2019年に狩野川台風に匹敵するといわれた「台風19号」がやってきて、狩野川流域に浸水被害が出ました。その時の様子は、こちらに投稿させていただきました。
図書館の2階、郷土資料室の片隅にあったその展示は、会議机2つ分の、あまりにもささやかで、笑ってしまうような特別陳列であった。
小学生だった頃、狩野川台風の話を聞かされたことがあった。たぶん社会科の時間だと思う。当時、完成して間もない「狩野川放水路」の授業だった。その時、担任は、僕らに1つの作文を読み聞かせた。それは、洪水に流された子どもの体験談だった。作文のラストは、自らを励ますために学校で習った歌を歌いながら、流木につかまって流されていくシーンになっていた。
歌いながら流されていくという場面に、僕は衝撃を受けた。それから僕は、台風が来る度に、洪水のニュースが流される度に、この話を思い出した。
僕が特別展を訪ねたのは、担任が50年前に読み聞かせた、その作文を確かめるためだった。
狩野川台風が来襲した年、旧田方郡(現:函南町・伊豆の国市・伊豆市)の小中学校では、子どもたちに水害関連の作文を書かせ、デキの良い作品を集めて、狩野川台風の特集号を作っていたのだ。
僕は、「ささぶね」と名付けられた小学生の文集を手に取った。「洪水はこわかったです。」とか「自衛隊の人が助けてくれました」とか「仲良しの○○ちゃんが死んでしまいました。」みたいな作文が掲載されいる。全ては、生々しい体験談だ。しかし、そこには、歌いながら流されていくことを書いた作品はなかった。担任が読み聞かせたのは、文集ではなかったのだろう。まあ、念のためと、次に中学生の文集を開いてみた。
僕の捜し物は、その巻頭にあった。
中学生の作文だった。「大仁中学校3」とあるから3年生のようだ。改めて読み返す。間違いない。ところが、その文章は、稚拙とまでは云わないが、あまりにも平易であった。中学生も3年生ともなれば、しかも、学校代表であれば、作家顔負けの文章を書くものである。彼女が、作文が得意な生徒ではないことは明らかだった。しかし、当時の教師達は、この作品を一位と評価したのだ。文集の巻頭に掲載されるというのは、そういうことである。
会話と簡単な感情記述で構成されたその作文は、確かに、平易ではあったが、特集号の巻頭に相応しい作品であった。
(作品はコピーさせていただきました。ブログの最後に載せてあります。)
狩野川台風とは、昭和33年9月26日に、中伊豆地方に甚大な被害をもたらした台風22号のことである。
翌年の同じ9月26日には「伊勢湾台風」が来襲している。だから、僕らのところでは、「狩野川台風」と「伊勢湾台風」は、一年違いの同じ日と記憶されている。実は、狩野川台風は、26日夜に伊豆半島をかすめた後、相模湾を進んで鎌倉付近に上陸したのだが、その時は、日付が変っていたので、上陸日は27日ということになるらしい。母の話によると、27日は台風一過でピーカンだったそうだから、上陸は27日だったんだよなんて話をしたら、怪訝そうな顔をしていた。
台風22号について、ウィキペディア等の記述を参考にまとめると、次のようになる。
・「狩野川台風」は、気象庁が公式に命名した最初の台風である。
(それ以前の命名は自然発生的なものだった)
・死者・行方不明は1,269名。被災地域が田園地帯であったことを考えるとこの犠牲者数は極めて多い。
・翌年の伊勢湾台風の陰に隠れ知名度は低く、昭和の3大台風(室戸・枕崎・伊勢湾)にも入ってない。
最近では、伊勢湾台風は聞いたことあるけど、狩野川台風なんて知らないという静岡県人も多い。
・最大勢力は、気圧877hPa、最大風速75m/sで、気圧の低さでは戦後第4位である。
ただし、これは海上にあった時のデータであり、上陸時の気圧は960hPaほどに衰えていたらしい。
