「修善寺温泉」は、平安時代前期に開湯された、伊豆で最も歴史ある温泉である。昔、冷たい川の水で病気の父親の体を洗っているのを見た旅の僧侶(実は弘法大師)が、独鈷で岩を突いたところ、岩が割れ温泉が湧き出てきたのが、修善寺温泉の始まりらしい。
修善寺は、大同年間に空海によって創建された「修禅寺」の門前、桂川に沿ってひらけた温泉街である。隣町には、同じように古い歴史をもつ「伊豆長岡温泉」がある。皇室御用達の超高級旅館「三養荘」が有名だが、僕らのイメージは、伊豆長岡は忘年会でハメをはずして、温泉まんじゅうを買って帰るところである。
一方、修善寺温泉は、伊豆の小京都とよばれ、文人墨客に愛された落ち着いた佇まいの温泉である。この違いは、やはり修禅寺の存在が大きい。鎌倉時代の修禅寺は大変広大で、現在の温泉街も寺域の一部に過ぎなかったそうだ。この地が範頼や頼家の幽閉先に選ばれたのも、修禅寺の存在と無縁ではないと思う。
こちらが以前、1200年の伝統を誇る修禅寺でいただいた御朱印である。今までたくさんの御朱印をいただいてきたが、このシュールさは五本の指に入る。
こちらが修善寺温泉のシンボル「独鈷の湯」である。以前は入浴できたが、(但し、道路からは丸見え)現在は見学だけで、足湯も禁止とのことである。桂川の中なので洪水によって流失してしまうこともあり、台風が接近する度に、東屋を解体していたらしい。2004年の台風では、土砂に埋没してしまった。この時は、修善寺の温泉街も大きな被害を受けた。桂川が氾濫したのは、独鈷の湯で川の流れが妨げられたからとされ、近くの公園に移設する話がでたそうだ。温泉街を守るために独鈷の湯を撤去するってことだが、独鈷の湯あっての修善寺温泉なわけで、当然のことながら反対運動が起きた。で、解決策として、19m下流の川幅の広い場所に岩ごと引きずって移動することになった。独鈷の湯の源泉は既に枯れていて引き湯をしていたそうだから、モニュメントとしては、これでOKなんだろう。せっかく来たのに入浴できなくて残念という観光客の書き込みを見るが、草津温泉の湯畑だって入浴してる奴はいないし、すぐ近くには、足湯も日帰り温泉施設もあるから良しとしていただこう。
「指月殿」は、独鈷の湯からすぐ、桂川の右側の斜面を登った所にある。1203年(建仁3年)に「北条政子」が、頼家の菩提を弔うために建立したという伊豆最古の建築物だそうだ。鎌倉時代の建築物ならば国宝指定されてもおかしくないのだが、市の指定文化財で留まっているのは、修繕されている部分が多いのだろう。
安置されているのは釈迦如来坐像で、こちらは県の指定文化財である。檜の寄木造りで、像高203cmという堂々としたお釈迦様だ。鎌倉時代の作とのことであるが、重要文化財に指定されないのは、やはり後補の部分が多いと云うことだろうか。
以前は、両脇に等身大の仁王像が置かれていたのだが、こちらは最近、修禅寺の山門に移された。平安時代作とされているが、文化財の指定は無いようだ。仁王像は野外の過酷な環境にあるから、何度も修繕されていることが多い。結果としてオリジナルの部分が少なくなってしまい、文化財の指定が受けられなくなる。ただ、この像は、後補の部分が多いとしても、ユーモラスで藤原時代の仁王像っぽさは十分に感じることができる。修禅寺の山門に移った仁王像は、ガラス窓で囲まれていて、風雨からは守られるようになった。ただ、修禅寺を訪れた人たちは、そのまま門を通り抜けてしまうので、指月殿に居たときの方が、存在感が何倍もあったように思う。
指月殿の左には「源頼家」の墓がある。正面の大きな石碑は五百年忌に建てられた供養塔で、その裏に隠れている小さな塔が墓なんだそうだ。三基ある五輪塔の真ん中が頼家で、両側が若狭局(ドラマでは「せつ」)と「一幡」といわれているが、正面からは供養塔しか見えないから、誰だってこれが墓だと思うだろう。本当の墓を見るためには、ぐるりと回り込まなくてはならず、写真を撮るために墓域に入ってしまう人もいるそうだ。何故、このような配置にしたのかは謎である。
指月殿は、北条政子が頼家の冥福を祈って寄進した経堂である。さらに政子は、七回忌には重要文化財に指定されている「大日如来座像」を造らせている。頼家は北条氏によって暗殺されたが、供養を蔑ろにされていたわけではない。そう考えると、供養塔の裏側にある五輪塔は、頼家の墓としては不自然なほどに小さい。まあ、全成の墓も実朝の墓も小さかったから、鎌倉時代は大きな墓石を造らない時代であったのかもしれない。
