2017年4月17日月曜日

松浦亜弥さんの何回目かのデビュー記念日に「トロピカ~ル恋して~る」を

 松浦亜弥さんの復帰騒動から1ヶ月です。そして、デビュー記念日・・・。

 結局、何も起きませんでした。まあ、想定の範囲内のことですし、もとより今年か来年という話でしたから、のんびり待つことにしましょう。

 で、動画再生の方は、引き続き堅調のようです。特に、ふくちゃんさんがタイトル名を書き換えた動画が伸びているみたいですね。結構、若い人たちが見ているみたいで、皆さん優しくって、僕の古く拙いコメントにも「イイね」を押してくれるものですから、僕宛にもGoogle+からお知らせメールが届きます。
 コメントを寄せている人たちには「マエケン」さんや「はるな愛」のモノマネを知らない世代の若者も実際いるわけでして、先入観にとらわれていない彼らの意見って考えさせられるものが多いんです。 
 そう云えば、以前、盛んに行われていた、AKB叩きに「あやや」を利用すると云う、ハロヲタさんのコメントは、だいぶ少なくなったようです。あれも、あればあったで迷惑に思っていましたが、なければないで寂しくもあります。

 「松クリスタル」の「渡良瀬橋」も視聴回数が200万回を越えましたし、100万回越えの動画も、ざっと数えたところ20本ほどあるみたいです。どの動画も長寿ですから、視聴回数が増えるのは当たり前と云ってしまえばそれまでですが、広く聴かれていると云うことは、1人のファンとして嬉しい限りです。

 で、今、コメントがたくさん書き込まれている動画の1つがこれ。「トロピカ~ル恋して~る」の2007年のライブテイクです。「MC+歌」というタイプの動画で、歌が始まるのは、6分30秒後になります。歌以外のものが付いている動画というのは、編集機能が無くなってしまった現在の再生リストでは使い難いことこの上ないんですけど、この動画に関しては、歌が始まるまでのMCの方が有名になっているみたいです。


 残念ながら「トロ恋」は、この2007年のライブを最後に、完全に封印されてしまいました。折角コールを覚えたのに残念ですw
 素晴らしいパフォーマンスだと思いますよ。15歳の時の持ち歌を21歳で歌っているのに「残念感」が全く無いんですから。

 そして、このライブテイクと双璧を成しているのが、2002年のサマーライブだと思います。
 二度押ししないと再生しないかもですw


 松浦亜弥さんがアイドルとしてデビューしたことを間違いや悲劇とする意見があることは十分理解しています。でも、この時の彼女は、本当に輝いていたし、皆に元気を与えていたことは確かです。

 もはや、アイドル時代もSTBライブの頃も、どちらも遠い過去になってしまいました。 

 松浦亜弥さんには、是非とも一流の歌手として復活して欲しいと願っています。でも、「あやや」はいつまでも「あやや」であって欲しいし、幾つになっても「あやや」っぽさを持ち続けて欲しいです。「あやや」である限り一流の歌手にはなれないって考えているとしたら、それは本当に寂しいことだと思います。

2017年4月2日日曜日

ウォーターライン製作記⑥ ~水上機母艦「千歳」と零式観測機、そして紅の豚~

 水上機母艦とは、水上機を搭載・整備する設備と、それを射出するカタパルトを持つ艦艇のことです。
 で、水上機とは、水上にて離着水できるように設計された航空機のことです。機体の下にフロートを持つ「下駄履き機」と呼ばれているタイプと、機体そのものが船のようになっている「飛行艇」があります。大型機は「飛行艇」が、小型のものは「下駄履き」が多いようです。
 
 水上機というと、まず連想するのが、ジブリ映画の「紅の豚」ではないでしょうか。主人公の豚が乗っていたのが飛行艇、ライバル役のカーチスが乗っているのが下駄履き機になります。


 小型の飛行艇は、プロペラが水面をたたいてしまわないように、翼の上にエンジンを取り付けていたようですね。下駄履き機は、普通の飛行機にフロートを付ければよいので、小型の水上機の場合は、こちらが主流だったようです。(大型機はフロートが巨大化して不向き)
 それから、水上機と云うと、翼が2枚の複葉機を思い浮かべますが、丈夫な機体が作れるようになると、高速を出せる単葉機が主流になっていきます。

 軍用の水上機は、偵察機として使われることが多かったのですが、アメリカ軍の対空レーダーが向上するにつれて、敵艦隊を発見する頃には、すでに迎撃の戦闘機が上がってきていることが多く、とにかく逃げ足の速い飛行機が熱望されたとのことでした。
 中には、戦闘機に見つかったらフロートを切り離して身軽になって逃げる、なんていうのも開発されたそうです。って、フロート切り離しちゃったら、着水できないと思うんですけど・・・。

 で、水上機の運用に一番熱心だったのが、日本海軍だったそうです。水上機は、飛行場が無くても運用できるので、太平洋の孤島などに飛行機を配備するときに便利ですからね。
 特に中国大陸では多くの戦果をあげることができたようで、日中戦争の頃が水上機が一番活躍できた時代と云えます。そして、その水上機を整備したり、補給をしたりするための艦船が水上機母艦と云うわけです。
 一方、アメリカは、水上機の開発については、それほど熱心ではなかったようです。彼らは、飛行場が必要とあれば、ブルドーザーとパワーシャベルであっという間に作ってしまいますからね。

 さて、ウォーターラインの「千歳」は、アオシマの製品になります。こう云うマイナーな艦船は、アオシマの独壇場です。「千歳」を選んだ理由は、ちょっと変わった艦を作ってみたくなったからです。しかし、マイナーな艦とはいえ、船体は重巡洋艦並みですし、高角砲も備えていたりして、作りがいがありましたよ。


 この艦の特徴は、4基あるクレーンだと思います。プラモデルを作っていても、クレーンを組み立てているときが一番楽しかったです。付属していた水上機は、4機だけでしたけど、せっかくですから、余っていた部品を全部使って、12機も載せてしまいましたw。
 あと、このプラモデルを作るまで、複葉水上機の翼が折りたたみ式だってことを知りませんでした。
 それから、もう1つの特徴は、機銃甲板と呼ばれた屋根です。艦上機の帰着甲板として実験的に設置されたとも、特殊潜航艇を積み込むときに必要であったとも云われています。


 日本海軍は、偵察機以外にも、爆撃機タイプや戦闘機タイプなど、様々な水上機を投入しました。で、水上機の中で最も人気のあるのが、「零観(ぜろかん)」こと「零式(水上)観測機」ではないでしょうか。


 一緒に写っている軍艦は、4本煙突ですから「川内型軽巡洋艦」のようです。動画で見られるとは思いませんでした。さすがYouTubeですね。
 後半の勤労動員による航空機製造の様子なども興味深いです。熟練工を戦地に送っといて、女子供に飛行機を作らせているんですから、故障ばかりするのも当然です。アメリカのBー29 の製造風景と比べるまでもありません。
 空襲が始まると、軍需工場は真っ先に標的にされました。爆撃だけでなく、戦闘機の機銃掃射で犠牲になった子も多いと言います。

 700分の1だとこんな感じです。汎用部品で作った「零観」です。新金型だと翼の間の支柱やプロペラも部品に追加されます。精密になるのは良いことですが、ついでに、機体が2分割されたり、水平尾翼が別付けになったりするんですよね。そこは一体成形のままで良いと思うんですけど。


 「零観」の人気の秘密は、何と云っても複葉機であることでしょう。飛行機ファンにとっては、複葉水上機というのは、特別な想いを持つようです。
 この機体が投入された頃は、すでに単葉機の時代でしたが、飛行性能を重視してあえて複葉機としたそうです。複葉機といえど、機体は近代的なオール金属製、抜群の安定性と高い格闘性能を持ち、2人乗りで、最高速度は370km、7.7mm機銃3門と翼の下には60kg爆弾を2つ搭載可能とあります。
 米戦闘機と空中戦を行って、P-38 ライトニングやF4F ワイルドキャット、さらには、零戦でも敵わなかったF6F ヘルキャットを撃墜したこともあるそうです。
 ただ、こういったレアなケースにすがりつき、「零観」を護衛の戦闘機として運用した結果、多くの犠牲が生まれてしまった事実も忘れてはいけませんね。