台風が急速に衰えたのは、日本列島に流れ込んでいた寒気の影響とされている。この時、秋雨前線は日本の南の海上に停滞していた。狩野川台風は、秋雨前線を押し上げながら北上し、上空の寒気と遭遇して伊豆地方に大量の雨を降らせた。狩野川台風は、典型的な「雨台風」であった。
狩野川台風は、首都圏にも多大な浸水被害を与えたが、人的被害は狩野川流域に集中している。その原因については以下の通りである。
・上流の天城山に記録的な降水があった。
湯ヶ島では21時からの時間雨量が120mm、総雨量は753mmと記録されているが、
天城山での総雨量は1000mmを越えていたと推定される。(当時、天城山には雨量計が無かった。)
・一週間前に、台風21号が伊豆地方を襲い、すでに天城山が大量の雨水を含んでいた。
この時の台風のために、狩野川流域の白山堂では堤防が破損していた。
・戦後の復興需要で、天城山では大量の森林が伐採されていた。
・洪水の発生が夜間であった。
・狩野川流域は水害の多発地帯であったため、放水路の建設が行われていたが、
戦争や戦後の財政難のために建設工事が進んでいなかった。
静岡県の地形は、北に富士山、南に駿河湾と、北から南へ低くなっている。ところが、狩野川は、太平洋岸の川では珍しく南から北へ流れているため、下流域では北から流入する土砂に流れが圧迫され、排水能力が低い。そのため、度々浸水被害を出してきた。
歌いながら流されていくという場面に、僕は衝撃を受けた。それから僕は、台風が来る度に、洪水のニュースが流される度に、この話を思い出した。
僕が特別展を訪ねたのは、担任が50年前に読み聞かせた、その作文を確かめるためだった。
狩野川台風が来襲した年、旧田方郡(現:函南町・伊豆の国市・伊豆市)の小中学校では、子どもたちに水害関連の作文を書かせ、デキの良い作品を集めて、狩野川台風の特集号を作っていたのだ。
僕は、「ささぶね」と名付けられた小学生の文集を手に取った。「洪水はこわかったです。」とか「自衛隊の人が助けてくれました」とか「仲良しの○○ちゃんが死んでしまいました。」みたいな作文が掲載されいる。全ては、生々しい体験談だ。しかし、そこには、歌いながら流されていくことを書いた作品はなかった。担任が読み聞かせたのは、文集ではなかったのだろう。まあ、念のためと、次に中学生の文集を開いてみた。
僕の捜し物は、その巻頭にあった。
中学生の作文だった。「大仁中学校3」とあるから3年生のようだ。改めて読み返す。間違いない。ところが、その文章は、稚拙とまでは云わないが、あまりにも平易であった。中学生も3年生ともなれば、しかも、学校代表であれば、作家顔負けの文章を書くものである。彼女が、作文が得意な生徒ではないことは明らかだった。しかし、当時の教師達は、この作品を一位と評価したのだ。文集の巻頭に掲載されるというのは、そういうことである。
会話と簡単な感情記述で構成されたその作文は、確かに、平易ではあったが、特集号の巻頭に相応しい作品であった。
(作品はコピーさせていただきました。ブログの最後に載せてあります。)
狩野川台風とは、昭和33年9月26日に、中伊豆地方に甚大な被害をもたらした台風22号のことである。
翌年の同じ9月26日には「伊勢湾台風」が来襲している。だから、僕らのところでは、「狩野川台風」と「伊勢湾台風」は、一年違いの同じ日と記憶されている。実は、狩野川台風は、26日夜に伊豆半島をかすめた後、相模湾を進んで鎌倉付近に上陸したのだが、その時は、日付が変っていたので、上陸日は27日ということになるらしい。母の話によると、27日は台風一過でピーカンだったそうだから、上陸は27日だったんだよなんて話をしたら、怪訝そうな顔をしていた。
台風22号について、ウィキペディア等の記述を参考にまとめると、次のようになる。
・「狩野川台風」は、気象庁が公式に命名した最初の台風である。
(それ以前の命名は自然発生的なものだった)
・死者・行方不明は1,269名。被災地域が田園地帯であったことを考えるとこの犠牲者数は極めて多い。
・翌年の伊勢湾台風の陰に隠れ知名度は低く、昭和の3大台風(室戸・枕崎・伊勢湾)にも入ってない。
最近では、伊勢湾台風は聞いたことあるけど、狩野川台風なんて知らないという静岡県人も多い。
・最大勢力は、気圧877hPa、最大風速75m/sで、気圧の低さでは戦後第4位である。
ただし、これは海上にあった時のデータであり、上陸時の気圧は960hPaほどに衰えていたらしい。
台風が急速に衰えたのは、日本列島に流れ込んでいた寒気の影響とされている。この時、秋雨前線は日本の南の海上に停滞していた。狩野川台風は、秋雨前線を押し上げながら北上し、上空の寒気と遭遇して伊豆地方に大量の雨を降らせた。狩野川台風は、典型的な「雨台風」であった。
狩野川台風は、首都圏にも多大な浸水被害を与えたが、人的被害は狩野川流域に集中している。その原因については以下の通りである。
・上流の天城山に記録的な降水があった。
湯ヶ島では21時からの時間雨量が120mm、総雨量は753mmと記録されているが、
天城山での総雨量は1000mmを越えていたと推定される。(当時、天城山には雨量計が無かった。)
・一週間前に、台風21号が伊豆地方を襲い、すでに天城山が大量の雨水を含んでいた。
この時の台風のために、狩野川流域の白山堂では堤防が破損していた。
・戦後の復興需要で、天城山では大量の森林が伐採されていた。
・洪水の発生が夜間であった。
・狩野川流域は水害の多発地帯であったため、放水路の建設が行われていたが、
戦争や戦後の財政難のために建設工事が進んでいなかった。
静岡県の地形は、北に富士山、南に駿河湾と、北から南へ低くなっている。ところが、狩野川は、太平洋岸の川では珍しく南から北へ流れているため、下流域では北から流入する土砂に流れが圧迫され、排水能力が低い。そのため、度々浸水被害を出してきた。
そして、狩野川は大きな氾濫を起こす度に、流れを変えてきた。源頼朝が配流された「蛭ヶ小島」は、今は田方平野の田んぼの中にポツンとあって、島でもなんでもないのだが、平安時代は、このあたりを狩野川が流れていたと云われている。
昭和33年9月26日、午後9時頃から天城山で多発した土石流は、大量の流木を伴って狩野川を流れ下っていった。旧修善寺町横瀬にある修善寺橋は、頑丈に作られた鉄橋だったので流失を免れていたが、ここに上流からの大量の流木などが堆積し橋梁が閉塞、橋の上流側に洪水湖を形成した。やがて橋は水勢に耐えきれなくなり倒壊、大量の土石流が一気に下流地域を襲ったのである。この土石流で、避難所になっていた修善寺中学校は流失、多くの犠牲者を出した。
洪水は、下流にある大仁橋も倒壊させたが、この時、橋のたもとの護岸が削られて、熊坂地区が濁流にのみこまれた。熊坂地区は全域が洪水の被害に遭い、住民の3割が犠牲になった。 1が破壊された大仁橋。2の辺りが瓜生野地区があったところ。3の辺りが熊坂地区があったところである。この2つの集落は、家屋のほとんどが流され、特に大きな被害を出した。
熊坂地区から撮った現在の狩野川。上流の大仁橋方面。
狩野川記念公園にある慰霊碑。
熊坂小学校も浸水被害にあったが、山の縁に建てられていてたので、辛うじて流失は免れている。これは学校再開時の有名な写真。亡くなった児童の机には、花瓶が置かれている。熊坂小学校では、児童78名、教師2名が犠牲になっている。
氾濫原の中にポツンと取り残されているのが、旧大仁町中島地区。ここが「中島」と呼ばれていた理由がよく分かる。中島地区は周囲よりわずかに高かったおかげで、流失をまぬがれた。作文の作者も中島に住んでいたようだが、「新住」と云っているから、中島地区の中でも新しく開かれた所で、土地も低かったと思われる。中島地区の家屋の流失率は50%とある。
修善寺橋の倒壊は午後10時。洪水がいっきに押し寄せたことと、夜間であったため、人々は自宅の屋根に登るのが精一杯であった。昔の日本家屋は、浸水が2mを越えると流失が始まるとされている。これは、一階の天井部分まで水に浸かることによって浮力が発生するからである。作文では、作者の家屋の流失が始まったのは、午後10時50分となっている。
