2021年1月24日日曜日

安野光雅「天動説の絵本」と地球球体説 ~地球が丸くて天が動いていた頃の話~

画家・絵本作家の「安野光雅」氏が逝去されました。

細部まで書き込まれた画線と、淡い色彩で描かれた絵本は、子ども心にもインパクト大で、図書室などで読んだ記憶があります。大人になってからもいろいろと手に取りましたが、自分のお金で買ったのは、「津和野」「安曇野」と「天動説の絵本」の3冊になります。今、手元にあるのは「天動説の絵本~てんがうごいていたころのはなし~」で、あとの2冊は実家の本棚にあるはずです。

この本を買ったのは、科学思想史にハマっていて、月刊「科学朝日」などを(半分意味も分からず)定期購読していた頃になります。偶然、本屋さんで見かけて、美しい絵と中世の人々への温かい視線に惹かれて買いました。購入したのは第3刷で、当時の定価は1,000円。出版社は福音館書店。安野光雅といえば福音館ですよね。

「天動説の絵本」は、中世ヨーロッパの世界観を描いたものです。初めは小さく平板だった世界が、知見が深まることによって広く球面になっていき、最終的には球体となり太陽の周りを回っている絵でお終いとなります。

この絵本で描かれている中世は、大地は平面で動かないものと信じ、占星術や錬金術、魔女狩りが行われている世界です。人々は、迷信に支配されながらも、宗教に救いを求めて生きています。


扱われているのは天動説と地動説、地球球体説と地球平面説です。この本の題名は、「天動説の絵本」ですが、ページの多くは地球の形状について書かれています。実は、天動説と地球平面説は、全く別の概念なのですが、混同、誤解されていることが多く、これについてはウィキペディアの「地球平面説という神話」という項目に詳しい説明があります。「地球は丸くて動いている」と一言で云いますが、「丸い」と「動いている」は、一体の概念では無いということです。

天動説は、宇宙の中心が地球にあるとする考え、地動説は中心が太陽にあるとする考えです。しかし現代の常識で云えば、宇宙の中心は地球でも太陽でもありません。そもそも宇宙に中心など無いわけで、逆に云えば、宇宙の中心は何処でも良いということになります。地動説も天動説も、地球から見た天体の運行を説明するためのモデルであって、問われているのは、どちらが簡潔で合理的かということに過ぎません。

太陽が東から昇って西に沈むことは、地球が自転していると考えても、太陽が動いていると考えても説明はできます。地球の方が動いているとするアイデアは古くからあって、紀元前3世紀、古代ギリシャの「アリスタルコス」は、太陽が中心にあり、5つの惑星がその周りを公転していること、地球が自転していることなど、現代の地動説にかなり近い概念を持っていたそうです。しかし、天体の運動に関する知見が多くない当時は、そのような複雑な概念は必要とはされず、天が動いていると考える方が簡潔で分かりやすいものでした。

やがて、惑星の運動が詳しく観察されるようになると、単純な天動説では説明しきれなくなりました。紀元2世紀、ギリシャの「プトレマイオス」は、周転円を導入した新しい天動説を発表します。これは、論理的数学的に構築されていて、惑星の複雑な運動を説明できる優れものでした。一方、当時の地動説は、惑星の楕円運動が知られていなかったために不完全で、正確に天体の運行を説明できたのはプトレマイオスの天動説でした。この理論は、その後の千数百年間にわたってヨーロッパの宇宙観になります。

16世紀になると、惑星の逆行現象を説明するモデルとして、地動説を採用する学者が登場します。その代表が、有名な「コペルニクス」で、彼は「天球の回転について」という本で「数学的考察」として地動説を紹介しました。これが真実だ、と断言すると差し障りがありますから、あくまでも、数学的にはこういう考えも成り立ちますよ、って云い方ですね。

17世紀になると、望遠鏡の発明により、金星が月と同じように満ち欠けしていることが発見されたり、火星の軌道が精密に観測されるようになります。ガリレオやケプラーにより、地動説の優位は揺るぎないものとなり、ニュートンの登場によって完成するのです。

