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2024年9月16日月曜日

炭焼きレストラン「さわやか」に爽やかな気分で来店するために

3連休を迎え、静岡県限定レストラン「さわやか」の待ち時間が、とんでもないことになっています。従業員の働き方改革(?)で、木曜日を定休日にし営業時間を22時までに短縮したことと、10月から再値上げが予告されていることが、混雑に拍車をかけている要因のようです。

で、恐いモノ見たさもあって、この時期に、敢えて「さわやか」に行ってきました。午後1時に整理券を取りに行って、320分待ちであります。ご案内予想時刻18時16分ですから、お夕飯にちょうど良いですね。待ち時間は、ホームページを見ればリアルタイムで分かりますから、食べたい時刻から逆算して整理券を取りに行ったわけで、全ては計画通り。午後は、家事などをして過ごしました。

よく「3時間待ちとか5時間待ちとかして食べる価値ある?」なんてコメントを見ますけど、ハッキリ言って「無い」です。生焼けのハンバーグを食べるために半日費やすなんて悲し過ぎます。「さわやか」で並ばずに食べる方法などを紹介しているサイトもありますけど、そもそも320分を待ち時間と考えることが間違っていて、これは、320分後に予約が取れたと解釈すべきことであります。だって、来週の土曜日にイタリアンレストランの予約を取ったときに、96時間待ちなんて云いませんでしょ。

大事なことは、この320分間をどう過ごすかってことです。な~んにも無くってぼ~としてたら、本当の待ち時間になっちゃいます。地元民なら、一度帰って出直しますけど、観光で来ているのなら、この待ち時間をどう過ごすのか、計画をしっかり立てて来店することを強くお勧めします。

開店が11時で整理券の発券が10時からでしょうか。たまに、店頭で8時頃から整理券をもらうための行列を見ますけど、あれってツラいですよね。並ぶのがスキって云うのなら良いんですけど、発券までの2時間って只の待ち時間じゃないですか。で、1番の整理券をもらったところで、入店は3時間後の11時ですからね。だったら、開店の11時に行って、3時間待ちの整理券もらった方が、時間を自由に使えるぶん、良いんじゃないかと思います。

御殿場店はアウトレットがありますから、整理券をゲットしてから、アウトレットで1日遊んでいれば問題ありませんが、他店では、待ち時間の過ごし方の計画を立てておくのがベストに思います。短い時間でしたらタリーズとかコメダ珈琲でしょうけど、長泉店だったら箱根方面かな。三島スカイウォークとか、巨大アスレチックとかが人気スポットですけど、芦ノ湖まで足を伸ばせばノンビリできるところはたくさんあります。函南店だと、待ち時間1時間なら「かんなみ仏の里美術館」がお勧めです。涼しい展示室で、重要文化財の阿弥陀如来さんが、食事前の高ぶった気持ちを厳かに静めてくれるでしょう。あとは、「函南ゲートウエー」、ここには「めんたいパーク」なんかもありますから、ちょっとした時間を潰すには良いと思います。ただし、美味しそうな「明太子おにぎり」の魅力に負けて食事に差し支えることのないようにしましょう。3時間あれば「韮山」「伊豆長岡」。5時間あれば「三津シーパラダイス」にも行けますけど、ここまでくると、何しに来たのか分からなくなってしまいますね。函南店の待合室には、観光案内マップもあるようですから、待ち時間を予約時間にするためにも活用していただければと思います。

整理券のQRコードから、残り何組待ちか分かりますし、来店案内のメールも来ます。でも、300分待ちとかになると、整理券をもらっていても来店しない奴とかが結構いるので、思いの外、早く呼ばれてしまうことがあるんですよね。こんなときは、整理券に印字されてる「ご案内予想時刻」が大事になります。予想時刻より前であれば、順番が過ぎていたとしても、すぐに案内してもらえます。ただ、予想時刻を過ぎてしまうと、原則キャンセル扱いになりますから、時刻を確認してから予定を立ててくださいね。

連休中の「さわやか」は激混みなのが分かっていますから、地元民は寄りつきません。平日の夕方でしたら、待ち時間0分なんて日も多いですからね。ですから、連休中の駐車場は県外ナンバーの車ばかりです。この日は、北は「八戸」から、西は「長崎」。首都圏の車も多くって、品川ナンバーのフェラーリとかありました。

さて、開店時から閉店までずっと満席状態の「さわやか」店内ですけど、とにかく笑顔で溢れておりました。さわやかのバイトさんは、高給だけど激務と云われてますが、とにかく笑顔の接客です。メニューを置いて水を出してくれると「決まった頃に伺います。」と云って去って行きます。呼び出しボタンはありませんが、頃合いを見てオーダーを取りに来ます。料理をサーブされた後は、焼き加減を聞きに来て、水をついでくれます。満席なのになんでこんなことができるのかと云うと、クルーが多いんですよね。ざっと見ても、フロアーで5・6人、キッチンに4・5人はいます。人的に余裕があって、店員さんがテンパってないからこそできるサービスであります。だから、「さわやか」の店舗は集客力は凄いけど、人件費がかかるので、利益率はそれほどでもないと云われています。

大好きな「さわやか」の季節のパフェも、メロンとかシャインマスカットとか1000円超えのものが多くなり、来月の再値上げでは、看板メニューのげんこつハンバーグも1500円を超えることになります。接客のクオリティを維持するために、働く環境を整え、来店者数の減った分は客単価を上げて対応するという方針でしょうか。お客さんを笑顔にするには、まず従業員が笑顔であること。そして、その笑顔には、コストがかかるってことなんでしょう。


過去の記事です。古い情報もありますが、参考までに。         

さわやか」にひたすらウンチクを傾けてみた

GWの御殿場店が400分待ち!

