2018年8月7日火曜日

ウォーターライン製作記⑬ ~巡洋艦「北上」と人間魚雷「回天」~

今年も8月15日が近づいて来た。戦後70年だった3年前と比べれば扱いは小さいだろうが、それでも6日の広島原爆投下から始まって15日の終戦の日まで、太平洋戦争関連の特集番組が数多く放送されることと思う。

で、最近のウォーターラインであるが、建造費がかさんできたことと、接着剤の匂いが家族に不評なため、思うように制作が進んでいない。が、終戦の日も近いことであるし、久し振りに投稿というわけである。

今回のテーマは「特攻」である。「特攻」については、作戦の意味や成果、実施された経緯など、それぞれの立場で、あまりにも多くの見解が述べられているが、まあ、自分なりのスタンスでまとめてみようと思う。


「特攻」と云うと、まず思い出されるのが「神風」に代表される航空機による特攻であろう。この航空機特攻の中心となったのは「ゼロ戦」であった。ゼロ戦は、「零式艦上戦闘機」という名前から分かるように、本来は航空母艦に搭載するための戦闘機である。ところが、戦争末期には、空母に離発着できる腕を持つパイロットなどいなくなってしまったし、新しいパイロットを訓練するための時間も物資も無かった。また、この頃の戦闘機に求められたのは、ゼロ戦のような長い航続距離を持つ軽戦闘機でなく、陸上の飛行場から飛び立って、B29などの爆撃機を迎撃する重戦闘機であった。そこで、型落ちとなったゼロ戦に訓練不足なパイロットを乗せ、250キロとか500キロ爆弾を搭載して特攻させたわけである。
ゼロ戦のような軽戦闘機に500キロもの爆弾を取り付ければ、飛んでいるだけで精一杯だから、結果は言わずものがなであろう。

ただ、航空機は特攻するために作られたわけではないから、此処で云う「特攻」とは、戦術のことである。(成功即ち死という攻撃を戦術と云えるかは別として)


それに対して、人間魚雷「回天」は特攻するために開発された兵器、すなわち特攻兵器である。同じような特攻兵器には、ベニヤ板製のモーターボート(といっても速力20ノット程度)に爆薬をとりつけた特攻艇「震洋」や、1200キロの徹甲弾にロケットエンジンと操縦席をとりつけたベニヤ板製の人間誘導爆弾「桜花」などがある。

人間誘導爆弾「桜花」は、特攻兵器としては、それなりに優れた性能を持っていたが、目標の敵艦の近くまで中型攻撃機「一式陸上攻撃機」で運ぶ必要があった。
「桜花」は、頭部に1.2トンもの爆薬を搭載しているので、兵器全体の重量は2トンを越える。一式陸功の設計上の搭載量は1トン程度だったから、こんな重たいものを胴体の下に抱えて飛ぶのは大きな負担だ。離陸できただけでも奇跡だと云う証言もある。
桜花による最初の作戦では、18機の一式陸攻が出撃したが、目標の艦隊にたどり着く前に、レーダー管制された米戦闘機隊によって全て撃墜されてしまった。一式陸攻の搭乗員は7名。大戦中、桜花の出撃は10回行われ、特攻で55名が命を落としたそうだが、母機の搭乗員の戦死者は365名にのぼったと云う。

米戦闘機のガンカメラの映像である。


為す術も無く撃墜される「一式陸功」を見ているのは辛いが、米戦闘機だって撃墜しなければ、もし、一機でも取り逃がせば、何百人という米兵が犠牲になったわけである。

桜花による最終的な戦果は、駆逐艦撃沈1、大破2、戦死者150名、負傷者197名とあった。特攻が、極めて非効率な作戦だったことは、よく語られるが、戦争末期において、未熟なパイロットの通常の攻撃では、この程度の戦果さえも期待できなかったわけで、軍部が特攻作戦に傾倒していった理由の1つになっている。
ただ、勝てないと分かっていれば、降伏するしかないはずで、何故そんな当たり前のことさえも判断できなくなってしまったのか、僕らが歴史から学ぶべきことはたくさんある。


さて、人間魚雷「回天」は、特攻兵器のなかでは知名度が高い。それは「人間魚雷」と云う、極めて非人道的なネーミングからくるインパクトも一因だと思う。

「回天」は、日本が誇った「九三式酸素魚雷」を改造して作られたものである。

「九三式酸素魚雷」は、駆逐艦などに搭載するために作られた高性能の大型魚雷である。日本海軍は、対米作戦において、駆逐艦隊による水雷戦を戦術の柱にしていた。しかし、実際に開戦すると、太平洋戦争は機動部隊による航空戦が中心となる。さらに、米軍のレーダー射撃が実用化されると、駆逐艦で敵戦艦に肉薄して魚雷攻撃を仕掛けるなどということは、完全に不可能となってしまった。

回天の最大のポイントは、大量の在庫になっていた酸素魚雷のエンジン部分をそのままま流用するというところにある。魚雷の推進装置の前に一人乗りのスペースを設け、操縦装置を取り付け、頭部に1.5トンの爆薬をつけたのである。回天は、全長14.7m、排水量8tというから、超小型の潜水艦のようにも思えるが、使い捨てであるから、やはり、魚雷というのが正しい。

回天の戦法は以下の通りである。
まず、搭乗員は、潜望鏡を使用して敵艦の位置・速力・進行方向を確認する。
そこから、進むべき方向や速度を設定し、命中するまでの時間を計算する。
そして、相手に見つけられないように潜望鏡を降ろし、時計を見ながら突入する。
命中予想時刻を過ぎても何も起こらなかった場合は、つまり外れたということだから、浮上して、もう一度やり直すという、目隠しをしてやるスイカ割りみたいなものである。

