2018年11月4日日曜日

ウォーターライン製作記⑭~爆装ゼロ戦とマリアナ沖海戦~

太平洋戦争は、日本が1945年8月14日(日本では8月15日)にポツダム宣言を受諾したことにより終結した。戦争に限らず、ヤメ時を決断すると云うのは難しいことである。この8月15日については、本土決戦が愚行される前という点では早かった決断と云えるが、勝つ見込みが無くなった時期を考えれば、あまりにも遅すぎた感がある。

日本が降伏を決断したのは、原子爆弾の投下を受けたからというのが、一般的なイメージであろう。もちろん、それも大きなことではあるが、最大の理由はソ連の対日参戦である。

というのも、日本が、敗戦が決定的となった後もズルズルと戦争をしていたのは、ソ連の仲介によって、少しでも良い条件で終戦させることを期待していたからである。そのソ連に宣戦布告されてしまったのだから話にならない。あのまま戦争を続けていけば、日本は、アメリカとソ連に分断統治されてしまい、今の韓国と北朝鮮みたいになっていただろう。

ならば、ソ連が対日参戦を決定したのは、いつなのだろうか。

それは、1945年2月8日にヤルタに於いて、ルーズベルト、チャーチル、スターリンの三人で結ばれた秘密協定によってである。この密約は、副大統領にも知らせなかったという超極秘事項で「ソ連は、ナチス・ドイツの降伏後、3ヶ月を準備期間として、対日参戦する」というものであった。
ドイツの降伏が5月8日、満州侵攻が8月8日(日本では8月9日)であるから、まさに約束通りだったことになる。

実は、この密約を日本の情報部は、ちゃんと掴んでいた。情報源は、ポーランド系ユダヤ人のインテリジェンス。ポーランド人やユダヤ人は、敵国であるのにもかかわらず、日本と極めて友好的な関係にあった。(ずっと昔からロシアに虐められてきたポーランド人は、日露戦争でロシアをやっつけた日本が大好きで、今でも日本人が旅行に行くとビックリするほど良くしてくれるらしい)まあ、誤解を承知でザックリ云ってしまうと、杉原千畝の「命のパスポート」のお礼に、こっそり教えてもらった、といったところであろうか。
ところが、軍部は、この貴重な情報を握りつぶしてしまったのだ。このへんの経緯は、岡部 伸著「消えたヤルタ密約緊急電」に詳しいのだが、もし、日本がこの時期に降伏していたとすると、日本の戦後は、大きく変っていたことになる。

日本軍の戦死者の9割は、最後の1年間に集中している。さらに、3月東京大空襲、4月沖縄戦、8月原爆投下、ソ連軍満州侵攻・・・。もし、日本があと半年早く降伏していれば、これら全てが回避でき、沖縄問題も、中国残留孤児問題も、被爆者問題も、北方領土問題も存在しなかったことになるのである。

日本が降伏すべきリミットタイムは、1945年2月であり、8月15日は、遅すぎた終戦と云わざるを得ない。

で、マリアナ沖海戦の話である。

ここまで、降伏の話をズルズルとしたのは、日本の降伏問題を考えるとき、このマリアナ沖海戦(1944年6月19日)での敗戦が降伏(講和)の決断をする最早の時期だったと云われているからである。

マリアナ沖海戦は、日本海軍がありったけの航空兵力を集中運用し、マリアナ諸島に侵攻してきた米機動部隊に戦いを挑んだ一大決戦であった。構図的には、ミッドウェー作戦の裏返しになるのだが、作戦規模はミッドウェーを遥かに上回る。

すでに、米軍と日本軍の兵力には決定的な差がついていて、兵器のスペックにおいても日本軍は圧倒されていたのだが、劣勢の中でも知恵をしぼり、過去の戦訓をふまえて臨んだのがこの作戦であったし、ミッドウェーのような不運に見舞われたわけでもなかった。マリアナ沖海戦は、日米の機動部隊が正面から堂々とぶつかり合った、史上最大の海軍航空戦なのである。

