2019年8月20日火曜日

黒島結菜とNHKドラマ「アシガール」~相対的時空論:タイムトラベルに関する形而上的考察~

はじめに

人間は、太古の昔から物語を空想してきた。そして、夢物語のいくつかは、現在の社会に於いて現実のものになった。しかし、タイムマシンとかタイムトラベルに関しては、様々なアイデアや世界観が提案されてきたにも関わらず、実現はおろか、その可能性さえも否定されているのが現状である。にもかかわらず、タイムトラベルがSFの王道であり続けるのは、人間の思考遊戯として、それが格好の素材だからに他ならない。

アシガールは、タイムトラベルものでは稀である、超ハッピーエンドな物語という構想を持っている。この斬新な構想に対して、SFの常識を無視しているとか、戦国時代で二人で暮らすなど有り得ない、などと云った批判は多い。そして、これらの批判に対して、空想の物語なんだから、という反論しかできないとすれば、寂しい限りで或る。

このことについて、原作者さんは、かなり無頓着な感じである。まあ、そうでもなければこんな物語は作れないとも云えよう。ならば、少しでも理論武装のお手伝いをしようと試みたのが、今回の投稿で或る。人間は、空想をする能力を与えられた存在で有り、空想を楽しまないのは、実に勿体ないことなのだ。

では、アシガールに相応しい世界観を求めて、思考遊戯を始めようと思う。

何故、過去を変えてはいけないのか

タイムトラベルに関する思想に「バタフライ効果」と「時間線の自己修復能力」と云われているものがある。

バタフライ効果とは、蝶の羽が巻き起こした風が、やがて大きな気象現象となって現れるという例えで表される事象である。過去へのタイムトラベルで引き起こされる小さな出来事、例えば石ころを1つ動かす、枝を1本折る、という些細な事でも、ゆくゆくは大きな事態につながってしまうという考えで或る。
例えば、唯之介が若君を助けたことによって、死ぬはずでなかった高山軍の足軽が死んでしまったとする。もし、その足軽が唯の祖先の一人であったら、速川家の存在そのものが否定されることになり、タイムパラドックスが生じてしまう。一人の人間に連なる先祖の数は鼠算的に多いから、どこでどんなふうに血がつながっているか分からないのである。
どんな小さなことでも、過去を変えることは、現在に影響を及ぼす可能性があるのだから、過去へのタイムトラベルは慎重になるべき、或いは、おこなってはならないと云うことになる。

その一方で、時空は多少の変動に対して修復能力があり、歴史を変えようとする働きかけを無効にできるという思想がある。これが、「時空の自己修復能力」である。石ころを1つ動かしたくらいでは歴史は変らないという便利な概念である反面、歴史を変えようとする試みは、時空によって無効にされてしまうという思想につながっていく。
アシガールで例えるならば、唯之介はどんなに頑張っても若君の命を助けることはできない、という結末になる。唯之介の活躍で一時的に救えることはあっても、若君が死んでしまう運命からは、逃れることができないという思想である。

この2つの思想は対照的であるが、過去へのタイムトラベルで歴史を改変しようとする試みに対し、否定的であることは共通している。


パラレルワールドはタイムトラベルの救世主か?

パラレルワールド(平行宇宙)は、元々は量子力学によって提唱された概念であったが、タイムパラドックスの解決方法として注目されている思想である。

この宇宙は時空のゆらぎによって生成されたと考えられているが、そのゆらぎは1つではなく、その結果、同時に複数の宇宙が生成されたとする。つまり、この宇宙には、一卵性の兄弟「パラレルワールド」が無数に存在していると考える。パラレルワールドは、同時に生成された宇宙であるので、進化のゆらぎによって若干の相違が生じるものの、基本的には同じ世界であるとされている。

過去へのタイムトラベルは、タイムパラドックスが生じてしまうのが課題であったが、ここでは、タイムトラベルとは、パラレルワールドへの転位と定義される。他の宇宙への転位であれば、そこで歴史を改編したとしても、自分たちの宇宙への影響は起きないことになる。

しかし、考えて見れば迷惑な話である。パラレルワールドだって1つの宇宙である。他の宇宙からやってきた奴に歴史を変えられたら、たまったものでは無い。自分の宇宙に影響が無いからと云って、他人の宇宙を勝手に荒らして良いわけが無いし、逆のことだって起きないとも限らないのである。