これを魚雷の内部という閉鎖空間で行うためには、桁外れの精神力と明晰な頭脳が必要である。だから、回天の搭乗員は、極めて優秀な若者でなければ務まらなかった。しかし、そんな若者こそ「生きて」国のために働くべきだったのは云うまでも無い。

回天の航続距離は、最大でも78km(それはそれで凄い)であるから、潜水艦で敵艦隊の近くまで運ぶ必要があった。当初は、太平洋の環礁に停泊している軍艦に対し、湾内に侵入して攻撃する作戦で、タンカー1隻を撃沈する戦果を上げた。しかし、米軍の警戒が強化されると、外洋を航行中の艦船を狙うことになったため、成功する可能性は、さらに低くなった。

 2017年8月23日に「潜水艦「伊58」と米巡洋艦「インディアナポリス」の悲劇」という記事を投稿させていただいたが、この時の「伊58」は、回天作戦中であったが、通常魚雷で攻撃している。


これは、橋本艦長が、特攻に批判的だったと云うわけではなく、通常魚雷の方が成功する確率が高いと判断したからにすぎない。橋本艦長は、他の作戦時には、回天を使った攻撃も選択している。

魚雷は発射されると、海面下10mあたりを進み、目標までの到達時間は最大でも10分程度である。回天の推進装置は魚雷の流用だから、回天は深度80m以上になると壊れてしまうし、長時間海中にあると故障してしまった。そのため、出撃を決定しても故障していて出られない回天も多かったと云う。

回天は、搭載している潜水艦にも行動の制約をもたらした。潜水艦は、敵に発見されると、海中深く潜行して、爆雷攻撃を回避するのだが、回天を壊さないために80m以上潜水することができなかったし、甲板に載せた回天によって、海中での操艦が難しくなったりしたからだ。回天は、搭載している潜水艦にとって、大きな足かせになっていたのだ。

回天による特攻で戦死した搭乗員は104名。作戦には16隻の潜水艦が従事したが、終戦までに8隻が失われ、乗組員の戦死者は812名とある。


戦局が進むにつれて、米艦隊は日本近海に現れるようになった。回天は、潜水艦からでなく、水上艦や海岸の基地から直接出撃する作戦に切り替わった。

この時、回天を搭載できるよう改装されたのが、軽巡洋艦「北上」であった。

軽巡洋艦「北上」は、大正10年に球磨型の3番艦として竣工したレトロな3本煙突の巡洋艦である。開戦時には、艦年齢も20年を越え、すでに老艦となっていたが、新型艦の建造は、戦艦や空母が優先されたため、現役の巡洋艦として水雷戦隊の旗艦などの任務についていた。


巡洋艦「北上」は、太平洋戦争の開戦直前に「重雷装艦」に改装された。これは、新兵器である酸素魚雷を最大限活用するため、主砲などを撤去する代わりに、4連装の魚雷発射管を10基搭載し、40本もの魚雷を発射できるようにしたものであった。
魚雷一本の炸薬量を500kgとして、合計すると20トンになるわけで、海に浮かぶ火薬庫みたいな艦である。ところが、太平洋戦争は機動部隊中心の戦いになったため、重雷装艦の活躍の場が訪れることは無かった。

戦局が厳しくなり、やがて、制空権、制海権が米軍に握られてくると、前線部隊への補給の問題が出てきた。低速の輸送船は、ことごとく撃沈され、ガダルカナル島などの前線部隊では餓死者が続出する事態になった。
「北上」は、魚雷発射管を降ろし、高速の輸送船として改装されることになった。夜、暗闇の中、高速を利用して物資を届ける任務である。
高速輸送艦となった「北上」は、ソロモン諸島やニューギニア方面で輸送任務に従事した。

その後、雷撃を受け、修理のために佐世保に戻ってきた「北上」であったが、特攻の機運が高まる中、今度は、開発されたばかりの特攻兵器「回天」の母艦としての改装を受けることになる。
これが、回天搭載型の巡洋艦「北上」である。



主砲や魚雷発射管は全て撤去され、もの凄い数の対空機銃が装備されている。対空機銃の増設により、「北上」の乗員は650人に膨れ上がっていた。
三連装の対空機銃1基について、指揮官や照準手、弾薬運びなど9人の兵士が配置されていた。彼らは、防弾盾も無い状態で米軍機と対峙していたのだ。米戦闘機グラマンF6Fは13ミリ機銃を6丁装備していて、5秒間に400発撃つことができたというから、戦闘機のパイロットが機銃のトリガーを1回引けば、彼らは全員戦死してしまうのだ。


「北上」は回天を8隻搭載することができて、航行しながら射出することもできたようである。主任務は、回天の輸送と訓練の支援であったが、攻撃任務も想定されていたようで、そうなれば撃沈は必至であり、数多くの戦死者を出していたことと思う。
                 
しかし、出撃の機会のないまま、昭和20年7月24日、呉軍港への空襲(「この世界の片隅に」にも描かれている)により「北上」は大破、航行不能になり、そのまま終戦を迎えることになる。

終戦後は、復員船支援の工作艦として使用された後、昭和21年10月、三菱重工業長崎造船所で解体、26年の艦歴を閉じた。

特攻というと、特攻隊員が取り上げられることが多いが、特攻を支援する任務についていた方々にも、特攻隊員を大きく上回る犠牲があったわけで。
桜花作戦で「特攻なんてぶっ壊してくれ」と言い残して飛び立っていった一式陸功の飛行隊長、回天に出撃命令を出したことで自暴自棄になった潜水艦の艦長、特攻にまつわる話は、全てが辛く悲しい。

0 件のコメント: