ストーリーは、1年にも満たない間の出来事で、話の核心部分の周りをグルグル回っているような感じ、男である僕的には、ちょっとイライラさせられるところもあるんですが、じっくり読み返してみると、その微妙な心理描写に感心させられるという不思議な作品です。
作画については、正に「神」。人物をアップで描くと、体のバランスが「?」になってしまうところがあるんですけど、グッとひいて、人物を風景にとけこませたようなカットは、まるで昔の外国映画のワンシーンのようです。
一番肝心な、トーマが自殺することの意味なんですけど、お恥ずかしい話ですが、イマイチ理解できないんですよね。で、「トーマの心臓、自殺、理由」って検索すると、続々と引っかかってきました。Yahoo質問箱などの回答をみると、さすがに皆さん読み込んでいらっしゃるので、ナルホドという回答ばかりです。で、トーマが自殺した「理由」は、まあ分かるんですけど、「意味」となると、やっぱり「?」なんです。
好きな人に(この場合は、男の子同士ですが)振り向いてもらいたいから遺書を残して自殺する、という行為は、普通「あてつけ」だと思われても仕方ないことです。何故それが無償の愛で、何故それで最終的に「ユーリ」が救われるのか。信仰という行為に無頓着な僕らが、「ユーリ」がうけた心の傷の深さを理解するのは、不可能なのかもしれません。
2009年、その「トーマの心臓」が森博嗣氏によって、ノベライズされました。氏は、「創作者として崇拝する唯一の存在」と絶賛するほどの萩尾望都ファンであることが知られています。
一般的にノベライズというと、創作小説よりも1段低く見られていますが、森博嗣氏が手掛けるとなると話は別です。しかも、小説をコミック化することはあっても、コミックを小説化することは極めて異例のことです。
森博嗣氏については、今さら説明の必要も無いと思います。工学博士で、元名古屋大学の助教授。鉄道オタクで小説家。驚くべき多作の方で、その全てがヒット作。現在は、多額の印税収入を手に、仕事を選別し、悠々自適の生活をしているようです。
僕が、森氏の財産形成に協力したところは、「スカイクロラ」シリーズの文庫本5巻と、アニメ化された「スカイクロラ」を劇場に行って見てきたこと。それから、「トーマの心臓」の文庫本を購入したことです。
森氏の作品の最大の特徴は、「速く読める」と云うことです。文庫本1冊を1日で読むことなんて余裕です。理系作家らしく専門用語が頻繁に出てきますが、読み飛ばしてしまっても全然困りません。森氏は、凄まじい速さで、文章を書き上げるそうですが、速く書いた文章は速く読める、ということなんでしょうか。
もう1つの特徴は、「ハマる」と云うことです。1冊読むと無性に次が読みたくなります。あの独特の文章を読むことによって、脳が何らかの中毒的刺激を受け、快楽を要求するのではないかと思いますw
あと、もう1つ加えるならば、説明文ぽいってことでしょうか。森氏の文章は、物語文というよりは、説明文です。森氏の頭の中に浮かんでいる世界観を読者に説明しているっていう感じです。
今回「スカイクロラ」について語ることはやめときますけど、押井守監督によってアニメ映画化された作品の冒頭部分がYouTubeにありましたから、とりあえず貼り付けさせていただきます。
うわー、思い出しました。なにも脱出したパイロットを撃ち殺さなくても・・・。これ、しばらくトラウマになってたんですよ。また、今晩、うなされそうです。
この作品の注目点は2つ。まず、舞台設定がドイツのギムナジウムから、日本になっていることです。登場人物は、日本人という設定です。オリジナリティを打ち出すためだとは思いますが、これは、かなり思い切った試みです。しかし、登場人物の名前は、そのままカタカナ表記で、ニックネームだということなんです。「トーマ」を「冬馬」にするくらいのことをやっても良かったと思います。っていうのは、話の舞台がどう読んでも、日本離れしているんですよね。設定を変更するならば、徹底すべきなんですが、あまりにも中途半端です。森氏自身が、設定を変更していることを忘れているんじゃないかってくらい、話がドイツです。
もう1つは、物語が「オスカー」目線で、彼の一人称で語られていることです。まあ、この方が、軸がしっかりするので、小説化するには、都合が良いかと思います。彼のキャラクターが物語の中で生かせなくなっているのは、残念なんですが、語らせるとなると「オスカー」以外に適任者がいませんからね。
ノベライズをざっと読む限りは、オリジナルに沿ったものという感想を持ちますが、細かく読み込んでいくと、かなりの変更点がありあす。ノベライズを単なるコピーでは無く、創作的なカバー作品として成立させるという、森氏の意気込みが感じられます。
サイフリートの登場の場面とか、エーリクがユーリの家にお泊まりするところとか、アンテとトーマがユーリのリンチを目撃するところとか、物語の核心的なところでも、森流の変更がなされています。もちろん、凄く違和感がありますけど、仕方ないですよね。僕には僕なりの、森氏には、森氏の「トーマの心臓」についての想いがあるわけですから。
オリジナルとの距離感。これは、物語をカバーするときも、楽曲をカバーするときも、重要なポイントになることだと思います。カバーは、コピーとは違う。しかし、オリジナリティを込めれば込めるほど、既読の読者がもつ観念からの批判に曝されるわけで、この付かず離れずの舵取りっていうのは、難しいですよね。
で、コミックのノベライズについてですが、やはり、難しいですよね。特に「トーマの心臓」は、登場人物に多くを語らせない傾向があります。それぞれが胸の内を語ってしまえば、お話は終了してしまいますから。だから、絵だけを見せて「この子は何を考えているのでしょう。読者の皆さん予想してください」みたいなコマが幾つかあるんですけど、小説は、そういうわけには、いきませんから、とにかく語らせるわけです。ノベライズの中の会話文の数って半端ないですよ。登場人物が、とにかく饒舌なんです。また、物語がオスカーの一人称で書かれていますから、彼以外の登場人物の心理描写は、会話文を通してでしかできません。だから、ますます饒舌にならざるを得ないです。
でも、語らせて、説明させればさせるほど、陳腐になっちゃうんですよね。コミックなら、台詞なしで、絵だけを描いて読者に考えさせることができますが、小説は、文字を書かないわけにはいかないわけで。
森氏をしてこうなのですから、並みの作家では。コピーするのが精一杯、創作性を織り込んだカバー作品は、かなり難しいと思います。
逆に云えば、コミックという表現方法が、小説や映画などと比べて、いかに優れているのか、ということを表しているのかもしれません。
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