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2020年12月5日土曜日

菊水作戦 ~沖縄周辺海域における航空機特攻~

「菊水作戦」とは、太平洋戦争末期、沖縄に来襲した連合国軍に対し、航空機特攻を中心とした日本海軍の作戦です。作戦の主体は第一機動基地航空部隊で、沖縄戦が始まった直後(1945年4月6日)の菊水一号作戦から、沖縄戦が終了する直前(6月22日)の菊水十号作戦まで行われました。同時期に陸軍も策応して特攻作戦を行いました。こちらは「航空総攻撃」と呼ばれていますが、合わせて菊水作戦として表記いたしました。

航空機特攻については、「巡洋艦「北上」と人間魚雷「回天」」の記事で、次のようにまとめさせていただきました。

「特攻」と云うと、まず思い出されるのが「神風」に代表される航空機による特攻であろう。この航空機特攻の中心となったのは「ゼロ戦」であった。ゼロ戦は、「零式艦上戦闘機」という名前から分かるように、本来は航空母艦に搭載するための戦闘機である。ところが、戦争末期には、空母に離発着できる腕を持つパイロットなどいなくなってしまったし、新しいパイロットを訓練するための時間も物資も無かった。また、この頃の戦闘機に求められたのは、ゼロ戦のような長い航続距離を持つ軽戦闘機でなく、陸上の飛行場から飛び立って、B29などの爆撃機を迎撃する重戦闘機であった。そこで、型落ちとなったゼロ戦に訓練不足なパイロットを乗せ、250キロとか500キロ爆弾を搭載して特攻させたわけである。ゼロ戦のような軽戦闘機に500キロもの爆弾を取り付ければ、飛んでいるだけで精一杯だから、結果は言わずものがなであろう。


特攻とか、神風というと、九州の基地から飛び立って行く映像がよく紹介されます。(ヲタに云わせるとあれは特攻機では無いらしいけど、菊水作戦に参加している機体ではあると思う)で、あの飛行機はどこに向かっているかというと、沖縄であります。特攻はフィリピン近海とかでも行われましたが、最大の特攻作戦が、沖縄諸島周辺のアメリカ艦隊を攻撃目標とした、この「菊水作戦」であります。

ウィキペディアの記述によると、この作戦において、海軍機は940機、陸軍機は887機が特攻を実施し、海軍では2,045名、陸軍では1,022名が特攻により戦死した。とありました。1827機のうち、133機が命中、122機が至近弾となったと云いますから、命中率は7%、至近弾まで合わせると14%の特攻機が敵艦船に損害を与えたことになります。

この結果、アメリカ軍の艦艇36隻が撃沈し、218隻の艦艇が損傷しました。菊水作戦によるアメリカ軍の戦死者は4,907名、負傷者は4,824名。この他に、イギリス軍とオランダ軍にも数百名の死傷者が出たとあります。アメリカ海軍が第二次世界大戦で、最も多くの犠牲を出したのが、この沖縄諸島周辺海域での戦闘によるものでした。

命中率7%をどう評価するのかは難しいところです。特攻機が撃沈したのは、駆逐艦などの小型艦艇が中心でした。しかし、太平洋戦争末期は、まともに戦っては日本軍は米軍に全くと云ってよいほど歯が立ちませんでしたから、この戦果は大変魅力的であり、軍部が特攻という戦術に傾倒していった理由が分かります。

特攻機に関する逸話で「片道分の燃料を積んで・・・」というものがありますが、これは事実ではありません。菊水作戦は索敵特攻でした。沖縄近海に米艦隊がいることは確かですけど、必ず敵艦と遭遇できるわけではありません。その場合は、帰還して次のチャンスを待つという方針がとられていました。(飛行機もパイロットも貴重ですから)出撃したものの敵艦が見つからず帰ってきた事例は、半分近くあったようです。また、特攻が成功したときは、積んでいた航空燃料が燃えることで破壊力が増大するとされて、これも、燃料をしっかりと積んでいた理由の1つとされています。

特攻に対する米軍の作戦は次のようなものでした。航空母艦や戦艦などの主要艦艇の周辺に、対空レーダーを搭載した駆逐艦をレーダーピケット艦とし、対空機関砲を搭載した小型艦艇とで、早期警戒体制の任務にあたらせました。レーダーピケットの情報は管制室へと送られ、空母から発進した戦闘機が特攻機の迎撃に向かいました。

対する日本軍機は全てが特攻機だったわけではありません。米艦隊の位置を探る偵察機、特攻機を誘導する支援機、さらに多くの戦闘機が、特攻機の護衛として、あるいは囮として参戦しました。

菊水作戦は、第十号まで実施されました。各回の作戦機は数百機、そのうち特攻機は200機ほどで、未帰還率は約50%とありました。特攻機のほとんどは、米戦闘機の迎撃や、艦船の対空砲火で撃墜されましたが、何機かは、防空網を掻い潜り特攻を成功させました。成功率は7%でしたが、突入された艦艇の被害は大きく、多くの米兵が犠牲となりました。

最も犠牲が多かったのが、周辺に配置されたレーダーピケット艦でした。特攻の目的からすれば、ピケット艦よりもその奥にあるはずの航空母艦を狙うべきなのですが、特攻機のパイロットは極度の興奮・緊張状態にありますから、対空砲火を浴びると目の前にある駆逐艦に突入してしまったり、炎上している艦船に突入したそうです。(「空母はあちら」って看板をつけてた駆逐艦の逸話もあるけど、たぶん嘘)。沖縄戦でレーダーピケット艦の任務についた駆逐艦は101隻。そのうち10隻が撃沈され、32隻が損害を受けたとありました。

沖縄周辺海域への特攻は、沖縄本島での地上戦と時期を合わせて行われています。米海軍の任務は、地上戦を戦っている陸軍や海兵隊を、艦砲射撃や航空機攻撃で支援することでした。ですから、米軍が地上戦をしている間は、沖縄近海に張り付いていなければなりません。日本軍が特攻を仕掛けてくることが分かっていても、沖縄を離れるわけにはいかなかったのです。米兵の肉体的、精神的負担はかなりのもので、海軍の司令官が、陸軍の作戦進行が遅いことを(海軍への嫌がらせで、わざとゆっくりしてるのだろうと)抗議したとありました。

米軍は、日本軍以上の犠牲者を出し、精神障害を引き起こす兵士も続出しました。しかし、米軍は、損失した艦艇を補充し、疲弊した兵士をローテーションしました。任務途中でしたが、司令官の交代も実施しています。一方的な攻撃を受けながらも、米海軍は沖縄近海に踏みとどまりました。菊水作戦が目的としていたのは戦局の挽回です。日本軍は、菊水作戦により、米軍に多くの損害を与えることはできましたが、目的を達成することはできませんでした。やがて、特攻に使用できる航空機が不足するようになると、鈍足の練習機までも使用するようになり、戦果は回を重ねるごとに乏しくなっていきました。

沖縄戦が終結すると米艦隊は沖縄近海から離れました。米艦隊の存在位置が分からなければ、特攻機を飛ばすことはできません。菊水作戦は終了し、軍部は来たるべき本土決戦に備えて、特攻戦力を温存する方針をとります。

貼り付けさせていただくのは、アメリカ海軍による対特攻機戦術に関する軍事教育用映画とのことです。前半は特攻戦術の分析、後半は特攻機に対する心得の啓蒙という構成です。映画の中で、軍服を正式に着用することが繰り返し指示されていました。裏を返せば、アメリカ海軍の兵士の中には、軍服をちゃんと着ていない奴が多くいたということでしょうか。


特攻機が船の側面中央から左右45度以内に収るように操艦することなど、様々な対策を理路整然と述べた後で、「敵機を60秒も追跡してから7,000ヤード(6,400m)地点で(ようやく)対空射撃なんてトロいことをやってんじゃねぇ。」と檄を飛ばし「ともかく撃ちまくれ!」ってオチで終わるところが、如何にも物量にモノを云わせるアメリカっぽい。(結局、それかよ)米兵の苦笑いが目に浮かびます。

人命軽視の特攻作戦とは云っても、飛行機もパイロットも貴重ですから、やるからには少しでも成功率を高めるような戦術がとられていました。特攻機の侵入を支援するために、多くの飛行機が作戦に参加していたことは知られていましたが、米軍がそれらを細かく分析していたことが分かります。さらに一兵士に至るまで、情報を共有しているところが米軍の強さの秘密なんだと思いました。

他にも興味深い説明がありました。1つは、特攻機が先に爆弾を投下してから突入している例の紹介です。第58任務部隊旗艦の空母「バンカーヒル」に突入する映像があって、これは、特攻を取り上げる番組で必ず使われるのですが、その時の記録でも、特攻機は突入する前に爆弾を投下しています。今まで語られていたのは、特攻機は、爆弾を括り付けていたので投下は不可能だったということで、それが特攻の非人道的な面を強調していたのですが、先に述べた片道燃料のことと合わせて、伝えられていた特攻機のイメージと事実は少し違うようです。


整備不良などで、不時着する特攻機も多かったと言われています。(軍需工場では熟練工が徴兵され、学徒動員の学生が旋盤を回してエンジンの部品とか作ってるんですから。)爆弾を抱えたままで基地に帰還なんて怖くてデキませんから、ちゃんと爆弾を捨てられるようになっていたと考えられます。ダメだったら戻って再出撃する方針ならば、爆弾の投下機を付けていたと考える方が自然です。

特攻機の最大の敵は、米軍の戦闘機です。特攻機の9割近くが、敵艦隊に辿り着く前に戦闘機によって撃墜されています。ただし、戦闘機は艦艇の防空射程内には入らないよう決められていました。でないと、味方の飛行機が邪魔で、対空砲を撃てませんからね。逆に云うと、特攻機は敵艦の防空射程内に入り込めば、戦闘機の追撃からは逃れられたわけです。

正攻法で完敗したマリアナ沖海戦を日本が降伏する最初のきっかけと考えるならば、特攻という手段を用いても侵攻を止められなかった沖縄での敗戦が、降伏する最大のきっかけだったことは明らかです。もはや万策尽きたはずの日本軍でしたが、菊水作戦での(微妙な)戦果が、軍部に妙な自信を持たせてしまいました。軍部は特攻を基本戦術とした本土決戦を本気で考えるようになります。

一方、アメリカはジレンマに陥っていました。沖縄戦だけでこれだけの損害が出るのですから、本土決戦を行った時の損害は想像もできません。8月には、ヤルタ会談の密約でソ連が対日参戦することが決まっていました。原爆完成の報告を受け、各国の思惑が交錯する中で、7月26日に「ポツダム宣言」が発表されます。

これに対して日本政府は「黙殺」という態度を表明しました。これは極めて日本的な表現で、表向きはNOだけど本音はYESという意味。(受け入れたいのはヤマヤマなんだけど、軍部の説得も必要だから、ちょっと待って、ということ)無回答も有り得たのですが、何か言うべきという軍部の要求で「黙殺」という表現を使ったとされています。ところがアメリカは、これを「拒否」と受け取りました。8月上旬に起きた悲劇の全ては、日本の自己責任とされたのです。


関連記事です。お時間があれば。

沖縄の陸上戦についてです。

黒島結菜「よっちゃん」と沖縄戦

太平洋戦争開戦についてです。

真珠湾攻撃と航空母艦「蒼龍」

2020年9月6日日曜日

黒島結菜「よっちゃん」と沖縄戦 ~NHK戦後75年特集「戦争童画集」より~

毎年、夏になると放送されるNHKの戦争関連ドラマ。昨年はフィリピンが舞台の「マンゴーの樹の下で」だったが、大がかりなロケが出来ないコロナ禍の今年は、2つの朗読劇と2つのミニドラマで構成されたオムニバス形式となった。

番組評では「長澤まさみ」さんの朗読劇が絶賛されていた。で、黒島結菜さんも、沖縄の(名前は知らないけど)若い女優さんのドラマも良かったと(ついでに)褒めていただいたのは、嬉しい限りである。

黒島さんの世間での知名度は、まだまだだなぁ~と思いつつも、純粋に演技で認められたというのは、それはそれで良かったと思う。で、これを機会に名前を覚えてもらって・・・とは簡単にいかないようだ。まあ、そんな感じで何年も過ぎてるように思う。

現代劇には「橋本環奈」さんも出演されていた。「家族全員で見られる平和の物語」ということでの出演だったのだろう。でも、僕的には、その枠で戦争の劇をもう1つやって欲しかった。彼女のファンだって、現代劇のいつもの環奈ちゃんでなく、戦争の劇を演じる環奈さんを見たかったんじゃないかなって思う。

「よっちゃん」は、「ひめゆり学徒として戦場に向かった二人の女性の苛酷な戦いと友情の物語」とある。この作品だけが野外ロケなので違和感があるが、沖縄戦で使用されたガマを使って撮影したらしい。わずか10分ほどのミニドラマに、これだけの労力をかけられるのは、さすがNHKである。

主演の「黒島結菜」さんは、沖縄の糸満出身で、ひめゆりの塔から車で10分くらいのところに実家があるそうだから、ひめゆり学徒隊員を演じるにあたっては、特別の思いがあったに違いない。


ひめゆり学徒隊については改めて語るまでもないだろうが、少しだけ。

僕が子どもの頃は、ひめゆり部隊って言ってた記憶がある。ひめゆり部隊を取り上げた読み物には、米兵に捕らえられることを恐れて集団自決した場面を描いているものが多いので、ひめゆり部隊=集団自決で全滅みたいな印象があったのだが、それは正しい認識では無い。学徒隊240人のうち、亡くなったのは136人。集団自決があったことは確かだが、多くは米軍の無差別攻撃によって命を落としたとされている。っていうか、混乱の中で証言できる者も少なく、命を落とした多くの隊員が何処でどのようにして亡くなったのか分からない、というのが正確なところなのである。