パフェ歳時記

「さわやか」語る。その6

          


2024年5月19日日曜日

おすすめ動画に出てきた「えくぼっち」って、誰? ~1本の投稿から中高生のインフルエンサーになった女の子の話(妄想)~

連休中に暇してスマホをながめていたら、突然「えくぼっち」なる女の子のショート動画が出てきた。以前から書いているように、僕は普段から女の子の動画ばかりを見ているわけでは無いので、YouTubeのアルゴリズムがこのような動画を送りつけてきた理由は不明である。


そういえば、何ヶ月か前にも、同じ子の動画が送られてきたことがあった。その時は、今時の女の子がTikTokをおもちゃにして遊んでいるように思えたのでスルーしていた。(しつこいようだが、僕は女の子の動画なら何でも喜んで見ているわけではない。)でも、今回はコメント欄に気になるところがあって、チャンネルを開いてみた。ああ、YouTubeもやっているんだって(暇してたから)いくつかの動画を見たわけである。

チャンネルの構成は、TikTokやショート動画が男子向け。YouTube動画は女子向けと云った印象で、全く異なる二系統の動画が1つのチャンネルを構成しているところが面白かった。交際してる彼氏が「えくぼっち」のファンで、嫉妬した彼女がチャンネルを覗いてファンになってしまったなんて話は、彼女のチャンネルの二面性を良く表してるエピソードだ。繰り返し云うが「えくぼっち」が、ただ可愛いだけのTikTokerだったら、僕はブログ記事を書くことなどなかっただろう。


まずは、男子向けのショート動画から幾つかを貼り付けさせて頂こう。いい歳をした大人が見るようなモノではないので、視聴は自己責任でお願いしたい。あと、家族には、決して覗かれないように。


TikTokのようなショート動画は、加工アプリを使って補正することが多いとのことである。加工アプリとは、顔の色艶を良くしたり目をパッチリしたりという、所謂デジタル上の美容整形らしい。最近ではAIによる画像処理機能が付いているモノもあって、加工されていることに気付かないことも多いそうだ。(僕もである。)


ナチュラルメイク+マスク+加工アプリという三重のコーティングを施されている画像が、可愛くないわけが無い。


中には、マスク無しの無加工みたいな動画もあるようで、まあ、結論としては「えくぼっち」は、そのままでも十分可愛い女の子ではある。


彼女がSNSの世界に登場するようになったのは、約束の時間に遅れそうになり、パジャマ着でファミレスにやって来たのを、幼馴染みで親友の「のんちゃん」がTikTokに投稿したのが最初らしい。パジャマ着が天然なのか演出なのかは分からないが、えくぼっちがボケの素養のある女の子であることは確かだ。


極度の人見知りで、進学した高校で「ぼっち」だった彼女だが、投稿がバズり、フォロワーが増えるにつれて、自らを人に魅せる術を学び、周囲から期待される「えくぼっち」を演じるようになったようだ。TikTokのフォロワー40万人、インスタグラムのフォロワー30万人、YouTubeのフォロワーが20万人とあった。もちろん3つの数字は被っているのだろうけど、令和の大女優(?)「黒島結菜」さんでさえ、インスタのフォロワーは30万人ちょっとなのだから、活動歴2年足らずの一般の女子高生で、このフォロワー数は凄いことに思う。


えくぼっちは、現役高校生(未成年)であるので、個人情報は一切公開されていない、とは云っても、素顔をこれだけ晒していれば、近しい者は当然分かっているだろうし、学校にバレそうになったけどシラをキリ通したと語る動画があって、面白可笑しく作られているが、SNSを投稿するにあたって、学校と何かしらの約束が交わされたことは確かなようである。通っている学校についても未公表であるが、ショート動画に写っている背景や他の様々な情報を合わせれば、ネットでの噂は、まあ、その通りなんだろうなと思う。

そんな「えくぼっち」だがTikTokを始めて半年を過ぎた頃、投稿動画がヤラセではないのかということで炎上したそうだ。これはフォロワーが一定の数を超えると必ず起きる現象で、エスカレーターで振り返った姿がわざとらしいといった類いの、本当にくだらない誹謗なのだが、高校生の二人にはキツかったのかもしれない。えくぼっちがYouTubeを始めたのも、この時からのようだ。


動画は「えくぼっち」が美味しそうに独り外食している映像に「ぼっち」ネタを語る音声を被せるパターンだ。兎に角、ボケまくるので突っ込み所は満載である。って云うか、視聴側にツッコませるように、ボケているのかもしれない。独特の雰囲気を持った子である。食べてる姿が可愛い。一見すると、テキトーに撮った映像にナレーションを被せただけのようだが、視聴者が不快に思うであろう瞬間は、ちゃぁんと編集されている。

ぼっち系チャンネルというのは、YouTubeでも1つのジャンルを形成してるらしい。大抵は、ソロキャンプとか、独り外食が多いようだ。って、独りでやれることなんて、それくらいしか無いのだろう。このチャンネルの動画も、ぼっち系のありふれたシチュエーションなのだが、面白いのは、その語りの部分である。

ナレーションで声真似を入れながらボケまくるのは、さすが関西圏の女の子。ただ、語る内容については、わりと重い話もあって、画面とのギャップが、これまた面白い。意外と中毒性もあって、同じ動画を繰り返し見てしまう。動画の内容は多岐にわたるが、取りあえず貼り付けさせていただくのは、これ。


お箸の持ち方から、左利きなのかなと思っていたが、よく見ると映像が反転になっていた。身バレ防止のためにしては、周りの文字が反転してるのはそのままだから、ツメが甘すぎる。店員さんの名札にもぼかしを入れるなど、編集にはちゃんと気を使っていることを思えば、文字の反転に気がつかないなんて有り得ない。実は、左手でご飯を食べる女の子は可愛く見えると云う説があって、もしこれを実践しているのだとしたら大したことに思う。と書いたのに、上の動画は右で持ってる。

