2018年3月24日土曜日

ウォーターライン製作記 ⑪ ~駆逐艦「夕雲」とガダルカナル撤退作戦

今回取り上げさせていただく、駆逐艦「夕雲」です。


ハセガワの駆逐艦「夕雲」です。
いつもながらの、素組・無塗装でスミマセン。
写真では分からないかもしれませんが、新金型だけあって、ディテールまで再現されています。

箱絵は「加藤単駆郎」氏です。


いつもながらの、素晴らしいアングルです。
4月には個展、6月には画集が出るそうです。

夕雲型駆逐艦一番艦「夕雲」は艦隊型駆逐艦「陽炎」型の改良型として、1941年12月に竣工しました。
夕雲型は、最終的には19隻が建造されますが、開戦前に竣工していたのは、一番艦の「夕雲」だけで、
(それも開戦のわずか三日前)他の艦は、全て戦時中に竣工することになりました。
夕雲型の各艦が竣工する頃、戦局は激しい消耗戦となっていました。
そのため、彼女たちは、訓練もままならないまま、直ちにガダルカナル島などの最前線に送られ、
19隻あった同型艦は、終戦までに全て失われてしまいました。
特に、ルンガ沖夜戦で、米巡洋艦隊の集中攻撃を受け撃沈した6番艦「高波」の艦歴は、
わずか3ヶ月でした。

「夕雲」は、機動部隊に所属して、
「ミッドウェー作戦」「第二次ソロモン海戦」「南太平洋海戦」などに参戦し、
その後は、同型艦と共に、ガダルカナル島への駆逐艦輸送作戦に従事します。
それは、制空権の失われた海域での、決死の輸送作戦でした。

本来、物資を運ぶのは輸送船の役割でしたが、制空権の無い海域では、輸送船は次々と撃沈され、
ガダルカナル島の将兵は、全く補給を受けられないという状況に陥っていました。
このため、高速の駆逐艦に物資を積み込み、夜陰に紛れて輸送するという作戦が実施されます。
搭載している魚雷を降ろして、空けたスペースに物資を積み込み、
夜間に行動することから、「鼠輸送」と揶揄された作戦でした。

一列になって高速で航行する「鼠輸送」の駆逐艦隊、連合軍側の呼称は「Tokyo Express」。


駆逐艦には、荷揚げ用のクレーンなどありませんから、運べるのは、わずかな兵員と食料程度、
戦車や大砲などは運べません。
さらに、米艦隊の待ち伏せや、航空機の攻撃に遭うことも多く、損害は増え続け、
実施された半年の間に、駆逐艦の喪失は14隻にのぼりました。

ガダルカナル島の飛行場を守っているのは、アメリカ海兵第1師団という、米国最強の正規軍です。
そんな所に、航空機支援の無い軽武装の陸軍部隊を上陸させ、
飛行場を奪還しようなどという作戦が、成功するはずもありませんでした。
不毛な消耗戦は5ヶ月続き、ついに日本軍はガダルカナル島からの撤退を決定します。

「ガダルカナル撤退作戦」は、「ケ号作戦」(ケは捲土重来の意)と名付けられました。

ずさんで、行き当たりばったりな侵攻計画と違い、
「ケ号作戦」は、太平洋戦争で実施された、最も大規模で、綿密に計画された撤退作戦でした。
というのも、為す術も無く見殺しにするしかなかった戦争末期と違い、
この頃までは、日本軍の戦力にも若干の余裕があったからです。

まず日本軍は、駆逐艦や潜水艦を使っての補給作戦を再開しました。
これは、ガダルカナルの兵士の体力を回復させるのが目的でした。
日本兵は、歩くこともままならないほどに、消耗しきっていました。

さらに、周辺の基地から航空機を出撃させ、ガダルカナルの飛行場に夜間攻撃を仕掛け、
撤収作戦時にも、隼や零戦などの戦闘機が艦隊の上空を掩護しました。
陸軍の戦闘機が海軍と協同して作戦に当たるのは、それまでは考えられないことでした。