旧伊豆長岡町にかかる「千歳橋」。作文に出てくる「長岡の橋をこぐった」とあるのは、この橋のこと。千歳橋は鉄橋であったので流失をまぬがれた。洪水域で唯一残った橋であり、今でも伊豆長岡温泉へのメインルートとして使われている。
この橋にも大量の流木が堆積している。溢れ出た洪水は、写真手前、旧韮山町方面に流れ、田方平野一帯を水没させた。
狩野川は、函南町に入ると流れを大きく西側に曲げる。ここでも堤防が決壊して、洪水は、まっすぐ北へ流れ、函南町仁田(父の話によると、今の田方農業高校のあたり)で、渦を巻いて滞留したようである。
背後に見える山の形から、洪水が滞留し、作者が流れ着いた仁田の辺りと思われる。彼女が凍える妹を抱き、歌を歌いながら救助を待ったのが此処。水が引いた後の瓦礫の下からは、捜索によって、たくさんの遺体が発見された。
中島から仁田までは、直線距離にして約10kmである。作文には、時間や時刻の記載がある。漂流しているのにも関わらず、時間を把握できていると云うのは、不思議な感じがするが、救助された後で、時刻などを教えてもらったのかもしれない。救助を待ちながら滞留していた時間を除くと、彼女たちは10kmを2時間半ほどで流されたことになり、平均時速は約4kmである。
作文には、流れて来た別の家に乗り移る場面が書かれているので、漂流の速度は一定では無く、かなり緩やかに流されていた時間帯もあったことが分かる。
作文は、二人が救助されたところで終わっていて、洪水の中で分かれた兄妹たちの記述が無い。家族がどうなったかは、彼女にとって最も大切なことだろうから、作文に書いていないというのは不自然である。書かれていたが掲載の都合でカットしたのか。それとも最初から書かなかったのだろうか。
狩野川台風から7年後、工事開始から15年後の昭和40年に狩野川放水路は完成する。
放水路は、伊豆の国市の墹之上から狩野川を分流し、2つのトンネルでショートカットして駿河湾へ流すようにできている。普段は水門を閉じていて、狩野川が増水すると水門を開けて放流を開始する。近年、最も大量の放水がされたのが、平成19年の台風9号の時で、放流によって狩野川の水位は約3.7m低下した。
放流は、年に平均2・3回行われているらしい。
昭和33年9月26日、午後9時頃から天城山で多発した土石流は、大量の流木を伴って狩野川を流れ下っていった。旧修善寺町横瀬にある修善寺橋は、頑丈に作られた鉄橋だったので流失を免れていたが、ここに上流からの大量の流木などが堆積し橋梁が閉塞、橋の上流側に洪水湖を形成した。やがて橋は水勢に耐えきれなくなり倒壊、大量の土石流が一気に下流地域を襲ったのである。この土石流で、避難所になっていた修善寺中学校は流失、多くの犠牲者を出した。
1は支流の大見川。2が狩野川である。2つの川が合流した先の3のあたりが修善寺橋のあったところ。コンクリート製で重さ150トンあった橋桁は 800m下流にまで押し流されたという。
洪水は、下流にある大仁橋も倒壊させたが、この時、橋のたもとの護岸が削られて、熊坂地区が濁流にのみこまれた。熊坂地区は全域が洪水の被害に遭い、住民の3割が犠牲になった。 1が破壊された大仁橋。2の辺りが瓜生野地区があったところ。3の辺りが熊坂地区があったところである。この2つの集落は、家屋のほとんどが流され、特に大きな被害を出した。
熊坂地区から撮った現在の狩野川。上流の大仁橋方面。
狩野川記念公園にある慰霊碑。
熊坂小学校も浸水被害にあったが、山の縁に建てられていてたので、辛うじて流失は免れている。これは学校再開時の有名な写真。亡くなった児童の机には、花瓶が置かれている。熊坂小学校では、児童78名、教師2名が犠牲になっている。