高等女学校の学徒隊は全部で9つ組織されたらしい。その中で、一番大きくて、もっとも有名なのが「ひめゆり学徒看護隊」だ。沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の生徒222名と引率教師18名の240名で構成されていた学徒隊である。

彼女たちを動員する法的な根拠は、当時の日本にも無かった。だから、参加はあくまでも自由で、親の承諾書が必要だったらしい。参加の強制の程度も(校長の考え方によって)学校ごとに微妙に異なっていたそうだが、そんな中で、多くの女学生が親の猛反対を押し切って参加したのである。

師範学校では半強制だったそうだが、島袋さんの証言では、林間学校に行くような気軽な気持ちで、国のためになるのが嬉しかったとあった。歴史教科書では、強制的かどうかがよく議論になるが、思想教育による希望制と言うのは、強制より遥かに罪深い。

ひめゆり学徒は、沖縄守備軍(第32軍)が直轄する沖縄陸軍病院に配属される。実は、彼女たちは、軍属あつかいになるのだそうだ。戦争資料に、沖縄の守備兵力118,400名とあるが、この数字には、彼女たち学徒隊や、現地招集した年寄りや子どもたちで組織された防衛隊も含まれていて、正式に軍隊(ちゃんと武器を持ち訓練されている)と云えるのは、その半数ほど。これで、アメリカ陸軍 第7歩兵師団とか、海兵隊第1師団とかの正規軍と戦えというのだから、酷い話である。


ドラマの題名である「よっちゃん」は、「ひめゆり平和祈念資料館」の元館長「島袋淑子」さんの愛称であり、脚本は島袋さんの手記を元に書かれている。島袋さんは、当時、師範学校の3年生で17才だったそうだ。


アメリカ軍が沖縄本島に上陸したのは4月1日。投入された陸戦兵力は、初日だけで182,000名とあったから、あの有名なノルマンディー上陸作戦の規模を上回る。それに対して、沖縄防衛を担う第32軍は、米軍を島内に誘い込み持久戦を仕掛けた。日本軍もノルマンディーのドイツ軍のように水際で派手にドンパチやりたかったようだが、あまりの戦力差に変更せざるを得なかったのだ。

米軍の上陸兵力は正規軍の比率で日本軍の3倍。これに艦砲射撃や航空機攻撃で支援する海軍を含めると、戦力比は5倍以上になる。沖縄本島の攻略を一ヶ月と見積もっていた米軍であったが、日本軍は隆起珊瑚礁に陣地を構築して激しく抵抗し、最初の一ヶ月間は、ほぼ互角の戦いとなった。

しかし、5月4日・5日に敢行された日本軍の総攻撃が失敗に終わると、戦局は一気に米軍の優勢となり、第32軍は5月27日に首里の司令部を放棄し本島南部へ撤退する。そして、この撤退が沖縄戦のさらなる悲劇の原因となるのである。


物語は、黒島さん演じる「よっちゃん」と芋生悠さん演じる「大城さん」が、病院壕に派遣されたところから始まるが、これは32軍が南部に撤退した頃にあたる。

当時の高等女学校や師範学校は、学年によって髪型が指定されていたそうで、それによると、三つ編みのよっちゃんの方が、二つ分けの大城さんよりも上級生ということになるが、大城さんの方が落ち着いているので先輩に見えてしまう。まあ、これは時代考証がどうと云うよりも、二人の女優さんの髪の長さによるものだろう。


で、いきなり黒島さんがカメラ目線で語り出したので、焦ってしまった。どうやら、ドラマというよりも朗読劇に近い演出のようだ。と思ったのだが、ナレーターになって語ったりもする。だったら、ナレーションに統一してくれた方が、感情移入しやすかったように思う。

ドラマには、よっちゃんと大城さんと軍医しか出てこないし、傷病兵はソーシャルディスタンスを保って寝かされているから、どことなくのんびりした雰囲気だが、実際の壕は、もっと大規模で、大勢の負傷兵や看護者が、劣悪な環境で密になっていたはずだ。


沖縄戦で、命を落とした一般住民は94,000人。沖縄戦が始まったとき、主戦場は本島の中部であり、住民たちの多くは島の南部に避難していた。32軍には、首里の司令部に最後まで踏みとどまって戦い抜くという選択肢もあったし、司令部が陥落した時点で降伏していれば、これだけの悲劇にはならなかっただろう。
32軍が南部に撤退したことによって、軍と民は混在してしまった。鬼畜米英と教えられ、米軍の保護下に入ることを恐れた多くの住民が、軍と行動を共にして南部に移動したとも云われている。首里陥落以降の住民の死者は、46,000人以上と推定されている。

日本軍にも、住民を(既にアメリカの占領下にあった)北部へ移動させる計画があったらしい。また、米軍も住民を避難させるために一時休戦を提案しようとした形跡があるようだが、いずれも実現することはなかった。

すでに、地上戦はゲリラ戦の様相を呈していた。男子学徒は少年兵として徴用されていたし、住民に爆雷を持たせて突入させたり、住民の服を着て偽装した日本兵もいた。よっちゃんだって、自決用ではあるけれど、手榴弾を持っていた。手榴弾を2個渡されて、1つで米兵を殺し、もう1つで自決しろと指示されたという学徒の証言もある。もはや、軍と民の判別など不可能になっていたのだ。
圧倒的に優勢な米軍でも、戦死者は12,000人を越え、精神疾患に陥る兵士も続出していた。殺らなければ殺られるという恐怖と、戦友を失った憎悪心から、動くものは全て攻撃の対象となってしまったのである。


よっちゃんがいる伊原第一外科壕の入口に大きな爆弾が落とされたのが、6月17日。お腹をやられて水を欲しがる大城さんにガーゼに浸した水をあげるシーン、(証言では水をあげたのは別の先輩)大城さんが「天皇陛下万歳」と呟いて亡くなる場面は、思い出すたびに憤りを感じる。

翌18日、ひめゆり学徒隊に解散命令が出される。壕から追い出された学徒たちは、降り注ぐ砲弾の中を逃げ惑い、多くの犠牲者を出した。ひめゆり学徒隊の戦死者136名のうち、解散後に戦死したのは117名と、全体の8割を超えている。ただ、第三外科壕では、19日にガス弾などの攻撃を受け、壕の中にいた学徒46名のうち42名が犠牲になっているから、壕に留まっていれば安全だったというわけでは全然無い。


砲弾の破片で足を負傷し、もう逃げられないと考えたよっちゃんは、手榴弾で自決しようとする。安全ピンを口でくわえて引き抜くよっちゃん。(女優、黒島結菜の最大の見せ場だ)ところが、爆発する寸前に怖くなって手榴弾を投げ捨ててしまう。
生きると云うことの意味を考えさせられる場面である。爆雷を抱えて米戦車に体当たりした少年兵だって、足手まといになるからと青酸カリを飲んだ傷病兵だって、みんな本当は生きたかったはずだ。

6月26日、よっちゃんは米軍の捕虜となった。第32軍の司令官牛島中将は、この時すでに自決していた。日本軍の組織的な戦闘は、三日も前に終了していたのだ。


沖縄慰霊の日が6月23日なのは、牛島指令官が自決した日だからである。他に適当な日が無かったっていうのが、本当のところらしい。ところが、牛島司令官は自決前に各部隊に徹底抗戦を指示していた。そのため、23日以降も軍人や住民に多くの犠牲者が出ることになった。よっちゃんにとっても、沖縄戦は少なくとも26日までは続いていたのだ。23日に沖縄戦は終結なんてしてなかったし、そもそも軍人が自決した日を「慰霊の日」とすることに疑問を投げ掛ける人は多い。

降伏という選択肢の無い軍隊ほど惨めなものは無いし、そのような軍隊を持った国民ほど悲惨なものは無い。太平洋戦史を読むたびに、必ず行き着く結論である。

2019年8月8日木曜日

「アルキメデスの大戦」はマニアックに楽しむ地味な映画だった(超ネタバレ)

予定には無かったんですけど、ひょんなことから「アルキメデスの大戦」を見てきました。で、折角ですから、元海軍ヲタクとしての感想を述べさせていただきますね。

こんな映画です。作品紹介では「帝国海軍という巨大な権力に立ち向かい、数学で戦争を止めようとした男の物語」とありました。


いつも思うんですけど、予告編って上手に作るものですね。本編よりも迫力があるように思います。

全体的な印象としては、面白かったです。ただ、かなり地味な映画でした。冒頭の大和が撃沈されるシーンは、それなりに迫力がありましたけど数分間だけでしたし、映画の中で主人公がやったことと云えば、新型戦艦の正しい見積額を算出しただけです。丁寧に作った2時間スペシャル・ドラマって感じでしょうか。戦争映画としては「男たちのYAMATO」が、娯楽映画としては「シン・ゴジラ」の方が何倍も迫力がありましたからね。

僕は、原作コミックを知りませんでしたけど、こちらはスケールの大きな作品のようで、映画は原作のほんの一部分に過ぎなかったみたいです。映画としてムリヤリ2時間のドラマにまとめてしまうよりも、連続ドラマのほうが世界観を出せたかもしれません。

物語は「山本五十六」とか実在の人物がでてきますけど、実話ではありません。念のため。

でも、海軍ヲタク的には、面白いところもありました。1933年(昭和8年)、太平洋戦争の開戦8年前が舞台ですので、軍艦なども、ちょっとマニアックなのが出てくるんですけど、ちゃんと時代考証されていましたよ。きっと、原作者か映画監督か分かりませんけど、誰かがバリバリの海軍ヲタクなんでしょう。


まず、1つめは三段甲板の空母赤城ですね。山本五十六少将(当時の肩書きは、第一航空戦隊司令官)が、航空母艦からの発艦試験を視察している場面です。VFXとは云え、三段甲板の赤城が見られるとは感動です。


で、発艦していたのが、こちらの戦闘機(九0式艦上戦闘機)ですね。この頃は、まだ複葉機ですし、半分は木でできてるし、そもそも船から飛行機が飛び立てるかどうか分からないっていう時代だったんですよね。それが、この10年後にはゼロ戦が登場するんですから、航空機発達のスピードって凄かったんだなって思います。


次は、戦艦「長門」。主人公の櫂少佐が戦艦を視察するために長門を訪れるのですが、それが、この屈曲煙突タイプの長門なんですよ。2本ある煙突の前のやつが曲がっているでしょ。これは大改修される前のタイプなんですよね。


戦争というのは、刻一刻と戦況が変化します。ですから、軍艦も対空装備を増強したり、機関を改良したり、レーダーを取り付けたりと、どんどん改修されて姿形を変えていくんですけど、今までの戦争映画って、そういうところに無頓着って云うか、適当に作られているものが多かったんです。
 「アルキメデスの大戦」では、建造されたばかりの大和と、撃沈されたときの大和と、ちゃんと描き分けていて、なかなか分かってるじゃんって思いました。

あと米軍では、雷撃機「TBF アベンジャー」とか、急降下爆撃機「SB2C ヘルダイバー」とかも良くできていて、格好良かったです。

ただ、戦闘のシーンは、ほぼVFX。昔の戦争映画みたいに、実物大の戦艦のセットを組み立てて、俳優さんが演技して、本物の飛行機を飛ばして、火薬がドッカーンみたいな映画はもう撮れないんですね。
今回の大和撃沈のシーンとか、本当に頑張って作ったと思うんですけど、VFXの技術が進歩して、いろいろデキるようになった反面、反対にやり過ぎちゃって嘘っぽく思えちゃいました。

戦闘シーンで人間が演じているのは、対空機銃を撃っているところぐらいでした。「大和」って、竣工したときと撃沈したときとでは、乗組員が800人くらい増えているんですけど、それは、飛行機の攻撃に対抗するために対空機銃を大量に増設したので、そのための兵隊さんたちなんです。


「三連装25ミリ高角機銃」って云うんですけど、上下左右に動かすのに、兵隊さんが人力でハンドルを回していて、目測で照準を合わせて撃ってるんです。で、弾倉は15発入りの箱型弾倉。15発撃つごとに弾倉を交換するんですけど、担いで運んでるんですよね。これで、時速300km以上で飛び回っている飛行機を撃ち落とそうって云うんですから、当たったら奇跡です。しかも米軍機は装甲が厚いんで、2,3発当たったくらいじゃなんともないんですから。
(ちなみに、大戦末期の米軍の40ミリ対空機銃は、対空レーダーと連動して自動で照準を合わせる優れもの)

あと、撃墜された米軍機からパイロットがパラシュートで脱出、海上に漂流しているところを飛行艇がやってきて救助、それを日本兵が呆然と見ている(撃てよ!)というシーンがありました。実際は、戦闘中に救助活動を行うなんてのはありませんでしょうけど、米軍がパイロットの救出に全力をあげていたのは事実です。
このブログでも何度も取り上げたように、これは人命尊重なんてことでは無くって、パイロットを育成する時間とお金を考えた合理的な理由からです。飛行機はいくらでも代わりがあるわけですから、パイロットさえ無事でいれば、戦力の低下にはならないわけで、これが、兵士を使い捨てにした日本軍との決定的な違いです。このシーンを象徴的に挿入した映画監督は、そのへんのところがよく分かっている方のようですね。

さて、数学で戦争を止めるという映画ですから、その辺のことも考えなくてはいけません。

この物語は、帝国大学を退学になった22才の軍隊嫌いの天才が、山本五十六少将の口利きで、いきなり海軍少佐に任官する話です。階級絶対主義の軍隊で、トンデモナイ奴が少佐なんですから、いろいろとドタバタが起きるんですけど、ここは一番面白いところだと思ったんで、もう少し見たかったですね。

山本五十六少将の論理はこんな感じ。

海軍で超巨大戦艦の建造計画が持ち上がっている。→そんな戦艦を手に入れたら、日本は戦争に勝てるという幻想を抱いてしまう。→でも、示された建造費が安すぎる。→その不正を曝けば建造を中止できる。→日本は戦争への道を歩まなくて済む。

で、この映画で、櫂少佐が行った仕事は、次の2つです。まずは、全く情報が得られない絶望的な状況の中で、わずかなスペック表と戦艦長門のデータを元に、新型巨大戦艦の基本設計図を作ってしまいます。(さすが天才)次に、その設計図を元に正しい建造費を計算しました。

櫂少佐は、絶対的に時間が足りない状況で、設計図から建造費を割り出すために、鉄の使用量から建造費を計算するという超裏技を編み出します。

大阪の造船所で既存の軍艦のデータを見ていた櫂少佐は、建造に使われた鉄の量と建造費の間に、ある関数が存在していることを発見します。変数が鉄の使用量の1つだけで、他は定数の関数です。それで分かったら確かに凄いです。潜水艦と駆逐艦があって、もしも鉄の使用量が同じだったらどうなるんだろうって、ツッコミたいところですけど、まあフィクションですから良しとしましょう。黒板の一行目にあるのが、その関数ですよ。


で、正しい見積額を曝いて、不正を糾弾して、ついでに新型戦艦の設計ミスを指摘して、戦艦の計画を白紙撤回させて、という感じにストーリーは進んでいきます。

ところが、山本五十六少将の真の目的は、その予算で空母機動部隊を編成して、アメリカとの戦争が始まったときに真珠湾を先制攻撃することでした。結局、櫂少佐は、海軍という巨大組織に利用されていただけだったんです。

櫂少佐は、新型戦艦を設計した平山造船中将から、巨大戦艦にかける思いを聞かされます。

平山中将の論理はこんな感じ。

アメリカとの戦争は避けられない。→日本は滅びるまで戦争をやめないだろう。→もし、日本を象徴する巨大戦艦があって、それが沈めば日本は絶望し降伏を考えるだろう。→巨大戦艦は、日本という国家の身代わりとなって沈むのだ。→そのために、美しく完璧で誰もが誇りと思える戦艦を造りたい。戦艦の名前は「大和」。

結局、櫂少佐は大和の建造に協力してしまいます。大和が完成したその日、櫂中佐(襟の階級章の星が2つになってたのを、僕は見逃しませんでしたよ。)は、数学的に完璧で美しい巨大戦艦に涙を流すのでした。って感じです。

戦艦大和が海軍の象徴だという思想は確かにあったと思います、当時の日本国民の中にも、大和があればアメリカに勝てる、未だ日本には大和があるから大丈夫だ、という考えが存在していました。
それは、アメリカ軍も同じで、大和を沈めることが戦争を終わらせることになると考えていました。


大和が沖縄に向けて出撃したとき、アメリカ軍は、その行動を完璧に把握していました。通常ならば、作戦を阻止するのが正しい戦略のはずなんですけど、アメリカ軍は、追跡している潜水艦に「絶対、手を出だすな」って命令しているんですよね。大和が作戦を中止して日本に引き返したら困るんです。

日本側から見ても、大和が沖縄に出撃したのは、戦略的に全く意味の無いことでした。でも、作戦は実行されました。これは、日米両海軍が、戦争を終えるために行った「セレモニー」だったんですよ。3700名の命を犠牲にしての。

戦艦大和は、1945年(昭和20年)4月7日に沈みましたが、日本は戦争をやめませんでした。日本が降伏を決断したのは、8月9日のソ連侵攻によってです。
もし、日本が、平山造船中将の思惑通り、そして沖縄が占領された時点で降伏していれば、日本の地方都市への空襲も、広島・長崎の原爆投下も、北方領土占領もなかったことになります。

2018年11月4日日曜日

ウォーターライン製作記⑭~爆装ゼロ戦とマリアナ沖海戦~

太平洋戦争は、日本が1945年8月14日(日本では8月15日)にポツダム宣言を受諾したことにより終結した。戦争に限らず、ヤメ時を決断すると云うのは難しいことである。この8月15日については、本土決戦が愚行される前という点では早かった決断と云えるが、勝つ見込みが無くなった時期を考えれば、あまりにも遅すぎた感がある。

日本が降伏を決断したのは、原子爆弾の投下を受けたからというのが、一般的なイメージであろう。もちろん、それも大きなことではあるが、最大の理由はソ連の対日参戦である。

というのも、日本が、敗戦が決定的となった後もズルズルと戦争をしていたのは、ソ連の仲介によって、少しでも良い条件で終戦させることを期待していたからである。そのソ連に宣戦布告されてしまったのだから話にならない。あのまま戦争を続けていけば、日本は、アメリカとソ連に分断統治されてしまい、今の韓国と北朝鮮みたいになっていただろう。

ならば、ソ連が対日参戦を決定したのは、いつなのだろうか。

それは、1945年2月8日にヤルタに於いて、ルーズベルト、チャーチル、スターリンの三人で結ばれた秘密協定によってである。この密約は、副大統領にも知らせなかったという超極秘事項で「ソ連は、ナチス・ドイツの降伏後、3ヶ月を準備期間として、対日参戦する」というものであった。
ドイツの降伏が5月8日、満州侵攻が8月8日(日本では8月9日)であるから、まさに約束通りだったことになる。

実は、この密約を日本の情報部は、ちゃんと掴んでいた。情報源は、ポーランド系ユダヤ人のインテリジェンス。ポーランド人やユダヤ人は、敵国であるのにもかかわらず、日本と極めて友好的な関係にあった。(ずっと昔からロシアに虐められてきたポーランド人は、日露戦争でロシアをやっつけた日本が大好きで、今でも日本人が旅行に行くとビックリするほど良くしてくれるらしい)まあ、誤解を承知でザックリ云ってしまうと、杉原千畝の「命のパスポート」のお礼に、こっそり教えてもらった、といったところであろうか。
ところが、軍部は、この貴重な情報を握りつぶしてしまったのだ。このへんの経緯は、岡部 伸著「消えたヤルタ密約緊急電」に詳しいのだが、もし、日本がこの時期に降伏していたとすると、日本の戦後は、大きく変っていたことになる。

日本軍の戦死者の9割は、最後の1年間に集中している。さらに、3月東京大空襲、4月沖縄戦、8月原爆投下、ソ連軍満州侵攻・・・。もし、日本があと半年早く降伏していれば、これら全てが回避でき、沖縄問題も、中国残留孤児問題も、被爆者問題も、北方領土問題も存在しなかったことになるのである。

日本が降伏すべきリミットタイムは、1945年2月であり、8月15日は、遅すぎた終戦と云わざるを得ない。

で、マリアナ沖海戦の話である。

ここまで、降伏の話をズルズルとしたのは、日本の降伏問題を考えるとき、このマリアナ沖海戦(1944年6月19日)での敗戦が降伏(講和)の決断をする最早の時期だったと云われているからである。

マリアナ沖海戦は、日本海軍がありったけの航空兵力を集中運用し、マリアナ諸島に侵攻してきた米機動部隊に戦いを挑んだ一大決戦であった。構図的には、ミッドウェー作戦の裏返しになるのだが、作戦規模はミッドウェーを遥かに上回る。

すでに、米軍と日本軍の兵力には決定的な差がついていて、兵器のスペックにおいても日本軍は圧倒されていたのだが、劣勢の中でも知恵をしぼり、過去の戦訓をふまえて臨んだのがこの作戦であったし、ミッドウェーのような不運に見舞われたわけでもなかった。マリアナ沖海戦は、日米の機動部隊が正面から堂々とぶつかり合った、史上最大の海軍航空戦なのである。

このとき、日本側が採用した作戦が、有名な「アウトレンジ作戦」である。これは航続距離が長いという日本軍機の特徴を生かして、遠方より先制攻撃を仕掛けるという戦術であった。そして、ミッドウェー海戦の戦訓を生かして、索敵に力を注いだ。その結果、日本軍の索敵機は、米機動部隊を発見。日本機動部隊は、第六次にわたって、攻撃隊を発艦させた。完全に先手を取ることに成功したのである。

この時、新たな攻撃力として期待されたのが、戦闘機であるゼロ戦を爆撃機として流用した「爆装ゼロ戦」(戦爆)であった。

開戦初期に主力であった九九式艦上爆撃機は、旧式化して対空砲火による喪失率が跳ね上がっていた。新型の爆撃機「彗星」は、高性能を追求した結果、機体が大型化し正規空母でしか運用できなかった。そこで考えられたのが、ゼロ戦21型に250kg爆弾を搭載できるように改装し、戦闘爆撃機として運用することであった。
爆装ゼロ戦は、中・小型空母でも運用でき、性能も九九式艦爆よりは良く、爆弾投下後は戦闘機としての戦力も期待できた。

映画「永遠の0」の一場面。特攻機も爆装ゼロ戦も、爆弾を抱えているゼロ戦であるから、両翼にある増槽タンクを切り離してしまうと、見た目は同じである。もちろん、その戦術は大きく異なる。


爆撃機は、操縦士と爆撃手の2人乗りが基本である。また、急降下爆撃を可能にするためにはエアブレーキなどの装備が必要なのだが、爆装ゼロ戦には、そのような装備は無く、照準器の性能も劣っていたので、正規の爆撃機と比べて命中精度は低かった。さらに、長距離を航行するための燃料を満載したうえ、250kg爆弾を搭載した機体は、速度も運動能力も低下し、真っ直ぐ飛ぶのがやっとだったとも云われている。
しかし、最大の問題点は、一人で操縦と爆撃、空中戦、ナビゲーションをこなさなければならないことであった。そのため、戦闘爆撃機のパイロットには高い練度が求められるのだが、日本軍は、長引く消耗戦でベテランパイロットの多くを失い、実戦配置された搭乗員のほとんどは、二十歳前後の若者で、訓練不足のため発着艦もままならないような状態であったと云われている。
そんな新米のパイロットに、爆弾を装備したゼロ戦で、太平洋の真っ只中を片道2時間半飛行して、650km先の敵艦隊を攻撃、再び母艦に帰ってくることを強いたのである。
「アウトレンジ作戦」とは、研修もそこそこの新入社員の愛社精神(大和魂)を前提に、長時間労働による成果を期待するブラック作戦であった。

しかし、日本軍は、先手を取っていた。機動部隊の戦いでは、先制攻撃を仕掛けた方が勝つというのが通説であった。

この時、アメリカ機動部隊は、日本艦隊を発見できていなかった。しかし、アメリカ機動部隊が装備していた最新鋭のレーダーは、日本の攻撃部隊を200km先に捉える。このレーダーは、敵の位置の方位と距離だけでなく、高度も探知できるという優れものであった。さらに、米艦隊は、各艦のレーダー情報を空母レキシントンの管制室に集約し、一元化して運用する戦闘機指揮管制システムを構築していた。迎撃に上がった米戦闘機F6Fは、管制室からの無線電話の指示により、向かってくる日本機編隊ごとに振り分けられ、最適な迎撃ポジションに誘導された。

空戦では、日米の搭乗員の練度の差が語られることが多いが、マリアナ沖海戦に参加した米戦闘機パイロットの中には、これが初めての実戦という新米も多かったと云われている。ミッドウェー以来の総力戦である。新米を多く抱えていたという点では、日米両軍とも同じであったのだ。
彼らは、迎撃態勢をとるまでは管制室から、戦闘が始まってからは、隊長機からの無線電話によって、コミュニケーションをとりながら戦った。全ては訓練の通りに。

日本機動部隊の第一次攻撃隊64機は、62機のF6F戦闘機の奇襲攻撃を受け、42機を失って敗退。特に爆装ゼロ戦は、出撃した43機のうち31機を喪失するという壊滅状態であったという。
第二次攻撃隊128機は、編隊を突撃体制に組み直している最中(敵艦隊を目前に編隊を組み直し、10分もタイムロスをしている)という最悪のタイミングで、待ち伏せしていた97機のF6Fに襲撃され、全体の3/4にあたる99機が撃墜されてしまった。

辛うじて、米艦隊にたどり着いた攻撃機も、近接信管等で精度を増した対空砲火によって撃墜され、六次にわたる日本機動部隊の攻撃隊は、ほとんど戦果を上げることができなかった。
また、途中で方向を失い、母艦に帰還できずに墜落してしまった機も多く、なんとか帰還できた機体も損傷が激しく、使える航空機は、ほとんどなかったという。

翌日、日本機動部隊は米機動部隊の反撃を受ける。艦載機のほとんどを失った日本の機動部隊は、迎撃も満足にできず、ここに壊滅するのである。


写真は、改装空母「隼鷹」。同型艦「飛鷹」、小型空母「龍鳳」とともに、第二航空戦隊として、マリアナ沖海戦に参戦。3次にわたって攻撃隊を出撃させたが、敵艦隊を発見できず帰還中に米戦闘機に襲撃されたり、母艦の位置が分からず行方不明になったり、敵艦隊を発見するも迎撃されたりと、戦果を上げることができなかった。
「隼鷹」は戦線離脱中に米機動部隊の攻撃を受け、爆弾2発命中、至近弾6発を受けて損傷するも、撃沈は免れている。