それに対して、パラレルワールドは無数にあるから、その中には、若君が死なない世界ぐらいあるだろうとする思想がある。唯之介は、タイムマシンによって羽木家が御月家を継ぐパラレルワールドに転位したと考えるのである。パラレルワールドは無数にあると云っても、そんな都合の良い世界が存在するとは、随分虫のいい話であるが・・・。
平行宇宙には、唯が永禄に転位する世界、しない世界、したけれど若君に出会わない世界など、ありとあらゆる世界があると考える。ただ、そんな調子で分岐していくと、ほぼ無限大の数の宇宙を、ほぼ無限大の回数掛け合わせる、つまり∞の∞乗の宇宙が存在することになって、トンデモナイことになる。

そこで、パラレルワールドは、タイムマシンなどで、時空に対する働きかけがあった時に、分岐生成されるとする思考が登場してきた。こうなると量子力学の理論は何処行っちゃったって感じだが、都合の良いパラレルワールドを生成できるという点では、極めて有効な世界観であると云える。

例えば、唯が永禄に転位した時点で、新しいパラレルワールドが分岐生成されたと考える。そこでどんなことをしようと、新しい宇宙で新しい歴史を作るわけだから、誰の迷惑にもならないし、現在の宇宙に影響を及ぼすこともないわけである。

ただし、問題は、唯が平成に戻ってきた時である。現在に影響を与えないということは、こちらの宇宙では羽木家は滅亡したままである。唯之介がどんなに頑張って若君を助けたとしても、それはパラレルワールドの若君であって、この宇宙の若君では無いのである。
SF小説のオチとしては面白いかもしれないが、唯やアシ・ラバの皆さんは、それで納得できるであろうか。


相対的時空論における現在・未来・過去

ここまで、過去へのタイムワープが多くの困難と矛盾を引き起こすことについて空想してきた。どのようにしても、過去は変えることはできない、変えてはいけないという結論になってしまうようだ。
では、未来はどうだろう。未来は、これから切り開いていくモノだから、まだ決定しているわけでは無いと云える。しかし、それでは、未来へのタイムワープで行き先を確定できない。未来へのタイムワープを可能にするためには、未来だって一義的に決まっている必要がある。

若君は永禄に戻るときに、「運命は己の力で変えてみせる」と云った。永禄を生きている人々にとっては、永禄が今である。しかし、現代人からみれば、若君が永禄で頑張って歴史を変えてしまうのは迷惑な話となる。では、現代の我々が頑張ったらどうなるか。その時は、未来の人間がやってきて、こう云うだろう、君が頑張ったところで歴史はもう決まっていると。未来人にとっては、現代は過去なのである。

つまり現在とは、相対的なモノなのだ。現在が相対的な存在である以上、未来も過去も相対的なモノにすぎない。この宇宙では、全てが未来であり、過去でもあるのだ。そして全てが過去ならば、この宇宙の時間軸は一義的に決まっていることになる。この宇宙では、生成から終焉まで、全ては運命通りに進み、切り開くべき未来など存在しないのだ。

宇宙の時空には、現在・過去・未来という区別は存在しない。これが相対的時空論で或る。


唯之介は歴史を変えたのか

ドラマ「アシガールSP」では、唯は、小垣城が落城する前夜に、平成に戻ってきた。そして、忠清の墓を訪ねるのであるが、その墓石には、櫓に突き刺さった刀が刻まれている。刀が櫓に突き刺さるのは、二人が永禄から平成にとぶときである。唯が新しい起動スイッチで永禄にタイムワープしていない時点で、すでに刀の絵が墓石に刻まれているのは、どういうことであろうか。もしも、唯が歴史を変えたと云うのであれば、刻まれた刀が墓石に現れるのは、唯が永禄にタイムワープした後でなければならない。

さらに、コミック第12巻のラストでは、郷土史家の木村先生が、新たに発見された御月家の系図を持って速川家を訪ねる場面がある。そこでは、若君が「御月清永」と名を変えたことが推察されているのだが、御月清永は、緑合藩御月家の礎を築いた名君として、現在の世に語り継がれていることになっている。その御月家は、明治維新まで続いたことになっていて、初代藩主は、若君と唯の間に産れた子である。しかし、唯が永禄にタイムワープする以前から、御月家はすでに存在しているのである。