氾濫原の中にポツンと取り残されているのが、旧大仁町中島地区。ここが「中島」と呼ばれていた理由がよく分かる。中島地区は周囲よりわずかに高かったおかげで、流失をまぬがれた。作文の作者も中島に住んでいたようだが、「新住」と云っているから、中島地区の中でも新しく開かれた所で、土地も低かったと思われる。中島地区の家屋の流失率は50%とある。
修善寺橋の倒壊は午後10時。洪水がいっきに押し寄せたことと、夜間であったため、人々は自宅の屋根に登るのが精一杯であった。昔の日本家屋は、浸水が2mを越えると流失が始まるとされている。これは、一階の天井部分まで水に浸かることによって浮力が発生するからである。作文では、作者の家屋の流失が始まったのは、午後10時50分となっている。
旧伊豆長岡町にかかる「千歳橋」。作文に出てくる「長岡の橋をこぐった」とあるのは、この橋のこと。千歳橋は鉄橋であったので流失をまぬがれた。洪水域で唯一残った橋であり、今でも伊豆長岡温泉へのメインルートとして使われている。
この橋にも大量の流木が堆積している。溢れ出た洪水は、写真手前、旧韮山町方面に流れ、田方平野一帯を水没させた。
狩野川は、函南町に入ると流れを大きく西側に曲げる。ここでも堤防が決壊して、洪水は、まっすぐ北へ流れ、函南町仁田(父の話によると、今の田方農業高校のあたり)で、渦を巻いて滞留したようである。
背後に見える山の形から、洪水が滞留し、作者が流れ着いた仁田の辺りと思われる。彼女が凍える妹を抱き、歌を歌いながら救助を待ったのが此処。水が引いた後の瓦礫の下からは、捜索によって、たくさんの遺体が発見された。
中島から仁田までは、直線距離にして約10kmである。作文には、時間や時刻の記載がある。漂流しているのにも関わらず、時間を把握できていると云うのは、不思議な感じがするが、救助された後で、時刻などを教えてもらったのかもしれない。救助を待ちながら滞留していた時間を除くと、彼女たちは10kmを2時間半ほどで流されたことになり、平均時速は約4kmである。
作文には、流れて来た別の家に乗り移る場面が書かれているので、漂流の速度は一定では無く、かなり緩やかに流されていた時間帯もあったことが分かる。
作文は、二人が救助されたところで終わっていて、洪水の中で分かれた兄妹たちの記述が無い。家族がどうなったかは、彼女にとって最も大切なことだろうから、作文に書いていないというのは不自然である。書かれていたが掲載の都合でカットしたのか。それとも最初から書かなかったのだろうか。
狩野川台風から7年後、工事開始から15年後の昭和40年に狩野川放水路は完成する。
放水路は、伊豆の国市の墹之上から狩野川を分流し、2つのトンネルでショートカットして駿河湾へ流すようにできている。普段は水門を閉じていて、狩野川が増水すると水門を開けて放流を開始する。近年、最も大量の放水がされたのが、平成19年の台風9号の時で、放流によって狩野川の水位は約3.7m低下した。
放流は、年に平均2・3回行われているらしい。
(平成29年の台風19号でも、大量の放水が実施されたが、狩野川の水位は越水寸前まで上昇し、危険な情況であった。)
水門を開放したところ
放流トンネルの海側出口
ところが、この放流が思わぬ騒ぎになったことがある。放流口のある江の浦地区は、近年、鯵の養殖業が盛んで、たくさんの養殖筏があるのだが、放流された淡水が筏に流れ込んでしまい、とんでもないことになった。漁業関係者にとっては、水門が開放されるかどうかは大変な関心事で、放流によって養殖に被害が出た場合は、補償金が支払われることになっているらしい。
最後に、親から聞いたどうでもイイ話を3つほど。
洪水の後、狩野川流域の家には嫁をやるなという雰囲気があった。ある家に、狩野川流域の家との縁談話があった。実家の両親がその家を訪ね「失礼ですが、こちらの被害はいかほどでしたか?」と訪ねたところ「うちは、床下浸水でしたから大丈夫でしたよ。」と笑った顔の向こう側の壁には、洪水痕がくっきりとあった。