 昔、読んだ漫画に「零観」が登場する話があったんですけど、松本零士氏の短編集『戦場まんがシリーズ』の一編「亡霊戦士」だと云うことが分かりました。
 南太平洋の孤島に拠点を築き、たった1人で戦い続ける水上機乗りの話です。確か、少年兵が迷い込んできて、まあ、いろいろとあるんですけど、アメリカ軍の潜水艦を撃沈したり、F6Fを撃墜したりというストーリーでした。空戦では、深追いしてきたグラマンが海面に激突する場面での「あんな重い戦闘機で軽快な二枚バネに挑戦するとああなるのである」というセリフが格好良かったですね。
 そういえば、島の洞窟に水上機を隠しているところが「紅の豚」のシーンにそっくりなんですけど・・・・まあ、偶然でしょうね。

 水上機母艦として、中国戦線や南太平洋で補給や支援任務に就いていた「千歳」でしたが、ミッドウェー海戦で航空母艦4隻を失ったことをうけて、空母への改装が決定します。「千歳」は、空母への改装も考慮して設計されていたそうですけど、改装には8ヶ月ほどかかっています。

 水上機母艦の「千歳」です。



 航空母艦の「千歳」です。面影残ってますか?


 航空母艦「千歳」が竣工するまでの8ヶ月間で、戦況は大きく変わっていました。優秀な搭乗員は失われ、パイロットの技量は著しく低下し、もはや空母があっても機動部隊を運用できるような状況ではありませんでした。
 航空戦力をかき集めて臨んだマリアナ沖海戦で、「千歳」から飛び立っていった艦載機たちは、レーダーと航空管制を用いた米軍の防空システムによって壊滅しました。4ヶ月後のレイテ沖海戦では、わずかな艦載機と共に参戦しましたが、それは米機動部隊を引きつけるための囮にすぎませんでした。米空母艦載機の攻撃により、3本の魚雷と多数の至近弾を受けて撃沈、艦長以下903名が戦死。空母に改装してから10ヶ月後のことでした。

 戦争後半になると「零観」は、船団護衛や対潜哨戒などが任務の中心となり、一部は、練習機としても使用されたそうです。
 戦争末期になると、「零観」は250kg爆弾をくくり付けて、特攻機として使われるようになりました。重い爆弾を抱えた「零観」は飛行するだけで精一杯で、出撃しても簡単に撃墜され、米艦隊に近づくことすらできなかったと云います。

 無謀に無謀を重ねた作戦でした。「零観」の特攻攻撃による戦果は分かりません。

2017年3月31日金曜日

「はるみ」ちゃん ~ノーストレスな究極の春蜜柑~

 僕は、好き嫌いは無い方だと思います。ただ、酸っぱいものが苦手です。ですから、蜜柑を食べるときには、いつも皮がブカブカしているのを選びます。「味が濃い」とか、「コクがある」というのは要警戒です。いくら甘くても酸味が伴うのは困ります。だったら、何も味がしない方がマシです。僕にとって「大味」は「安心」の同義語です。
 酸味が無く甘いだけの「ノーストレス蜜柑」、それが僕の理想の蜜柑像でした。

 「ポンカン」を食べたときは、その酸味の無さに感動しました。

 「デコポン」を食べたときは、見た目とのギャップに参りました。

  「せとか」を見たときには、その値段の高さに仰天しました。

 そして昨年、ついに究極のミカンに出会いました。敬意を込めて「はるみ」ちゃんと呼ばせていただきます。「ポンカン」よりも大ぶりで種子が無く、「デコポン」よりも皮が薄く繊細で、「シラヌヒ」のように当たり外れがなく、「せとか」の4分の1の値段で買える。それが「はるみ」ちゃんです。


 「はるみ」ちゃんは、静岡市の果樹研究所で誕生しました。同じく静岡生まれの母親「清見オレンジ」とインド原産の父親「ポンカン」との交配だそうですから、「デコポン」とは姉妹、「せとか」とは、父親違いの姉妹になります。
 姉の「デコポン」は、その容姿のあまりの醜さに、味覚検査をされることなくボツにされたものの、味の良さを惜しんだ生産者さんが、密かに育て続け、やがて、見た目と味とのギャップと「デコポン」というネーミングの巧みさで人気を高めていきました。
 一方、妹の「はるみ」ちゃんは、姉とは違い、生まれながらの美しい容姿の持ち主でした。香りはオレンジに似ていますが、皮は薄く柔らかく剥きやすく、じょうのう膜は極めて薄く、種子もありません。酸味は全くなく、甘みは抜群。皮を剥いたら、中からみかんの缶詰が出てきたと云えば、お分かりいただけるかと思います。
 見た目も味も最高の「はるみ」ちゃんですが、栽培が難しいという弱点をかかえていました。そういえば、芸能界にも、可愛くって、歌も上手いけど、扱いにくいという歌手がいましたね。

 「はるみ」ちゃんは、生まれは静岡県ですが、生産の中心は、愛媛県や広島県で、生産量も少なく、流通も限られていたみたいです。静岡県で、広く栽培されるようになったのは、ごく最近のことだそうで、生産の中心は、発祥の地である、清水・興津のあたり、みかんの栽培が盛んな浜名湖の北部、それから、伊豆や、愛知県東部でも作っているみたいです。流通量が増えるに従って、スーパーマーケットでも普通に売られるようになりました。値段も大玉が1個100円くらい、小玉だと5個で300円くらいですから、「せとか」よりもずっと安いと思います。

 昨年、近所のスーパーで見つけて、試しに食べてみたところ、一発で虜になってしまいました。それから、スーパーに行くたびに買い求めて、1ヶ月間、毎日1個ずつ食べ続けました。昨年度の静岡県の「はるみ」ちゃんの消費量の何%かは僕です。
 で、今年も、食べ続けました。何個食べたか想像もできません。今はもう、旬も過ぎつつあり、売っている店も限られてきました。大きさも小玉なものばかりですが、まだまだ味はしっかり「はるみ」ちゃんです。しかし、あと1週間ほどで、今シーズンも終わりと思うと、さみしい限りです。

 最近、「はるみ」ちゃんの他に、「はるか」「せとか」「せとみ」などという品種も並んでいますので、是非とも「デコポン」みたいに、「はるみ」ちゃんの魅力が伝わるインパクトある素敵な名前を付けて、「登録商標」していただきたいと思います。

 来年は、生産量もさらに増えて、スーパーの果物売り場に君臨してくれることでしょう。

2017年3月27日月曜日

ウォーターライン製作記⑤ ~巡洋艦「天龍」とウェーク島の戦い~

 軽巡洋艦「天龍」はハセガワの製品で、2015年3月に完全リニューアルしたモデルです。では、早速ハセガワの製品紹介を見てみましょう。
 
【第一次大戦直後に竣工した天龍型は、日本海軍軽巡洋艦の始祖に当たる艦艇です。キットは最新の考証に基づいて設計を行い、現在の金型技術を駆使したハイディテールな精密モデルとして生まれ変わりました。14cm砲の砲身や25mm連装機銃の銃身の細さなどは感動ものです!】

 自社製品を「感動もの」と言い切ってしまうところが何ともですね。砲身をリアルに再現するのも良いんですけど、細さまで700分の1にしなくても良いかなって思います。折れたらお終いですから。
 ただ、連装機銃や内火艇など、共通部品であったものを、専用部品に入れ替えるなど、ハセガワのディテールに対する意気込みは大変なものです。写真では、お分かりいただけないかもしれませんが、魚雷発射管などは確かに感動ものです。プラモデルの精密化は、パーツを細分化することでなく、パーツ個々のクオリティーを高めることにある、というハセガワの信念に深く共感した次第です。
 まあ、共通部品を新しい精密金型でリニューアルすれば良いだけの話なんですけどね。その辺の各社の足並みの揃わなさが、残念なところではあります。

  上がタミヤの従来品、下がハセガワのリニューアル品です。


 船体を左右に分割しているのは、「赤城」と同じです。このやり方は、艦船の大小に関わらずハセガワのスタイルのようです。あと、前部の三本足のマストの長さがどうしても合わなくって、仕方なく、前足を少し切り落として接着しました。で、先輩方の作品を見たら・・・・あれっ「天龍」のマストって斜めだったんですか。マストは垂直に立っているという固定観念に捕らわれて、こりゃ部品の成形ミスだ、なんて思ってしまいました。ハセガワさんゴメンナサイ。

