僕が出ていたのは、50MHz帯、6mバンドと呼ばれている周波数でした。アンテナは、最初は、6エレ八木、後にSQ(スイスクワッド)。無線機は、ナショナルのRJX -661でした。661は、当時は、珍しかったオールソリッドステート、いわゆる真空管を1本も使っていないタイプの無線機でした。逆に言えば、この頃まで無線機には、まだ真空管が使われていました。当時は、高周波高出力型トランジスタの動作がまだまだ不安定だったので、トランジスタ化が進む中でも、最後の出力管だけは、真空管に頼っていたからだと思います。
で、試しにYouTubeで検索してみたらありましたよw これです。
結構、デカいでしょ。でも、これって中はスカスカなんです。つまみもたくさんありますけど、ほとんどは、一度調整すれば動かす必要のないやつです。今と違って、当時は、松本零士の漫画のみたいに、デカくて、つまみやメーターがたくさんあるのが格好いいっていう時代でしたから。
50MHzは、超短波ですから世界中の仲間と交信というわけにはいきませんでしたけど、「Eスポ」 が発生した時などは、それはもうお祭り騒ぎで、北は北海道から、南は、沖縄まで交信することができました。部屋の壁に大きな日本地図を貼って、交信した都市には、ピンを刺したりして、一人で悦に入っていました。47都道府県制覇できたかどうか忘れてしまいましたが、100都市以上とは、交信していたはずです。
今は名称が変わってしまったようですが、電信級(モールス信号)のアマチュア無線技士の資格もとりました。僕は手打ちで、トンはできるだけ短く、ツーは少しだけ長めに打つようにしていたんですけど、ある時、ベテランの無線局長さんに、「君の信号は綺麗だな。」なんて褒められて、めちゃめちゃ嬉しかったことを覚えています。
そうです、思い出しました。当時の僕の特技は、「綺麗なモールス信号を打つこと」でした。
ローカル局同士でラウンドを組んで、徹夜でたわいもないことを延々と話しました。今で云うと「ライン」みたいなものでしょうか。でも、公共の電波でやってるんで、誰でも自由に割り込めましたし、誰でも自由に傍受してました。ネットの繋がりより、ずっとオープンで健全だったように思います。
仲間と実際に会う「オフ会」のルーツも、アマチュア無線にありました。だいたいの場所だけ分かれば、家を訪ねるのは、簡単なことでした。だって、家には、必ずアンテナが立っていましたから。ネットは文字だけの付き合いですが、無線は声だけの付き合いです。実際に会ってみると、ほとんどの場合、局長さんは、声からイメージしていた人物と全く違っていました。
実際に会っている時でも、お互いはコールサインで呼び合っていました。ローカルの無線仲間(ちょびっと不良で暇な大学生たち)と集まって、トラックに無線機とアンテナを積み込んで、キャンプしながら移動運用したこともあります。晩熟な高校生だった僕にとって、年上の大学生との遊びは、刺激的でもありました。
僕のアマチュア無線人生は、その後、両隣の家のテレビに電波障害が出て、あっけなく挫折してしましましたが、今でも、町を歩いていて、アマチュア無線のアンテナを立てている家を見つけると、昔のことを思い出して懐かしくなります。
アンテナは、無線局のシンボルです。アンテナを見れば、そこの局長さんがどのくらい熱心で、技術力があるのか大体分かります。無線屋にとって性能の良いアンテナを立てることは、最大の夢であり、相手がどんなアンテナを使っているかは、最大の関心事でした。
だから、僕だって、最初に、無線機より、アンテナの方を先に紹介してたでしょ。これが、一端の無線屋気取りってやつなんですよwww
2 件のコメント:
本当に私は詳しく無いです。
記事を読んでいて兄を思い出しました。
兄は屋根より横幅がデカイようなアンテナを立てようとして亡き父に怒られていたのが思い出されます。
兄は成人して免許を取ったのですがコールサインがJKでした。
大sansanさんJEは勿体なかったですね。
コメントありがとうございます。
こんな独りよがりの昔話を、読んでくださっている方がいると分かっただけでも、感動しております。
僕も最初に立てた八木アンテナは、隣の家の敷地まではみ出していましたw。
なので、コンパクトなSQに途中から変えたんです。
高校生でしたが、友だちが集まってきて、皆でアンテナを立ち上げたんですよ。
今思うと、子どもだけでよくやったなと、自分でも感心してしまいます。
コメントを投稿