もちろん、納得の意見もあります。方言の排除が正義であった、当時の国語教育の現状を考えれば当然のことですし、情景描写の分かり易さ(僕的には、品性を欠いた表現と、オヤジギャク的なユーモアですが)も向上していると思います。もっとも、文章の添削というのは、後出しジャンケンみたいなものですから、直す側がよくできて当たり前なんですけどね。
ただ、自筆版のファンからすれば、{?}なところも満載で、例えば、自筆版に、ごんが償いに薪を持ってくるところがあるんですが、これが赤い鳥版では削除されてるんです。この理由を「薪を持ってくるというのは擬人化のやりすぎであるから削除が適当」としているんですけど、木の枝や棒くらい狐は口にくわえて持ってきます。それだったら、自筆版で「栗を拾って持って行きました」ってところを「栗をどっさり拾って、かかえて持って行きました」って書き換えた三重吉氏の方が、よっぽど擬人化をやりすぎていると思うんですけどねw
結論としては、「ごん狐は、三重吉の手によって地域性を失う一方で,より普遍的な物語性を獲得して読者市場を流通する文学テクストに変換されたのである。」だそうです。
要は、「昔々或る処」の話に書き換えたってことを評価しているのでしょうけど、「ごんぎつね」の普遍的な物語性は、三重吉氏が、知多半島の方言を品の無い江戸っ子言葉に直したり、「納屋」を「物置」に書き換えたりしたから獲得できたとは思えません。ごんぎつねが広く指示されたのは、その表現方法の巧みさでは無くって、ストーリーからだと思います。ストーリー構成については、三重吉氏は、指一本触れていないわけで、ごんぎつねは、直しても直さなくても素晴らしい物語だったと思うんですけどね。
では、今日の本題です。権狐とは、いかなる狐かを考えていきたいと思います。いきなりですが、記念館のキャラクター「ごん吉くん」です。
自筆版です。
【その頃、中山から少し離れた山の中に、権狐という狐がいました。権狐は、一人ぼっちの小さな狐で、いささぎの一ぱい茂った所に、洞を作って、その中に住んでいました。そして、夜でも昼でも、洞を出ていたずらばかりしました。畑へ行って、芋を掘ったり、菜種がらに火をつけたり、百姓屋の背戸に吊してある唐辛子をとって来たりしました。】
赤い鳥版です。
【その中山から、少しはなれた山の中に、「ごんぎつね」というきつねがいました。ごんは、ひとりぼっちの小ぎつねで、しだのいっぱい茂った森の中に穴をほって住んでいました。そして、夜でも昼でも、辺りの村へ出ていって、いたずらばかりしました。畑へ入って芋をほり散らしたり、菜種がらの、ほしてあるのへ火をつけたり、百姓家の裏手に吊してあるとんがらしをむしり取っていったり、いろんなことをしました。】
権狐がどこに住んでいたのかという問題は、岩滑の町おこしにも関わる重要な問題です。一般的には、新美南吉記念館から見て北側、矢勝川(背戸川)の向こうに見える権現山(ただし川が境界線なので、此所は、半田市岩滑では無く、隣の阿久比町になる)と考えられています。確かに、記念館前の公園に立ってぐるりと見回すと、権現山は良く目立ちます。でも、戦前の風景は、今とは異なっていたでしょうから、狐が棲んでそうな山は、他にもあったのかもしれません。童話だから、そんなの何処でも良いだろうって思うかもしれませんけど、南吉の作風からして、必ず設定された場所があるはずです。
沢田保彦氏は、権狐の洞を中山の城の近くに設定しています。権狐が川を渡っている描写が無いことのがその根拠のようです。場所的には、記念館の裏にある森、記念館と焼きたてパンが有名でいつもお客が絶えない「パンのとら:半田店」に挟まれた辺りでしょうか。しかし「少し離れた山」という記述を考えると、やはり、記念館から直線で600mほど北側にある、権現山が第一候補のように思います。権現山は、山といっても、比高は32m。こんもりと木が茂っている丘みたいなものです。
自筆版では、権狐は「一人ぼっちの小さな狐」とありますが、赤い鳥版では「一人ぼっちの小ぎつね」になっています。狐は繁殖期以外は、単独で行動するから一人ぼっちは当たり前だそうですけど、そう云う問題じゃあないですよね。「一人ぼっち」は権狐のプロファイルには、絶対必要な言葉です。ここは、三重吉氏もちゃんと分かってくださってます。ただ「小さな狐」ならば「小ぎつね」で良いだろうって感覚だとしたら、ちょっとがっかりですw