 こちらがネットから拾ってきた「天龍」の画像です。当初は、艦橋の天井が天幕なんですね。昔の船乗りは、吹き曝しのなかで操艦していたわけです。
 で、マストは・・・改装前ってことでしょうか。


 箱絵は、「加藤単駆郎」氏が担当しています。右旋回中の「天龍」です。「外方傾斜」によって、船体が左側に傾いているのが分かります。その傾斜を利用して甲板上を描いています。そう云えば、セウォル号の沈没原因も外方傾斜で積み荷が崩れたからでした。
 それから、主砲の周りにいるのは、弾込めしている水兵さんです。「天龍」の14cm速射砲は、人力装填だったそうです。
 このこだわり感こそ精密イラストですね。ますます単駆郎氏のファンになってしまいました。で、マストは・・・こちらは改装後ですね。


 先ほどから、一緒に写ってるのは、タミヤの駆逐艦「暁」です。比べて分かるように、天龍型は排水量3500トンですから、大型の駆逐艦サイズってところですね。


 「天龍」は、前述の通り、第一次世界大戦直後の1919年に竣工した小型の軽巡洋艦です。主に夜戦に際して駆逐艦を率いて敵主力艦に雷撃を行う水雷戦隊の旗艦としての役割を期待され建造されました。日本の軽巡洋艦の元祖とも云われています。傑作艦といわれた「天龍」ですが、居住性に難があり、小型であるが故に大規模な改装も不可能で、姉妹艦「龍田」の2隻しか建造されませんでした。この後、軽巡洋艦のサイズは、航空機の搭載が可能な5500トンクラスが標準となっていきます。

 太平洋戦争が始まったとき、「天龍」は、竣工から20年を越えていました。しかし補助艦艇が絶対的に不足していた海軍において、旧式ながらも最前線に送られ、ウェーク島攻略作戦、珊瑚海海戦、ポートモレスビー作戦、第一次ソロモン海戦、第三次ソロモン海戦など太平洋戦争を代表する作戦の支援任務に従事しました。

 特に、第一次ソロモン海戦は、老艦であることを理由に夜襲作戦から外されていたのを、戦隊参謀らが参加を懇願して急遽認められたものでした。艦隊の足手まといにならないようにと、最後尾に配置されていたのですが、乱戦の中、米巡洋艦を雷撃で撃沈、駆逐艦を砲撃で撃破するなどの思わぬ大戦果をあげます。
 しかし、開戦からわずか1年後の1942年12月、ビスマルク海にて輸送船の護衛の最中、潜水艦の雷撃により撃沈しました。この時は、沈没まで2時間ほど時間があり、救助活動の結果、乗組員の多くが生還することができたようです。

 艦これの「天龍」です。名前のイメージからか、ソロモン海戦の活躍からか、艦これには珍しく武闘派キャラです。隻眼なのは、ソロモン海戦で、探照灯を破壊されたという史実からと思われます。って、よく考えるものですね。


 で、今回紹介させていただく「ウェーク島の戦い」は、太平洋戦争の中では、あまり知られていない戦いではないでしょうか。島を守っていた米海兵隊が、僅かな戦力と知恵と勇気によって、迫り来る大軍を撃退するという、アメリカの戦争映画そのままみたいな戦いです。


 アメリカ領ウェーク島は、太平洋のど真ん中にある珊瑚礁の島です。日本軍は1941年12月8日の日米開戦と同時にウェーク島を空襲。三日後に軽巡洋艦、駆逐艦、輸送船で構成された攻略部隊が島に接近。軽巡「天龍」も支援部隊として艦砲射撃をおこないました。
 空襲により米戦闘機部隊及び島の砲台は壊滅という報告を受けていた攻略部隊ですが、島に接近した艦隊は、島の砲台から思わぬ反撃を受け混乱します。
 駆逐艦「疾風」は直撃弾を受けて轟沈。さらに、米軍は、残存していた4機の戦闘機で敗走する艦隊を追撃します。F4F戦闘機に100ポンド爆弾をロープで吊り下げて爆撃機に仕立てるという、どこかの映画みたいな攻撃により駆逐艦「如月」は爆沈。「天龍」も機銃掃射を受けて多数の死傷者を出しました。