こちらは、朝のルーティン。動画の編集力ってのは、1つの才能である。


「ぼっち」なのに、こんなに可愛くて、面白くて、才能がある子がいる。ならば「ぼっち」であることは、恥ずかしいことでも、劣っているわけでもないわけで、だからこそ「私も頑張るから、皆も頑張ろ」という言葉に、多くの中高生が励まされるのだと思う。

「ぼっち活動を楽しみましょう。」と云っても、彼女は友人関係を否定しているわけではない。「学校は無理して行かなくても良い。」と云っても、学校を否定しているわけでもない。彼女自身、勉強を疎かにしているわけではないし、和気藹々としたクラスを羨ましいと思っている。「学校を休んだ日の午前中は、もの凄い罪悪感に苛まれる。」「とりあえず、五月を乗り切ろう。先のことは考えずに、楽しいことだけを考えて。」とか、この言葉に共感する子は多いと思う。

こちらは「銀の盾」を貰った時の動画である。チャンネル登録者10万人というのは、YouTuberならば誰もが目指す目標であり、一人前のYouTuberとして認められる証であり、(収益化の具合にもよるが)YouTuberとして生活できるかどうかのラインだそうだ。


銀の盾をもらって、テンション上がりまくりのえくぼっちと、冷静に語るもう一人のえくぼっち。動画の音声を消すことなく、ナレーションを被せるという手法である。こういう構成にお手本となる動画があるのか僕は知らないが、2つの音声の比率が7:3という、聞こえるかどうかのぎりぎりの比率になっているのが秀逸である。


YouTubeのフォロワー数は、20万人を越えた今も着実に増えている。今年は受験生だろうから、定期的に動画をアップするのは大変なことだと思う。まあ、ツラい時には、学校を休んでも構わないように、大変な時は、動画をアップする必要もないわけで、勉強が忙しいので動画はお休みと云ったとしてもフォロワーは納得するだろうし、むしろ、そういうリアルな姿をファンは支持しているのだと思う。

最後は、謎動画「ASMRウーラーヤハヤハ」で、お終いにしよう。「ちいかわ」の中で1番の推しである「うさぎ」になりきってプルコギピザを食べるだけの動画である。美味しそうに食べているように見せる編集法にも注目したい。ちなみに、僕の1番の推しは「モモンガ」である。「回り込んで、見ろ!」


ASMRって、咀嚼音を延々と聞かされる動画のことだっけ?

では、では。

2023年2月4日土曜日

炭焼きレストラン「さわやか」を語る(その6) ~至極のパフェが遂に900円超え~

炭焼きレストラン「さわやか」が相変わらず繁盛しています。特に、首都圏に近い県東部の店舗の混み具合が半端ないようです。平日は、それほどでもありませんが、成人の日の三連休なんて、どの店舗も5時間待ちとかになっていました。

「さわやか」は、炭焼きレストランと名乗っている通り、肉は炭火で焼いています。随分前になりますけど、開店前のキッチンをちょっとだけ見せてもらう機会がありました。炭火なんて云っても下からガスで煽っているんじゃないの、なんて思ってたんですけど、本当に炭火だけで焼いてました。そういえば、この上に油をこぼして、火事になった店舗がありましたね。

「さわやか」は、土日になると約900人のお客が来店するそうです。週末の「さわやか」は、午前11時の開店から午後11時の閉店まで常に満席ですから、900人という数は1店舗当りが対応できるお客さんのマックスになります。つまり、さわやかは、定員900人の来店予約制ファミレスであります。これを、7名のキッチンスタッフと10人のフロアー係でまわしているそうです。店長さんもアルバイトさんも「さわやか」で働くことに誇りを持っているのが分かります。どんなに混できても決してパニクりません。こういうところはテーマパークのクルーと似ています。

1月4日には、御殿場アウトレット店の整理券が、フリマサイトに出されていたそうで、ネットニュースになっておりました。何時間も並ぶなんて馬鹿馬鹿しいみたいなコメントもありますが、アウトレット店の待ち時間はネタみたいなものですから、皆さん「400分待ち」みたいな整理券をゲットして面白がっているわけです。念のため話しておくと、さわやかは整理券方式ですから、5時間待ちと云っても店の前に並ぶ必要などなく、番号が近づいてメールで呼ばれるまでは何処で何をしていても構わないわけであります。よく、行列必至なんて書き込みがありますけど、さわやかの店舗前に行列なんてありません。2時間待ちなのであきらめましたなんて書き込みもありましたが、できることならば2時間前に整理券を取っておくことをおすすめしますね。

地元民だったら、食事したい時間を逆算して整理券を取りに云って、家に帰って出直しますし、観光客の皆さんは、待ち時間の計画を立てておくことをお勧めします。アウトレットならばいくらでも時間はつぶせますし、チョット足を伸ばして箱根方面で遊ぶこともできます。さわやかの待合室には、周辺の観光施設のパンフレットなども置いてあります。駐車場には、ちゃっかりとタリーズの看板も出ています。こう云うのを経済波及効果というのでしょう。コメダ珈琲も近くにありますが、コメダは食事に差し支えますのでやめておきましょう。

そんな「さわやか」も3月からは、いよいよ値上げをするそうです。全品10%程度とのことですが、このご時世では致し方ありません。

さて、さわやかは、年5回、季節毎にパフェメニューを変えるですが、冬の「三ヶ日みかんパフェ」が終了する前に行ってきました。僕は、さわやかで一番のメニューは、あの生焼けハンバーグではなく、パフェだと信じております。ネットでも「この程度のハンバーグならば他でも食べられる」なんて書き込みがありますけど、確かにそうです。けど、パフェは特別です。税込み800円未満で、このクオリティーのパフェを出してくる飲食店を僕は知りません。でも、注文する人、全然いないんですよね。僕が行った時間帯で三ヶ日みかんパフェを食べていたのは、僕だけだったみたいです。勿体ない話です。

ファミレスのパフェといっても、缶詰の蜜柑なんかじゃなくって、生の蜜柑を丸ごと一個使ったパフェですから侮れません。三ヶ日みかんと云っても、ピンからキリまでありますが、さわやかの蜜柑は、今シーズン食べた蜜柑の中で一番美味しかったです。まあ、生クリームが付いていましたけど。

「季節のフルーツパフェ」は、今は苺に変わっております。今年も静岡県産完熟大粒「紅ほっぺ」7粒使用の苺パフェです。昨年は、確か丸ごと使っていたはずですが、今年のパフェは、スライスしてあるようです。これで、税込み935円ですから、食べるしかありません。

って、ここまで書いてきて思ったんですけど、昨シーズンの苺パフェは、800円以下だったような・・・。3月を待たずに、デザートメニューは先行値上げってことなのかなぁ。まさか、ここからさらに10%アップってことは無いですよね・・・。

まあ、苺のパフェは、他のファミレスでも美味しそうなのがありますから、無理に注文しなくてもという方には、「静岡抹茶プリン」をお勧めいたします。抹茶スイーツは地味な存在でありますが、クオリティーは「京都辻利」レベルと云っても過言ではありません。レギュラーメニューにして頂きたいです。苺チーズケーキと抹茶プリンを両方注文しても900円以下ですから、これは悩みます。

・・・決めました、次回のさわやかでは、苺チーズケーキのお皿に抹茶プリンものせて写真を撮りましょう。

2023年1月30日月曜日

「ジャンボリミッキー!レッツ・ダンス!」のお姉さんに元気をもらう

以前、YouTubeのAIが台湾チア「峮峮」の動画を送ってきた話をしたが、今度は、ジャンボリミッキーの「まゆ」お姉さんが送られてきた。重ねて断っておくが、僕は、若い女の子の動画ばかりをみているわけではないので、YouTubeのAIが、いきなし「まゆ」お姉さんの動画を勧めてきた理由は不明である。

ディズニーのキッズダンス「ジャンボリミッキー」が、流行っていることは聞いていたし、大晦日に紅白歌合戦で紹介されたのも知っている。だけど、こんなにたくさんの動画がアップされているとは思わなかった。だって、ディズニーって著作権に滅茶苦茶うるさいんじゃなかったっけ。TikTokでバズッたのがブレイクした要因だそうだから、時代も変わったものである。

再生回数の多い動画は、お姉さんメインのものだ。TDLのステージにミッキーとかミニーちゃんが登場してるのに、そっちのけでお姉さんを追っかけ撮影してるんだから凄い。時代も変わったのものである。他に、お兄さんメインの動画などもアップされていて、関連動画の総数は数え切れない。

では、早速、お姉さんメインの動画を貼り付けさせていただこう。数ある動画の中からセレクトさせていただいたのは、D系ユーチューバーさん撮影のこちら。1月3日の第1回公演とのことである。ショーの観覧席は抽選だが、第1回目だけは全席自由席らしいから、お姉さんがお目当てのヲタクどもは、開園ダッシュで席を確保しているのだろう。

「まゆ」お姉さんこと「恒木真優」さんは.、横浜出身のダンサーで、TDLのダンサーの他にジャズダンスの講師もしているらしい。インスタのフォロワー4万人というから凄い。ミニ写真集を出したこともあるとのことで、フリマサイトでは、サイン入りの物品が高額で取引されていた。

コロナ禍で「ジャンボリミッキー」が休演中だった一昨年は、横浜ベイスターズのチアリーダーをしていたとのことである。ちょうど募集があったので・・・って、応募→即採用なんだから、まあ、才能さえあれば、食いっぱぐれることは無いってことのようだ。ダンスする姿が可愛いので若く見えるが、それなりのキャリアを積んだ大人の女性に思う。

「ジャンボリミッキー!レッツ・ダンス!」は、ランドとシーの両方で公演されていて、公演時間は15分。1日に5公演しているそうだ。お兄さんお姉さんは何人かいるが、シフトは非公開なので、どのダンサーさんに当たるかは、行ってみないと分からないみたいだ。どのお姉さんも可愛いしダンスも上手だけど、パフォーマンスの質は「まゆ」お姉さんが群を抜いている。

お姉さんのアップ動画もあった。画質が粗いので、おそらく柵外から望遠で撮っていると思われる。

この日は、お姉さんのテンションが特別高かったようだ。静止画系のヲタさんによると、どの瞬間を撮っても画になっていて、15分間全くスキが無いとのことである。正にプロのパフォーマンスと云えよう。

観覧席は、立ち上がり禁止なので、踊たいのであれば立ち席でとなるらしい。以前は、子ども向けということで昼間だけの公演だったそうだが、最近は夜にも1公演あって、こちらは大人ジャンボリミッキーと云うらしい。暗い中でテンション上げて、いい大人が集団で踊っている姿は一種異様だが、夢の国の出来事なので良しとすべきであろう。

公演再開直後のテイクである。お姉さんメインというわけではないので、ステージ全体の雰囲気が分かる。

ディズニーランドには、生涯で3度行くと云われている。1度目は親に連れられて、2度目は恋人と、そして、3度目は子どもを連れてだそうだ。もし、4度目があるとすれば、それは、お姉さんに元気をもらうときだろう。

