2016年5月30日月曜日

「百億の昼と千億の夜」萩尾望都・光瀬龍 ~阿修羅のまなざしに~

  2009年、東京と福岡の国立博物館で、興福寺の阿修羅像が公開されました。入場者数は、両館合わせて165万人、阿修羅像をこよなく愛する「アシュラー」と呼ばれる女性たちも出現するなど、仏像ブームのピークを象徴する出来事でした。
 僕も、のこのこと、東博まで行きましたよ。阿修羅像は、既に興福寺で拝観済みだったんですけど、噂の展示会がどんなものか、覗いてみたくなったものですから。阿修羅像は、部屋の中心に展示されていました。係員のお兄さんが「立ち止まらないでくださーい」って言うものだから、像の周りを反時計回りの巨大な人間の渦ができていて、上から見るとメッカの巡礼みたいでした。

 その阿修羅を主人公にしたSF小説が、光瀬龍氏の「百億の昼と千億の夜」です。SFマガジンに連載されたのが1965年、単行本化が1969年。ただ、僕が出会ったのは、1977年に萩尾望都さんによって「週刊少年チャンピオン」に連載され、その後、コミック本になった作品が最初になりますので、1980年頃だと思います。
 
 友人からコミック版の「百億の昼と千億の夜」を借りたとき、手塚治虫の作品かと思いました。それから、作品を読んでいる間、萩尾望都は男だと思っていました。
 学生と云う、暇で多感な時期にこの作品に出会ったのは幸運でした。よく、壮大な世界観って言いますけど、これ以上の壮大な設定は、ありませんでしょう。

 現在手元にあるのは、新装版の光瀬龍氏の文庫本と、同じく新装版の文庫版コミック全1巻になります。
 原作がありますから、壮大なストーリー構成は、光瀬龍氏によるものです。文庫本463ページ、コミック本446ページですから、分量は、ほぼ同じ。「イスカリオテのユダ」の追加記述や、若干のストーリーの入れ替えがありますが、「ここぞ」という重要な台詞は、そのまま引用するなど、ほぼ原作に忠実になっています。
 


 萩尾望都さんは福岡出身、上京して間もなく練馬区大泉の長屋で、竹宮惠子さんと共同生活を始めます。これが、後に云う「大泉サロン」で、この長屋には、若き少女漫画家が多く集まり、彼女たちは、後に「花の24年組」と呼ばれるようになります。
 ただ、この共同生活は、わずか3年で終わります。それぞれが、売れるようになってきたこと、手狭になってきたことなどが理由のようですが、竹宮惠子さんが、今年になって出版した自伝「少年の名はジルベール」には、萩尾望都さんへの嫉妬に苦しんだ日々など、当時の複雑な感情が描かれているようです。

 竹宮惠子さんと萩尾望都さんは、少女漫画界では、ともに巨匠、神として並び称されていますが、先日、NHKの「漫勉」に出演した萩尾さんのインタビューを見たとき、そのオタクっぽさにビックリしました。明朗快活で美しい竹宮さんと、物静かで可愛い萩尾さん、その人物像は、見事なまでに好対照です。
 
 大泉サロンを出た後、お二人は、ほとんど交流を持たなかったと云います。それぞれが別の道を歩み、共に少女漫画界の「神」になられたわけですが、竹宮さんが京都精華大の教授になれば、萩尾さんは女子美術大学の客員教授になり、2012年に、萩尾さんが紫綬褒章を受章すれば、その2年後に竹宮さんも受章するといった具合で、神が2人いると、両方に気を使わなければなりませんから、周りも大変なようです。
 そう云う僕だって、萩尾さんの記事の前に、ちゃんと竹宮さんの記事を投稿しているわけですしw

 萩尾さんの魅力は、何と云っても、圧倒的な作画力です。当然アシスタントさんも使っていたと思いますが、それでもキャラクターの描き分け方は凄いです。普通のオジさんの描き方が凄いです。少女漫画家でここまで描き分けられる方を知りません。「えっ。萩尾望都って女なの」って本気でビックリしましたよ。背景も凄いです。光瀬氏の記述する世界を僕らにも解るように描いています。あまりにも、凄いんで、ゴーストライター疑惑なんかもあるんですけど、どうでも良いです。このような作品が存在することに価値を見いだしているのですからね。

 原作「百億の昼と千億の夜」は、優れたSF作品であることは、間違いありません。ただ、抽象的で時として冗長とも云える情景描写、理系の知識を散りばめ、こねくり回した文章構成など、「解る奴だけ付いて来い」的な作品に思えてしまいます。プロローグと、三葉虫の記述あたりで、飽きてしまうのではないかと。
 この作品が、名作と云われるようになったのは、やはり、コミック本の存在が大きいのではないでしょうか。でなければ、「百億の昼と千億の夜」は、ここまで広く、つまり凡人たちの間にまでクローズアップされることなく、光瀬氏の数ある名作の中の単なる1作品として、時間と共に埋もれていったように思えてならないんです。

 文明は、その誕生の段階で既に滅亡への道を進んでいると云うこと。また、生命を滅亡させるために文明を育てたのだと云う設定には、もはや夢も希望もありません。宇宙の果てに想いを寄せ、この宇宙に自己が存在するということの意味を考えたときに陥る、何ともいえない虚脱感と喪失感。この作品を読むと、2.3日は、何もする気が起きなくなるというコメントがありましたが、上手いこと言っていると思います。
 

 この物語の主役である阿修羅王は、光瀬氏、萩尾さん共に、興福寺の阿修羅像をモチーフにしたことは確かです。戦いの鬼神である阿修羅を少女かと思えるような造形で表現する興福寺の阿修羅像は、あまりにも有名なので、この像容が一般的なものと思われがちですが、現在に伝わる阿修羅は、画像も彫像も、全て、戦いの鬼神に相応しい憤怒像で、興福寺の阿修羅像は、世界的に見ても例外中の例外なのです。
 愁いに満ちた表情は、仏に帰依したときの姿を表すとされています。教義に照らせばそう云うことなのでしょうが、少なくとも僕は、興福寺像に安らぎを見いだすことができません。

 「わたしの戦いは、いつ終わるのだ・・・・?」物語のラストの阿修羅王の言葉です。安らぎを求めようにもすでに還る道は無く、永遠に戦い続けるという宿命を負った阿修羅王の嘆きで物語は幕を降ろします。
 
「百億の昼と千億の夜」は、戦いの鬼神を憂いを帯びた少女像で表す感性を持ち、「神」に対して客観的なスタンスをとることのできる、日本人でしか描けない物語だと思います。
 そして、萩尾望都さんのコミックは、原作の魅力を余すところなく、僕らにも解るように提供してくれたんです。それは、才能ある歌手が、名曲をカバーしたときのように。

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