2019年5月22日水曜日

伝説のフィギュアスケーター「ジャネット・リン」を熱く語ってみた

1972年というから、もう47年前の話である。この年、札幌で冬季オリンピックが開催された。日本人のメダル獲得数は、日の丸飛行隊による、スキージャンプ70m級(ノーマルヒル)の3つだけだったが、盛り上がりは、かなりのものだった。それまで、ウインタースポーツなんて観たこともなかったから、物珍しくって、学校でオリンピックごっこをして遊んだのを覚えている。

なかでも、女子フィギュアスケートの銅メダリスト「ジャネット・リン」選手の人気は凄かった。半世紀近い昔の話である。ブロンドのショートカット、笑顔の愛くるしい18歳の女の子が、憧れの国アメリカからやってきたのだから、それだけでアイドル性は十分であった。当時、高校生だった安倍晋三総理がリンにファンレターを出して返事をもらった話は有名だ。ちなみに、彼女がもらったファンレターの総数は、1万5千通で、今でも残してあるらしい。
僕はファンになるには子ども過ぎたが、CMに出演したり、写真集が出たりしてたのを覚えている。

リン選手と云えば、フリー演技での尻もちがあまりにも有名で或る。尻もちをついての銅メダルという記憶から、実力よりも人気が先行していたスポーツ選手という印象をもっていたのだが、当時の動画を見て、彼女が素晴らしい技術をもつトップスケーターであったことを、今更ながら知った次第である。

ジャネット・リンに関する逸話は数多い。中でもホームシックに罹った彼女を励ますために、マクドナルドがオリンピック会場までハンバーガーを空輸した話は有名である。(賞味期限大丈夫か?)で、あたかも、それが札幌五輪での出来事のように書かれている記事もあるのだが、これは、その前のグルノーブル・オリンピックでの話だそうだ。


フランシス・レイの「白い恋人たち」が、フランス・グルノーブル冬季五輪の記録映画のテーマ曲だったなんて、お洒落すぎる。

リンがグルノーブルオリンピックに出場したのは14歳の時。史上最年少でのオリンピック出場であった。メディアのインタビューで、何か欲しいものは?と聞かれて、ハンバーガーが食べたいと答えたのが、それらしい。如何にもアメリカ人の女の子らしい可愛いエピソードだったので、話題になったのだろう。

グルノーブルでのリンの成績は9位とあった。その時の金メダルは、同じアメリカの「ペギー・フレミング」選手。全米選手権5連覇、世界選手権3連覇という名選手である。

そのフレミング選手がプロに転向した後、全米選手権を制したのが15歳になったリンであった。以来、1969年からプロに転向する1973年まで、ジャネット・リンは全米選手権を5連覇することになる。

1970年の世界選手権でのフリースケーティングである。16歳と云っているから、今シーズンの梨花ちゃんと同い年だ。


当時の映像では珍しく、ジャンプ名を連呼している。「次は、2アクセルだ!」みたいに跳ぶ前からジャンプ名を云ってしまうのが面白い。構成は次の通り。

①1A ②2A ③2Lz ④2Lo ⑤2T ⑥1A+2A(シークエンス)⑦2Lo ⑧1A ⑨2T ⑩2F
   
技術点5.7以上、芸術点5.8以上の素晴らしい演技で或る。って云うか、ABC放送のインタビュアー近すぎるだろっ。

ジャンプが、最高でも2回転半なので、現代のフィギュアスケートからすると、随分ノンビリした印象を受けるが、当時は、男子でも3回転が限界とされ、女子が3回転を跳ぶなんて発想そのものが無い時代だった。
ただ、つなぎのスケーティングなどは、50年近い時を隔てている現代でも充分に通じる美しさであるし、曲想に合わせて緩急を付けているところなどは、素人目にも明確に伝わってくる。