「小ぎつね」は「子ぎつね」に通じる言葉なんで、どうしても「幼い狐」「可愛い狐」という印象がつきまとってきます。ここでは、「小さな」という中に有る「ちっぽけな存在」「とるに足らないもの」という意味が重要になってきます。「小ぎつね」にしてしまうとその辺が弱くなってしまいますから、ここは、やはり「小さなきつね」のままにして欲しかったですね。
あと「洞」が「穴」になってますけど、これは良しとしましょう。先の論文では、「洞は岩や大木にできた空洞をいうので,洞を作ったは誤りと考えられ、穴に改められた。」と分析しています。確かに「洞を作る」というのは、違和感有りますけど、恐らく、南吉は「洞は横に広がるもの」「穴は下に広がるもの」と考えていたと思います。
南吉は、「洞」ともう1つ「洞穴」という記述をしているところもあるんですけど、これは、「穴」と書き換えたところと「ほらあな」とそのままで書き換えていないところがあって、考えが有ってのことかもしれませんけど、三重吉氏も意外と適当なんだなって思いますw
で、その洞(穴)がある所なんですが、「いささぎの一ぱい茂った所」となっています。この「いささぎ」ですが、「ヒサカキ」の方言だと云うことです。「ヒサカキ」は、仏壇やお墓に供える、僕らの地方で云うところの「仏さんの木」です。そんな木の下に洞を作るというのも意味深ですが、権現山には、「ひさかき」が沢山あるそうですから、地元の人たちが、お墓参りの季節になると、権現山へ仏さんの木を取りに行っていて、南吉少年もそのことを知っていたという推理も可能になります。やはり、権狐は、権現山に棲んでいたのでしょうか。
赤い鳥版は、「しだのいっぱい茂った森の中」になっています。方言を直すのであれば、「いささぎ」を「ひさかき」にすれば十分なんですが、子供は「ひさかき」なんて知らないだろうということで、シダに変えたのでしょう。どうも、三重吉氏は、権狐の住んでいるところを「ある程度大きな山の奥の薄暗い森の中」に設定したかったようです。そのほうが、権狐の孤独感が強調されると考えたのでしょう。ただ、権狐が、村に悪戯をするためにはるばる山奥からやって来るという設定では、村のことにやたら詳しいことが不自然になります。やっぱり、権狐は村人の近くで、村の営みを感じながら生きていたと思います。「離れて暮らす」より、「近くにいるのに関われない」方が、孤独感が強いと思いますが如何でしょうか。
最後に権狐の悪戯が具体的に書かれています。赤い鳥版では、「掘る」→「堀り散らす」、「取る」→「むしり取る」というふうに表現が強調されています。「散らす」を加えて「堀り散らす」としただけで、畑全部を滅茶苦茶にしてしまったような印象を与えます。権狐1匹のせいで、村がメチャメチャにされているかのようにも受け取れます。さらに「いろんなことをしました」と付け加える念の入れようです。こういうところは、さすが文学者って感じなんですが、あまり強調し過ぎると前回紹介したような「ごんは、殺されて当然」みたいな感想を引き出してしまいますし、第一、そんな危険な狐は、兵十が手を下す前に、誰かがとうに撃ち殺しているでしょう。
では、何故、南吉は「掘る」とだけにしたのでしょうか。
1つは、狐の獣害の実態に合わせているのではないかと思います。狐は、肉食が基本ですが雑食性だそうで、餌不足の時は、畑の芋を食べることもあるそうです。また、沢田保彦氏によると、菜種殻は、自然発火することがあるそうで、これを土地の人たちは、「狐火」と読んでいたそうです。
もう1つは、南吉は、権狐をそこまで悪者にするつもりが無かったのでは、と思います。南吉の設定では、兵十が権狐を撃ったのは、偶然が重なった悲劇です。ラストシーンでの兵十の台詞は、自筆版も赤い鳥版もどちらも同じ「ようし」ですが、込められている気持ちは、異なります。赤い鳥版は、「ようし、ぶっ殺してやる」ですが、自筆版は「ようし、懲らしめてやる」です。銃を使ったのは、偶然に過ぎません。兵十は、懲らしめることができれば、使う物は、石でも棒でも良かったんです。
南吉は、権狐が、一人ぼっちであることと、悪戯好きであることが、読者に伝われば十分だったのではないでしょうか。
三重吉氏は、物語を面白くするために必要だと思い強調した。南吉は実態に合わせたので強調しなかった。馬鹿馬鹿しいほど当たり前の結論で、今日は、お終いです。
0 件のコメント:
コメントを投稿