タイムワープに関する思想は様々で、相反するような概念も存在する。だから、物語を構築するにあたり、どの世界観を採用するのかは、大切なことだ。では、「時をかける少女2016」では、どの様な思想が使われているのだろう。(一応、ネタバレありですけど、内容的には取り留めも無い雑感です。)
「アシガール」のように時間差が何百年になる物語と比べ、「時かけ」のような短いスパンのタイムリープは綻びが出やすい。
例えば、自分が存在している過去にタイムリープした場合、過去の自分はどうなるのであろうか。時かけ2016では、同時に2人の自分は存在していないから、過去の自分と入れ替わるという設定のようだ。ただし、これだと、自分が子どもだった頃にタイムリープした場合は、子どもとなって現れなければならないが、7年前にタイムリープしたときは、現在の姿のままだった。つまり、11才の芳山は、存在し続けていたということであろうか。複数の異なるタイムリープの思想が、都合良く使われていることの好例である。
第5話では、過去にいる人物に話しかけ、その人の行動をわずかにズラすことによって、出会うべき人と出会わなくなり、その後の人生を大きく変えるという場面が出てくる。これは、バタフライ効果と言われているタイムトラベルの思想だが、これを採用しているのであれば、頻繁にタイムリープをしている芳山は、過去に多大な負荷を与えていることになり、その後の時空に大混乱が起きていなければならない。
このように、タイムリープは、その概念自体が矛盾をはらんでいる以上、どんなに丁寧な論理構築をしても綻びは必ず出る。タイムトラベルの物語で、論理的矛盾を指摘するのは容易いし、見つけたとしても何の自慢にもならない。重要なのは、ストーリーとの兼ね合いである。ある程度の思想の統一性は必要だとしても、物語が面白ければ、視聴者は多少の違和感なんてスルーしてくれるはずだ。
「時かけ2016」には、様々なタイムトラベルの思想が混在していて、芳山は、おもちゃ箱で遊ぶ子どものように、タイムリープをしまくる。
それにしても、芳山のタイムリープの使い方は度を過ぎている。やりたい放題にも程がある。ドラマのキャラクター設定は、アニメ版に近いと云うことだが、まあ、あれだけ天真爛漫な女子高生に、この能力を与えれば、こうなるだろうって予想は付くけれども、使用制限を付けた方が良いんじゃないかってくらい酷い。
タイムリープによる結果は、分岐型パラレルワールドではなく、時間の上書きに近い。同時期に複数のタイムリープを行った場合は、最も新しい結果だけが、記憶されていくようである。(ただし、タイムリープした者だけは、全ての記憶を保持している。)これは、「サクラダリセット」で云うと、浅井ケイの「記憶保持」と春埼美空の「リセット」(しかも制限無し)の能力を一人で身につけているようなもので、最強の能力と云える。
芳山がタイムリープしている間、現在の彼女は消滅し、時空は、彼女が存在しないまま進んでいる。彼女が過去から帰らないまま、時間がタイムリープした時点まで進んだ場合、先行している時空はどのように存在しているのであろうか。
時空が上書きされるという思想が矛盾無く展開できるのは、タイムリープした本人の視点からだけであり、そういう意味では、極めて自己中心的な思想であると云える。
さて、芳山は、第1話で一応の反省はするのだが、第3話の学園祭の時だって、結局は、自分たちのワガママを通したに過ぎない。失敗しても、いつでもやり直せるという生き方は(記憶は残っているので、同じ事をもう一度やらなければならないと云う、肉体的精神的ストレスはあるにしても)好感の持てるものではない。
しかし、このドラマで描いているのは、「やり直せる」よりも「失敗したくない」に思った。失敗したくないは、現代の社会に蔓延している風潮だ。いつからか、僕らは失敗することを極度に嫌って生きるようになってしまった。ドラマ視聴でも、失敗したくないから先にネタバレを読んでから見るって人も多いと云う。何をするにもネットで調べて、間違いの無いように行動しようとする。第3話で、失敗の無い青春に価値はない、って台詞が出てくるけど、それを信念と云えるものにするのは簡単なことではない。
物語のラストシーン。芳山は、「恋を知らない君へ」と名付けた一冊のアルバムを持って理科準備室にタイムリープしてきた。これから起きるはずの未来を写したアルバムを開き、語り合う二人。タイムリープで歴史を変えたとしても、写真は残るという設定が、ここで生かされている。「私たち、恋人同士だったんだよ。」・・・記憶喪失を扱った物語とかでも使われる陳腐なシチュエーションだけど、10代の黒島が言うと可愛く切ない。
深町もまた一冊の写真集を持っていた。「夏を知らない君へ」・・・彼はこのアルバムに魅せられて過去にタイムリープしてきたのだ。そして、それは、未来の深町に贈るべく、彼女がこれから作ることになる写真集だった。起きるはずだった未来と、これから起きる未来。2つのアルバムを対比させて物語はオープンエンドとなる。
過去と現代、現代と未来をループさせるというオチは、タイムトラベルの定番な終わり方である。以前「相対的時空論」で妄想させていただいたように、2つの時代をループさせるためには、互いが一義的に決定していなくてはならない。ところが、この思想で構築されたタイムトラベルの物語は極めて少ない。未来を確定してしまう「つまらなさ」を克服できないからだ。結局、この思想をオチの部分だけに使おうとするから、違和感を与えたまま終わってしまうのだ。
大切な人を守るため、芳山は全ての始まりとなった7月7日の理科準備室に帰ってきた。ここから、もう一度、高校3年生の夏をやり直すことになる。今度は深町の存在しない、そしてタイムリープができない夏だ。「時かけ2016」は記憶は残る設定だから、芳山だけが2つの夏の記憶を抱えて生きていくことになる。初恋の記憶を消されてしまう原作や旧作とは真逆の結末だ。
タイムリープしたものだけが、全ての記憶を抱えて生きていく・・・これが幸せなことなのか、僕には分からない。
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