フリースケーティングでは、満足のデキの彼女であったが、この時の成績は6位だった。
 
実は、国内では無敵のリンだったが、世界選手権では、5位、6位、4位、3位となっていて、優勝できていない。これは、当時のフィギュアスケートが、規定演技(コンパルソリー)とフリースケーティングの2つで競われていたからである。両者の比率は、60:40(札幌オリンピックの時はルールが改正されて50:50)であった。さらに、コンパルソリーの方が得点差が付きやすく、コンパルソリーの強い選手が、そのまま逃げ切って優勝というのが、当時のパターンだった。

リンは、コンパルソリーを特別苦手にしていたわけでは無いらしいが、世界、特に東欧諸国などには、精密機械みたいな選手がいて、なかなか勝つことが出来なかった。フリーでは世界一、偉大なるフレミング選手をも凌ぐと云われながらも、リンは、世界チャンピオンになることができなかったのである。

札幌オリンピックに懸ける彼女の気持ちが、ハンパないモノであったのは、容易に想像できる。

全てを懸けて臨んだ札幌オリンピックであったが、リンはコンパルソリーで4位と出遅れてしまう。現在だったらSPで4位なんてのは、フリーで充分逆転可能な優勝圏内なのだが、当時の採点方法では、もはやフリーでの逆転は不可能であった。規定演技が終了した夜、選手村の部屋で大泣きしたと、彼女自身が回想している。

その2日後、リンクに現れた彼女は、いつもの笑顔に戻っていた。

「銀盤の妖精」「札幌の恋人」と呼ばれたジャネット・リン選手の伝説のフリーである。YouTubeにある幾つかの動画の中から、日本語解説ヴァージョンのこれで如何だろうか。


お上品な解説で或る。ジャンプの構成は、次の通り。(だと思う)

①2S ②2Lz ③1A+2A+2Lo(シークエンス) ④2A ⑤2A ⑥2Lo ⑦1A+2Lo(シークエンス) ⑧2T ⑨2F  

有名な尻もちは、ジャンプでは無くって、シットスピンの時だったようだ。

最大の魅せ場は、3つのジャンプを含むジャンプシークエンス。理想のジャンプは、振り付けの一部と云われるが、こういうことを云うのだろう。サルコウにしてもループにしても、フリーレッグを完全に浮かせているし、ルッツなどのエッジワークも明確だ。2回転だからできると云えばそれまでだが、ルッツだかフリップだか分からないような3回転よりも、明確な2ルッツの方が、価値があるというのがよく分かる。

芸術点で満点の6.0をたたき出したとされているが、実際に出したのは第4審判だけ(スウェーデンの審判らしい)。最高点と最低点を除いた7人の平均が得点となるから、芸術点6点というのは、正しい言い方では無い。
この得点は相対評価だから、前の演技者に高得点を付けてしまうと、その後の選手が、それ以上の演技をした場合には、さらに高得点を付けざるをえなくなる。で、転んでも6点なんてことが起きたのだと思う。まあ、おかげで話題性は抜群になったし、堂々のフリー演技1位であったのは確かだ。

ジャネット・リンは、尻もちをついてもフリーでは1位であったし、尻もちをつかなくても金メダルは取れなかったのである。

リンが絶賛されるべきは、尻もちをついても笑顔で演じきったことよりも、金メダルが絶望的な中でも笑顔でフリーを滑りきったことだと思う。この辺りは、ソチ・オリンピックでの浅田真央選手と重なるところと云えるが、異なるところがあるとすれば、リンの底抜けの明るさであろう。


「氷上の製図師」と呼ばれたオーストリアの「ベアトリクス・シューバ」選手が金メダル。フリーは7位だったものの、規定1位の大量リードで逃げ切った。銀メダルは、規定3位、フリー2位のカナダの「カレン・マグヌセン」選手だった。