また、トラック島の基地から、戦艦や航空母艦を出撃させ、米艦隊の出現に備えさせました。

そして、撤収作戦の殿を任務とする、新たな部隊を島に派遣しました。
「矢野大隊」と呼ばれたこの部隊の任務は、撤収作戦に合わせて攻撃を仕掛け、
米軍の注意を引きつけることにありました。
「矢野大隊」は最前線に布陣し、米軍の攻撃に「破甲爆雷」による対戦車攻撃などで対抗しました。
「破甲爆雷」は、戦争映画に出てくる、敵の戦車にパチッと磁石で貼り付けて爆発させる兵器です。
ガダルカナル撤退作戦が成功したのは、この「矢野大隊」の活躍が大きかったと云われています。
撤退作戦終了時、750人いた部隊は、300人に減っていたといいます。

これらの陽動作戦により、米軍は、日本軍の活動を新たな総攻撃の前触れと考え、
日本軍の撤退に全く気づかなかったと云われています。

「夕雲」を含めた、20隻の駆逐艦は、1943年2月1日から7日まで、3回に渡り将兵を救出しました。
しかし、ジャングルの奥地にいた部隊などは、撤退作戦が行われていることすら知らず、
また、消耗し、自力で動けない兵士の多くは、置き去りにされたと云います。

ガダルカナルに日本軍が投入した兵力は約3万人、撤退できたのは約1万人でした。
戦死者2万人の内、直接の戦闘での死者は5千人にすぎず、
残りの1万5千人は餓死や戦病死だったと云われています。

この時、大本営発表において、「撤退」ではなく「転進」という表現が使われたことは、
中学校の歴史の教科書にも載っている有名な話です。

ガダルカナル島から脱出した将兵が、内地に帰還することはありませんでした。
帰還兵により、ガダルカナルの惨状が国内に知られることを恐れたからだ、と云われています。
彼らは、消耗しきっているのにもかかわらず、そのまま南方戦線に留め置かれ、
再び最前線へ送られました。
そういう意味では、「転進」という表現は、正しかったと云えなくもありません。

「夕雲」は、その後、北方部隊に編入され、
「キスカ島撤退作戦」(ケ号作戦、ケは乾坤一擲の意)に参加しました。
そして、再びソロモン海域に投入され、「コロンバンガラ島撤退作戦」(セ号作戦)に従事します。

この2つの「ケ号作戦」と「セ号作戦」は、太平洋戦争において、大成功した3大撤退作戦と云われ、
駆逐艦「夕雲」は、その3つの作戦全てに参加したことになります。
特に、「コロンバンガラ島撤退作戦」は、あまり知られていませんが、
他の2つの作戦が、米軍に気づかれないうちに撤退できた、ラッキーな作戦であったのと違い、
米軍の来襲を必死に排除しながら、12,000名の守備隊を撤退させた、というものでした。

「夕雲」が従事した最期の作戦も、撤退作戦でした。
ベララベラ島にいる600名の守備隊を撤退させる、というこの作戦で、
「夕雲」は撤収部隊を支援する警戒艦として参加していました。

島は、すでに米軍によって海上封鎖されていました。
撤収部隊は、夜間に行動していましたが、米駆逐艦のレーダーに捕捉されてしまいます。
この頃、米軍は、駆逐艦のような補助艦艇にまでレーダーを装備していました。

警戒任務に就いていた「夕雲」と、3隻からなる米駆逐艦隊は、
ほぼ同時に相手を発見し、戦闘が始まりました。
「第二次ベララベラ海戦」と名付けられたこの戦いで、
「夕雲」は撃沈、米駆逐艦も1隻が撃沈、2隻が損傷して撤退していきました。
双方が発射した魚雷が互いに命中し合う、と云う文字通りの刺し違えであったと云います。

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