実は、この時、米機動部隊が日本機動部隊を発見したのは、米艦載機の航続距離ギリギリのところで、日没も迫っていた。攻撃隊を出せば、帰還は夜間になり、途中で燃料切れになる可能性もあった。無茶なことは、米軍だってする。
実際、攻撃隊約200機のうち、燃料切れで海上に不時着したり、着艦に失敗するなどして、80機を喪失している。しかし、米軍は、全力を挙げてほとんどのパイロットを救出した。それは、人命尊重などという話ではない。一人のパイロットを育てるには、3年の年月と現在の価値で2億円の費用がかかる。それが理由の全てであった。

作戦終了後の第二航空戦隊の残存戦力は、九九式艦上爆撃機:8機(喪失21)・彗星艦上爆撃機:5機(喪失6)・天山艦上攻撃機:3機(喪失12)・爆装ゼロ戦:5機(喪失22)・零式艦上戦闘機:12機(喪失41)とある。喪失率は75%。第二航空戦隊は解隊され、艦載機を失った「隼鷹」は輸送船として運用されることになる。

この海戦で、日本機動部隊は第一航空戦隊の正規空母「大鳳」「翔鶴」を失うなど、壊滅的な敗北を喫してしまう。もはや普通に戦っても、アメリカには勝てないことが、明らかになったのである。アメリカに西太平洋の制海権と制空権を完全に握られた日本軍は、この後は、特攻攻撃を戦術の柱にしていくことになる。

日本海軍の敗退により、孤立無援となったサイパン島の守備隊は、多くの民間人を巻き込んで玉砕。サイパン島陥落の結果、アメリカの戦略爆撃機B29による本土空襲が可能になり、東条内閣は総辞職する。この時、早期講和を訴え、内閣総辞職へと導いたのが、国務大臣・軍需次官だった岸信介氏(安倍総理の祖父)である。

だが、内閣が替わっても講和が実現することはなかった。講和を妨げていた最大の要因は、意外にも国民感情であった。国民の多くは、嘘で塗り固められた大本営発表を信じ、負けを実感していなかったのだ。早期講和は、国民感情を刺激することになり、軍の強硬派によるクーデターを引き起こす恐れもあった。3月東京大空襲、4月沖縄戦、8月原爆投下、ソ連軍満州侵攻・・・結局は、たくさんの犠牲を目の前にして、初めて降伏が現実となったのである。

とすれば、8月15日の終戦は、早くも遅くもなく、歴史の必然だったのかもしれない。


写真は、サイパン島「バンザイクリフ」と天皇皇后両陛下

2018年8月7日火曜日

ウォーターライン製作記⑬ ~巡洋艦「北上」と人間魚雷「回天」~

今年も8月15日が近づいて来た。戦後70年だった3年前と比べれば扱いは小さいだろうが、それでも6日の広島原爆投下から始まって15日の終戦の日まで、太平洋戦争関連の特集番組が数多く放送されることと思う。

で、最近のウォーターラインであるが、建造費がかさんできたことと、接着剤の匂いが家族に不評なため、思うように制作が進んでいない。が、終戦の日も近いことであるし、久し振りに投稿というわけである。

今回のテーマは「特攻」である。「特攻」については、作戦の意味や成果、実施された経緯など、それぞれの立場で、あまりにも多くの見解が述べられているが、まあ、自分なりのスタンスでまとめてみようと思う。


「特攻」と云うと、まず思い出されるのが「神風」に代表される航空機による特攻であろう。この航空機特攻の中心となったのは「ゼロ戦」であった。ゼロ戦は、「零式艦上戦闘機」という名前から分かるように、本来は航空母艦に搭載するための戦闘機である。ところが、戦争末期には、空母に離発着できる腕を持つパイロットなどいなくなってしまったし、新しいパイロットを訓練するための時間も物資も無かった。また、この頃の戦闘機に求められたのは、ゼロ戦のような長い航続距離を持つ軽戦闘機でなく、陸上の飛行場から飛び立って、B29などの爆撃機を迎撃する重戦闘機であった。そこで、型落ちとなったゼロ戦に訓練不足なパイロットを乗せ、250キロとか500キロ爆弾を搭載して特攻させたわけである。
ゼロ戦のような軽戦闘機に500キロもの爆弾を取り付ければ、飛んでいるだけで精一杯だから、結果は言わずものがなであろう。

ただ、航空機は特攻するために作られたわけではないから、此処で云う「特攻」とは、戦術のことである。(成功即ち死という攻撃を戦術と云えるかは別として)


それに対して、人間魚雷「回天」は特攻するために開発された兵器、すなわち特攻兵器である。同じような特攻兵器には、ベニヤ板製のモーターボート(といっても速力20ノット程度)に爆薬をとりつけた特攻艇「震洋」や、1200キロの徹甲弾にロケットエンジンと操縦席をとりつけたベニヤ板製の人間誘導爆弾「桜花」などがある。

人間誘導爆弾「桜花」は、特攻兵器としては、それなりに優れた性能を持っていたが、目標の敵艦の近くまで中型攻撃機「一式陸上攻撃機」で運ぶ必要があった。
「桜花」は、頭部に1.2トンもの爆薬を搭載しているので、兵器全体の重量は2トンを越える。一式陸功の設計上の搭載量は1トン程度だったから、こんな重たいものを胴体の下に抱えて飛ぶのは大きな負担だ。離陸できただけでも奇跡だと云う証言もある。
桜花による最初の作戦では、18機の一式陸攻が出撃したが、目標の艦隊にたどり着く前に、レーダー管制された米戦闘機隊によって全て撃墜されてしまった。一式陸攻の搭乗員は7名。大戦中、桜花の出撃は10回行われ、特攻で55名が命を落としたそうだが、母機の搭乗員の戦死者は365名にのぼったと云う。

米戦闘機のガンカメラの映像である。


為す術も無く撃墜される「一式陸功」を見ているのは辛いが、米戦闘機だって撃墜しなければ、もし、一機でも取り逃がせば、何百人という米兵が犠牲になったわけである。

桜花による最終的な戦果は、駆逐艦撃沈1、大破2、戦死者150名、負傷者197名とあった。特攻が、極めて非効率な作戦だったことは、よく語られるが、戦争末期において、未熟なパイロットの通常の攻撃では、この程度の戦果さえも期待できなかったわけで、軍部が特攻作戦に傾倒していった理由の1つになっている。
ただ、勝てないと分かっていれば、降伏するしかないはずで、何故そんな当たり前のことさえも判断できなくなってしまったのか、僕らが歴史から学ぶべきことはたくさんある。


さて、人間魚雷「回天」は、特攻兵器のなかでは知名度が高い。それは「人間魚雷」と云う、極めて非人道的なネーミングからくるインパクトも一因だと思う。

「回天」は、日本が誇った「九三式酸素魚雷」を改造して作られたものである。

「九三式酸素魚雷」は、駆逐艦などに搭載するために作られた高性能の大型魚雷である。日本海軍は、対米作戦において、駆逐艦隊による水雷戦を戦術の柱にしていた。しかし、実際に開戦すると、太平洋戦争は機動部隊による航空戦が中心となる。さらに、米軍のレーダー射撃が実用化されると、駆逐艦で敵戦艦に肉薄して魚雷攻撃を仕掛けるなどということは、完全に不可能となってしまった。

回天の最大のポイントは、大量の在庫になっていた酸素魚雷のエンジン部分をそのままま流用するというところにある。魚雷の推進装置の前に一人乗りのスペースを設け、操縦装置を取り付け、頭部に1.5トンの爆薬をつけたのである。回天は、全長14.7m、排水量8tというから、超小型の潜水艦のようにも思えるが、使い捨てであるから、やはり、魚雷というのが正しい。

回天の戦法は以下の通りである。
まず、搭乗員は、潜望鏡を使用して敵艦の位置・速力・進行方向を確認する。
そこから、進むべき方向や速度を設定し、命中するまでの時間を計算する。
そして、相手に見つけられないように潜望鏡を降ろし、時計を見ながら突入する。
命中予想時刻を過ぎても何も起こらなかった場合は、つまり外れたということだから、浮上して、もう一度やり直すという、目隠しをしてやるスイカ割りみたいなものである。

これを魚雷の内部という閉鎖空間で行うためには、桁外れの精神力と明晰な頭脳が必要である。だから、回天の搭乗員は、極めて優秀な若者でなければ務まらなかった。しかし、そんな若者こそ「生きて」国のために働くべきだったのは云うまでも無い。

回天の航続距離は、最大でも78km(それはそれで凄い)であるから、潜水艦で敵艦隊の近くまで運ぶ必要があった。当初は、太平洋の環礁に停泊している軍艦に対し、湾内に侵入して攻撃する作戦で、タンカー1隻を撃沈する戦果を上げた。しかし、米軍の警戒が強化されると、外洋を航行中の艦船を狙うことになったため、成功する可能性は、さらに低くなった。

 2017年8月23日に「潜水艦「伊58」と米巡洋艦「インディアナポリス」の悲劇」という記事を投稿させていただいたが、この時の「伊58」は、回天作戦中であったが、通常魚雷で攻撃している。


これは、橋本艦長が、特攻に批判的だったと云うわけではなく、通常魚雷の方が成功する確率が高いと判断したからにすぎない。橋本艦長は、他の作戦時には、回天を使った攻撃も選択している。

魚雷は発射されると、海面下10mあたりを進み、目標までの到達時間は最大でも10分程度である。回天の推進装置は魚雷の流用だから、回天は深度80m以上になると壊れてしまうし、長時間海中にあると故障してしまった。そのため、出撃を決定しても故障していて出られない回天も多かったと云う。

回天は、搭載している潜水艦にも行動の制約をもたらした。潜水艦は、敵に発見されると、海中深く潜行して、爆雷攻撃を回避するのだが、回天を壊さないために80m以上潜水することができなかったし、甲板に載せた回天によって、海中での操艦が難しくなったりしたからだ。回天は、搭載している潜水艦にとって、大きな足かせになっていたのだ。

回天による特攻で戦死した搭乗員は104名。作戦には16隻の潜水艦が従事したが、終戦までに8隻が失われ、乗組員の戦死者は812名とある。


戦局が進むにつれて、米艦隊は日本近海に現れるようになった。回天は、潜水艦からでなく、水上艦や海岸の基地から直接出撃する作戦に切り替わった。

この時、回天を搭載できるよう改装されたのが、軽巡洋艦「北上」であった。

軽巡洋艦「北上」は、大正10年に球磨型の3番艦として竣工したレトロな3本煙突の巡洋艦である。開戦時には、艦年齢も20年を越え、すでに老艦となっていたが、新型艦の建造は、戦艦や空母が優先されたため、現役の巡洋艦として水雷戦隊の旗艦などの任務についていた。


巡洋艦「北上」は、太平洋戦争の開戦直前に「重雷装艦」に改装された。これは、新兵器である酸素魚雷を最大限活用するため、主砲などを撤去する代わりに、4連装の魚雷発射管を10基搭載し、40本もの魚雷を発射できるようにしたものであった。
魚雷一本の炸薬量を500kgとして、合計すると20トンになるわけで、海に浮かぶ火薬庫みたいな艦である。ところが、太平洋戦争は機動部隊中心の戦いになったため、重雷装艦の活躍の場が訪れることは無かった。

戦局が厳しくなり、やがて、制空権、制海権が米軍に握られてくると、前線部隊への補給の問題が出てきた。低速の輸送船は、ことごとく撃沈され、ガダルカナル島などの前線部隊では餓死者が続出する事態になった。
「北上」は、魚雷発射管を降ろし、高速の輸送船として改装されることになった。夜、暗闇の中、高速を利用して物資を届ける任務である。
高速輸送艦となった「北上」は、ソロモン諸島やニューギニア方面で輸送任務に従事した。

その後、雷撃を受け、修理のために佐世保に戻ってきた「北上」であったが、特攻の機運が高まる中、今度は、開発されたばかりの特攻兵器「回天」の母艦としての改装を受けることになる。
これが、回天搭載型の巡洋艦「北上」である。



主砲や魚雷発射管は全て撤去され、もの凄い数の対空機銃が装備されている。対空機銃の増設により、「北上」の乗員は650人に膨れ上がっていた。
三連装の対空機銃1基について、指揮官や照準手、弾薬運びなど9人の兵士が配置されていた。彼らは、防弾盾も無い状態で米軍機と対峙していたのだ。米戦闘機グラマンF6Fは13ミリ機銃を6丁装備していて、5秒間に400発撃つことができたというから、戦闘機のパイロットが機銃のトリガーを1回引けば、彼らは全員戦死してしまうのだ。


「北上」は回天を8隻搭載することができて、航行しながら射出することもできたようである。主任務は、回天の輸送と訓練の支援であったが、攻撃任務も想定されていたようで、そうなれば撃沈は必至であり、数多くの戦死者を出していたことと思う。
                 
しかし、出撃の機会のないまま、昭和20年7月24日、呉軍港への空襲(「この世界の片隅に」にも描かれている)により「北上」は大破、航行不能になり、そのまま終戦を迎えることになる。

終戦後は、復員船支援の工作艦として使用された後、昭和21年10月、三菱重工業長崎造船所で解体、26年の艦歴を閉じた。

特攻というと、特攻隊員が取り上げられることが多いが、特攻を支援する任務についていた方々にも、特攻隊員を大きく上回る犠牲があったわけで。
桜花作戦で「特攻なんてぶっ壊してくれ」と言い残して飛び立っていった一式陸功の飛行隊長、回天に出撃命令を出したことで自暴自棄になった潜水艦の艦長、特攻にまつわる話は、全てが辛く悲しい。

