「日出処の天子」は、1980年から1984年にかけて連載された、厩戸皇子(聖徳太子)を扱ったコミックです。ホントか嘘か、それまで「聖徳太子」と一般的によばれていた「厩戸王」を「厩戸皇子」と呼ぶように変わっていったのは、本作品の影響があるとされています。現在では、歴史の教科書でも、厩戸王(聖徳太子)となっていて、呼び方は完全に逆転しているようです。
僕が、この作品に出会ったのは、連載も終わりに近づいた頃で、最後の2、3巻ぐらいをリアルタイムで求めた記憶があります。最後の11巻は、ビックリするくらい薄くって、結末に行き詰まった作者が、途中で放棄した感が伝わってきました。何か特別な事情があったような気がしましたけど・・・、忘れてしまいました。
(補足:最終巻には、続編である「馬屋古女王」を載せる予定だったのだが、間に合わなかったらしい。)
で、コミックは、実家に置いてあったんですけど、家を建て替えるときに処分してしまって、今、手元にあるのは、改めて買い直した文庫版になります。
あらすじは、ウイキペディアの記述が大変よくまとまっているので、そちらを参照いていただければと思います。作品の解釈や書評も、ネットで検索すると嫌と云うほど引っかかってきます。ですから、僕が今更書くことなど無いのですが、それでも語りたくなるのが、この作品なんですよね。
この作品の特徴は、物語が「蘇我毛人」の視点で描かれているところにあります。前半部分では、読者は毛人と共に、厩戸皇子が持つ神秘性の正体を推察していきます。作品中に書かれている文字の大部分は心の声です。ほとんど、心理描写だけで、物語は進んでいくのです。
歴史物というと、史実の解説に多くを費やしますが、この作品にとって、史実は単なる舞台の提供者に過ぎません。
美貌の少年であり超能力者、同性愛者として描かれている厩戸皇子像について違和感を唱える人は、かなり多かったと思います。毎日新聞の捏造記事事件も、奈良支局の若い記者が「法隆寺は、こんな聖徳太子像に対しては、必ず抗議するだろう」という思い込みでストーリーを構築してしまったために起きた事件でした。
漫画家の池田理代子さんは、この厩戸皇子像を批判して、「聖徳太子」を題材にした作品を1991年から1994年まで連載します。池田さんは、2007年の朝日新聞のインタビュー記事で、山岸さんの描く厩戸を違和感が多いとし、正す意味でこの作品を描いたと発言しました。僕も当時、この記事の切り抜きを見ましたが、かなりのインパクトがありまして、山岸ファンからの猛烈な反撃を受けることになります。
まあ、その記事の影響で、僕も、池田理代子さんの「聖徳太子 文庫版全5巻」を持ってますんで、炎上セールスにまんまとのせられたってことなんですけどねw
池田さんの作品が単独で存在していれば、十分にこれもアリなのですが、山岸さんの作品の対として捉えた場合、あまりにも影響を受けすぎている感があります。
歴史物を描く場合、史実や定説に沿っただけでは、ただの学習漫画に過ぎませんから、当然、作者の解釈を加えるわけなんですけど、肝心なそこの部分で、自らが正すと宣言した相手に影響されて、引きずられてしまっているんですよね。山岸ファンからのパクり疑惑攻撃も一理あるっていう感じです。
この騒ぎで、池田さんの作品も売れたかもしれませんが、彼女の勇み足とも云える発言のために、失ったものもあるように思います。
さて、物語が進むにつれて、厩戸の人物像が明らかになっていきます。物語の最初では、読者にまで畏怖の念を抱かせた厩戸ですが、彼もまた、自らの能力に翻弄され苦悩する孤独な青年に過ぎなかったことが分かってきます。話が進むにつれて、厩戸の神秘性は薄れ、そして、秘めた想いの全てを声に出してしまった時の何とも云えない虚脱感で、この物語は終わっていきます。毛人に全てを拒否された厩戸にとっては、摂政となり国を動かすことでさえ、ただの気休めに過ぎませんでした。
物語の幕引きというのは、難しいものです。山岸さんも終盤になって連載を一回パスしていますので、かなり結末に悩んでいたと予想されます。
文庫本には、日出処の天子の続編としての「馬屋古女王」が併せて収録されています。薄っぺらい11巻で満たされなかった結末をフォローする意味でも、この続編の存在は重要です。多くのファンが語っているように、日出処の天子は、ここまで読んで完結なのだと思います。
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