又北條殿。同四郎主等者。經筥根湯坂。欲赴甲斐國。同三郎者。自土肥山降桑原。經平井郷之處。於早河邊。被圍于祐親法師軍兵。爲小平井名主紀六久重。被射取訖。茂光者。依行歩不進退自殺云々。將之陣与彼等之戰塲。隔山谷之間。無據于吮疵。哀慟千万云々。
(訳文)又、北條(時政)殿と四郎(北条義時)様は、箱根の湯坂道を通って甲斐国へ向かおうとした。三郎(北条宗時)は、土肥山から桑原へ降りて平井郷へ向かうところ、早川の辺りで祐親法師(伊東祐親)軍に囲まれて、小平井の名主「紀六久重」に討ち取られた。(工藤)茂光は、怪我のため歩けなくなり、自害した。頼朝様の陣と彼等の戦場とは、山谷を隔てていたので助けることができず、(頼朝は)嘆き悲しんだ。
「早河」は、神社の近くを流れる「冷川」の誤記として、この地を戦死した場所とする説がある。宗時の墓が、函南町の桑原にあったことは確かだが、討ち取られた場所に墓所が作られるとは限らない。もし、宗時が敗走の途中で、追撃してきた伊東祐親の軍に冷川で討ち取られたとすると、頼朝がその情況を知っていることが不自然となるからだ。桑原から平井へ向かうとは、来た道を引き返すことであり、宗時たちが退却しようとしていたところを、後方から攻めてきた祐親の軍勢に包囲されたのではないだろうか。宗時は、早川で戦死し、桑原に葬られたと考えるのが自然に思う。
吾妻鏡には、もう1つ不思議な記述がある。時政と義時が箱根の湯坂道を通って甲斐国へ向かったことである。時政が、甲斐源氏に援軍を要請に行くのは、もう少し後のことであり、結局、この時は甲斐へは行かず、引き返したことになっている。
これによって、北条親子は、当主と嫡男で別行動をとったことになり、関ヶ原の戦いでの真田家の行動に準えて、家を存続させるための行動とする考えもある。ただ、敗走中の時政の行動は、不明なところが多いそうだ。恐らく、宗時が祐親軍に包囲された時、時政親子は、逃亡した後だったのではないだろうか。結果として、(逃げ遅れた)嫡男を見捨てたことになってしまった時政は、言い訳として、この一文を挿入させたという説を支持したい。
大河ドラマでは、北条宗時は「片岡愛之助」さんが演じることになっている。わずかな期間しか登場しない人物に、こんな大物俳優を抜擢するなんて、さすがNHKの大河ドラマである。この場面は、序盤のクライマックスになるだろうから、どんな描き方をするのか楽しみである。
さて、若くして討ち死にし、歴史の舞台に立つことのなかった「北条宗時」であるが、その死から21年後の建仁2年の吾妻鏡に再び登場する。
建仁二年六月小一日甲戌。晴。遠州令下向伊豆國北條給。依有夢想告。爲訪亡息北條三郎宗時之菩提給也。彼墳墓堂。在當國桑原郷之故也。
(訳文)建仁二年(1202)六月小一日甲戌。晴れ。遠江守(北条時政)は、伊豆の北条へ向かった。夢のお告げがあり、(石橋山合戰で)亡くなった息子「北条三郎宗時」の菩提を弔う(追善供養の)ためである。その墳墓堂(墓の上に建てられたお堂)が、伊豆の桑原郷にあるからである。
桒原の墳墓堂は、以前からあっただろうし、時政も何度か訪れていたと考えるのが普通であろう。建仁二年になって、わざわざ夢のお告げがあって伊豆に向かったと記述したのは、何故だろう。
建仁2年というと、時政が第二代将軍「源頼家」を追放する前年であり、北条氏が比企一族を滅ぼし、幕府の権力を握る直前である。北条家の行く末を決める大事な時期に、石橋山で討ち死にした嫡男の追善供養をしようとしたのだろうか。もしかしたら、夢のお告げを理由にして、何らかの行動を起こすための根回しに赴いたのかも知れない。
その墳墓堂に安置されていたのが、「かんなみ仏の里美術館」に収蔵されている「阿弥陀三尊像」だ。国の重要文化財で、鎌倉時代の慶派仏師「實慶」の作であることが分かっている。
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阿弥陀三尊像は、檜材の一木割矧造だそうだ。写実的で力強い表現は、如何にも鎌倉時代の慶派仏である。如来像の蓮華座が、鎌倉時代のオリジナルというのも貴重である。
美術館に収蔵される前、薬師堂に祀られていた頃の阿弥陀三尊像である。復元修理前なので、左脇侍「観音菩薩立像」の左前腕部が亡失した状態になっている。
實慶という仏師は、運慶願経の記述から、その存在は知られていたが、作品は長い間未発見だった。昭和59年、伊豆市修禅寺の大日如来から墨書銘が発見されたのに続いて、この阿弥陀三尊の胎内からも「實慶」の名が発見されたのだ。實慶の現存する作例は、今でもこの2例、計4躯だけである。
修禅寺の大日如来は、承元四年(1210年)に造立されたことが分かっている。承元四年は、この地で暗殺された鎌倉幕府二代将軍「源頼家」の七回忌にあたる年で、北条政子が我が子を弔うために作らせたと云われている。
一方、桑原の阿弥陀三尊像の制作時期については、建久年間(1190~1198)の末頃とされている。墳墓堂の建立に合わせて造仏されたのならば、時政が建仁2年に訪れたときには、すでに祀られていたことになり、二像の制作年の隔たりが気になる。元々墳墓堂は仮堂であって、追善供養を機に造仏した可能性はないだろうか。だとすれば、造仏は1202年前後になる。
いずれにせよ、阿弥陀三尊像を作らせたのは、時政で間違いないであろう。頼朝の舅とはいえ、伊豆の小豪族に過ぎなかった北条氏が、幕府の実権を握るまでになった最初の一歩が、石橋山の合戦である。その合戦で命を落とした嫡男「宗時」を弔うことは、特別の意味があったはずだ。
時政が「牧氏の変」により、鎌倉から追放されたのは、元久2年(1205)。宗時の追善供養からわずか3年後のことである。
牧の方と謀って実朝暗殺を企てたため、北条家の子孫から謀反人と扱われ、歴史上の人物としても評判の良くない時政だが、嫡男の墳墓堂のために一流の仏師に阿弥陀三尊像を造仏させたり、地元民から「ときまっつあん」呼ばれたりと、従来のイメージと異なる一面を持っていたことは興味深い。
肉親に裏切られ、孤独となった時政にとって、石橋山で共に戦い討ち死にした宗時に、特別な思いがあったことは想像に難くない。この地を度々訪れていたことが、「ときまっつあん」の地名となって伝わったのであろう。宗時神社の地は、元々「時政」所縁の場所だったのだと思う。
北条の地に隠居させられた時政は、再び歴史の舞台に立つことなく78才で生涯を閉じた。鎌倉を追放されてから、10年後のことである。
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