 ウェーク島攻略に失敗した日本軍でしたが、その10日後に第2次攻略部隊を派遣します。前回の攻略部隊がたった4機の戦闘機に翻弄されたことから、真珠湾攻撃から帰投中の第2航空戦隊(飛龍・蒼龍)に支援を依頼。さらに、グアム島攻略を終えた重巡洋艦4隻を加えるなど、戦力を大幅に増強しての出撃でした。
 一方、真珠湾攻撃による混乱が続いていたアメリカ軍は、ウェーク島への支援を断念してしまいます。孤立無援となった米守備隊ですが、大軍を相手に激しく抵抗しました。
 残存2機となっていた米戦闘機は、2航戦の精鋭部隊に奇襲を仕掛け、攻撃機2機を撃墜するという大戦果をあげますが、直後に零戦に撃墜されます。海岸では、上陸した海軍陸戦隊に米海兵隊が応戦しました。
 激戦の末、アメリカ軍は降伏しますが、アメリカ軍の戦死者122名に対し、日本軍の戦死者は少なくとも469名に及んだと云われています。

 捕虜となった米兵に滑走路の修復を命じたところ、倉庫からブルドーザーとパワーシャベルを持ち出し、半日で作業を終えてしまったのを見て、人力の土木作業しかやったことのない日本兵は大変驚いた、というエピソードが伝わっています。

 開戦直後のこの戦いは、この後3年半にわたって太平洋で繰り広げられる離島の攻防戦について、多くの教訓を残しました。
 航空機支援の重要性。空爆の効果を判定することの難しさ。太平洋の高波が押し寄せる海岸での上陸作戦が、いかに困難であるか。機銃陣地に向かって歩兵を突撃させることが、いかに愚かなことか。そして何より、アメリカの正規軍が、いかに強い軍隊であるか。
 しかし、日本海軍の上層部は、これら実戦部隊からの報告を、次の戦いに生かすことはできませんでした。この8ヶ月後、日本軍は、ガダルカナル島において、同じ過ちを繰り返すのです。それも何倍もの規模で。

 ウェーク島に残った日本軍の状況も凄惨を極めていきました。戦局が悪化するにつれて補給も滞りがちになり、米軍の大空襲により物資は焼失、混乱の中、抑留していた米兵98名全員を虐殺するという事件も起きています。

 やがて、太平洋戦争の主戦場はマリアナやフィリピンへ移り、戦略的価値を失ったウェーク島は、敵からも味方からも見捨てられました。

 そして、島には飢餓が訪れました。椰子の木しか生えていないような絶海の小島に4,000人もの兵士が駐留していました。彼らは全員が極度の栄養失調に陥りました。島にある食べられそうなものは全て食べ尽くし、時折、潜水艦が決死の思いで運んでくる僅かな物資によって、辛うじて命を繋いでいるという状態でした。
 ウェーク島守備部隊は、終戦までに1,331名の戦死・戦病死者を出しますが、そのうちの1,000名以上が餓死だったと云われています。

2017年3月24日金曜日

「100回のKISS三昧」③~松浦亜弥13年のキセキ~ 2004年編

 まずは、2004年の6月に放送されたNHKの「夢・音楽館」からのテイクです。この番組では、「買い物ブギ」とか「ドッキドキLoveメール」など、村田陽一氏がアレンジを担当したテイクが放送されました。リンクになります。


 このNHK番組のテイクは比較的短命のものが多かったんですけど、このファイルはアップしていただいてから、かれこれ1年半ほどになります。視聴回数は一年半で600回ちょっとと、淋しい感じですが、ファンには有名なテイクだと思います。
 このビッグバンドバージョンがあって、スローバージョンがあって、これらがあるからこそ、末永く歌うことが実現できたわけで、そう云う意味でも、このテイクは貴重ですよね。歌に対してのチャレンジングな姿勢というのは、後のカバー曲にも通じるところで、彼女の特徴の1つに思います。

 そして、ただ貴重なだけでなくって、本当にイイ感じなんですよね。アレンジも素晴らしいと思います。

 そして、もう1つが「アロハロ2」ヴァージョンになります。DVDのリリースが2004年の7月とありましたから、この2つは、ほぼ同時期のテイクになります。どちらのテイクからも云えることですけど、発育は確かに良いと思います。Amazonのレビューなんか、そのことしか書かれてませんからね。CDよりも写真集のほうが売れたというのも納得です。