たくさんの遺体が流れ着いた函南町の蛇が橋付近では、夜な夜な幽霊が出るとの噂が絶えなかった。幽霊を乗せたタクシーがあるというので、新聞社が取材に来て、タクシーの運転手一人一人に聞いてまわったが、幽霊を乗せたタクシーなど一台も無かった。
狩野川河口域の浸水常襲地帯での話。水に浸かると、家の中には大量の土砂が入り込んでくる。それらは、水が引いて乾くと固まってしまい、洗い流すのが大変である。そこで、洪水の水が引き始める時を見計らって家の中に入り、土砂を掻き出して引いていく水で流すと、家の中が綺麗になる。
「恐ろしい一夜」 大仁中学校3 西島秋代
屋根の上にいる子供達に、憎らしい風雨は吹きつける。屋根にへばりついていないと吹き落とされそうな風。顔、手、足、そして耳にも痛いほどに吹きつける雨。水はきちがいのように荒れ狂っている。礼子、悦子、幸江、美恵子、マーチャン、テッチャン、おにいちゃん、そして私達は、風雨のために頭の毛は乱れ、寒さのために口も思うようにきけない。十時五十分、スウーッと家が流れ出した。そして、それから三時間半、死ぬような思いの旅が始まった。
家はみるまに速度を増し、ミシミシと壊れ始めた。おにいちゃんが
「みんなこの家が壊れたら何でもいいからつかまるだぞ!いいか、わかったな!」
とまるで腹の底からしぼるような声で叫んだ。でもそれより風雨の方が激しく、兄の声は時々打ち消された。家は見る間に壊れ、とてもこんなに大勢では沈んでしまいそうになっていた。兄は電池を回し、少しでも皆を元気づけようと
「最後までがんばるんだ。何でもいいからつかまれ!そして浮いているんだぞ!」
と叫ぶ。前後左右で
「おかあちゃん、おかあちゃん。」
「おおーい、たすけてー。」
「みさ子ー。」
などと声がする。(助けてやりたい。でも私だって危ない)そのうちどこかの家が流れてきた。まず兄が乗った。
「よし、だいじょうぶだ。みんなこっちへ移れ。」
子供達は無我夢中で移った。悦子も私も移ろうとした。その時、家がまた流れ出した。
「秋代ちゃんしっかりするんだぞう。」
(もうだめだ。私と悦子と二人になってしまった。でもどこを流れているのだろうか。燈が見える。光が動いている。人だ。人間だ。)
「たすけてー。」
と叫ぶ。(だめだ。どこまで流されていくのだろう。助かるだろうか?……。いやだ。死ぬなんて……。)
「秋代ねえちゃん、ずっといっしょにいようね?」
と言う。悦子はえらい。涙一つ浮かべない……。と、
「たすけてー。」
すぐ向こうでかすかな声が聞えた。だれかいる。
「これにつかまって。」
屋根に上げてやる。新屋のおじさんだ。たしかに中島の人だ。
「おじさん泳いで来た?」
「あーもうだめだ。子供もみんな死んでしまった。」
「おじさん。そんなこと言わないで生きられるだけ生きようよう。」
「あーだけどなあー、お前さんはどこの人だ。」
「新住だよう。おじさんは新屋だら?」
「おお新住か、新住も流れたかあ。」
「おじさん、この柱を二つ持っていようよ。これが壊れても沈まないようにね。」
「おー。」
長岡の橋をこぐった。ものすごい波だ。
「あっ、たすけ……。」
(もぐっているのだ。屋根がひっくり返ったのだ。苦しい、息がつまる。これで死んでしまうのか。苦しい。上に出なければ……。)
あっ!助かったのだ。息ができる。苦しくない。
「秋代ねえちゃん。」
悦子だ。悦子がいる。
「よかったねえ。」
「本当によかったねえ。」
あっ!新屋のおじさんがいない。(死んでしまったのだろうか?かわいそうに。でも、どうしてがんばらなかったのだろう。私だって悦子だって生きているのに……。)おや、あそこに大きな柱が流れて来た。あれにつかまろう。
「悦子、それにつかまんな!いい?つかまった?ほらひっぱるよ。」
「これにつかまっていればもう平気だね?」
「うんもう何でもないよ。」