2018年5月3日木曜日

ウォーターライン製作記 ⑫ ~幻の巡洋戦艦「赤城」とワシントン軍縮条約~

歴史家「磯田道史」氏によると、国家はその時代ごとに、最も金を喰う部門を抱えているという。
江戸時代は、それが「大奥」であり、現代は、差し詰め「医療福祉」であろう。
そして近代のそれは「海軍」であった。
産業革命による技術の急激な進歩は、最新鋭の軍艦をたちどころに旧式化してしまった。
大金をつぎ込んで建造しても、竣工する頃には、また新たな新型艦の建造が必要になったのである。

海戦はスペックの戦いである。
性能に劣る兵器では100%勝てない。
海軍が陸軍と比べて、若干ではあるが、合理的なのは、そのためである。
そして、軍艦の維持には莫大な費用がかかる。

当時の日本海軍が計画していた八・八艦隊は、艦隊建造に国家予算の1/3を使う予定だったという。
さらに、全艦隊の年間維持費は、当時の日本の歳出規模15億円に対し、6億円と予想されていた。
つまり、膨れ上がった艦隊は、その維持だけで、毎年の国家予算の4割を使う予定だったのである。
これでは、国家がもたない。

軍事費は国家予算を圧迫し、折からの世界不況と重なって、列強各国の財政は破綻寸前になっていた。
海軍のために国が滅びるというのは、現実に起こりえる問題だったのだ。
これがワシントン・ロンドン軍縮会議が開かれた背景である。

条約で決めたことは、お互い、しばらくの間、新しい軍艦を造るのはやめようということと、
造りすぎた軍艦は、みんなで廃棄しようとの2つである。
日・米・英の保有比率は、3:5:5と決められた。

今では信じられないことだが、当時は、アメリカよりもイギリスの方が海軍力が大きかった。
だから、この条約によって、日の沈まぬ国と称された大英帝国の海軍は、
新興国アメリカに追いつかれることになった。
日本は、対米比率を7割にすることを強く主張した。
7割あれば、どうにか対等に渡り合えると考えていたからだ。
でも、結局は6割で落ち着いた。
条約が流れてしまって、日米が無制限に軍艦を造り始めたら、
アメリカと日本の差は、6割どころか、とてつもなく広がってしまうからだ。
それほどアメリカの国力は強大で脅威だった。

日本は、対米6割とはいえ、
40cm砲を8門搭載した最新鋭の戦艦「長門」と「陸奥」の保有を認められたので、
伝えられている程には、悪い話で無かった。

条約の発効により、既に船体部分が完成していた巡洋戦艦「赤城」の建造は中止となり、
航空母艦に変更されることになった。

建造計画が進んでいた「八・八艦隊」というのは、戦艦8隻と巡洋戦艦8隻を中核とする艦隊である。
「巡洋戦艦」と云うと、大型で攻撃力・防御力に優れた戦艦と、
中型で高速の巡洋艦の「中間的」な艦艇をイメージするが、
ここで云う「巡洋戦艦」というのは、
巡洋艦の行動力と、戦艦の攻撃力を合わせ持つ「スーパー巡洋艦」のことである。
同じようなカテゴリーに「高速戦艦」というものがあって、軸足をどちらに置いているかであるが、
より速力に優れているのが巡洋戦艦、防御力に優れているのが高速戦艦と云ったところであろうか。
巡洋戦艦「赤城」は、41cm連装砲を5基10門搭載、速力30ノット、排水量4万トン以上という、
戦艦「長門」よりも強大で、後の戦艦「大和」よりも高速な艦になるはずであった。

空母「赤城」と純国産戦艦「山城」の2ショットである。
巡洋戦艦の船体を流用した空母「赤城」のほうが、戦艦よりも一回り大きいことが分かる。



条約により、戦艦や巡洋戦艦から航空母艦に計画変更されたのは、赤城と加賀の2隻であった。
両艦はミッドウェー海戦で撃沈されるまで、大型正規空母として機動部隊の中心となって活動した。

実は、同様のことは、アメリカでも行われていて、珊瑚海海戦で撃沈した空母「レキシントン」や、
潜水艦や特攻機の攻撃を受けながらも、終戦まで生き延びた空母「サラトガ」は、
ともに、巡洋戦艦からの計画変更によって建造された空母であった。

「赤城」は、初の近代的航空母艦であったが、当時の飛行機は、まだ複葉機が一般的で、
そもそも、飛行機を艦船に着艦させるなんて芸当が、可能かどうか分からないという時代であった。
赤城は、急速な航空機の発達に合わせて、試行錯誤の改装を繰り返していくことになる。

やがて、軍縮条約が失効すると、各国は制限無く軍艦の建造を進め、
日本海軍も、巨大戦艦「大和型」や正規空母「翔鶴型」の建造を始めた。
太平洋戦争が開戦すると、日米両国は航空母艦の建造をさらに進め、
空母機動部隊を編成していくことになる。
航空母艦の建造と機動部隊の運用に最も力を入れたのが、日本とアメリカであり、
真珠湾奇襲作戦、珊瑚海海戦、ミッドウェー海戦、、南太平洋海戦、マリアナ沖海戦など、
太平洋戦争の主だった海戦の主役は、空母機動部隊であった。

機動部隊の発達は、軍艦に対する考え方を変化させた。
艦船の役割は細分化され、それぞれの性能に特化した艦船で、艦隊を組むようになったのである。
巡洋戦艦は、1隻に多様な性能を詰め込んだ結果、高速と云っても駆逐艦や巡洋艦より劣っていたし、
防御力は戦艦には及ばなかったから、至近距離での撃ち合いでは分が悪かった。
何より、建造に莫大な費用がかかる巡洋戦艦は、コストパフォーマンスが悪すぎた。

巨艦でありながらスマートなシルエットで、軍艦の中で最も美しいと云われた巡洋戦艦であったが、
条約が失効し、建造の制限が無くなっても、再び建造されることはなかったのである。

実在しなかった巡洋戦艦「赤城」であるが、フジミから再現モデルが発売されているとのことである。

近代国家が、持てる技術と金を惜しげもなくつぎ込んだのが海軍である。
人殺しの道具にすぎない軍艦が、何故これほどまでに魅力的であるのか、これが理由の全てである。

2018年4月15日日曜日

初音ミク「恋のミュージックアワー」 ~あの素晴らしき時代と~

現在、最も売れているアーティストと云えば「米津玄師」氏であろう。
その米津氏が、かつて「ハチ」名義で、ボカロPとして活動していたことは、ご存じであろうか。

彼のような、元ボカロPのアーティストというのは今までにも何人かいたが、
人間界の仕事が増えるとボカロの仕事には見向きもしなくなるという傾向があった。
まあ、ボカロ界への裏切り行為とも云えるが、
手っ取り早く売れるために、当時人気のボカロに手を出したって奴も多かったし、
考えようによっては、それもボカロへのリスペクトと云えなくも無いから良しとしよう。

米津氏も「ボカロは卒業しました」っぽい感じだと思っていたが、
昨年のマジカルミライでは、初音ミクのために新曲を提供してくれた。
トップを獲る人間というのは、ちゃんと心遣いができているものだと感心した次第である。

米津氏のファンの中心層は、女子中高生である。
ところが、彼女たちは、「憧れの米津さんが、ボカロPだったなんて、ちょっとショック」
とか言ってると云うのだ。
彼女たちにしてみれば、ボカロというのは、キモいオタクの物であって、
米津氏がボカロPであったことは、黒歴史ということになるらしい。

いつから、そんなイメージになったのだ。

マジカルミライに行けば分かることだが、
チェック柄のシャツを着て眼鏡をかけた小太りの男なんて、ライブ会場では極めて少数派だ。
(そんな奴いないと言い切れないところが辛い)
・・・って云うか、つい数年前の中高生は、カラオケでボカロ曲を歌い、
初音ミクのキーホルダーを鞄に下げていたんじゃなかったのか。
人類史上でも画期的な発明、神の領域に踏み込んだと云えるボーカロイド技術、
それが、この数年のあいだにオタクの象徴へと変わってしまっていたのだ。

昨年は、初音ミク10周年だった。
いろいろなイベントが組まれたようだが、さほど世間に注目されることもなく、
結果的にボカロ界の斜陽化を印象付けることになってしまった。
思えば、GoogleのCMで初音ミクの「Tell Your World」が流れていた頃が、
最後の輝きだったのかもしれない。

で、貼り付けさせていただくのは、10周年記念に制作されたという楽曲「恋のミュージックアワー」。
単純に可愛くて、純粋に前向きな、たわいないラブソングであるが、
コメント欄に「あなたのおかげで私はたくさんの友達ができました。」とあるように、
MVは「Tell Your World」のオマージュといえるような作品である。


このMVから受ける印象は「あの頃は楽しかったね」といったものだろうか。
初音ミクの歌わせ方など、滑舌も改良されて、抜群に可愛くなっているが、
それも今では空しく感じるばかりである。

Google Chromeのキャッチコピーは「Everyone Creator」だった。
それは初音ミクも同様だと思う。

初音ミクが出てからの2・3年は、
多くの者がこの言葉を信じていたか、信じてみようかなという気分になっていた。
熱い想いがあって、気の利いたフレーズを思い浮かべることができたなら、
彼女が歌い、作曲支援ソフトが伴奏を付けてくれる。
ニコニコ動画に投稿すれば、誰かが聴いてくれて、評価してくれる。
さらには画を付ける奴、歌う奴、踊る奴、歌詞を深読みして小説を書く奴。
ボーカロイドが、インターネットが、人と人を結びつけ、
「音楽好きだけど引き籠もり気味な兄ちゃん」たちのリハビリになっていたことは確かだ。

「米津玄師」氏は、才能有る男だから、初音ミクに関わろうが無かろうが、世に出てきただろうけど、
「ハチ」としての活動が現在の彼を作っていることは間違いない。
「Everyone Creator」という謳い文句は、そりゃあEveryoneというわけにはいかなかったにしても、
少なくとも嘘では無かったのだ。

パソコンが世に出たばかりの頃は、基板を集めて自作する奴も少なからずいたし、
プログラムは、自分で組むものだった。
本田宗一郎のバイクだって、山葉寅楠のオルガンだって、全て素人の手作りから始まっている。
いつの時代だって、技術的に未発達な頃は誰でも参加できるのだが、
やがてレベルが上がるにつれて敷居は高くなり、素人は手が出せなくなっていく。

ボーカロイドも制作するものから、しだいに鑑賞するものに変わっていった。
今では、素人が楽曲をニコニコ動画に投稿したところで、誰も聴いてはくれないだろう。
そのニコニコ動画も、最近はユーチューバーにとって変わられた感がある。
インターネットは、自らも参加するものから、一方的に情報を受け取るだけのものになってしまった。
流行のインスタグラムだって、やがて素人の投稿は無視され、
一部の人気インストグラマーの投稿だけが相手にされるようになるだろう。

もはや「何を発信したか」でなく「誰が発信したか」だけが重要なのだ。
そして、「Everyone Creator」は夢物語となり、ボーカロイドは誤解の海の中に沈んでしまった。

って、ここで力説したところで、こんな素人のブログなんて、誰も見向きもしてくれないだろう。

と云うことで、「恋のミュージックアワー」のMMD動画バージョンでお終いにします。
やっぱり、初音ミクには、MMD動画が似合うし、MMDと云えば「艦これ」だと思う。


あっ、これのせいか・・・。

2018年3月24日土曜日

ウォーターライン製作記 ⑪ ~駆逐艦「夕雲」とガダルカナル撤退作戦

今回取り上げさせていただく、駆逐艦「夕雲」です。


ハセガワの駆逐艦「夕雲」です。
いつもながらの、素組・無塗装でスミマセン。
写真では分からないかもしれませんが、新金型だけあって、ディテールまで再現されています。

箱絵は「加藤単駆郎」氏です。


いつもながらの、素晴らしいアングルです。
4月には個展、6月には画集が出るそうです。

夕雲型駆逐艦一番艦「夕雲」は艦隊型駆逐艦「陽炎」型の改良型として、1941年12月に竣工しました。
夕雲型は、最終的には19隻が建造されますが、開戦前に竣工していたのは、一番艦の「夕雲」だけで、
(それも開戦のわずか三日前)他の艦は、全て戦時中に竣工することになりました。
夕雲型の各艦が竣工する頃、戦局は激しい消耗戦となっていました。
そのため、彼女たちは、訓練もままならないまま、直ちにガダルカナル島などの最前線に送られ、
19隻あった同型艦は、終戦までに全て失われてしまいました。
特に、ルンガ沖夜戦で、米巡洋艦隊の集中攻撃を受け撃沈した6番艦「高波」の艦歴は、
わずか3ヶ月でした。

「夕雲」は、機動部隊に所属して、
「ミッドウェー作戦」「第二次ソロモン海戦」「南太平洋海戦」などに参戦し、
その後は、同型艦と共に、ガダルカナル島への駆逐艦輸送作戦に従事します。
それは、制空権の失われた海域での、決死の輸送作戦でした。

本来、物資を運ぶのは輸送船の役割でしたが、制空権の無い海域では、輸送船は次々と撃沈され、
ガダルカナル島の将兵は、全く補給を受けられないという状況に陥っていました。
このため、高速の駆逐艦に物資を積み込み、夜陰に紛れて輸送するという作戦が実施されます。
搭載している魚雷を降ろして、空けたスペースに物資を積み込み、
夜間に行動することから、「鼠輸送」と揶揄された作戦でした。

