2017年7月15日土曜日

ウォーターライン製作記⑧ ~金剛型戦艦と第三次ソロモン海戦~

 金剛型戦艦とは、大正2年から就役した旧日本海軍の4隻の戦艦「金剛」「比叡」「榛名」「霧島」の総称になります。
 1番艦「金剛」は、日本海軍がイギリスのヴィッカース社に発注して建造したものです。同型艦については、2番艦「比叡」が横須賀海軍工廠、3番艦「榛名」が神戸川崎造船所、4番艦「霧島」が三菱長崎造船所で建造されました。特に「榛名」と「霧島」は、民間の造船所で建造された最初の戦艦になります。
 両社ともに社の名誉をかけ建造を競いますが、神戸川崎造船所の工作部長が、工期の遅れの責任をとって、自刃してしまうという事件が起きます。以降は、優劣のつかないよう、竣工日を同日に設定するなど、海軍もかなり気を遣ったとありました。ちなみに、工期の遅れは、6日間だったそうです。

 意外と知られていないことなのですが、これ以前の日本海軍の主力艦は、全てイギリスなどに発注して造ってもらった外国製でした。日露戦争で活躍した戦艦「三笠」もイギリスのヴィッカース社製になります。
 当時、日本とイギリスの間には、日英同盟がありましたから、日本は、いろいろとイギリスに良くしてもらっていました。三笠は、元々、別の国の発注によって建造されていた艦だったようですが、順番を変更して、日本に優先的に納入してくれたそうです。三笠はイギリス海軍にも無いような最新鋭の戦艦でしたから、破格の好待遇になります。もっとも、イギリスにとっても、ロシアはイヤな奴でしたから、日本がロシアと戦うとあれば、そのくらいの援助は当然とも云えます。
 イギリスの援助を受けた日本海軍は、無敵と云われたロシアのバルティック艦隊を打ち破ります。そして、旗艦「三笠」の活躍は、イギリスのヴィッカース社にとっても名誉なことだったようです。

 そのような縁もあって、金剛の建造に関してもヴィッカース社は、いろいろと良くしてくれました。まず、イギリスの造船所でお手本となるべき1番艦を建造し、その設計図を基に日本で3隻を建造することになりました。最高の社内機密・軍事機密と云える設計図を譲渡するばかりか、1番艦の建造に日本の技師たちを参加させて、技術指導をするという、手厚さだったそうです。これによって日本の造船技術は飛躍的に向上し、研修した若い技師たちが、後に、戦艦大和建造の中心になっていくわけです。
 ウィキペディアには、進水式でシャンパンボトルを割るのでなく、日本式に、鳩の入ったくす玉を割ったところ、イギリス人に大いにウケたというエピソードが紹介されています。
 金剛型の4隻は、同じ設計図から造られた同型艦ですが、細かい仕様は、それぞれ異なっていたようで、イギリス生まれの「金剛」のデキが、最も良かったと云われています。

 フジミの戦艦「金剛」です。


 フジミのモデルの制作は、巡洋艦「摩耶」以来です。摩耶の組み立てに関しては、いろいろとストレスがありまして、フジミの製品に対して良いイメージが無かったのですが、ウォーターラインシリーズの金剛型の評判が悪いこともあって、再チャレンジとなりました。


 対空装備を大幅強化した、レイテ海戦モデルです。正にハリネズミ状態、対空機銃などは、取り付けらそうなスペースに全て取り付けた、という感じです。しかし、シルエットからうけるスマートさは抜群。ファンが多いのもうなずけます。


 組み立てについては、部品数、取り付け易さなど、摩耶とは別物と云える程良かったです。

 艦これでも、金剛型は人気キャラです。グループで一人は眼鏡キャラは、アニメの鉄則です。
 

 動画は自己責任でどうぞ。背景の戦艦は、ちゃんと金剛型になってます。


 金剛型の戦艦は、その後、2度の改修を経て、近代的な高速戦艦に生まれ変わります。攻撃力・防御力は、やや劣るものの、速力30ノットは、日本の戦艦群では、最速であり、高速機動部隊の護衛用として運用されました。また、上層部が、艦の損失を恐れ、来る決戦に備えて(?)最新の大和型を温存したことにより、開戦時には、すでに艦令が30年を越えていた超老朽艦であったのにもかかわらず、数多くの作戦に参加することとなり、皮肉にも太平洋戦争で最も活躍した戦艦となりました。
 これは、この後、建造された純国産の「山城」や「日向」が多くの欠陥をかかえていたため、太平洋戦争で全くといっていいほど使い物にならなかったのと対照的でした。

