ちょっと、順番が変わりますが、今回は、この物語の核心部分である、償いの場面を考えていきたいと思います。
兵十の母親の死を知った権狐は、一人(一匹)穴の中で思いを巡らせます。
自筆版です。
【その夜、権狐は、洞穴の中で考えていました。
「兵十のおっ母は、床にふせっていて、うなぎが食べたいと言ったに違いない。それで兵十は、はりきり網を持ち出して、うなぎをとらまえた。ところが自分がいたずらして、うなぎをとって来てしまった。だから兵十は、おっ母にうなぎを食べさせることができなかった。それで、おっ母は、死んじゃったに違いない。うなぎが食べたい、うなぎが食べたいと言いながら、死んじゃったに違いない。あんないたずらをしなけりゃよかったなー。」
こおろぎが、ころろ、ころろと、洞穴の入口でときどき鳴きました。】
赤い鳥版も此所のところは、大体同じようなものです。ただ、自筆版では、権狐は自分のことを「自分」か「俺」と言いますが、赤い鳥版では、「俺」と「わし」です。「俺」と「僕」などは、併用したり、使い分けたりすることもありますが、「俺」と「わし」を併用する人は、いませんから、ここは、どちらかに統一した方が良いかなと思います。
あと、自筆版は「鰻が食べたいと言いながら死んじゃった」ですが赤い鳥版は、「思いながら死んじゃった」です。言いながら死ぬというのは、もの凄い場面ですね。死ぬ間際の言葉が、鰻が食べたいですから。この部分に関しては、珍しく赤い鳥版の方が、ソフトな表現になっていて面白いところです。
で、「こおろぎ」の部分は・・・当然カットですw
自筆版です。
【兵十は、赤い井戸の所で、麦をといでいました。兵十は今まで、おっ母と二人きりで、貧しい生活をしていたので、おっ母が死んでしまうともう一人ぽっちでした。
「俺と同じように一人ぽっちだ」
兵十が麦をといでいるのを、こっちの納屋の後から見ていた権狐はそう思いました。】
「赤い井戸」って分かりますか。これ井戸囲いに常滑焼の土管を使っている井戸なんですよ。半田の隣が、焼き物で有名な常滑です。常滑では、昔から焼き物で土管を作っていて、商品にならなかった土管をブロック代わりに再利用してます。この常滑焼の赤い土管を井戸囲いに使うという記述は、「牛をつないだ椿の木」にもでてきます。だから、絵本で木枠の赤い井戸が描かれている本は、勉強不足ってことですw
ここで、重要な記述は、「俺と同じように一人ぽっちだ」というところですよね。
権狐が、盗んだ鰯を兵十の家に投げ込む場面です。自筆版です。
【いわし売りは、いわしのはいった車を、道の横に置いて、ぴかぴか光るいわしを両手でつかんで、弥助の家の中へ持って行きました。そのひまに、権狐は、車の中から、五六匹のいわしをかき出して、また、もと来た方へかけだしました。そして、兵十の家の背戸口から、家の中へ投げこんで、洞穴へ一目散に走りました。はんの木の所で立ち止まって、ふりかえって見ると、兵十がまだ、井戸の所で麦をといでるのが小さく見えました。権狐は、何か好い事をしたように思えました。】
いきなり、栗を持って行くので無く、その前に「鰯」の場面があるというところが、この物語が良くできているところだと思います。
自筆版はこのように続いています。
【次の日には、権狐は山へ行って、栗の実を拾って来ました。それを持って、兵十の家へ行きました。背戸口からうかがって見ると、ちょうどお正午だったので兵十は、お正午飯のところでした。兵十は茶碗をもったまま、ぼんやりと考えていました。変な事には、兵十のほっぺたに、すり傷がついていました。どうしたんだろうと、権狐が思っていると、兵十が独言を言いました。
「いくらかんがえても分からない。いったい誰がいわしなんかを、俺の家へほりこんで行ったんだろう。おかげで俺は、盗人と思われて、あのいわし屋に、ひどい目に合わされた。」
まだぶつぶつ言っていました。
権狐は、これはしまったと思いました。かわいそうに、あんなほっぺたの傷までつけられたんだな。権狐は、そっと納屋の方へまわって、納屋の入口に、持って来た栗の実を置いて、洞に帰りました。次の日も次の日もずっと権狐は栗の実を拾って来ては、兵十が知らんでるひまに、兵十の家に置いて来ました。栗ばかりではなく、きのこや、薪を持って行ってやる事もありました。そして権狐は、もういたずらをしなくなりました。】
赤い鳥版では、「いわし屋の奴にぶん殴られて」という記述になるのですが、自筆版では、「いわし屋にひどい目にあわされた」とあるだけです。兵十は、ほっぺたに「すり傷(かすり傷)」をつけていますが、殴られて受ける傷は、打撲ですから、「おでこにたんこぶ」みたいな記述が良いかと思います。「ひどい目」を読者(この場合は、子供たち)に分かり易いように「ぶん殴られた」と書き換える一方で、「かすり傷」は、そのままにするという不徹底なところが気になります。って云うか、「ひどい目」で十分だと思います。あと、いわし屋には、罪は無いんで、いわし屋の「奴」なんて言われる筋合いはないかと・・・w