一列になって高速で航行する「鼠輸送」の駆逐艦隊、連合軍側の呼称は「Tokyo Express」。


駆逐艦には、荷揚げ用のクレーンなどありませんから、運べるのは、わずかな兵員と食料程度、
戦車や大砲などは運べません。
さらに、米艦隊の待ち伏せや、航空機の攻撃に遭うことも多く、損害は増え続け、
実施された半年の間に、駆逐艦の喪失は14隻にのぼりました。

ガダルカナル島の飛行場を守っているのは、アメリカ海兵第1師団という、米国最強の正規軍です。
そんな所に、航空機支援の無い軽武装の陸軍部隊を上陸させ、
飛行場を奪還しようなどという作戦が、成功するはずもありませんでした。
不毛な消耗戦は5ヶ月続き、ついに日本軍はガダルカナル島からの撤退を決定します。

「ガダルカナル撤退作戦」は、「ケ号作戦」(ケは捲土重来の意)と名付けられました。

ずさんで、行き当たりばったりな侵攻計画と違い、
「ケ号作戦」は、太平洋戦争で実施された、最も大規模で、綿密に計画された撤退作戦でした。
というのも、為す術も無く見殺しにするしかなかった戦争末期と違い、
この頃までは、日本軍の戦力にも若干の余裕があったからです。

まず日本軍は、駆逐艦や潜水艦を使っての補給作戦を再開しました。
これは、ガダルカナルの兵士の体力を回復させるのが目的でした。
日本兵は、歩くこともままならないほどに、消耗しきっていました。

さらに、周辺の基地から航空機を出撃させ、ガダルカナルの飛行場に夜間攻撃を仕掛け、
撤収作戦時にも、隼や零戦などの戦闘機が艦隊の上空を掩護しました。
陸軍の戦闘機が海軍と協同して作戦に当たるのは、それまでは考えられないことでした。

また、トラック島の基地から、戦艦や航空母艦を出撃させ、米艦隊の出現に備えさせました。

そして、撤収作戦の殿を任務とする、新たな部隊を島に派遣しました。
「矢野大隊」と呼ばれたこの部隊の任務は、撤収作戦に合わせて攻撃を仕掛け、
米軍の注意を引きつけることにありました。
「矢野大隊」は最前線に布陣し、米軍の攻撃に「破甲爆雷」による対戦車攻撃などで対抗しました。
「破甲爆雷」は、戦争映画に出てくる、敵の戦車にパチッと磁石で貼り付けて爆発させる兵器です。
ガダルカナル撤退作戦が成功したのは、この「矢野大隊」の活躍が大きかったと云われています。
撤退作戦終了時、750人いた部隊は、300人に減っていたといいます。

これらの陽動作戦により、米軍は、日本軍の活動を新たな総攻撃の前触れと考え、
日本軍の撤退に全く気づかなかったと云われています。

「夕雲」を含めた、20隻の駆逐艦は、1943年2月1日から7日まで、3回に渡り将兵を救出しました。
しかし、ジャングルの奥地にいた部隊などは、撤退作戦が行われていることすら知らず、
また、消耗し、自力で動けない兵士の多くは、置き去りにされたと云います。

ガダルカナルに日本軍が投入した兵力は約3万人、撤退できたのは約1万人でした。
戦死者2万人の内、直接の戦闘での死者は5千人にすぎず、
残りの1万5千人は餓死や戦病死だったと云われています。

この時、大本営発表において、「撤退」ではなく「転進」という表現が使われたことは、
中学校の歴史の教科書にも載っている有名な話です。

ガダルカナル島から脱出した将兵が、内地に帰還することはありませんでした。
帰還兵により、ガダルカナルの惨状が国内に知られることを恐れたからだ、と云われています。
彼らは、消耗しきっているのにもかかわらず、そのまま南方戦線に留め置かれ、
再び最前線へ送られました。
そういう意味では、「転進」という表現は、正しかったと云えなくもありません。

「夕雲」は、その後、北方部隊に編入され、
「キスカ島撤退作戦」(ケ号作戦、ケは乾坤一擲の意)に参加しました。
そして、再びソロモン海域に投入され、「コロンバンガラ島撤退作戦」(セ号作戦)に従事します。

この2つの「ケ号作戦」と「セ号作戦」は、太平洋戦争において、大成功した3大撤退作戦と云われ、
駆逐艦「夕雲」は、その3つの作戦全てに参加したことになります。
特に、「コロンバンガラ島撤退作戦」は、あまり知られていませんが、
他の2つの作戦が、米軍に気づかれないうちに撤退できた、ラッキーな作戦であったのと違い、
米軍の来襲を必死に排除しながら、12,000名の守備隊を撤退させた、というものでした。

「夕雲」が従事した最期の作戦も、撤退作戦でした。
ベララベラ島にいる600名の守備隊を撤退させる、というこの作戦で、
「夕雲」は撤収部隊を支援する警戒艦として参加していました。

島は、すでに米軍によって海上封鎖されていました。
撤収部隊は、夜間に行動していましたが、米駆逐艦のレーダーに捕捉されてしまいます。
この頃、米軍は、駆逐艦のような補助艦艇にまでレーダーを装備していました。

警戒任務に就いていた「夕雲」と、3隻からなる米駆逐艦隊は、
ほぼ同時に相手を発見し、戦闘が始まりました。
「第二次ベララベラ海戦」と名付けられたこの戦いで、
「夕雲」は撃沈、米駆逐艦も1隻が撃沈、2隻が損傷して撤退していきました。
双方が発射した魚雷が互いに命中し合う、と云う文字通りの刺し違えであったと云います。

2018年3月14日水曜日

ウォーターライン製作記 ⑩ 駆逐艦物語 と「恋のミュージックアワー」feat.初音ミ

太平洋戦争とは、太平洋という広大な戦域を舞台に繰り広げられた、史上最大の海戦の連続である。
当事国が国力の全てをつぎ込んで全面対決するなど、もはや現代では考えられないことであるから、
この大戦は、最大で最後の海戦とも云えるだろう。

太平洋という広大な戦域を支えるのは、並大抵のことでは無い。
元々、日本海軍は、ロシアのバルティック艦隊と戦った、日露戦争での成功体験を基に、
局地的な短期決戦、しかも専守防衛を戦略の柱にしていたから、
太平洋全域で戦うなんて、最初から無理な話であった。
それでも、開戦から2年近くの間、戦線を持ちこたえることができたのは、
駆逐艦に代表される、補助艦艇の活躍があればこそである。


彼女たちは、戦艦に従い敵艦隊を攻撃する先兵となり、
輸送船や航空母艦を敵航空機や潜水艦の脅威から防衛する任務を担い、
討ち沈められた僚艦の乗組員を救助し、
制空権も制海権も失われた海域で、飢えに苦しむ守備隊に食料を届けた。

日本海軍は、ワシントン及びロンドン軍縮条約によって、軍艦の建造を日:米で3:5に制限された。
今でも、軍事ヲタクの中には、この条約が無ければ、日本は制限無く軍艦の建造が出来て、
戦争に勝てただろうなどと云う奴がいるが、見当違いも甚だしい。
日本が3しか建造できないのでなく、アメリカが5しか建造できないように制限をかけたのである。
つまり、制限をかけられたのは米国の方であって、条約の恩恵を一番受けたのが日本なのである。
後に条約が無効になって、日米が際限なく軍艦の建造を競った結果を見れば、明白だろう。

とは云っても、主力艦が制限され、数の上では不利になった日本海軍は、
その不足分を駆逐艦の水雷攻撃で補う戦略を立てる。
そこで建造されたのが、「酸素魚雷」を搭載し、対艦攻撃力を重視した「艦隊型駆逐艦」である。
条約により、補助艦艇についても制限を受けた日本は、1隻あたりの性能を上げることを追求する。
その結果、日本の駆逐艦は、1対1の戦闘になれば勝つことができたと云われているが、
高性能を追求するほど、構造は複雑になって量産化は難しくなり、
航空機やレーダーの発達によって、海戦の有様も大きく変化してしまい、
時代の流れからも取り残されることになる。

彼女たちは、数的不利のなか、不向きな防空戦や対潜水艦戦に挑み、
また、高速輸送船として駆り出されていったのだ。

軍隊は、完全な縦社会で、極度のストレスにさらされているから、凄惨な虐めが横行していたと云う。
それは、戦艦などの大型艦になるほど酷く、例外は、航空兵と、潜水艦乗りだけだったらしい。
パイロットの育成には、莫大な費用と時間が必要で、戦闘が始まれば艦隊の運命は彼らに託されたし、
潜水艦は一人のミスが命取りになり、撃沈されれば全員が戦死するという運命共同体だった。
どちらも、「個」の技量が重視される任務である。
「個」が尊重される環境では、虐めは発生しない。

駆逐艦もそれに近かった。
さらに、狭い艦内の生活環境は劣悪だし、上官だからと威張っているばかりでは、船は動かなかった。
しかも、駆逐艦の防御力は脆弱であったから、艦長以下全員戦死という艦も少なくない。
虐めが無いのは、過酷な環境の裏返しでもある。


日本海軍の駆逐艦は、常に最前線におくられた結果、そのほとんどが撃沈されてしまい、
開戦時、百隻以上あった艦艇のうち、終戦まで健在だった艦は10隻にも満たなかったと云われている。
日本海軍が敗北したのは、駆逐艦の喪失により戦線の維持ができなくなったことが大きい。
巨大な戦艦が温存され続けたあげく、燃料不足で出撃できず、
軍港に係留されたまま終戦を迎えたのとは、対照的である。


戦後、「ミサイル」が攻撃兵器の主になることで、戦艦のような巨大艦は不必要となり、
海軍の主力は、航空母艦やイージス艦などに変わっていった。

日本海軍は、海上自衛隊と名を変え、配備された軍艦は護衛艦と呼ばれるようになった。
実は、護衛艦は、系統上は駆逐艦の後継にあたる。
海上自衛隊の汎用ミサイル護衛艦には、旧日本海軍の駆逐艦の名前が使われているものが多い。

大戦によって失なわれた旧日本海軍の多くの駆逐艦、
彼女たちの名前は、国防の主役、護衛艦の艦名として、今も受け継がれている。


で、貼り付けさせていただくのは、初音ミクの歌う「恋のミュージックアワー」です。
記事と若干のギャップがありますので、閲覧される場合は近くに人がいないか、確認してくださいね。


こんなに無条件に明るいボカロ曲、久し振りです。
最近は、「刀剣乱舞」に押されっぱなしの「艦これ」ですけど、
艦これの駆逐艦娘も可愛いですし、楽曲もイイ感じだし、明日もお仕事頑張ります!

2017年8月23日水曜日

【緊急投稿】 潜水艦「伊58」と米巡洋艦「インディアナポリス」の悲劇 ~ウォーターライン製作記・番外編~

 僕は、「伊58」のプラモデルも「インディアナポリス」も製作してないのですが、この2隻に関するニュースが相次いで飛び込んできましたので、番外編として投稿させていただくことにしました。

 まずは、米巡洋艦「インディアナポリス」について、8月21日付の新聞記事からです。

「米マイクロソフトの共同創業者ポール・アレン氏が率いる探査チームは19日、太平洋戦争末期に旧日本軍の潜水艦に撃沈された米軍の重巡洋艦インディアナポリスの残骸の一部をフィリピン沖の水深5,500メートルの海底で発見したと発表した。」


 ポール・アレン氏は、戦艦「武蔵」を発見したことでも話題になりましたが、沈没船の探査が趣味だというのですから、世界有数の大富豪がやることはスケールが違います。

 次に、潜水艦「伊58」について、5月25日の公開記事です。

「海中ロボット研究の第一人者である東京大学の浦環名誉教授らのグループは、長崎沖の海底で終戦直後にアメリカ軍によって処分された旧日本海軍の潜水艦を発見した。曳航式のサイドスキャンソナーで撮影された画像には、ほぼ垂直にそびえる潜水艦が写っている。艦首とみられる部分の高さは約60メートルで、大きさから「伊58」またはその同型艦であると推測されるとのこと。」
 
 で、再調査の資金を集めるためのクラウドファンディングを行ったところ、目標としていた500万円が集まったので、8月22日から再調査を行っているそうです。映像は、ニコニコ動画で生中継をするとのことでした。22日のNHKのニュースでも紹介されていましたが、確認は未だのようですね。
 ポール・アレン氏との資金力の違いはともかくとして、マイクロソフト&ニコニコ動画という組み合わせが何ともです。

 ウォーターラインシリーズでは、「伊58」も「インディアナポリス」もタミヤの製品になります。過去に40周年記念限定モデルとして、この2隻をセットで売り出したこともあったようです。今回の出来事を機会に再び、と考えるところですが、まあ、フットワークが軽くないところがタミヤですからねえ。

 日本の潜水艦「伊58」は、終戦の1年前、1944年9月に竣工した巡潜乙型(航続距離が長く偵察任務を主とした)潜水艦です。物資が窮乏する中での建造のため、スペック通りの性能は出せなかったようですが、それでもレーダーなどを備えた最新型の潜水艦でした。しかし、すでに戦争は特攻戦が中心の時期、「伊58」は人間魚雷「回天」を使用する作戦に従事するようになります。

 
 「伊58」は、終戦間近の7月、回天を搭載して4度目の出撃をしました。そして、29日深夜、グァム島とレイテ島を結ぶ航路上で、速力十数ノット、単艦で航行中の大型軍艦と遭遇します。橋本艦長は、「回天」でなく通常魚雷での攻撃を選択、右60度、距離1500mという絶好のポジションより魚雷を6本発射、そのうち3本が命中します。
 「伊58」が浮上したときには、艦影は無く、撃沈と判断し海域を離脱します。沈めた艦が巡洋艦「インディアナポリス」であったことを知るのは、終戦後のことでした。
 その後、「伊58」は、終戦を知らせる電報を洋上で受け取り、8月17日に呉に入港。橋本艦長は、そのまま海軍にとどまり、復員輸送船の艦長となります。