2022年11月13日日曜日

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の舞台を巡る その9 ~函南町「仁田忠常 墓」~

伊豆の国市「北条邸跡」の背にある守山の展望台から、田方平野を眺めてみる。

足元を流れる狩野川の対岸にあるのが、江間氏の館跡。領主である「江間次郎」は、頼朝の旗挙げには加わらずに伊東祐親に従ったとされている。田方平野の他の豪族たちは、皆、頼朝の旗挙げに参加しているから、江間氏が反源氏方になったのは極めて不自然だが、何か特別な事情があったのだろう。ドラマでは、江間次郎を伊東祐親の家人のような存在で描いていた。江間氏が滅亡した後、北条義時は頼朝からこの地を与えられ、江間義時を名乗ることになる。実家のすぐ隣に、次男が家を建てた感覚であろうか。

江間の南、伊豆長岡の辺りは、後に九州惣追捕使に補任された「天野遠景」の領地。その対岸、北条の南隣には、「南条」を名乗る小豪族(北条の家人とも)の館があったらしい。その先は、田代信綱や加藤景廉、狩野茂光の領地と続いている。東側には、旗挙げの最初の標的になった山木判官「平兼隆」と後見役「堤信遠」の屋敷がある。そして、北条の北隣、函南町仁田郷を領地としたのが「仁田忠常」である。

北条邸から半径数kmの範囲には、分かっているだけでもこれだけの豪族の領地がひしめいているわけで、いかに北条が伊豆の小領主であったのかが分かる。

北条の屋敷から仁田の屋敷までは、直線で約4km。私鉄ローカル線伊豆箱根鉄道(いずっぱこ)で2駅の距離である。北条と仁田に姻戚関係があったかどうか分からないが、これだけのお隣同士であれば、両家はドラマのように近しい間柄だったのだろう。

ちなみに、2つの領地の間に「長崎」という地区がある。ここは、鎌倉時代末期に活躍(?)した内管領「長崎円喜」の領地があったところで、地区内には円喜の墓もあるらしい。長崎氏は、ドラマで出てきた「鶴丸(平盛綱)」の子孫で、この地を領有したことがきっかけで「長崎」を名乗った。長崎氏は、北条家の家人であったので、北条の領地を分けて貰ったのだろう。政治を腐敗させ、鎌倉幕府を滅亡に導いた張本人とされる有名人の名前の由来が、地方のこんな小さな字名だったとは驚きである。


さて、北条家と近い関係にあった「仁田忠常」は、頼朝の旗挙げには最初期から参加していたようだ。ドラマの中で「初めての戦で腕が鳴ります。」という台詞があった。旗挙げ時の忠常は未だ13歳で、初陣だったとされている。子役が演じていても良いくらいである。今回の大河ドラマでは、実年齢と見た目が大きく離れていることが多い。

彼は四郎と呼ばれていたから四男だったようだ。ドラマでは忠常しか登場しなかったが、兄の次郎忠俊は、石橋山の合戦で討ち死にしたとある。他の兄たちも、早くに亡くなったようで、忠常は若くして当主となり、二人の弟たちと共に仁田家を盛り上げていくことになる。

北条にとっても、若年で気心の知れた仁田は、使い勝手の良い存在だったのだろう。平家追討軍として全国を転戦し、富士の巻き狩りの猪退治や、人穴伝説などの武勇伝も伝わっているから、優れた武将であったことがうかがえる。

源頼家からの信頼も厚かったようだが、そのことが仁田氏滅亡の要因になってしまったのは気の毒なことである。忠常の最期は、吾妻鏡と大河ドラマで大きく異なるが、忠常が亡くなった後の仁田氏は、鎌倉幕府と関わることも無く、政治の舞台からは消えてしまう。


しかし、仁田忠常の子孫は、御家人でなくなった後も、百姓として仁田郷に住み続けた。百姓と云っても、広い土地をもつ豪農である。仁田氏の館跡には、今も仁田さん(忠常から40代目)が住んでいらっしゃる。今でも広い屋敷であるが、かつては一町歩(1ha)あったという。屋敷の周りには、土塁や堀の跡が残っている。何よりも凄いのは、800年以上経った今も、仁田さんが住んでいるということ。権力を握った北条氏は滅亡し、韮山の地には伝承しか残っていないことと対照的である。

忠常と二人の弟の墓もここにある。墓は屋敷内の私有地にあるが、仁田家のご厚意により自由にお参りすることができる。

マジックインキで書かれた案内板。「ティモンディ高岸」の直筆とのことであるが、だったら、ちゃんとサインをしてもらうべきであろう。知る人が居なくなれば、捨てられそうで心配になる。


仁田家の当主は代々「大八郎」を名乗り、戦国大名「後北条氏」の家臣と姻戚関係を持ったり、江戸時代には名主を務めていたようだ。時代が変わって支配者が交代しても、しぶとく存続できるのが百姓の強みと云える。


近代になって、37代目「大八郎」は、明治35年に田方農林学校(現静岡県立田方農業高校)の初代校長になった。農学校の設立にあたっては、仁田家が資金の半分を寄付したそうだ。戦前までは、この辺の土地は全部仁田家のものだったんだと思う。

「田方農業高校(でんのー)」は、今年で創立120周年。今では珍しい農業高校である。僕の親世代では、農家の跡取り息子が通う学校だったが、僕が学生の頃には、県立高校なら何処でも良いみたいな奴が通っていた。線路沿いに演習畑や牛舎があって、頭に波動砲を乗っけた奴が朝から農業実習に取り組んでる姿が、電車の窓から見えたものだ。ところが今では、食品や園芸、動物飼育が学べる高校として、女子中学生に人気の学校だそうだ。7割が女子生徒と云うから驚きである。