コンパルソリーというのは、決められた図形の通りに滑って、その正確さを競うものである。観客にとっては、とにかく地味で退屈なものであったから、テレビ中継をされることもなかった。(唯一の例外が札幌五輪。理由は勿論、ジャネット・リンが出場したから。)その一方でフリー演技は会場も満員になるし、テレビ中継もされた。最も会場を沸かせた選手が、優勝者で無いというのは、営業的にもマズいことだったのだろう。世界選手権の表彰式で、台乗りできなかったリンを、観客がジャネットコールで呼び出したこともあったらしい。これらのこともきっかけとなって、コンパルソリーの比重を下げる提案がされる。

ところが、意外なことに、これに強く反対したのがアメリカであった。フィギュアスケートのfigureとは、形・図形のこと。コンパルソリーはフィギュアスケートそのものであり、当時の選手達にとって、コンパルソリーの無いフィギュアスケートなど考えられなかったのだろう。

結局、翌年の世界選手権から、ショートプログラムが導入され、フィギュアスケートは3種目の合計で競われることになった。比重は、規定が40%、SPが20%、フリーが40%とされた。コンパルソリーとフリーの比重を1対1のままにしておいて、演技全体のコンパルソリーの比重を10%下げるという苦肉の策で或る。

この大会で、リンは、コンパルソリーで2位と好調なスタートをきったが、ショートプログラムでは転倒が響いて12位。(ダイジェスト映像によると、この時の転倒はジャンプのときで、けっこう派手に転んでいる。)フリーでは、二人の審判員が6.0をつける圧巻の演技で1位をとるものの、総合では2位となり、またもや、世界チャンピオンになることができなかった。

1973年の世界選手権ブラチスラヴァ大会でのフリー。ジャネット・リンの集大成といえる演技だ。


優勝が絶望的な中でのフリー演技だったはずだが、兎に角明るい。アイドルのアリーナライブのノリである。

リンの演技を「時分の花」と表する記述を見たが、これはトンデモない話である。若いとか、可愛いだけで全米選手権を5連覇出来るわけなど無いし、可愛いから6点満点が出たなどと云うのは、国際審判員に対して失礼な話である。
ジャネット・リンの人気振りは異常であったかもしれない。ただ、そのアイドル的な人気のために、彼女のスケーティングが正当に評価されていないとすれば、それはそれで残念なことである。

この年を最後に、彼女は競技生活から引退。世界大会では無冠のまま競技生活を終えることとなった。
まだ若い彼女が、次のオリンピックを目指さなかったのは、持病の喘息が悪化して、競技生活を続けるのがキツくなったからだとされている。世界選手権の時も、あまり良くなかったらしい。
そういえば、彼女は演技の始まる前のポーズを取るときに、大きく呼吸をするのが特徴で、それが愛くるしい仕草にもなっているのだが、もしかしたら、笑顔の裏側で、必死に呼吸をセルフコントロールしていたのかもしれない。

リンは、145万ドルという破格の契約金でプロに転向する。当時の為替レートが1ドル265円くらいだったから、日本円に換算すると4億円ほどだ。45年前の4億円って、どのくらいの大金だったのだろう。

世界選手権でのエキシビション、確かな技術に裏打ちされたスーパーアイドルのアリーナソロライブである。4回転時代になったとはいえ、エキシビションは、今も昔も変らない。このまま、現代のアイスショーに出てきたとしても、全く違和感を感じないだろう。


お終いに・・・。
実は、リン選手への褒め言葉、助走に無駄な力を感じないジャンプとか、音楽に合わせた緩急をつけたスケーティングとかは、そのまま、梨花ちゃんが褒められていることと同じだ。スピード感溢れるアクセルジャンプとか、一気にトップスピードにもっていく加速力とか、明確なエッジワークとか、リン選手と梨花ちゃんのスケーティングには、共通点も多い。恐らく、フィギュアスケートには、50年経っても変らない、理想のスケーティングというのがあって、それを目指せば自ずから似てくるのだろう。



最大の共通点は、スケーティングに悲壮感がないところかな。

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