でも、ミクだって、たくさんのカバー作品がアップされているんですよ。
今回、いきなりこの話題を取り上げさせていただいたのは、NHKでこの曲が流れているのを久しぶりに聴いて、4年前のことを思い出したからなんです。
で、このブログの趣旨とは全然関係ない話ですけど、ミクのテイクを貼り付けたことで勘弁して下さいww
僕は、少し前まで、仏像鑑賞が趣味だと公言してました。北は岩手から南は大分まで、全国約300ヶ寺を巡り、日本の主だった仏像は、だいたい拝観させていただきました。で、NHKで「花は咲く」が流れているのを久しぶりに聴いて、2011年の4月中旬に、福島・宮城・山形・岩手と仏像巡りをしたことを思い出しました。震災の約1ヶ月後のことです。
東北自動車道は、まだ仮復旧中で全線50km制限でした。道路も所々応急処置の状態でしたが、誰も速度制限なんて守っていません。みんな100km出してました。段差があると車がものすごくバウンドしました。でも、50kmで走る方がもっと危険だったので、僕も流れに乗って行きました。もっとも走っているのは、自衛隊か災害派遣のトラックばかりでしたけど。
高速道の両側には、ブルーシートをかぶせた家が並んでいました。そして、何よりも印象的だったのは、周囲の山々で満開に咲いている山桜の美しさでした。ほとんど人影のない福島の里山で、山桜は見事なまでに花を咲かせていたんです。僕は、そのブルーとピンクの景色が交互に現れる高速道路を、車体を跳ねさせながら北へ北へと進んでいきました。
訪れた街の1つ、水沢では、北上川に架かる5つの橋のうちの3つが通行止めになっていました。黒石寺の収蔵庫で記帳をした時、僕は、自分が震災後の最初の訪問者であることに気づきました。薬師如来は、4月にあった震度6の余震のため、台座からずれ、左に回転していました。「勝手に動かすわけにもいかないから、そのままにしているんですよ」と住職は笑いました。
狭い収蔵庫の中で、貞観4年(862年)につくられ、貞観の大地震も体験しているという薬師如来と向き合いながら、僕は、「触ったら怒られるかな」なんて不謹慎なことばかり考えていました。この如来が作られたのは、阿弖流為の反乱から僅か60年後。1150年もの間、この地を守り続けていた如来は、今まで拝してきたどの薬師如来よりも厳しいお顔をしていました。
黒石寺の前を通る国道は陸前高田や大船渡へと通じていました。遺体を運ぶ車が、毎日毎日たくさん通り過ぎていったと聞きました。火葬場がいっぱいなので、遠く北上の方まで焼きに来ているのだと聞きました。
陸前高田まで行ってみようかなんて話が出ました。
「とんでもない」住職の顔が急に厳しくなりました。僕は最初、物見遊山の浮ついた気分を諫められたのだと思いましたが、そうではないことに気がつきました。その言葉は「死の世界への恐れ」から出ていたのでした。
日本人である以上、東日本大震災の影響は誰もが受けていると思います。ただ、僕は、いくら頭で考えたところで、東北の人たちの本当の気持ちを理解することはできないのではないか、と思いました。
拝観を終えて立ち上がった瞬間・・・この如来は泣いているのではないか。
僕には、長い間、人々から威厳に満ちた面相と表現されてきた如来のお顔が、泣いているように見えました。震災があったから泣いているのではない。如来は、この地で、1150年間、ずっと泣いていたのではないかと。
広い駐車場に、ぽつんと止めてある、車に向かって歩いていたとき、僕は、その周りの木が、桜であったことに気がつきました。
黒石寺の桜は、まだ早いようでした。
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