このとき、日本側が採用した作戦が、有名な「アウトレンジ作戦」である。これは航続距離が長いという日本軍機の特徴を生かして、遠方より先制攻撃を仕掛けるという戦術であった。そして、ミッドウェー海戦の戦訓を生かして、索敵に力を注いだ。その結果、日本軍の索敵機は、米機動部隊を発見。日本機動部隊は、第六次にわたって、攻撃隊を発艦させた。完全に先手を取ることに成功したのである。

この時、新たな攻撃力として期待されたのが、戦闘機であるゼロ戦を爆撃機として流用した「爆装ゼロ戦」(戦爆)であった。

開戦初期に主力であった九九式艦上爆撃機は、旧式化して対空砲火による喪失率が跳ね上がっていた。新型の爆撃機「彗星」は、高性能を追求した結果、機体が大型化し正規空母でしか運用できなかった。そこで考えられたのが、ゼロ戦21型に250kg爆弾を搭載できるように改装し、戦闘爆撃機として運用することであった。
爆装ゼロ戦は、中・小型空母でも運用でき、性能も九九式艦爆よりは良く、爆弾投下後は戦闘機としての戦力も期待できた。

映画「永遠の0」の一場面。特攻機も爆装ゼロ戦も、爆弾を抱えているゼロ戦であるから、両翼にある増槽タンクを切り離してしまうと、見た目は同じである。もちろん、その戦術は大きく異なる。


爆撃機は、操縦士と爆撃手の2人乗りが基本である。また、急降下爆撃を可能にするためにはエアブレーキなどの装備が必要なのだが、爆装ゼロ戦には、そのような装備は無く、照準器の性能も劣っていたので、正規の爆撃機と比べて命中精度は低かった。さらに、長距離を航行するための燃料を満載したうえ、250kg爆弾を搭載した機体は、速度も運動能力も低下し、真っ直ぐ飛ぶのがやっとだったとも云われている。
しかし、最大の問題点は、一人で操縦と爆撃、空中戦、ナビゲーションをこなさなければならないことであった。そのため、戦闘爆撃機のパイロットには高い練度が求められるのだが、日本軍は、長引く消耗戦でベテランパイロットの多くを失い、実戦配置された搭乗員のほとんどは、二十歳前後の若者で、訓練不足のため発着艦もままならないような状態であったと云われている。
そんな新米のパイロットに、爆弾を装備したゼロ戦で、太平洋の真っ只中を片道2時間半飛行して、650km先の敵艦隊を攻撃、再び母艦に帰ってくることを強いたのである。
「アウトレンジ作戦」とは、研修もそこそこの新入社員の愛社精神(大和魂)を前提に、長時間労働による成果を期待するブラック作戦であった。

しかし、日本軍は、先手を取っていた。機動部隊の戦いでは、先制攻撃を仕掛けた方が勝つというのが通説であった。

この時、アメリカ機動部隊は、日本艦隊を発見できていなかった。しかし、アメリカ機動部隊が装備していた最新鋭のレーダーは、日本の攻撃部隊を200km先に捉える。このレーダーは、敵の位置の方位と距離だけでなく、高度も探知できるという優れものであった。さらに、米艦隊は、各艦のレーダー情報を空母レキシントンの管制室に集約し、一元化して運用する戦闘機指揮管制システムを構築していた。迎撃に上がった米戦闘機F6Fは、管制室からの無線電話の指示により、向かってくる日本機編隊ごとに振り分けられ、最適な迎撃ポジションに誘導された。

空戦では、日米の搭乗員の練度の差が語られることが多いが、マリアナ沖海戦に参加した米戦闘機パイロットの中には、これが初めての実戦という新米も多かったと云われている。ミッドウェー以来の総力戦である。新米を多く抱えていたという点では、日米両軍とも同じであったのだ。
彼らは、迎撃態勢をとるまでは管制室から、戦闘が始まってからは、隊長機からの無線電話によって、コミュニケーションをとりながら戦った。全ては訓練の通りに。