大八郎氏は、他にも丹那牛乳の売り込みなど函南の産業振興に貢献した。実は、伊豆箱根鉄道を設立したり、伊豆仁田駅を開業させたのも氏の功績なのだそうだ。後に、帝国議会の衆議院議員にもなっている。

ティモンディ高岸さんは、仁田忠常を演じるにあたって、函南町に挨拶に来たそうだ。高岸さんは、体育会系のお笑い芸人で、声も大きく極めて礼儀正しいから、町のお偉方は、「今時珍しい若者だ」とえらく気に入ったらしい。売れっ子で忙しそうだけど、これを機会に交流を始めていただければ嬉しい限りである。

2022年9月17日土曜日

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の舞台を巡る その8 ~「修禅寺」「指月殿」「安達盛長墓」「源範頼墓」~

「修善寺温泉」は、平安時代前期に開湯された、伊豆で最も歴史ある温泉である。昔、冷たい川の水で病気の父親の体を洗っているのを見た旅の僧侶(実は弘法大師)が、独鈷で岩を突いたところ、岩が割れ温泉が湧き出てきたのが、修善寺温泉の始まりらしい。


修善寺は、大同年間に空海によって創建された「修禅寺」の門前、桂川に沿ってひらけた温泉街である。隣町には、同じように古い歴史をもつ「伊豆長岡温泉」がある。皇室御用達の超高級旅館「三養荘」が有名だが、僕らのイメージは、伊豆長岡は忘年会でハメをはずして、温泉まんじゅうを買って帰るところである。


一方、修善寺温泉は、伊豆の小京都とよばれ、文人墨客に愛された落ち着いた佇まいの温泉である。この違いは、やはり修禅寺の存在が大きい。鎌倉時代の修禅寺は大変広大で、現在の温泉街も寺域の一部に過ぎなかったそうだ。この地が範頼や頼家の幽閉先に選ばれたのも、修禅寺の存在と無縁ではないと思う。

こちらが以前、1200年の伝統を誇る修禅寺でいただいた御朱印である。今までたくさんの御朱印をいただいてきたが、このシュールさは五本の指に入る。

こちらが修善寺温泉のシンボル「独鈷の湯」である。以前は入浴できたが、(但し、道路からは丸見え)現在は見学だけで、足湯も禁止とのことである。桂川の中なので洪水によって流失してしまうこともあり、台風が接近する度に、東屋を解体していたらしい。2004年の台風では、土砂に埋没してしまった。この時は、修善寺の温泉街も大きな被害を受けた。桂川が氾濫したのは、独鈷の湯で川の流れが妨げられたからとされ、近くの公園に移設する話がでたそうだ。温泉街を守るために独鈷の湯を撤去するってことだが、独鈷の湯あっての修善寺温泉なわけで、当然のことながら反対運動が起きた。で、解決策として、19m下流の川幅の広い場所に岩ごと引きずって移動することになった。独鈷の湯の源泉は既に枯れていて引き湯をしていたそうだから、モニュメントとしては、これでOKなんだろう。せっかく来たのに入浴できなくて残念という観光客の書き込みを見るが、草津温泉の湯畑だって入浴してる奴はいないし、すぐ近くには、足湯も日帰り温泉施設もあるから良しとしていただこう。

「指月殿」は、独鈷の湯からすぐ、桂川の右側の斜面を登った所にある。1203年(建仁3年)に「北条政子」が、頼家の菩提を弔うために建立したという伊豆最古の建築物だそうだ。鎌倉時代の建築物ならば国宝指定されてもおかしくないのだが、市の指定文化財で留まっているのは、修繕されている部分が多いのだろう。

安置されているのは釈迦如来坐像で、こちらは県の指定文化財である。檜の寄木造りで、像高203cmという堂々としたお釈迦様だ。鎌倉時代の作とのことであるが、重要文化財に指定されないのは、やはり後補の部分が多いと云うことだろうか。

以前は、両脇に等身大の仁王像が置かれていたのだが、こちらは最近、修禅寺の山門に移された。平安時代作とされているが、文化財の指定は無いようだ。仁王像は野外の過酷な環境にあるから、何度も修繕されていることが多い。結果としてオリジナルの部分が少なくなってしまい、文化財の指定が受けられなくなる。ただ、この像は、後補の部分が多いとしても、ユーモラスで藤原時代の仁王像っぽさは十分に感じることができる。修禅寺の山門に移った仁王像は、ガラス窓で囲まれていて、風雨からは守られるようになった。ただ、修禅寺を訪れた人たちは、そのまま門を通り抜けてしまうので、指月殿に居たときの方が、存在感が何倍もあったように思う。

指月殿の左には「源頼家」の墓がある。正面の大きな石碑は五百年忌に建てられた供養塔で、その裏に隠れている小さな塔が墓なんだそうだ。三基ある五輪塔の真ん中が頼家で、両側が若狭局(ドラマでは「せつ」)と「一幡」といわれているが、正面からは供養塔しか見えないから、誰だってこれが墓だと思うだろう。本当の墓を見るためには、ぐるりと回り込まなくてはならず、写真を撮るために墓域に入ってしまう人もいるそうだ。何故、このような配置にしたのかは謎である。

指月殿は、北条政子が頼家の冥福を祈って寄進した経堂である。さらに政子は、七回忌には重要文化財に指定されている「大日如来座像」を造らせている。頼家は北条氏によって暗殺されたが、供養を蔑ろにされていたわけではない。そう考えると、供養塔の裏側にある五輪塔は、頼家の墓としては不自然なほどに小さい。まあ、全成の墓も実朝の墓も小さかったから、鎌倉時代は大きな墓石を造らない時代であったのかもしれない。