 こんなレビューがありました。
「松浦が大人になるのが早すぎて、複雑な思いがライブをみても、これをみても感じられる。」
ですって。

 「大人になるのが早すぎて」・・・当時のファン心理をうまく言い表していると思います。そして、今回取り上げた2つのテイクに共通していることでもあります。
 この妙な背伸び感は、彼女の魅力でもありましたが、アイドル「あやや」に対するイメージは混乱していったのです。

2017年3月23日木曜日

いきものがかり「SAKURA」を初音ミクがカバーしてくれました

 桜の開花宣言が、あちらこちらで出始めました。温暖化のためでしょうか、このところ、卒業シーズンから咲き始めてしまう年が続きましたが、今年は、入学シーズンに合わせて満開に咲いてくれそうに思います。
 日本人の桜好きは、たくさんの桜の歌を生み出しました。それらは「出会い系」と「別れ系」に分けることができます。桜の花は、希望に溢れる出会いの季節に咲くように思うんですが、桜の散るイメージが別れを連想させるからでしょうか、圧倒的に「さよならソング」が多いように思います。

 「SAKURA」は、2006年3月にリリースされた、いきものがかりのメジャーデビューシングルです。路上ライブを中心に活動していた彼らが、メジャーデビューするにあたっての渾身の一曲になります。題材があまりにもオーソドックスな「桜」をデビュー曲にするについては、いろいろと懸念もあったようですが、奇をてらうことなく、正攻法でぶつかっていったのが良かったみたいですね。まあ、曲さえ良ければ、心配ご無用ということでしょうか。


 続いてボーカロイドカバーです。このブログでも度々紹介させていただいている「melodylights」さんの作品になります。 
 

 伴奏はオリジナルを越えているんではないでしょうかw

 歌の方は「~さくら、まい『チー』る~」のところが、いかにもミクって感じですね。もちろん、これは、ちゃんと個性があるという褒め言葉です。
 それから、これは褒め言葉にならないかもしれませんけど、いきなり高音を出したり、短い息継ぎで歌い続けたりなんてところは、さすがボーカロイドだと思います。下手に人間にカバーされるくらいなら、ミクちゃんに歌ってももらった方が良いと思うんですけど・・・まあ、少数派ですよね。

2017年3月17日金曜日

伊豆と駿河と遠江、そして静岡県

 静岡県というのは、思っている以上に東西に長く延びています。「のぞみ」は全てスルーしますけど、新幹線の駅は6駅もありますし、高速道路を運転していても、静岡県を通りぬけるだけで疲れてしまいます。
 電力会社も富士川を境に、中部電力と東京電力に分かれています。ですから同じ県なのに周波数が50Hzと60Hzの所があります。震災直後、計画停電が夜にあると、東部の人たちは、中部電力の管内である富士川の向こう側に遊びに行ったりしたものでした。
 
 静岡県は、過去には「駿河」「遠江」「伊豆」の3つの国に分かれていました。「遠江」は、現在の西部地方、「駿河」は現在の中部地方と東部地方の半分、「伊豆」が東部地方の残り半分にあたります。
 昔の人が別の国としていたのは、それなりの理由があります。戦国時代、遠江国は今川や徳川が治めていました。伊豆国を納めていたのは北条です。互いに敵対していた国どおしが、同じ県になっているわけですから、まあ、いろいろとあるわけです。

 というわけで、今回は、静岡の県民性についてです。ただし、静岡県民は怠け者が多いとかいう、個人レベルの話にならないように心がけていきたいと思います。

 まずは、言葉です。「浜松弁」と「静岡弁」は、全く別の言語です。単語が異なるだけで無く、イントネーションからして全く違います。標準語を話していると自負している東部の人間からすると、「浜松弁」は、ほとんど「名古屋弁」です。ですから、「静岡弁」と「浜松弁」の違いは、「標準語」と「名古屋弁」との違いに匹敵します。