これらは、時間軸が永禄と平成でループしていることを表している。ループが形成されるためには、永禄が現在である時点で、未来である平成が確定していて、唯のタイムワープが約束されている必要がある。

我々は、自分が存在している今を現在と捉えている。その結果、永禄が現在であったとき、そこに唯は存在せず、永禄が過去になってから、即ち、平成が現在となってから、唯がタイムワープしたと考えてしまう。唯が歴史を変えたと考えるのはこのためである。しかし、時間軸がループしていると云うことは、永禄が現在であった時点で、未来から唯がやってきたと捉えるべきなのである。永禄年間に唯は最初から存在し、この宇宙には、唯が若君を助けた歴史しか存在しないのである。

アシガールには、もう一つ、同様の思想が登場するところがある。それは、尊が未来の自分にタイムマシンの新しい起動スイッチを作ってもらう場面である。未来の自分、或いは子孫に助けてもらうというのは、アシガールの斬新な世界観を象徴する場面といえる。

未来の尊が新しい起動スイッチを作れるかどうかは、平成からは予測不可能であるので、これは一種の賭けである。で、問題は、その起動スイッチを未来の尊が送る行為である。平成に存在しないものを送るのであるから、これは明らかに歴史を変える行為と云える。しかし、我々からすると、未来から起動スイッチは送られてくる。これが全てである。我々には、未来の尊によって歴史が変ってしまったという認識は生じないのである。

歴史の謎を解き明かす

このように、タイムワープした者の働きかけが既に歴史に内包されているという思想は古くからあって、それに基づいた作品も発表されているらしい。ウィキペディアに次のような記述があったので紹介しよう。

「タイムトラベラーによる歴史の改変自体が歴史に含まれているという思想は、主人公に活躍の余地がなく、努力も報われず、カタルシスとエンターティメント性を欠くため、理論的には成り立つかもしれないが、文学的には受け入れられない。」

結果が決まっている物語はツマラナイということのようだが、そもそもドラマ、特に時代劇というのは過程を楽しむものだから、エンターティメント性を欠くというのは、いささか言い過ぎの感があろう。

唯が最初にタイムワープしたとき、羽木家は永禄2年に滅亡するとされていた。しかし、それは、限られた資料を元に推測されていたにすぎない。物語は、唯之介がタイムワープを繰り返し、永禄で活躍するたびに、新資料が発見されていく。まるで歴史が、唯之介の活躍の場を空けて待っていたかのようだ。

物語が進むにつれて、羽木家滅亡の謎が解き明かされていくという演出は、秀逸である。これは羽木家が架空の存在であるからこそ成せる技であるが、ここに織田信長という強烈な実在の人物を絡めた構成は、見事としか云いようが無い。アシガールは、歴史ミステリーの要素も含んだ作品と云える。

羽木家の滅亡の歴史が空白だったこと、つまり、後の世に伝えられなかったのは、永禄年間における唯の活躍や、唯が未来からやってきた女の子であることが、当時の人々の理解を超えていたことと、織田信長との関わりの中で秘密とされたから、と云うことで如何であろうか。

エンターティメント性などは、作者の力量次第なのだ。


過去で未来を切り開く

この宇宙では、現在・過去・未来は相対的なモノに過ぎず、時間軸は一義的に決定していると空想してきた。その結果、パラレルワールドに頼ること無く、タイムパラドックスもそれなりに回避することが可能になったと思う。

では、そのような世界観の中で、唯の行動は、どんな価値を持つのだろうか。

唯が永禄にタイムワープした時点で、唯之助にとって永禄は現在となった。だから思う存分暴れまくれば良い。もちろん、その結果は、歴史的事実として一義的に決まっていることであるし、頑張っても、頑張らなくても、同じ明日は来るだろう。その頑張りは未来から見れば滑稽なことなのかもしれない。でも、それは、この令和の今だって同じなのである。

この宇宙では、全ては過去であると同時に未来でもある。だから、与えられた今を全力で生きる。永禄だって、平成だって、切り開くべき未来は目の前にあるのだから。

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