天動説と地動説の論争は、宗教と科学の対立のようにイメージされていますが、地動説を支持していた人々の多くは聖職者でもありました。地動説を唱えて火刑になったとされる「ブルーノ」の事件を、光雅氏は「迷信が科学を弾圧した悲しい事件」と述べていますが、天動説=迷信ではありませんし、ブルーノは科学者ではありませんでした。今日では、宗教改革派と反宗教改革派の対立によるものと考える説が有力のようです。

一方、地球球体説の登場は古く、紀元前4世紀の古代ギリシャでは、既に、大地は球形をしていると考えられていました。また、紀元前3世紀には、ギリシャ人の「エラトステネス」が、地球の大きさを夏至の太陽高度を利用して測定し、実際の値に近い数値を得ていたと云われています。

紀元2世紀に天動説を提唱した「プトレマイオス」は、世界地図も作っていますが、これは世界で初めて経緯線を用いたもので、彼は地球が球体であることを理解していました。プトレマイオスの天動説は、球体の地球が宇宙空間に浮かび、その周りを天体が運動しているというものでした。つまり、天動説を信じる者は地球が平面だと考えていた、という捉え方は間違っていることになります。

物語の最後の場面は、マゼラン艦隊の出航です。人々は、神の加護を祈りながら艦隊を見送ります。

16世紀初め、マゼラン艦隊は世界一周を成し遂げますが、この頃は地球が球体であることは紛れもない事実とされていました。マゼランの航海によって地球が丸いことが「証明」されたかのように語られることがありますが、彼の功績は、地球が丸いことを「利用」して、西回りルートでアジアに到着したこと、太平洋が想像以上に広い、つまり、地球は思っていたより大きいことを示したことにあります。

後書きを読むと、著者の安野光雅さんは、全てを理解してこの本を書いていたようですが、読者は誤解してしまうかも、と思われる記述がいくつかあります。最大の問題点は、描かれている場面の順番が、実際の歴史年表と一致していないことでしょうか。

マゼラン艦隊が世界周航を達成したのは1522年ですから、コペルニクスが地動説の本を出版する20年以上も前のことであり、ガリレオの宗教裁判(1632年)は、ビクトリア号の帰航から100年以上も後のことです。ガリレオの時代に地球が平面であると考えていたヨーロッパ人が(少なくとも知識階級に)いたとは思えません。

人類の世界観は、中世のヨーロッパに於いて、地球平面説から球体説へ、天動説から地動説へと変化していきました。その認識はコペルニクス的転回と云われるような劇的なものではなく、長い年月を掛けて、徐々に変わっていったものに思います。地球は「平らで動かない」ものから「丸くて動く」ものへと変わりましたが、中世ヨーロッパでは、この絵本では描かれていない「丸くて動かない」という認識が、長く続いていたのです。

また、地球平面説神話が広がったのは、近代の優位性を強調するために、意図的に、中世を無知で暗黒の時代とした結果と考えられます。安野光雅氏が主張されているように、中世の人たちを蔑むことは間違っています。かといって、憐れむのも正しいことではないと思います。

日本では、16世紀後半に宣教師によって地球儀が持ち込まれ、球体説が知られるようになりました。仏教的世界観で生活していた日本では、地球は平面であるという概念が長らく支配していましたが、18世紀頃になると、日本の知識階級の多くは、地球が球体であることを理解していたようです。

今からちょうど二百年前、「伊能忠高」は精密な日本地図を作成しました。彼が測量を始めた理由は、地球の正確な大きさを測りたいという科学的興味によるものでした。彼は 蝦夷地までの測量をもとに地球の外周(子午線の周囲)を39,960kmと計算しました。現代の測定値は40,007.88kmだそうですから、誤差は約0.1%となります。

で、測量を終えた「伊能忠敬」ですが、彼は、完成した地図を繋げるための修正に忙殺されることになります。彼が測定したのは球体である地球です。それを地図という平面に描くためには、測定値を補正する面倒な計算が必要でした。地球が球体であることを理解し、その大きさを測定しようとした忠高が、球面補正の重要性に気付かなかったというのは、何とも皮肉なことに思います。(補正を必要とするほど精密だってことだけど)

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