この2躯は、明らかに同一の仏師によるものである。観音さんと地蔵さんをペアで祀るというのは、珍しいことらしい。でも、地蔵は大地に、観音は水に関係のある仏さんだから、2躯をペアで祀ることには、それなりの説得力がある。
上原美術館の田島先生によると、観音・地蔵菩薩は、阿弥陀如来の脇侍として祀られることもあるそうだ。だとすれば、このペアには、かつて、共に仕えていたご主人様がいたということになる。まあ、三尊が並んでいるのを想像するのも楽しいが、このペアは、センターが不在でも十分やっていけるだけの実力を持ったタレントだと思う。
この阿弥陀さんは、鎌倉時代の前期に慶派の仏師「實慶」によって造られたことが分かっている。實慶という仏師は、運慶願経の記述から、存在だけは古くから知られていたが、その作品は長い間、未発見だった。ところが、昭和59年、近くの修善寺の大日如来から墨書銘が発見されたのに続いて、この阿弥陀三尊の胎内からも「實慶」の名が発見されたのだ。實慶の現存する作例は、今でもこの2例、計4躯だけだ。
阿弥陀さんを乗せている台座は、仏像が造られた当時のものだという。確かに、蓮の花弁の脈がくっきりと彫られていて、いかにも鎌倉期の作品という感じではある。
仏像の台座とか光背というものは、後の時代に造られたものがほとんどで、当初のものがそのまま残っているというのは、極めて貴重だ。お寺が火事になったとき、仏像は抱えて持ち出しても、台座まで持ち出すのは大変だろうし、仏像は、傷んできたら修理するが、台座などは、壊れたら新調することが多いからだ。
實慶の墨書銘は、美術館に行けばパネル写真で見ることができる。面白いことに、「實」のところに「しんにょう」のようなものが付いていて、一見すると「運慶」って書いてあるように見える。後の世の人が、仏像の価値を上げようと、しんにょうを付け加えて實慶を運慶に書き換えた、なんて解釈もあったようだ。
ただ、よくよく見ると、意図的に書き加えたにしては下手過ぎるから、何かの墨が付いちゃって、それがたまたま「しんにょう」っぽく見えているんだと思う。だいたい、何百年に一度の修理の時にしか見てもらえない仏像の内側にそんな細工をしたって、意味のないことだ。
脇侍は、観音・勢至菩薩さんだ。なかなかの良像で、ピンでも十分通用すると思うし、実際、勢至菩薩さんは、仏像のカレンダーにピンで採用されたこともある。ただ、この両像は、阿弥陀さんの脇侍にしては、ちょっと違和感がある。普通、観音菩薩が阿弥陀さんの脇侍を務めるときには、蓮台を持っているのが普通だからだ。僕は、この像を初めて見たとき、奈良薬師寺の日光・月光菩薩を連想した。
ただ、このような観音・勢至菩薩像が他に無いわけではない。横須賀の浄楽寺の運慶作の阿弥陀三尊の脇侍は、ここのと同じで、日光菩薩っぽい観音菩薩さんである。慶派の阿弥陀三尊像には、このような形式のものが普通にあるということなのだろうか。
桑原薬師堂の名の由来となっている薬師如来さんは、榧材の一木割矧造という、マニアには、ちょっと気になる仏さんである。土地の人たちは、国の重要文化財である阿弥陀さんより、県の文化財に過ぎないこの薬師さんの方を主に祀ってきた。切実な信仰の前では、県より国の方が偉いなどという尺度なんて存在しないのだろう。
もっとも、薬師さんが県文止まりなのは、長い間秘仏であったことが関連しているのかもしれない。或るお寺さんの話によると、国の文化財に指定されるといろいろと煩くなるらしい。だからといって、補助金がたいして増えるわけでもないので、仏像は、県の文化財くらいが丁度いいそうである。とは云っても、美術館にあって、お客を呼ぶためには、箔がついている方が良いのも確かだ。
かなり古風な造りであるので、平安時代初期の作品と言われていたこともあったようだ。しかし、円満な顔立ちや衣文の彫りが浅いことなどは、平安時代後期と云えるし、堂々とした胸や腹の厚さを考えると藤原期より遡るようにも思える。ということで、先生方の見解は、平安時代中期(11世紀半ば)頃の作と云うことである。
この薬師さんの特徴は、素地造りで、漆や金箔を貼られた痕跡がないことと、膝の張り出しが小さいことだそうである。田島先生によると、これらは神社の御神体として造られた像に共通することだそうだ。仏さんが御神体というのは、神仏が習合されていた昔の日本では、極々普通の事である。
そう考えると、衣文の彫りの浅さも膝の小さな張り出しも頷ける。神像というのは、御神木を彫って造られることが多いから、あまり深く彫り込まれない。京都の松尾大社の神像なども、平安時代初期の作と云うことだが彫りはかなり浅い。それから、祠に入れることを考えると、膝を張り出して立派に見せることよりも、箱の中にきっちり収まるように、膝の張り出しを抑えた造りのほうが好ましいはずだ。どこかのブログに、下半身が小さくてバランスを欠く、なんて書かれていたが、造り手には造り手の言い分があるのだ。
両腕が細く感じるのは、後の時代に補修されているからだそうだ。後頭部を見ると、縦横に碁盤の目のように刻まれていて、確かにこうすれば手っ取り早く螺髪を彫ることが出来るとは思うが、雑な造りである。このへんが地方仏とされる所以なのだろう。
ただ、薬師堂にいた時のように、厨子の中に収まと、何か強い威厳を感じるから、やはり、この薬師さんは、この地方の神社の御神体として造られたのかもしれない。