 アメリカの重巡洋艦「インディアナポリス」は、アメリカ海軍第5艦隊の旗艦を務めた有名な軍艦でした。第5艦隊は、空母18隻、戦艦12隻、航空機300機などからなる大艦隊でしたから、巡洋艦を旗艦とするには、スペース的にムリがありましたが、司令官スプールアンスは同行する参謀の数を減らしてでも、「インディアナポリス」を旗艦とすることにこだわりました。少数精鋭主義を実現すべく、参謀を減らす口実とするために旗艦にしたとも云われています。幕僚は32人いたそうですが、それでも第3艦隊の半分だったそうです。

 1945年3月31日、「インディアナポリス」は、沖縄上陸戦を支援中に特攻機の攻撃を受け損傷、旗艦の任を解かれ、サンフランシスコで修理を受けることになります。スプールアンスは、修理が終わったら、インディアナポリスを再び旗艦にすることを希望していたそうですから、よほどお気に入りの軍艦だったようです。


 修理がほぼ完了した7月16日、インディアナポリスは、極秘の荷物を積んでサンフランシスコを単艦で出港、テニアン島へ向かう命令を受けます。荷物は、後に広島へ投下された原子爆弾(部品)でした。積み荷については、乗組員はもちろん、マクベイ艦長にも知らされてなかったと云われています。

 7月26日、無事任務を完了したインディアナポリスは、テニアン島を出発、グアム島を経てレイテ島へと向かう途中で「伊58」の雷撃を受けることになります。
 3本の魚雷を受けたインディアナポリスは、弾薬庫が誘爆し、SOSを打電するものの、まもなく電気系統が停止し、雷撃から12分で沈んでしまいます。

 この事件は、2016年に「パシフィック・ウォー」という題名で、ニコラス・ケイジ主演により映画化されています。


 インディアナポリスに特攻したのは、「零戦」でなく「隼」で、当たったのは船尾だったそうです。まあ、他にもいろいろとツッコミどころはありますが、話が逸れてしまいますのでやめときます。

 乗員1,200名のうち、沈没時の戦死者は約300名、約900名が海上に投げ出されたと云われています。

 一方、海軍の各基地では、SOSを受診するものの、すぐに途絶えてしまったため、発信者や位置が不明のまま時間だけが過ぎていきました。
 インディアナポリスの任務が極秘であったために行動が知らされず、サンフランシスコにあるものだと思われていたこと、駆逐艦の護衛も無く単独での航海であったこと、(任務終了後のはずなのに)グァム島からレイテ島に向かっていることが通達されていなかったことなどが、発見を遅らせた理由とされています。
 また、グァムの基地は海軍、レイテ島は陸軍の管轄であったため、意思の疎通について何らかの問題(ニミッツとマッカーサーが日本攻撃の主導権を争っていて司令部間の相互連絡が全然取れていなかったなど)があったのではないかとも云われています。

 撃沈から3日たって、飛行艇が漂流者を偶然発見したことで、インディアナポリスの遭難が明らかになります。救助が完了したのは沈没から5日後、その間に900名いた生存者の3分の2が亡くなり、生きて帰ることができた者は、艦長を含めて316名だけでした。
 漂流者の主な死因は衰弱死でしたが、鮫に襲われた者も少なくなかったと云われています。また、鮫が襲ってきたことでパニック状態になり、多くの兵が衰弱を早めてしまったとも云われています。この「鮫に襲われて亡くなってしまった」という話は誇張され、インディアナポリスの悲劇としてアメリカ国民に伝わっていきました。

 制空権も制海権も完全にアメリカが握っていた海域で、何故このような事態になったのか、戦後、アメリカ国民の批判を受ける形で、異例の軍事裁判が開かれました。

 原因は、明らかでした。1つは、原爆を運ぶという極秘任務についていたこと、もう1つは、人為的ミスによる連絡不備でした。ところが裁判は思わぬ方向へと進んで行きます。裁かれたのは、救助の遅れではなく、沈没の責任でした。適切な行動をとらなかったことで魚雷攻撃を受けたとされ、マクベイ艦長が起訴されたのです。
 戦時下で、艦長が撃沈の責任を追求されるなどと云うことは異例のことです。アメリカは、第2次世界大戦で、夥しい数(700隻とも)の艦船を喪失していますが、沈没の責任の追及を受けたのはマクベイ艦長だけでした。
 さらに、海軍は、証人として「伊58」の橋本艦長を召喚します。自国の指揮官の責任を追及するために、敵国の指揮官を証人に立てるなど、これもまた前代未聞の出来事でした。

 予告編の動画の敬礼の場面になります。二人が直接対面したとは考え難いのですが、感動の場面ではあります。

 橋本艦長は、予備尋問で、「あの状況であれば、魚雷回避は不可能であった」との証言をしますが、これは海軍の求めていたものではありませんでした。橋本艦長は本裁判では証言をする機会を与えられなかったといいます。

 判決は「有罪」。しかし、海軍上層部(第5艦隊の関係者か)の嘆願により裁判は突然中止になり、マクベイ艦長は海軍に復帰することになります。「有罪」ではあるが「お咎め無し」となったのは、海軍としても責任を彼に負わせれば、それで十分だったのでしょう。
 しかし、有罪となったことで、彼は乗組員の遺族などからのバッシングを受けることになりました。度重なる非難を受けて、彼は1968年にピストル自殺をしてしまいます。

 自殺から8年後の1975年、1つの映画が封切られます。題名は「ジョーズ」。映画に登場する漁師は、「元インディアナポリスの乗組員で過去のおぞましい体験によって、鮫に強い恨みを持つようになった」という人物設定でした。(そうだったんだ)
 「鮫」=「インディアナポリス」というイメージが、いかに深くアメリカ人に刻み込まれていたのかが分かります。
 この映画を見てインディアナポリスの事件に強い関心を持った少年がいました。当時12才のハンター・スッコトは自由研究にこのテーマを選び、過去の裁判記録や元乗組員の証言を調べます。そして、この裁判が明らかな誤審であったことを確信します。彼の活動は、少しずつ広がり、やがて橋本艦長の予備尋問の証言が再発見されるなどして、マクベイ元艦長の名誉回復運動が始まりました。
 日本のマスコミからこのことを知らされた橋本元艦長は、名誉回復運動に名前を連ねるようになります。

 2000年、アメリカ議会は、マクベイ元艦長の名誉回復を議決します。インディアナポリスの撃沈から55年後のことでした。

 艦を沈められた乗組員が悲惨な運命をたどるのは、珍しいことではありません。日本海軍など乗組員全員戦死という艦はいくらでもあります。
 ただ、インディアナポリスが原爆を運搬していたことが、この悲劇を引き起こしたのは確かです。インディアナポリスが極秘任務に就いていなければ、単艦で行動することもなく、撃沈されたとしても速やかに救助活動が行われてたはずだからです。
 しかし、原爆投下を正当化しなければならないアメリカ政府にとって、悲劇の原因が原爆運搬にあるとは、何が何でも認めるわけにはいきませんでした。

 漂流中に命を落としたインディアナポリスの乗組員たち、彼らもまた、原爆の犠牲者と云えるのかもしれません。

2017年7月22日土曜日

ウォーターライン製作記⑨ ~航空母艦「蒼龍」と真珠湾攻撃~

   当時、日本は、ナチスドイツと同盟を結んでいました。これは成り行きでそうなっただけで、特段に強い信頼関係があったわけではありません。中国を侵略中の日本は、ソ連とは戦争をしたくなかったのに、ドイツはソ連に侵攻してしまいましたし、ドイツは、ヨーロッパの戦争にアメリカが介入して欲しくなかったのに、日本は真珠湾を攻撃しました。結局、お互いの足を引っ張り合っただけで、これと云った利点など無かったのが、日独伊三国同盟でした。
 「ナチスドイツは、思っているほど強くない」「アメリカと戦っても良いことは1つもない」などというのは、誰もが分かっていることでした。

 開戦前に提出された対アメリカ戦の研究報告書には、「開戦初期には勝利が見込めるものの、長期戦になることは必至であり、日本の国力では、資源不足と生産力不足によって戦力の低下は避けられない。戦局が決定的に悪化すれば、最終局面で必ずソ連は参戦し日本は敗れる」とあったそうです。日本は、ここまで分かっていながら、開戦に踏み切ってしまったのです。

 でも、日本がアメリカに頭を下げ、戦争をしないで、結果、負けることなく、戦前の体制が今も続いていたら、この日本は、どんな国になっていたんでしょうか。アメリカは、戦争に勝ちましたけど、その後、朝鮮戦争、ベトナム戦争、イラク戦争など、世界中の紛争に介入することになり、今でも、多くのアメリカの若者が、世界の何処かで犠牲になってます。今の日本の存在は、馬鹿な戦争をして、負けてくれたからこそあるとも云えます。
 歴史を反省することは必要ですけど、否定することはできないし、現在を肯定するということは、過去を受け入れることでもあると思います。


 さて、真珠湾攻撃に関しての評価ですけど、「アメリカ国民を本気で怒らせた」「攻撃が不十分だったので、アメリカの反撃を容易にした」などという批判的なモノが多いです。これは、結果的に戦争に負けたからであって、もし、勝っていれば(ありえない話ですけど)評価も180度変わっていたはずです。

 当時の日本海軍の仮想敵国は、(一応)アメリカでした。戦争が起きれば、日本は、資源を求めて東南アジアへ進出します。で、怒ったアメリカが日本近海にやってきます。そこを空母や潜水艦の攻撃で弱体化させ、戦艦を中心とした艦隊で迎え撃つというのが基本戦略でした。つまり、常識的で現実的な「防衛思想」です。こちらから、航空母艦で遠路遙々ハワイまで出掛けていって、要塞化された真珠湾の海軍基地を先制攻撃しようなんてのは、あまりにも奇想天外な発想でした。この有り得なさが、現実に実行されたことによって、今一つ理解されてないように思います。
 つまり、真珠湾攻撃などは、遂行不可能か、あるいは、決行しても失敗確実な作戦だったのです。

 アメリカは日本を完全に見くびっていました。この前まで、頭にちょんまげをのせていた民族です。黒船4隻でパニックに陥り、日露戦争で勝ったといってもイギリスの援助があればこそ、最近、新型の戦闘機を作ったらしいがエンジンは非力だし、そもそも、黄色人種で近眼な日本人に飛行機の操縦などできるわけがない。というのが、アメリカ人が日本人に対して持っていた一般的なイメージでした。
 これほど大掛かりな軍事行動が、奇襲という形で成功したのは、アメリカが日本を見くびっていたからに他なりません。


 写真を見て驚くのは、真珠湾の狭さです。この狭い湾内で魚雷攻撃を成功させたパイロットの技量は驚異的と云えます。かなりの低空から侵入したようで、雷撃機がビルの3階から見下ろせたという話も伝わっています。


 真珠湾攻撃を描いた映画はいろいろとありますが、何と云っても、20世紀フォックスと東映による日米合作映画「トラ・トラ・トラ!」でしょう。


 街にポスターが貼り出されていたのを、子ども心に覚えています。実際見たのは、少したってテレビで放映されたときでした。日米両国の視点で描かれていて、オタク的にはいろいろとツッコミ処もあるのでしょうが、余計な演出が無く、史実に最も近い作品だと思います。CGやVFXの無い時代、巨大な野外セットや本物の飛行機と大量の火薬を使って制作した映像は、実際の戦争により近いものと言えます。それにしても、自国の軍隊がボコボコにされる作品を、巨額な制作費を投じて作ってしまうんですから、アメリカって、懐が深いっていうか、たいした国だと思います。


真珠湾攻撃でよく批判されているこのが、第二次攻撃隊を出さなかったことです。日本の機動部隊は、奇襲には成功しますが、米空母を討ち漏らしてしまいます。また、石油タンクや修理ドックなどの港湾施設は、無傷のまま残してしまい、このことが、後々の戦局に大きく影響していったからです。

 ただ、「二次攻撃隊を出してこれらを叩いていれば・・・」というのは、結果論にすぎません。真珠湾攻撃の目的は、あくまでも、敵主力艦と航空機の撃滅でした。港湾施設への攻撃も検討されたようですが、空母6隻、航空機350機という、限られた戦力の中で、中途半端な攻撃に終わってしまうことを危惧して、艦船と航空機に目標を絞っていました。ただ、奇襲が想定以上に上手くいったので、一次攻撃で、ほぼ目標を達成できてしまったのです。
 で、ここで2つの選択肢があります。1つは、まだ余力もあるわけですから、二次攻撃を行って港湾施設を破壊する。もう1つは、戦力を温存して帰るかです。出張先で早々に仕事が片付いた時、サービス残業をすべきか否かって感じでしょうか。

 第一次攻撃隊も、完全な奇襲になった第一波と比べて、その1時間後に攻撃を行った第二波は、未帰還率が12%で、被弾損傷率も50%にのぼっています。母艦に戻ってきたものの、再出撃できる状態に無い機体も数多くありました。
 さらに、米軍は、混乱の中でも迎撃態勢を整えつつありました。破壊を免れた戦闘機を整備し、高射砲陣地を構築し、防空レーダーで監視しているわけです。第一次攻撃が順調にいったのは、米軍が油断していただけのことで、第二次攻撃を出せば、かなりの航空機が撃墜される恐れがありました。
 さらに、ハワイ近海には、討ち漏らした米空母が存在していました。二次攻撃隊を出しているときに、空母からの反撃を受けたら、ミッドウェーどころか、真珠湾の時点で、日本の機動部隊は全滅していたかもしれもしれないのです。
 目的を果たしたので、早々に帰還した。当然と云えば、当然の決断です。


