2015年7月8日水曜日

「ホームにて」  松浦亜弥とスガシカオ

 「ホームにて」は、2006年リリースのスガシカオさんの作品です。「19才」のカップリング曲とのことですが、スガさんのファンでなければ、知らない人も多いのではないでしょうか。僕も松浦亜弥さんのファンでなければ知らずにいたと思います。

 スガシカオさんといえば、ブログで松浦さんを絶賛したことが今でも引用されますが、スガさんは、アルバムの中の楽曲を提供している側、大げさに言うと利害関係をお持ちの方ですから、歌唱力を認めてくださっていることは確かだとしても、あまり絶賛、絶賛と取り上げるのもいかがなものかと思いますw

 以前、ふくちゃんさんのブログで、コットンクラブのテイクの半音下げが話題になりましたが、松浦さんのカバーは、スガさんのオリジナルと随分雰囲気が違っています。松浦さんのカバーといえば原曲の良さを生かしているものが多い中で、このカバーは、珍しいと思います。

 スガシカオさんのオリジナルバージョンです。ご本人の云うところによると「俺のソウルフルなナンバー」ということです。松浦さんのテイクと雰囲気は大分違いますが、素敵な曲であることには変わりありません。


  続けて、松浦バージョンです。歌は、44秒からです。


 もともと、松浦さんのカバーは、オリジナルよりテンポがゆっくりになる傾向があるのですが、これは、かなり極端な方だと思います。アレンジとかも随分違うのですが、それよりも僕が気になるのは、「僕」を「わたし」に歌い変えている所なんです。実は、最初このことに全然気が付かなくって、動画に寄せられたコメントを読んでいて初めて知ったんです。

 まあ、確かに、変だと思っていたんですよ。だって、「わたし」が父親のインクの匂いのする手で、殴られるんですよ。次の日まで痛いくらいに。いくら出来の悪い娘だってやり過ぎです。「お前いったい何をしでかしたんだ!」って感じで、聴いていて何となく後味が悪いんですよ。
 スガシカオさんのテイクならば、軽快なリズムで、歌詞は聞き流すような感じになりますが、松浦さんはテンポが遅い分、詞の内容が伝わってきます。そうすると、違和感がより気になってしまうんです。
 
 松浦さんって、例えば、「女Day by Day」でも年齢を歌い変えたりしますけど、それとこれとは、訳が違いますよね。他のカバー曲の中に、もし「僕」の歌があったとしても、全部が全部「わたし」に変えているわけでもないでしょうし。
 ライブのMCによると、スガさんが「云ってくれれば、俺が書き直したのに。」と語ったそうですが、もしかしたらこの不自然な件、殴られた件のことを指して言ったのかもしれません。

 それにしても、何で「わたし」にしたんでしょうか。

 自分を歌の世界に置きたかったのでしょうか。歌の主人公に自分自身がなりたかったのでしょうか。そのために、「わたし」と歌う必要があったのでしょうか。殴られる件での多少の違和感は仕方ないとしても。
 もっとも、彼女は、子どもの頃から、結構厳しく育てられたそうですから、彼女の中では、父親に叩かれるくらいのことでは、違和感など感じなかったのかもしれません。

 僕は、どちらかというと「僕」派です。中途半端に変えるのであれば、そのままでも良かったように思います。父親が娘を殴ることは、松浦家では普通でも、聴かされる方は辛いですからね・・・w

 皆さんはどう思いますか。

2 件のコメント:

korou さんのコメント...

コットンクラブのほうの映像で
daiken depiさんという方がコメントされてますね。
この曲を歌う前のMCで
「父親に平手打ちで殴られたことが何回かあって、
 それをこの歌詞と重ね合わせたとき
”僕”ではなく”わたし”で歌うことにした」
ということだそうです。

多分、この曲を「僕」で歌うと、亜弥さんのなかでは
スガシカオさんの曲のカバーを歌ったという感覚に止まるのでしょう。
「わたし」で歌うことで
自分のオリジナルのような感じで感情を込めることができるのでしょう。

個人的には
このあたりの歌詞 ↓

 まるでこの世界が わたしのことを わたしのだらしない全部を
 何もいわずに抱きしめてくれそうな夜

 誰にもいわず あの日わたしがあきらめてしまった全部を
 それでいいんだって 許せてしまいそうな夜

を自分のこととして感じ入って心を込めて歌うのに
「わたし」という言葉が必須なのであれば
仕方ないかな、と思っています。

さんのコメント...

「道化師のソネット」とか「なごり雪」では、僕のまま歌っています。
「ホームにて」では、歌い変えて、さらにアルバムにも収録したと言うことは、
この曲を自分のもの、
オリジナルのようなものにしたかったということなんですね。

スガシカオ氏が言っている
「俺が書き直したのに」ということが、本気であったのなら、
是非とも実現して欲しかったです。