今回は、兵十の母親の葬式の場面です。この場面の分析については、沢田保彦著「南吉の遺した宝物」に詳しく出ています。ここでは、本文の表現に注目して、進めていきたいと思います。
自筆版です。
【十日程たって、権狐が、弥助というお百姓の家の背戸を通りかかると、そこのいちじくの木のかげで、弥助の妻が、おはぐろで歯を黒く染めていました。鍛冶屋の新兵衛の家の背戸を通ると、新兵衛の妻が、髪をくしけずっていました。権狐は、
「村に何かあるんだな。」
と思いました。
「いったいなんだろう。秋祭りだろうか。でも秋祭りなら、太鼓や笛の音が、しそうなものだ。そして第一、お宮に幟が立つからすぐ分かる。」】
「くしけずる」【梳る】という言葉は知りませんでした。「櫛で髪の毛を梳かす」という意味なんですね。勉強になります。
で、ここで如何にも南吉らしい表現がでてきます。最後の「そして第一、お宮に幟が立つからすぐ分かる。」です。「すぐ分かる」というのは、可愛らしい表現ですよね。自分は村のことなら何でも分かるんだという、権狐の得意そうな顔が目に浮かびます。赤い鳥版では、「第一、お宮にのぼりがたつはずだが。」と普通の表現になっています。
自筆版です。
【こんな事を考えながらやって来ると、いつの間にか、表に赤い井戸のある、兵十の家の前に来ました。兵十の小さな、こわれかけの家の中に、大勢の人がはいっていました。腰に手ぬぐいをさげて、常とは好い着物を着た人たちが、表の、かまどで火をくべていました。大きな、はそれの中では、何かぐつぐつ煮えていました。
「ああ、葬式だ。」
権狐はそう思いました。こんな事は葬式の時だけでしたから、権狐にすぐわかりました。
「それでは、誰が死んだんだろう。」
とふと権狐は考えました。
けれど、いつまでもそんな所にいて、見つかっては大変ですから、権狐は、兵十の家の前をこっそり去って行きました。】
ここにも出てきましたね。「こんな事は葬式の時だけでしたから、権狐にすぐわかりました。」だそうです。狐にだって分かるくらい当たり前のことという表現ですね。いかにも南吉っぽいです。この文は、赤い鳥版では、丸ごと削除されています。
この部分は、珍しく赤い鳥版での書き換えが少ない部分ですが、「腰に手ぬぐいをさげて、常とは好い着物を着た人たちが、表の、かまどで火をくべていました。」を「よそいきの着物を着て、腰に手ぬぐいを下げたりした女たちが、表のかまどで火をたいています。」と書き換えています。
この「常とは好い着物」という表現ですが、単純に考えれば、「野良着より良い」となりますが、これを三重吉氏は、「よそいきの着物」と書き換えています。最近の葬儀は、葬祭会館などで行うので、手伝う事なんてありませんから、皆さん最初から喪服を着てくることが多いですよね。葬式の手伝いに行く時の服装ってどんなでしたっけ?
服装に関する言葉ですが、イメージ的には、「野良着」<「普段着」<「常より好い着物」≦「よそいき」≦「晴れ着」でしょうか。このあたりの表現に沢田保彦氏は、だいぶ拘っています。
しかし、「常より好い」というのは、権狐の目線から出た表現と考えられます。狐にとっては、晴れ着もよそいきも全部まとめて常より好いと思っているのでしょうから、無理に「よそいき」などと書き換えなくても「いつもより好い服を着た」で十分だったと思います。
あと、三重吉氏は「人たち」をわざわざ「女たち」に直してますが、知多半島では、葬式の準備で火を焚くのは、男の仕事だそうです。
自筆版です。
【お正午がすぎると、権狐は、お墓へ行って六地蔵さんのかげにかくれていました。いい日和で、お城の屋根瓦が光っていました。お墓には、彼岸花が、赤い錦のように咲いていました。さっきから、村の方で、「カーン、カーン」と鐘が鳴っていました。葬式の出る合図でした。】
権狐は、一度帰ってから、出直して来ているようですね。葬儀は午前中に行って、出棺はお昼過ぎという葬式のスケジュールや、葬列のルートがちゃんと分かっているみたいです。お城の屋根瓦といい、彼岸花といい素敵な情景描写です。細かいところで云うと、「さっきから、鐘が鳴っていました。」ってところが良いですよね。葬列はゆっくりですから、鐘が鳴ってから、お墓に行って隠れても十分間に合うわけです。
赤い鳥版では、「と、村の方から、カーン、カーンと鐘が鳴ってきました。」と書き換えています。権狐が隠れるのを待っていたかのように葬列が出発した、あるいは、権狐は、ずーっとお地蔵さんの影に隠れていたという描写になります。これはこれで、アリかもしれませんけど、鐘の音を聞いてお地蔵さんへ駆けていく権狐の情景描写の方が、絵になると思います。これって「さっきから、~鳴ってました」を「と、~鳴ってきました。」に変えただけなんですけどね。
自筆版です。
【やがて、墓地の中へ、やって来る葬列の白い着物が、ちらちら見え始めました。鐘の音はやんでしまいました。話し声が近くなりました。葬列は墓地の中へ入って来ました。人々が通ったあと、彼岸花は折れていました。権狐はのびあがって見ました。兵十が、白い裃をつけて、位牌を捧げていました。いつものさつま芋みたいに元気のいい顔が、何だかしおれていました。
「それでは、死んだのは、兵十のおっ母だ。」
権狐はそう思いながら、六地蔵さんのかげへ、頭をひっこめました。】
ここにも、「白い着物がちらちら見えた」という南吉らしい表現があります。ごんぎつねの低い目線から見えるのは、「赤い彼岸花」と「白い着物」の対比された色彩です。赤い鳥版では「白い着物を着た者たちが見えた」となります。文章としてはそれで良いのでしょうが、事実を述べているに過ぎません。
さらに、知多半島の風習では、白装束になるのは喪主や近親者だけで、他の者は黒い服を着るとありました。となると、白装束なのは兵十だけの可能性が高くなります。南吉が書きたかったのは、赤い彼岸花の錦の向こう側を、白装束の兵十が進んでいるという映像なのです。
もう1つ、どっちでも良いことを云うと「彼岸花は、折れていました」が「彼岸花が、ふみ折られていました」に書き換えられています。わざと彼岸花を踏んで歩く奴なんているとは思えないんですけどねw
また、岩滑の葬式では、喪主が「白い裃をつけて位牌を捧げる」のは、目上の葬式の場合で、自分の家内や子どもの葬式では、裃は着けないそうです。そこで、裃を着けていることから、兵十にとって目上の家族、つまり母親(もしくは父親)の葬式となるそうで、権狐の「それでは、死んだのは、兵十のおっ母だ。」の台詞につながるそうです。
権狐は、葬式の支度を見ているときに「誰が死んだのだろう」と考えました。権狐が、兵十の母親の葬式だということが分かったのは、兵十が裃を着けているのを見たからです。決して、兵十の顔が萎れていたからではありません。
そこまで、岩滑のしきたりに精通している権狐って凄いですねwww
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