 米軍の損害ですが、戦艦については、旧式の船ばかりで戦略的には、それほどの喪失にはならなかったとされています。しかし、航空戦力の、3分の2を失い、戦死者2,345名、負傷者1,347名、要塞化され攻撃は不可能とされた真珠湾を奇襲され、ほとんど反撃できなかったという衝撃は、大きかったはずです。
 アメリカは、工業力、技術力、知力、資源など、持てる全てを使って、日本との戦争に臨むことになり、結果として、無差別爆撃や原爆投下へとつながっていくわけです

 一方、思わぬ戦果をあげた日本軍は、楽観的な考えが支配するようになります。戦線を実力以上に拡大し、太平洋戦争を局地戦から世界大戦へと変えてしまいました。もはや、早期停戦など不可能となり、相手の国家体制を崩壊させない限り、戦争を止めることはできなくなりました。
 真珠湾攻撃は、明確な目標の下、綿密に計画され、準備された優れた作戦でした。しかし、その後の日本軍は、戦略の無い、場当たり的な作戦に終始することになっていきます。


 アオシマの「蒼龍」です。


 「蒼龍」は、1937年に竣工した中型の正規空母です。設計の段階から純粋な航空母艦として建造され、この後、建造された「飛龍」や「翔鶴」などは全て、この「蒼龍」を改良した艦になりますから、日本型航空母艦の原型と云えます。


 新金型とのことですが、極小部品も無く、サクサクと組み上げることができました。作り応えという点では、ハセガワの「赤城」よりも劣りますが、艦載機が専用パーツになっていて、汎用パーツで省略されていた、零戦の増槽タング、九九艦爆の車輪と爆弾、九七艦攻の魚雷などが、別部品として取り付けるようになっていました。まあ、爆弾あっての爆撃機ですから、嬉しい限りです。
 
 空母「赤城」との2ショットです。小さい方が「蒼龍」になります。プラモデルを作るまで、こんなに大きさが違うとは思いませんでした。


 「蒼龍」は、同僚艦「飛龍」とともに 第二航戦隊として、真珠湾へ出撃しました。蒼龍の航空隊の内訳は次の通りです。
 第一波 九七式艦攻18機(水平爆撃10機、雷撃8機)、零戦8機 全機帰還
 第二波 九九式艦爆18機(未帰還機2機)、零戦9機(未帰還機3機)
 攻撃隊が二波に分かれているのは、飛行甲板に一度に並べられる機体数に限りがあるからです。


 プラモデルでは、12機並べています。軽くて助走距離が短くて済む戦闘機が前、攻撃機が後ろです。空母は全速力で風上に向かって航行し、航空機は、向かい風を利用して飛び立って行きます。

 その後の蒼龍ですが、ウェーク島の攻略支援、南方攻略作戦に従事した後、インド洋へ進出し、セイロン沖海戦では、イギリス東洋艦隊に壊滅的打撃を与えています。
 そして、真珠湾攻撃から半年後、ミッドウェー海戦において、急降下爆撃機の攻撃を受け、3発の爆弾が命中、格納庫内の爆撃機や魚雷が次々と誘爆して撃沈、1,100名余りの乗組員のうち、艦長以下718名が艦と運命を共にしたとありました。機関科部員がほぼ全員戦死している一方で、飛行機の搭乗員は多くが救助されており、格納庫の上と下とで、大きく運命が変わってしまったようです。


 ずっと疑問に思っていたことがあります。それは、真珠湾を攻撃した目的が、アメリカの戦意を喪失させることにあった、と伝えられていることです。実際は、ご存知の通り、逆の結果になりました。その原因として、宣戦布告が遅れたからとか云われていますけど、では、攻撃の前に宣戦布告があって、機動部隊の喪失を恐れずに第2次、3次攻撃隊を繰り出して、完膚なきまで真珠湾を攻撃すれば、アメリカの戦意は喪失したのでしょうか。
 確かに、アメリカは建国以来、一度も本土を攻撃されたことがありませんでしたから、真珠湾攻撃の後、国内はパニック状態になります。が、厭戦気分にはなっていません。彼らは、多民族国家で個人主義者ではありますが、やられてそのまま引き下がるような国民ではありませんでした。
 だとすると、真珠湾を攻撃することでアメリカ国民の戦意を喪失させるという考えは、根本的に間違ってたということになります。

 相手を見くびり、侮っていたのは、日本の方だったのかもしれません。

2017年7月15日土曜日

ウォーターライン製作記⑧ ~金剛型戦艦と第三次ソロモン海戦~

 金剛型戦艦とは、大正2年から就役した旧日本海軍の4隻の戦艦「金剛」「比叡」「榛名」「霧島」の総称になります。
 1番艦「金剛」は、日本海軍がイギリスのヴィッカース社に発注して建造したものです。同型艦については、2番艦「比叡」が横須賀海軍工廠、3番艦「榛名」が神戸川崎造船所、4番艦「霧島」が三菱長崎造船所で建造されました。特に「榛名」と「霧島」は、民間の造船所で建造された最初の戦艦になります。
 両社ともに社の名誉をかけ建造を競いますが、神戸川崎造船所の工作部長が、工期の遅れの責任をとって、自刃してしまうという事件が起きます。以降は、優劣のつかないよう、竣工日を同日に設定するなど、海軍もかなり気を遣ったとありました。ちなみに、工期の遅れは、6日間だったそうです。

 意外と知られていないことなのですが、これ以前の日本海軍の主力艦は、全てイギリスなどに発注して造ってもらった外国製でした。日露戦争で活躍した戦艦「三笠」もイギリスのヴィッカース社製になります。
 当時、日本とイギリスの間には、日英同盟がありましたから、日本は、いろいろとイギリスに良くしてもらっていました。三笠は、元々、別の国の発注によって建造されていた艦だったようですが、順番を変更して、日本に優先的に納入してくれたそうです。三笠はイギリス海軍にも無いような最新鋭の戦艦でしたから、破格の好待遇になります。もっとも、イギリスにとっても、ロシアはイヤな奴でしたから、日本がロシアと戦うとあれば、そのくらいの援助は当然とも云えます。
 イギリスの援助を受けた日本海軍は、無敵と云われたロシアのバルティック艦隊を打ち破ります。そして、旗艦「三笠」の活躍は、イギリスのヴィッカース社にとっても名誉なことだったようです。

 そのような縁もあって、金剛の建造に関してもヴィッカース社は、いろいろと良くしてくれました。まず、イギリスの造船所でお手本となるべき1番艦を建造し、その設計図を基に日本で3隻を建造することになりました。最高の社内機密・軍事機密と云える設計図を譲渡するばかりか、1番艦の建造に日本の技師たちを参加させて、技術指導をするという、手厚さだったそうです。これによって日本の造船技術は飛躍的に向上し、研修した若い技師たちが、後に、戦艦大和建造の中心になっていくわけです。
 ウィキペディアには、進水式でシャンパンボトルを割るのでなく、日本式に、鳩の入ったくす玉を割ったところ、イギリス人に大いにウケたというエピソードが紹介されています。
 金剛型の4隻は、同じ設計図から造られた同型艦ですが、細かい仕様は、それぞれ異なっていたようで、イギリス生まれの「金剛」のデキが、最も良かったと云われています。

 フジミの戦艦「金剛」です。


 フジミのモデルの制作は、巡洋艦「摩耶」以来です。摩耶の組み立てに関しては、いろいろとストレスがありまして、フジミの製品に対して良いイメージが無かったのですが、ウォーターラインシリーズの金剛型の評判が悪いこともあって、再チャレンジとなりました。


 対空装備を大幅強化した、レイテ海戦モデルです。正にハリネズミ状態、対空機銃などは、取り付けらそうなスペースに全て取り付けた、という感じです。しかし、シルエットからうけるスマートさは抜群。ファンが多いのもうなずけます。


 組み立てについては、部品数、取り付け易さなど、摩耶とは別物と云える程良かったです。

 艦これでも、金剛型は人気キャラです。グループで一人は眼鏡キャラは、アニメの鉄則です。
 

 動画は自己責任でどうぞ。背景の戦艦は、ちゃんと金剛型になってます。


 金剛型の戦艦は、その後、2度の改修を経て、近代的な高速戦艦に生まれ変わります。攻撃力・防御力は、やや劣るものの、速力30ノットは、日本の戦艦群では、最速であり、高速機動部隊の護衛用として運用されました。また、上層部が、艦の損失を恐れ、来る決戦に備えて(?)最新の大和型を温存したことにより、開戦時には、すでに艦令が30年を越えていた超老朽艦であったのにもかかわらず、数多くの作戦に参加することとなり、皮肉にも太平洋戦争で最も活躍した戦艦となりました。
 これは、この後、建造された純国産の「山城」や「日向」が多くの欠陥をかかえていたため、太平洋戦争で全くといっていいほど使い物にならなかったのと対照的でした。

 金剛型の4隻が参加した多くの作戦の中で、最も熾烈な戦いとなったのが、第3次ソロモン海戦です。この海戦は、ガダルカナル島をめぐる戦いにおいて、米軍の飛行場を夜間砲撃によって攻撃しようとする日本軍と、それを阻止しようとする連合軍との間で二夜にわたり行われました。
 この海戦は、航空機が関与できない夜間に行われ、双方が操艦上の細かいミスを重ねた結果、艦隊はバラバラ、狭い海峡に敵味方が入り乱れることとなり、海戦史上、例の無い大乱戦となります。
 米軍の艦船はレーダーに艦影を捉えるものの、敵味方の判別もできない有様で、日米両軍ともに味方への誤射も続出。主砲、副砲、高射砲から機銃まで使い、至近距離で手当たり次第に撃ちあった結果、両軍合わせて15隻が撃沈、残った艦も全てが損傷を受け、双方に2,000名近い戦死者を出しました。日本軍は、作戦に参加した戦艦「比叡」「霧島」を失い、米軍も、艦隊司令官が2名とも戦死するなど大きな損害を出しました。
 海戦そのものは、痛み分けに近いと云えますが、飛行場攻撃に失敗したことで、ガダルカナル島での日本陸軍の敗戦は決定的となりました。この敗戦は、太平洋戦争のターニングポイントとされ、これにより、日米両軍の攻守は逆転し、以降、日本軍は敗北を重ねていくことになります。
 
 この海戦で、日本の水雷戦隊はアメリカ軍の新鋭戦艦に対して20本近い魚雷を発射しましたが、信管の調整ミスにより、命中する直前に、全て自爆してしまいました。このうちの数本でも当たっていれば、米戦艦を撃破できただろうと云われています。もっとも、米軍が発射した魚雷も、あまりにも距離が近すぎたため安全装置が働いてしまい、不発弾が相次いだそうですが。

 米軍が最新鋭の戦艦や航空母艦を投入してきたのとは対照的に、日本軍は、戦艦大和や武蔵をこの海域に投入することは、ありませんでした。「霧島」と撃ちあったアメリカの「ワシントン」は、この年に就役したばかり、レーダーと40センチ砲を装備した最新鋭の戦艦です。今年発売の新車と30年前に作られたクラシックカーで勝負したのですから、よく健闘したと云うべきでしょう。
 工業力に劣る日本は、失った戦力を回復するのは容易なことではありませんから、来たるべき決戦(?)に備えての戦力温存、出し惜しみは、理解できないことではありません。しかし、元々、短期決戦でしか勝つ見込みのない戦争のはずでした。太平洋戦争の雌雄を決する決戦に、失っても惜しくないからと老朽艦を派遣するという海軍の戦略は、あまりにもお粗末なものと云わざるを得ません。

 「比叡」「霧島」とも、沈没する直前まで、護衛の駆逐艦が横付けして救助にあたったので、ともに1,000名以上の乗組員が救助されたとあります。

 多くの激戦が行われ、日米両軍の艦船が多数沈没したこの海域は、軍艦や飛行機の残骸が海底を埋め尽くしていることから「アイアンボトム・サウンド」(鉄底海峡)と呼ばれるようになり、現在は、スキューバ・ダイビングの名所になっているそうです。赤字が日本、青字がアメリカの艦船の沈没地点です。


 1番艦「金剛」は、この後も数多くの作戦に参加し、レイテ沖海戦の後、日本に帰投する途中で、潜水艦の雷撃を受けます。命中した魚雷は2本でしたが、浸水を止めることができず、沈没してしまいました。歴戦の損傷で船体が痛んでいたためと云われています。雷撃から沈没まで2時間もあったのにも関わらず、避難命令が遅れたため、司令官、艦長以下1,200人が犠牲になりました。

 3番艦「榛名」は、1944年12月に日本に帰投しますが、すでに国内には、軍艦を動かす燃料は無く、そのまま浮き砲台として、呉軍港に係留されました。
 すでに日本海軍は事実上壊滅状態でした。それは、艦船が沈められたのでなく、動かす燃料が無くなったからでした。1945年4月、温存されていた戦艦大和は、日本に残っていたありったけの燃料を積んで沖縄に出撃していきました。

 榛名は、同年7月の空襲により、20発以上の命中弾を受け大破着底。そのまま、終戦をむかえ、解体されました。資材は、戦後復興に使用されたと云われています。