日本機動部隊の第一次攻撃隊64機は、62機のF6F戦闘機の奇襲攻撃を受け、42機を失って敗退。特に爆装ゼロ戦は、出撃した43機のうち31機を喪失するという壊滅状態であったという。
第二次攻撃隊128機は、編隊を突撃体制に組み直している最中(敵艦隊を目前に編隊を組み直し、10分もタイムロスをしている)という最悪のタイミングで、待ち伏せしていた97機のF6Fに襲撃され、全体の3/4にあたる99機が撃墜されてしまった。

辛うじて、米艦隊にたどり着いた攻撃機も、近接信管等で精度を増した対空砲火によって撃墜され、六次にわたる日本機動部隊の攻撃隊は、ほとんど戦果を上げることができなかった。
また、途中で方向を失い、母艦に帰還できずに墜落してしまった機も多く、なんとか帰還できた機体も損傷が激しく、使える航空機は、ほとんどなかったという。

翌日、日本機動部隊は米機動部隊の反撃を受ける。艦載機のほとんどを失った日本の機動部隊は、迎撃も満足にできず、ここに壊滅するのである。


写真は、改装空母「隼鷹」。同型艦「飛鷹」、小型空母「龍鳳」とともに、第二航空戦隊として、マリアナ沖海戦に参戦。3次にわたって攻撃隊を出撃させたが、敵艦隊を発見できず帰還中に米戦闘機に襲撃されたり、母艦の位置が分からず行方不明になったり、敵艦隊を発見するも迎撃されたりと、戦果を上げることができなかった。
「隼鷹」は戦線離脱中に米機動部隊の攻撃を受け、爆弾2発命中、至近弾6発を受けて損傷するも、撃沈は免れている。


実は、この時、米機動部隊が日本機動部隊を発見したのは、米艦載機の航続距離ギリギリのところで、日没も迫っていた。攻撃隊を出せば、帰還は夜間になり、途中で燃料切れになる可能性もあった。無茶なことは、米軍だってする。
実際、攻撃隊約200機のうち、燃料切れで海上に不時着したり、着艦に失敗するなどして、80機を喪失している。しかし、米軍は、全力を挙げてほとんどのパイロットを救出した。それは、人命尊重などという話ではない。一人のパイロットを育てるには、3年の年月と現在の価値で2億円の費用がかかる。それが理由の全てであった。

作戦終了後の第二航空戦隊の残存戦力は、九九式艦上爆撃機:8機(喪失21)・彗星艦上爆撃機:5機(喪失6)・天山艦上攻撃機:3機(喪失12)・爆装ゼロ戦:5機(喪失22)・零式艦上戦闘機:12機(喪失41)とある。喪失率は75%。第二航空戦隊は解隊され、艦載機を失った「隼鷹」は輸送船として運用されることになる。

この海戦で、日本機動部隊は第一航空戦隊の正規空母「大鳳」「翔鶴」を失うなど、壊滅的な敗北を喫してしまう。もはや普通に戦っても、アメリカには勝てないことが、明らかになったのである。アメリカに西太平洋の制海権と制空権を完全に握られた日本軍は、この後は、特攻攻撃を戦術の柱にしていくことになる。

日本海軍の敗退により、孤立無援となったサイパン島の守備隊は、多くの民間人を巻き込んで玉砕。サイパン島陥落の結果、アメリカの戦略爆撃機B29による本土空襲が可能になり、東条内閣は総辞職する。この時、早期講和を訴え、内閣総辞職へと導いたのが、国務大臣・軍需次官だった岸信介氏(安倍総理の祖父)である。

だが、内閣が替わっても講和が実現することはなかった。講和を妨げていた最大の要因は、意外にも国民感情であった。国民の多くは、嘘で塗り固められた大本営発表を信じ、負けを実感していなかったのだ。早期講和は、国民感情を刺激することになり、軍の強硬派によるクーデターを引き起こす恐れもあった。3月東京大空襲、4月沖縄戦、8月原爆投下、ソ連軍満州侵攻・・・結局は、たくさんの犠牲を目の前にして、初めて降伏が現実となったのである。

とすれば、8月15日の終戦は、早くも遅くもなく、歴史の必然だったのかもしれない。


写真は、サイパン島「バンザイクリフ」と天皇皇后両陛下

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