十二神将は、薬師堂にあった頃は、江戸時代の修理で白く塗られていてチープな感じだったが、毎年、数躯ずつ修理されて、精悍な仏像に変身した。
修理を担当した、吉備文化財修復所の牧野先生の手法は、文化財保存の考えからするとやや直しすぎの感があるが、直すのが商売だから致し方ないことだ。まあ、十二神将は国でなく県指定の文化財だから問題にはならないのだろう。痛んだ顔に補材を付けて、彫り直したりすれば、見違えるように素晴らしく蘇るわけだが、そんな仏像を前にして、面相がどうだから時代は・・・などと素人が偉そうに云ってしまうと、思わぬ間違いをしでかすことになる。
もちろん、修理された仏像には、必ず修理報告書が作成されているから、それを見れば良いのだが、そんなものは、美術館の書棚か金庫にしまわれていて、部外者が目にする機会などないわけだし。
ただ、あまり直しすぎると、重要文化財の指定の際にマイナスポイントとなるのではないかと心配になってくる。まあ、重文になりそうもないから、大胆に修理したのだろう。
ただ、ここの丑神将は別格である。細かいところまで神経が行き届いている優れた仏像だ。例えば、バックルに通した紐1つにしても、キツく縛ったときとユルく縛ったときとでは、皺のでき方が違うし、素材が布か皮かによっても変わってくる。優れた仏師というのは、それらをちゃんと表現できるのだ。丑神将は、明らかに中央の一流の仏師の作である。もし、奈良・京都にあれば、ピンでも重要文化財に指定されているだろう。
ここの十二神将は、それぞれ造られた時代が異なっているのが特徴だ。長い年月の間に、12躯あった神将像は、1つ、また1つと失われていったのだろう。そして、それぞれの時代の人々は、失われた像を1つ、また1つと補ってきたわけだ。
それぞれが造られた年代については、一番古いものが平安時代で、新しいものが江戸時代とされてきた。ところが、最近の調査で、1つの像の内部から墨書が発見されて、平安時代とされていた像が鎌倉時代中期の作と分かった。そこで、各像の年代を見直しした結果、造られた時代は、鎌倉前期から室町時代までの間と変わり、上下に年代が縮まったかたちになった。
一番出来の良い丑神将は、古い方から4番目だったのが、一番古い像にかわった。このことは、かなり重要である。丑神将は、失われた仏像の代わりに造られた補作品でなく、最初に造られた12躯の唯一の現存作ということになるからだ。つまり、当初は、丑神将レベルの像が12躯揃って、薬師さんを守っていたことになる。
これだけの造仏ができる仏師。つまり、鎌倉時代の前期に、この地方の造仏に関わった一流仏師と云えば、實慶以外に考えられない。實慶は、阿弥陀三尊像だけでなく、薬師如来の周辺仏の造仏にも携わったのではないだろうか。
実は、以前の薬師堂の仏像群は、今とは違う祀られ方をされていた。
現在の阿弥陀三尊像の観音・勢至菩薩は、もともとは薬師如来の脇侍の日光・月光菩薩として祀られていたのだ。阿弥陀如来の脇には、江戸時代に補作された、観音・勢至菩薩が置かれていたらしい。その後、文化財調査によって、薬師如来の脇に置かれている像は、阿弥陀如来とセットであるとされ、現在のかたちになったという。つまり、阿弥陀さんの脇侍は、失われていないのだから、補作など必要なかったということになる。
しかし、これは不思議な話である。現在の阿弥陀三尊像は、文化財調査をするまでもなく、明らかにセットに見えるからだ。見た目も同じで、造った人も同じなのだから、そんなのは、ど素人でも分かる。
問題は、なぜ昔の人たちは、これをセットと見なさなかったのかと云うことである。誰が見てもセットに見えるものを、セットとして扱ってこなかったということは、それなりの理由があったと考えるべきではないだろうか。しかも、観音・勢至菩薩を補作までしているのである。
もしかしたら、間違っているのは、江戸時代の人たちでなく、我々ではないだろうか。
以下は、僕の私見である。
この地で阿弥陀三尊像を造った實慶は、続いて、薬師如来の関連仏の造仏に携わった。人々に深く信仰されていた薬師如来は、元来、神像であったために、単独の像として祀られていたが、北条氏がスポンサーとなって、脇侍を揃えることになったからだ。實慶は、薬師如来の脇侍として日光・月光菩薩と十二神将を造る。
やがて、長い年月の中で、神将像は失われていき、当初の像の中で丑神将のみが残った。一方、阿弥陀如来の脇侍であった観音・勢至菩薩も失われ、代わりの脇侍として江戸時代に補作された像が置かれた。
ある講演会で、この考えの真偽を質問させていただいたことがある。講演会の先生は、僕の質問に対して、面白いでもなく、有り得ないでもなく、「それは恐ろしい考えですね」とおっしゃた。肯定でも無く、否定でも無く、スルーに近いお返事だ。所詮、素人考えなのでそのことは別に良いのだが、「恐ろしい」と云われたのが愉快だった。
像の配置を入れ替えるきっかけとなった文化財調査を行ったのは、東京芸術大学名誉教授の水野敬三郎先生である。入れ替えたことが間違いであるなど、考えるだけでも恐ろしいことなのだろう。
丑神将から「實慶」の名前でも出てきてくれれば、面白かったのだが・・・。
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