(でも、ここはどこだろう。もうだいぶ流れて来たようだ。本流を流れているのだろうか?流れが速い。空もだんだんと曇ってきたようだ。雨が降りませんように……。)あっ、森だ。(あそこに着いてくれますよう……。)あっ、人がいる。
「たすけてー。」
「おーい、しっかりするんだぞうー。」
「たすけてー。」
(だめだ、またはなれてしまった……。)
「悦子、ねむったい?ねちゃあだめだよ、ねたら死んでしまうよ。うん?寒い?こら、悦子おきな!」
「あっ、曲がった!」
(あー流れがゆるやかになった。ここは水がぐるぐると回っているだけだ。もう流れはないかもしれない……。でも、この水がひけたら、海へ流れるだろう。そうしたらもう、私の大好きな音楽も聞けないだろう。歌を歌おう、私の生きている時の最後の歌を……。)
うさぎおいし かの山……。
あっ、人がいる。燈が見える。動いている。人の話し声が聞える。
「たすけてー。」
「おーい。今いくぞオー、しっかりしていろー。」
「悦子。今に助けてもらえるからねッ。もうすぐだからねッ。ねちゃあだめだよ。ほら、ひっくりかえるじゃあ。ねえちゃんの顔が見える?ほら、あの光が見える?寒いねえッ悦子。」
それから数十分後私達は仁田で助けられた。長く、そして恐ろしい一夜がすぎた。
水門を開放したところ
放流トンネルの海側出口
ところが、この放流が思わぬ騒ぎになったことがある。放流口のある江の浦地区は、近年、鯵の養殖業が盛んで、たくさんの養殖筏があるのだが、放流された淡水が筏に流れ込んでしまい、とんでもないことになった。漁業関係者にとっては、水門が開放されるかどうかは大変な関心事で、放流によって養殖に被害が出た場合は、補償金が支払われることになっているらしい。
最後に、親から聞いたどうでもイイ話を3つほど。
洪水の後、狩野川流域の家には嫁をやるなという雰囲気があった。ある家に、狩野川流域の家との縁談話があった。実家の両親がその家を訪ね「失礼ですが、こちらの被害はいかほどでしたか?」と訪ねたところ「うちは、床下浸水でしたから大丈夫でしたよ。」と笑った顔の向こう側の壁には、洪水痕がくっきりとあった。
たくさんの遺体が流れ着いた函南町の蛇が橋付近では、夜な夜な幽霊が出るとの噂が絶えなかった。幽霊を乗せたタクシーがあるというので、新聞社が取材に来て、タクシーの運転手一人一人に聞いてまわったが、幽霊を乗せたタクシーなど一台も無かった。
狩野川河口域の浸水常襲地帯での話。水に浸かると、家の中には大量の土砂が入り込んでくる。それらは、水が引いて乾くと固まってしまい、洗い流すのが大変である。そこで、洪水の水が引き始める時を見計らって家の中に入り、土砂を掻き出して引いていく水で流すと、家の中が綺麗になる。
「恐ろしい一夜」 大仁中学校3 西島秋代
屋根の上にいる子供達に、憎らしい風雨は吹きつける。屋根にへばりついていないと吹き落とされそうな風。顔、手、足、そして耳にも痛いほどに吹きつける雨。水はきちがいのように荒れ狂っている。礼子、悦子、幸江、美恵子、マーチャン、テッチャン、おにいちゃん、そして私達は、風雨のために頭の毛は乱れ、寒さのために口も思うようにきけない。十時五十分、スウーッと家が流れ出した。そして、それから三時間半、死ぬような思いの旅が始まった。
家はみるまに速度を増し、ミシミシと壊れ始めた。おにいちゃんが
「みんなこの家が壊れたら何でもいいからつかまるだぞ!いいか、わかったな!」
とまるで腹の底からしぼるような声で叫んだ。でもそれより風雨の方が激しく、兄の声は時々打ち消された。家は見る間に壊れ、とてもこんなに大勢では沈んでしまいそうになっていた。兄は電池を回し、少しでも皆を元気づけようと
「最後までがんばるんだ。何でもいいからつかまれ!そして浮いているんだぞ!」
と叫ぶ。前後左右で
「おかあちゃん、おかあちゃん。」
「おおーい、たすけてー。」
「みさ子ー。」
などと声がする。(助けてやりたい。でも私だって危ない)そのうちどこかの家が流れてきた。まず兄が乗った。
