プレッシャーバトル(プレバト)というバラエティ番組がある。特にファンと云うわけでもないのだが、何年もダラダラと見続けている。番組の中核は俳句のコーナーで、初めの頃は、なるほどと感心しながら見ていたのだが、最近はマンネリ気味だ。でも、習慣で見てしまう。先日も習慣で見ていたら、「岩永徹也」君がボーカロイドを詠んだ句を発表していた。マルチな才能を持つ彼は、作曲にも取り組んでいるとのことで、作曲支援のツールとして、ボカロ・キーボードを使っているようだ。岩永君のこのようなボーカロイドの使い方は、開発時に想定されていた正に王道なのであって、細やかではあるが、メディアに紹介されたことは嬉しい限りである。
で、岩永君が詠んだ句がこれである。
「色のなき風やボカロのラブソング」
梅沢さんは「色のなき風や」がどうも気になっていると云い、季語本来の形である「色なき風や」にしなかったことを指摘された。また、夏井先生は「ボカロ」を知らなかったとのことで、ボーカロイドという言葉の省略形を使用したことの善し悪しの判断を保留された。司会の浜ちゃんは、ボカロも初音ミクも何も知らなかった。プレバトでは、番組のBGMでボカロ曲をたくさん使っているのが特徴なんだけど、それを何も知らないってことは、彼は収録後の番組を全然チェックしていないってことなんだろう。フジモンさんは、ボカロ=バーチャルアイドルというイメージで捉えられているようだった。
この番組は、夏井先生の添削が最大のウリで、時には、ヤラセではないかと思えるほどの見事な添削を披露してくださるのだが、今回のように知らないことは知らないと云い、周囲の人に教えを請い、判断しかねるときは保留するという態度は素晴らしいと思った。
夏井先生の添削された俳句がこれである。先生は、直すと云うよりも、普通はこうなるというスタンスで発表されたように思う。
「色なき風やボーカロイドのラブソング」
季語の「色なき風」は、平安時代の短歌にも見られる、古い季語なんだそうだ。五行思想を季節に当てはめて、青春、朱夏、白秋、玄冬と云う言葉が生まれた。秋のイメージカラーは「白(透明)」とされ、そこから秋の風を色なき風と表すようになったらしい。
代表的な歌が、「新古今集」に収録されている久我太政大臣雅実が詠んだ歌。
物思へば色なき風もなかりけり 身にしむ秋の心ならひに
なんだそうだ。
普通は、「秋風や」とか、「秋の風」とするところを、「色なき風」としたのは、岩永君の博学であり、お洒落なところで、900年以上前の歌にも使われている季語を、ボカロという現代・近未来的なものに合わせたところが、この俳句の面白さである。
岩永君は、ボカロのラブソングは、心の無い無機質な冷たい歌であり、そこから、色なき風を連想したと説明していた。無色透明なボカロの歌に、如何に色づけをしていくかが、ボカロPの腕の見せどころなんだと思うのだが、ボーカロイドをツールとして捉えている岩永君には、ボカロに対して、そういう想い入れは無いのだろう。
岩永君の決定的なミスは、季語を「色のなき風」としたことである。何故「の」を挟んでしまったのだろうか。僕は、ボーカロイドをボカロと省略したことと関連があるように思う。夏井先生は、ボカロという省略形を使ったことの是非を保留した。どちらでも良いのならば、ボーカロイドのままで良かったと云うことなのだが、ボーカロイドとボカロの語感は微妙に違う。
「ボーカロイド」と省略しない場合は、コンピューターに歌わせる技術そのものを表すのに対して、ボカロと云ったときは、(ヲタク)文化的な意味が強調されるように思う。岩永君が「色なき風」と合わせたかったのは、ヤマハのエンジニアが心血を注いで開発したボーカロイドでは無く、ヲタクが喜んで聴いているボカロなのであって、紛い物のラブソングを表すのは、やはり「ボカロのラブソング」の方がしっくりする。で、結局、ボカロにこだわって、歌のリズムを合わせようとした結果、「色のなき風」となったんだと思う。俳句の季語よりもボカロの方に強い思いを持つ僕には、夏井先生の添削作品よりも、岩永君の歌の方がしっくりくる。
「色なき風や○○○ボカロのラブソング」
「色なき風」と「ボカロ」を取り合わせて、僕なりに直してみようと思ったのだが、上手くできるわけもなかった。この辺の事情が夏井先生に上手く伝わっていれば、きっと素敵な三文字を入れてくれたに違いない。
ボカロのラブソングを貼り付けさせていただいてお終いにしようと思う。槇原敬之氏の「もう恋なんてしない」で如何であろうか。もう御本人がメディアに出てくることも無いと思うので、せめて、色なきボカロのラブソングを。
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