境内には、頼家に殉じた13人の家臣の墓もある。彼らは、頼家暗殺の6日後に謀反を企てるも、北条義時が派遣した金窪行親に討ち取られたとある。家臣だけで謀反など起こせるわけはないから、攻められて致し方なく反抗したのであろう。もともと墓は別の場所(頼家が幽閉されていた庵の跡地)にあったそうだが、2004年の台風による土石流で埋没してしまい、ここに移設されたらしい。右側の古い3基が本来の供養塔で、他は土石流によって失われてしまったとのことである。
こちらは、ネットで見つけた、移設前の貴重な写真である。
大河ドラマでの頼家は、伝えられてきた人物像が、上手い具合にデフォルメされていて良かったし、「金子大地」君の好演が光っていた。伊豆では、悲劇の武将「源頼家」の好感度は高い。二代目鎌倉殿として尊敬と憧れの存在であったのだろう。
「安達藤九郎盛長」の墓は、修禅寺の左の脇道を登りつめたところにある。伝安達盛長墓というのは、全国にいくつかあるらしいが、藤九郎は、頼朝が亡くなった後、出家して修善寺で隠居したと伝わっていて、それが、墓がこの地にある理由だ。
頼朝は14才で伊豆に配流されたが、その時の最大の援助者が「比企の尼」である。藤九郎は比企の尼の娘婿で、尼の命で頼朝の従者になったようだ。頼朝より12才年上で、佐殿の人脈の形成から女性の調達まで、流人時代を支えた唯一の家臣である。旗挙げの際には、坂東の豪族への根回しに帆走し、鎌倉殿の13人に名を連ねる宿老となったが、生涯無位無官であったと云う。自身の出世よりも、頼朝の従者の勤めに徹した一生だったのだろう。安達氏が御家人の筆頭として勢力を伸ばすのは、5代執権「北条時頼」の時代からである。
「野添義弘」さんが演じた安達盛長は、癒やし系キャラで人気も高かった。今回の大河ドラマでは、定説とされている人物像にアレンジを加えることが多いようだが、藤九郎に関しては、こうあって欲しいというキャラクターで描かれていて嬉しい限りである。
今、配られている観光マップには藤九郎の墓が紹介されているが、少し前に設置された案内板には、頼家と範頼の墓は載っているが、藤九郎の墓は記載されて無い。大河ドラマのおかげで、安達盛長も世間に知られるようになり、墓を訪ねる者も見られるようになったとのことである。
「源範頼」の墓は、藤九郎の墓の近く、温泉街を見下ろす丘にある。「正岡子規」は修善寺を訪れた時に「此の里に かなしきものの 二つあり 範頼の墓と頼家の墓」と詠み、「夏目漱石」は「範頼の 墓濡るゝらん 秋の雨」という句を残しているそうだ。和歌のことはよく分からないが、有名な人の作なので、きっと名歌なのだろう。立派な墓石は、昭和7年に、日本画家「安田靫彦」のデザインにより建立されたとあるから、子規らは、この墓石を詠んだわけではない。
お墓の周りは、小さな公園のようになっていて、立派な案内板も立っている。明治までは、ここに八幡宮と称された小さな祠があり、範頼の墓として密かに祀られていたらしい。つまり、この地が範頼の墓だと公にされたのは、明治以降ということになる。謀反人であるがゆえに、幕府を憚って偽祭したとのことであるが、鎌倉時代が終わった後も、偽祭されつづけたのは気の毒な話である。
実は、範頼は、修善寺に幽閉された記録は残っているが、暗殺されたという確かな証拠は無いそうだ。範頼が落ちのびたとされる地は、全国各地に伝わっている。
墓苑のすぐ隣に古民家カフェがあるので、お庭を眺めながら抹茶白玉あずきをいただこう。縁側には、範頼を演じた「迫田孝也」さんの色紙が置かれていた。日付がドラマが始まる1年も前だったので、配役が決まったときにお参りにきたのだろう。源平合戦では、名将である義経と凡将な範頼というように、二人は対照的な人物として描かれてきた。大河ドラマでも変わりはないのであるが、義経をサイコパス的に描いているために、蒲殿がとても良い奴になっていて面白かった。範頼は、歴史の教科書に出てくる有名人であるにもかかわらず、大変地味な存在なので、ドラマが始まる前までは、カフェを訪れる人はいても、墓を訪れる人はほとんどいなかったらしい。
小さな庭だが、手入れは行き届き、伊豆の山並みが借景になっていて、のんびりと素敵な時間を過ごすことができる。明治時代の建物そのままということでエアコンは無いが、蚊取り線香の匂いと風鈴の音、吹き抜ける風が心地よく、散策のゴールにするには至高の場所である。ただし、不定休であるので、ここまで来て休業日だったときのダメージは計り知れない。