境内には、頼家に殉じた13人の家臣の墓もある。彼らは、頼家暗殺の6日後に謀反を企てるも、北条義時が派遣した金窪行親に討ち取られたとある。家臣だけで謀反など起こせるわけはないから、攻められて致し方なく反抗したのであろう。もともと墓は別の場所(頼家が幽閉されていた庵の跡地)にあったそうだが、2004年の台風による土石流で埋没してしまい、ここに移設されたらしい。右側の古い3基が本来の供養塔で、他は土石流によって失われてしまったとのことである。

こちらは、ネットで見つけた、移設前の貴重な写真である。

大河ドラマでの頼家は、伝えられてきた人物像が、上手い具合にデフォルメされていて良かったし、「金子大地」君の好演が光っていた。伊豆では、悲劇の武将「源頼家」の好感度は高い。二代目鎌倉殿として尊敬と憧れの存在であったのだろう。

「安達藤九郎盛長」の墓は、修禅寺の左の脇道を登りつめたところにある。伝安達盛長墓というのは、全国にいくつかあるらしいが、藤九郎は、頼朝が亡くなった後、出家して修善寺で隠居したと伝わっていて、それが、墓がこの地にある理由だ。

頼朝は14才で伊豆に配流されたが、その時の最大の援助者が「比企の尼」である。藤九郎は比企の尼の娘婿で、尼の命で頼朝の従者になったようだ。頼朝より12才年上で、佐殿の人脈の形成から女性の調達まで、流人時代を支えた唯一の家臣である。旗挙げの際には、坂東の豪族への根回しに帆走し、鎌倉殿の13人に名を連ねる宿老となったが、生涯無位無官であったと云う。自身の出世よりも、頼朝の従者の勤めに徹した一生だったのだろう。安達氏が御家人の筆頭として勢力を伸ばすのは、5代執権「北条時頼」の時代からである。

「野添義弘」さんが演じた安達盛長は、癒やし系キャラで人気も高かった。今回の大河ドラマでは、定説とされている人物像にアレンジを加えることが多いようだが、藤九郎に関しては、こうあって欲しいというキャラクターで描かれていて嬉しい限りである。

今、配られている観光マップには藤九郎の墓が紹介されているが、少し前に設置された案内板には、頼家と範頼の墓は載っているが、藤九郎の墓は記載されて無い。大河ドラマのおかげで、安達盛長も世間に知られるようになり、墓を訪ねる者も見られるようになったとのことである。


「源範頼」の墓は、藤九郎の墓の近く、温泉街を見下ろす丘にある。「正岡子規」は修善寺を訪れた時に「此の里に かなしきものの 二つあり 範頼の墓と頼家の墓」と詠み、「夏目漱石」は「範頼の 墓濡るゝらん 秋の雨」という句を残しているそうだ。和歌のことはよく分からないが、有名な人の作なので、きっと名歌なのだろう。立派な墓石は、昭和7年に、日本画家「安田靫彦」のデザインにより建立されたとあるから、子規らは、この墓石を詠んだわけではない。


お墓の周りは、小さな公園のようになっていて、立派な案内板も立っている。明治までは、ここに八幡宮と称された小さな祠があり、範頼の墓として密かに祀られていたらしい。つまり、この地が範頼の墓だと公にされたのは、明治以降ということになる。謀反人であるがゆえに、幕府を憚って偽祭したとのことであるが、鎌倉時代が終わった後も、偽祭されつづけたのは気の毒な話である。
実は、範頼は、修善寺に幽閉された記録は残っているが、暗殺されたという確かな証拠は無いそうだ。範頼が落ちのびたとされる地は、全国各地に伝わっている。


墓苑のすぐ隣に古民家カフェがあるので、お庭を眺めながら抹茶白玉あずきをいただこう。縁側には、範頼を演じた「迫田孝也」さんの色紙が置かれていた。日付がドラマが始まる1年も前だったので、配役が決まったときにお参りにきたのだろう。源平合戦では、名将である義経と凡将な範頼というように、二人は対照的な人物として描かれてきた。大河ドラマでも変わりはないのであるが、義経をサイコパス的に描いているために、蒲殿がとても良い奴になっていて面白かった。範頼は、歴史の教科書に出てくる有名人であるにもかかわらず、大変地味な存在なので、ドラマが始まる前までは、カフェを訪れる人はいても、墓を訪れる人はほとんどいなかったらしい。


小さな庭だが、手入れは行き届き、伊豆の山並みが借景になっていて、のんびりと素敵な時間を過ごすことができる。明治時代の建物そのままということでエアコンは無いが、蚊取り線香の匂いと風鈴の音、吹き抜ける風が心地よく、散策のゴールにするには至高の場所である。ただし、不定休であるので、ここまで来て休業日だったときのダメージは計り知れない。

2022年9月4日日曜日

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の舞台を巡る その7 ~「阿野全成」と沼津「大泉寺」「興国寺城跡」

「阿野全成」は、源頼朝の異母弟、義経の同母兄である僧侶・武将です。

平治の乱で源義朝が敗れたとき、側室の常磐御前は「今若」「乙若」「牛若」の3人の男子を連れて逃げましたが、都に残った母が捕らえられたことを知り、清盛の元に出頭したと伝えられています。助命された3人の子のうち、鞍馬寺に預けられた「牛若丸」が、やがて「源義経」となって源平合戦で活躍したのは有名な話ですが、その兄たちについては大河ドラマが始まってから知った次第です。

醍醐寺に預けられた「今若」は、やがて「全成」と名乗り、寺を抜けだし、打倒平家の兵を挙げた頼朝と合流しました。全成は範頼や義経のように戦で活躍することもなく、吾妻鏡にもほとんど記述が無いとのことですから、大河ドラマの全成は、三谷幸喜氏の創作部分が多いと云えましょう。