 それから、浜松の人たちは、「中日ドラゴンズ」を応援しています。東部の人間は、基本的に「ジャイアンツ」です。中部地方の一部には、「横浜ベイスターズ」を応援している人たちがいますが、これは、昔々、静岡が大洋ホエールズのキャンプ地であったことに由来するものです。
 プロ野球のキャンプ地に使われていたくらいですから、静岡の気候は穏やかです。南に駿河湾をかかえ、残りの三方を山に囲まれている静岡市は、陽だまりの中で暮らしているようなものです。宮崎よりも暖かいくらいです。今年、大寒波がやってきて全国的に雪が降った時も、静岡は雨でした。
 一方、浜松は、遠州の空っ風が吹きます。雪雲が濃尾平野を抜けてやって来るので、時々雪も降ります。

 でも、その分、西部の人間は、たくましいところがあります。遠州には、「やらまいか」という言葉があります。とにかくやってみようというチャレンジ精神を表す言葉です。ですから、遠州には、たくさんの起業家が育ちました。音楽の「YAHAMA」と「KAWAI」、自動車の「ホンダ」と「スズキ」など数え切れない程あります。世界の「TOYOTA」は、今でこそ愛知県が本拠地ですが、「豊田佐吉」氏は、遠州の出身です。
 静岡には、「やらまいか」をもじって「やめまいか」という言葉があります。面倒なことをいやがって、現状維持を良しとする精神です。
 江戸時代、大御所となった徳川家康は、駿府(静岡)に住んでいました。ですから、駿府の町はいろいろなことで優遇されていました。家康に甘やかされていた駿府の商人たちは、何の苦労も無く特権を手にしていたんです。日本全国にコンビニが広まっていった時代、最後までコンビニがなかった都市が静岡市でした。

 それから、静岡県人を揶揄する言葉に、「遠州の泥棒」「駿河の物乞い」「伊豆の餓死」というのがあります。食べ物がなくなったときの行動ですけど、この言葉の根拠は、もうお分かりですね。アグレッシブな西部、他人任せの中部ってことです。
 「伊豆の餓死」っていうのは、何もしないってことですけど、あまり困難に遭遇することが無いということの裏返しでもあります。もし、静岡県人について、温暖な気候の中で、争うこと無くのんびり暮らしているというイメージがあるとすれば、東部の人間がそれにあたります。これといった産業もないのに、暮らし向きが豊かで(実際に年収が多いと云うことで無く、気持ちの面で)新車の売上げも一番多いと云われています。

 スポーツは、完全に西高東低です。っていうか、僕が子どもの頃から、運動に限らず全ての部活動において、東部と西部のレベルの差は歴然としていました。野球、サッカーから、吹奏楽、読書感想文にいたるまで、全ての大会、コンクールにおいて東部は西部に敵いませんでした。
 だからといって、頑張ろうってことにならないのが東部の特徴。東部の学校が高校野球やサッカーの代表になれないのは、有力な私学校がないからばかりではありません。
 でも、西部には中学校や高校で燃え尽きてしまう奴も多くって、プロの選手には、東部の人間が意外に多かったりします。

 東部からだと、浜松は東京よりも遠いですし、話し言葉も違うので、外国に行った気分になります。電話代の請求がNTT西日本から来た時は何かの間違いだと思いました。
 西部の人間は、静岡県人にもかかわらず富士山を見ると喜びます。県民あるあるで「静岡県はこんな所です」って「ももクロ」の子が言うと「それは西部のことだろ」ってつっこみ、勝俣が言うと「それは東部だろ」ってつっこまれます。だから、静岡県代表で出てきた奴がどこの出身かを大変気にします。
 
 でも、同じ県のおかげで良いこともあります。炭焼きレストラン「さわやか」があります。手土産に困ったら「うなぎパイ」を持っていきます。パチンコ「コンコルド」のCMを見ることが出来ます。

 このように静岡県は、東日本的で、西日本的で、山あり、海あり、街あり、農村あり、漁村ありと、様々な特性を合わせ持っているので、マーケティング業界では、新製品のテスト販売に使われることが多いと聞きました。

 そんな静岡県民が心を1つにするのが防災訓練です。30年間東海地震のことばかり言われ続けたので、子どもの頃から避難訓練ばかりしています。どんなオンボロ市役所も耐震化だけはガッチリされていますし、どの家庭でも家具は壁に固定されています。避難訓練のネタ話を語り合う時、僕らは同じ静岡県民であることを認識するのです。