権狐が持って行く物について、「栗ばかりでなく、きのこや、薪を」とありますが、赤い鳥版では、「栗ばかりでなく、松茸も二,三本」となって、キノコと薪が、松茸に変わります。知多半島では、松茸は採れないというツッコミも可能なんですが、山で松茸を見つけて、大事そうに持って行く権狐を思い浮かべると、何とも可愛い感じなんで、僕は、これは良しとしますw
ただ、薪を持ってくるという記述は、素朴で捨てがたいですよね。償いのメインは、栗でなく薪でも良かったかなって思うくらいです。
今日の本題は、栗は鰻の償いであるのかという問題でしたね。で、普通は、云うまでも無く「償いである」となります。赤い鳥版では、鰯を投げ込んだ時に、「ごんは、鰻のつぐないに、まず一つ、良いことをしたと思いました。」と書いてあるからです。まず1つ目が鰯なんですから、その後の栗も松茸も、つぐないの延長線上の行為と考えるのが普通です。薪を松茸に改作したのも、鰻との釣り合いを考えてのことでしょう。
ところが、自筆版では、「権狐は、何か好い事をしたように思えました。」とあるだけです。償いという直接的な表現が無いこともそうなんですが、「好い事をしたように思える」という記述がなんとも微妙です。権狐は、自分の行為について、自分でも上手く説明ができず、ただ、おこなった後の心地良さだけを味わっているんです。
確かに、鰻の件で権狐は反省し、一人ぼっちになった兵十に共感していますけど、鰻を盗んだことを償うとは書いてない。兵十に好いことをしてあげようと思っているんです。「よい」っていうのは「好い」「善い」「良い」ってありますけど、正に「好い」なんですよね。今度は、兵十に好かれるようなことをしたい、ということです。
プレゼントって、受け取るより、渡す立場の方が楽しいし、人に尽くされるより、尽くす方が、より幸せを感じることがあると思います。
権狐も、初めて尽くす相手を見つけたんです。もちろん、鰻を盗んだことの罪滅ぼしの気持ちもありますし、同じ一人ぼっち通しという連帯感もあるでしょうけど、好いことをしているときの心地よい思いを知ったのだと思います。
だから、この後に「そして権狐は、もういたずらをしなくなりました。」となるんです。悪戯をやめるのは、鰻の件を反省したからで無く、悪戯よりも楽しいことを見つけたからだったんです。
僕は、最初、何で此所にいきなりこんな文が入ってくるのか分からなかったんです。三重吉氏もこの文を削除しているんですが、僕も、この文が物語の流れに沿っているとは思えなかったんです。普通は、「鰻の件を反省」→「悪戯をやめる」→「償いをする」っていう流れでしょうから、この文を入れるとすれば、穴の中で反省した次に入るのが普通だと思っていました。でも、南吉にすれば、この文は、此所に入れるべきものだったんです。
不思議なことが続いた兵十は、このことを加助に話します。加助は、それは神様の仕業だから、神様にお礼を言うがいいと答えます。
自筆版です。
【権狐は、つまんないと思いました。自分が、栗やきのこを持って行ってやるのに、自分にはお礼言わないで、神様にお礼を言うなんて。いっそ神様がなけりゃいいのに。権狐は、神様がうらめしくなりました。】
赤い鳥版です。
【ごんは、「へえ、こいつはつまらないな。」と思いました。「俺が、栗や松茸を持っていってやるのに、その俺にはお礼を言わないで、神さまにお礼を言うんじゃあ、俺は、引き合わないなあ。」】
ここの記述については、償いの気持ちで始めたことにもかかわらず、感謝して欲しいと願う権狐の身勝手さということになっています。特に「つまんない」という記述で、権狐って偉いと思ってたのに案外、見下げた奴だなあ、ってことになってしまいます。
赤い鳥版では、「償い」を強調してしまったことと、「神様がいなけりゃあ」という表現を憚って「俺は引き合わないなあ」と書き換えたことで、「止めちゃおうかなぁ」ってイメージが強く出てしまいます。
でも、権狐にとって、栗は賠償でなくてプレゼントです。秘密のプレゼントなんで、贈り主が分からないのは仕方ないとしても、無関係な人と間違えられたら厭ですよね。で、神様がいなけりゃあになる訳です。贈り主がずっと分からないままの方が、まだマシなわけです。何もしないのに感謝される神様に嫉妬しているわけです。決して、損得勘定でものを云っているわけではないんですよね。
昭和初期という時代に「神様」について記述することは、デリケートなことだったでしょうから、「引き合わない」と書き換えた三重吉氏の行為も理解できますし、上手いこと書き換えたなって思いますけど、やっぱり損得勘定が出てしまいます。
まあ、三重吉氏の書き換えをどうこう云うよりも、そうせざるを得なかった時代を悲しむべきなんでしょうね。
0 件のコメント:
コメントを投稿