全成は、頼朝から、駿河国阿野荘(静岡県沼津市)を与えられ、阿野氏を名乗るようになりました。阿野荘は、沼津市から富士市にまたがる愛鷹山の南麓一帯で、ここには浮島沼という大きな湿地帯がありました。江戸時代の「東海道」は、浮島沼の南側、駿河湾沿いを通っていますが、それ以前の人たちは、沼の北側、愛鷹山の山裾を通る「根方街道」を使っていたようです。根方街道(県道22号線)は、トラックやバスとのすれ違いに苦労するような狭い道ですが、街道沿いには、城跡や大きな前方後円墳、古い寺院や神社が点在していて、由緒ある道であることが分かります。

街道沿いにある「興国寺城」跡です、戦国時代初期の城で、続日本百名城に選ばれたそうです。宅地や茶畑になっていたのを、何十年もかけて発掘整備しました。戦国大名「北条早雲」の居城として地元では有名なところで、僕も子どもの頃から知ってましたけど訪れたのは初めてです。

北に向かって、三の丸、二の丸、本丸と階段状になっていて、本丸は高い土塁で囲まれています。

土塁の上には、石垣で囲まれた天守台があって、その北側は深い空堀になっていました。写真では分かりにくいかと思いますが、かなりの急斜面です。

城の正面から南に真っ直ぐ延びている道を「矢通り」と云います。湿地帯を抜けて根方街道と東海道をつなぐ道で、昔「阿野全成」と「阿野時元」親子が弓の稽古をした故事から名付けられたそうです。大河ドラマ紀行でも紹介されてましたね。(僕は、興国寺城があったからだと教わった記憶がありましたけど・・・)

矢通りは、昭和の頃までは、本当に何も無い田んぼの中の一本道でしたが、今では道幅も広がって、マックスバリュやCoCo壱などの郊外型店舗が並んでいる、まあ、どこにもありそうな通りになっています。


さて、全成ゆかりの寺院「大泉寺」は、興国寺城から街道を西に1kmほど行ったところにあります。街道と寺域の間には、大きな土塁があります。大泉寺は阿野氏の館だったところで、土塁は、その名残りとのことでした。

大泉寺は、素敵な御朱印を授けてくださるので、マニアの間では有名なお寺さんであります。阿野全成が大河ドラマに登場してから、拝観者も多く訪れるようになりました。ご住職が大変アクティブな方で、イベントも多く企画されているようです。

門を入ると、線香を2本取るように云われました。1本はご本尊さんに、もう1本は全成さんのお墓に供えます。案内役の僧侶から、全成さんの話を聞きながらの墓参りです。拝観者が増えたので、お手伝いに来ているとのことでした。

本堂に入ると、先代の老住職が待っていて、観音さんのお話をしてくださいました。ご本尊の聖観音立像は、寺伝では運慶作となっています。北条時政や和田義盛も運慶に造仏してもらってますし、当初像であれば時代的にも合ってますけど、お寺さんも半信半疑と云ったところでしょうか。近くから拝観というわけにはいきませんでしたけど、像高1mほどの金ピカな観音さんでしたよ。ちゃんと調査すれば何か出てくるかもしれません。

阿野全成を演じられた「新納慎也」さんの写真や色紙が飾られていました。3回ほど訪れているそうで、7月に沼津で「鎌倉殿の13人」のトークショーがあったときには、「実衣」役の「宮澤エマ」さんと一緒に来寺されたそうです。

御朱印です。1つ500円で、2ページ分ですから1000円でした。今まで頂いた338体の御朱印の中で最高額です。ご本尊さんのだけで良かったんですけど、成り行きで2つお願いすることになってしまいました。まあ、いろいろと案内していただきましたから、拝観料の代わりと思って納めてきました。ご住職は、消しゴムはんこが特技ということで、御朱印として押してくださいます。本堂にもいろいろと展示されてましたよ。

全成が誅殺されたとき、嫡男「阿野時元」は北条氏の助命嘆願によって連座を免れました。その16年後には源実朝」が暗殺されます。時元は鎌倉殿の座を狙って兵を挙げますが、北条義時が派遣した「金窪行親に討ち取られてしまいました。もはや、北条氏にとって源氏の血統は邪魔な存在だったのでしょう。子孫は、その後も阿野荘を治めていたようで、南北朝までは記録が残っているそうですが、やがて勢力を失っていったとありました。

全成には、京の「藤原公佐」に嫁いだ娘がいて、その系統は阿野荘の一部を相続して阿野氏を名乗るようになりました。「後醍醐天皇」の寵愛を受けた「阿野廉子」はその末裔にあたるそうです。阿野廉子は知っていましたけど、阿野全成の子孫とは知りませんでした。北条氏を滅ぼした後醍醐天皇とこんなところでつながっていたとは驚きです。阿野廉子は後村上天皇の母ですから、全成も自分の子孫が天皇になるとは思ってもいなかったことでしょう。

富士山の手前の山が愛鷹山で、その麓が阿野荘があったところです。

室町時代になると、この地は今川領となりました。今川氏親から興国寺城を与えられた北条早雲こと「伊勢新九郎」は、この城を足がかりとして伊豆を平定し、戦国大名「後北条氏」の祖となりました。早雲が攻め滅ぼした「茶々丸」の館は北条時政邸の跡地にあり、早雲が居城とした韮山城は蛭が小島のすぐ近くにあります。鎌倉時代も、関東における戦国時代も、全く同じ場所から始まったのです。

伊勢氏が、縁も所縁も無いはずの「北条」を名乗るようになった理由は、諸説あってはっきりしません。現代では、鎌倉幕府の執権「北条氏」というと陰謀を張り巡すダークなイメージがありますが、戦国時代においては、相模国守護職として、あやかりたくなるブランド名だったのでしょう。