野戦では桁違いの多さで、如何にこの戦が激しかったかを物語っています。逆に云えば、野戦での戦死率は、僕らが思っているほど高くは無くって、関ヶ原の戦いでは、負けた西軍でさえ戦死率は10%ほどだったと云われています。近現代戦と違って武器の殺傷能力も低いですし、誰だって死にたく有りませんからヤバくなれば逃げますからね。戦国時代の戦場に死体がゴロゴロ転がっているのは、過剰な演出なんだそうですよ。