 金剛型の4隻が参加した多くの作戦の中で、最も熾烈な戦いとなったのが、第3次ソロモン海戦です。この海戦は、ガダルカナル島をめぐる戦いにおいて、米軍の飛行場を夜間砲撃によって攻撃しようとする日本軍と、それを阻止しようとする連合軍との間で二夜にわたり行われました。
 この海戦は、航空機が関与できない夜間に行われ、双方が操艦上の細かいミスを重ねた結果、艦隊はバラバラ、狭い海峡に敵味方が入り乱れることとなり、海戦史上、例の無い大乱戦となります。
 米軍の艦船はレーダーに艦影を捉えるものの、敵味方の判別もできない有様で、日米両軍ともに味方への誤射も続出。主砲、副砲、高射砲から機銃まで使い、至近距離で手当たり次第に撃ちあった結果、両軍合わせて15隻が撃沈、残った艦も全てが損傷を受け、双方に2,000名近い戦死者を出しました。日本軍は、作戦に参加した戦艦「比叡」「霧島」を失い、米軍も、艦隊司令官が2名とも戦死するなど大きな損害を出しました。
 海戦そのものは、痛み分けに近いと云えますが、飛行場攻撃に失敗したことで、ガダルカナル島での日本陸軍の敗戦は決定的となりました。この敗戦は、太平洋戦争のターニングポイントとされ、これにより、日米両軍の攻守は逆転し、以降、日本軍は敗北を重ねていくことになります。
 
 この海戦で、日本の水雷戦隊はアメリカ軍の新鋭戦艦に対して20本近い魚雷を発射しましたが、信管の調整ミスにより、命中する直前に、全て自爆してしまいました。このうちの数本でも当たっていれば、米戦艦を撃破できただろうと云われています。もっとも、米軍が発射した魚雷も、あまりにも距離が近すぎたため安全装置が働いてしまい、不発弾が相次いだそうですが。

 米軍が最新鋭の戦艦や航空母艦を投入してきたのとは対照的に、日本軍は、戦艦大和や武蔵をこの海域に投入することは、ありませんでした。「霧島」と撃ちあったアメリカの「ワシントン」は、この年に就役したばかり、レーダーと40センチ砲を装備した最新鋭の戦艦です。今年発売の新車と30年前に作られたクラシックカーで勝負したのですから、よく健闘したと云うべきでしょう。
 工業力に劣る日本は、失った戦力を回復するのは容易なことではありませんから、来たるべき決戦(?)に備えての戦力温存、出し惜しみは、理解できないことではありません。しかし、元々、短期決戦でしか勝つ見込みのない戦争のはずでした。太平洋戦争の雌雄を決する決戦に、失っても惜しくないからと老朽艦を派遣するという海軍の戦略は、あまりにもお粗末なものと云わざるを得ません。

 「比叡」「霧島」とも、沈没する直前まで、護衛の駆逐艦が横付けして救助にあたったので、ともに1,000名以上の乗組員が救助されたとあります。

 多くの激戦が行われ、日米両軍の艦船が多数沈没したこの海域は、軍艦や飛行機の残骸が海底を埋め尽くしていることから「アイアンボトム・サウンド」(鉄底海峡)と呼ばれるようになり、現在は、スキューバ・ダイビングの名所になっているそうです。赤字が日本、青字がアメリカの艦船の沈没地点です。


 1番艦「金剛」は、この後も数多くの作戦に参加し、レイテ沖海戦の後、日本に帰投する途中で、潜水艦の雷撃を受けます。命中した魚雷は2本でしたが、浸水を止めることができず、沈没してしまいました。歴戦の損傷で船体が痛んでいたためと云われています。雷撃から沈没まで2時間もあったのにも関わらず、避難命令が遅れたため、司令官、艦長以下1,200人が犠牲になりました。

 3番艦「榛名」は、1944年12月に日本に帰投しますが、すでに国内には、軍艦を動かす燃料は無く、そのまま浮き砲台として、呉軍港に係留されました。
 すでに日本海軍は事実上壊滅状態でした。それは、艦船が沈められたのでなく、動かす燃料が無くなったからでした。1945年4月、温存されていた戦艦大和は、日本に残っていたありったけの燃料を積んで沖縄に出撃していきました。

 榛名は、同年7月の空襲により、20発以上の命中弾を受け大破着底。そのまま、終戦をむかえ、解体されました。資材は、戦後復興に使用されたと云われています。

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