「よし、だいじょうぶだ。みんなこっちへ移れ。」
子供達は無我夢中で移った。悦子も私も移ろうとした。その時、家がまた流れ出した。
「秋代ちゃんしっかりするんだぞう。」
(もうだめだ。私と悦子と二人になってしまった。でもどこを流れているのだろうか。燈が見える。光が動いている。人だ。人間だ。)
「たすけてー。」
と叫ぶ。(だめだ。どこまで流されていくのだろう。助かるだろうか?……。いやだ。死ぬなんて……。)
「秋代ねえちゃん、ずっといっしょにいようね?」
と言う。悦子はえらい。涙一つ浮かべない……。と、
「たすけてー。」
すぐ向こうでかすかな声が聞えた。だれかいる。
「これにつかまって。」
屋根に上げてやる。新屋のおじさんだ。たしかに中島の人だ。
「おじさん泳いで来た?」
「あーもうだめだ。子供もみんな死んでしまった。」
「おじさん。そんなこと言わないで生きられるだけ生きようよう。」
「あーだけどなあー、お前さんはどこの人だ。」
「新住だよう。おじさんは新屋だら?」
「おお新住か、新住も流れたかあ。」
「おじさん、この柱を二つ持っていようよ。これが壊れても沈まないようにね。」
「おー。」
長岡の橋をこぐった。ものすごい波だ。
「あっ、たすけ……。」
(もぐっているのだ。屋根がひっくり返ったのだ。苦しい、息がつまる。これで死んでしまうのか。苦しい。上に出なければ……。)
あっ!助かったのだ。息ができる。苦しくない。
「秋代ねえちゃん。」
悦子だ。悦子がいる。
「よかったねえ。」
「本当によかったねえ。」
あっ!新屋のおじさんがいない。(死んでしまったのだろうか?かわいそうに。でも、どうしてがんばらなかったのだろう。私だって悦子だって生きているのに……。)おや、あそこに大きな柱が流れて来た。あれにつかまろう。
「悦子、それにつかまんな!いい?つかまった?ほらひっぱるよ。」
「これにつかまっていればもう平気だね?」
「うんもう何でもないよ。」
(でも、ここはどこだろう。もうだいぶ流れて来たようだ。本流を流れているのだろうか?流れが速い。空もだんだんと曇ってきたようだ。雨が降りませんように……。)あっ、森だ。(あそこに着いてくれますよう……。)あっ、人がいる。
「たすけてー。」
「おーい、しっかりするんだぞうー。」
「たすけてー。」
(だめだ、またはなれてしまった……。)
「悦子、ねむったい?ねちゃあだめだよ、ねたら死んでしまうよ。うん?寒い?こら、悦子おきな!」
「あっ、曲がった!」
(あー流れがゆるやかになった。ここは水がぐるぐると回っているだけだ。もう流れはないかもしれない……。でも、この水がひけたら、海へ流れるだろう。そうしたらもう、私の大好きな音楽も聞けないだろう。歌を歌おう、私の生きている時の最後の歌を……。)
うさぎおいし かの山……。
あっ、人がいる。燈が見える。動いている。人の話し声が聞える。
「たすけてー。」
「おーい。今いくぞオー、しっかりしていろー。」
「悦子。今に助けてもらえるからねッ。もうすぐだからねッ。ねちゃあだめだよ。ほら、ひっくりかえるじゃあ。ねえちゃんの顔が見える?ほら、あの光が見える?寒いねえッ悦子。」
それから数十分後私達は仁田で助けられた。長く、そして恐ろしい一夜がすぎた。
6 件のコメント:
勉強になりました。
ありがとうございます。
また、ご意見をお聞かせください。
凄い作文だなぁ。これを小学生の時に読み聞かされれば、強烈に印象に残りますね。この子(失礼、僕より10歳以上年上でした。)その後の人生が幸せであったと思いたいです。
記事にあるとおり、僕の幼い頃、伊勢湾台風や第2室戸台風とか甚大な被害をもたらした台風がありましたね。しかし、狩野川台風については、全く知りませんでした。
僕の住む町は子供の頃は、住居のある土地と、水田のある土地の高低差が大きく、台風の後、父親に手を引かれて、堤防が決壊し海のようになつた水田地帯をみた記憶があります。
また、高1の時に床上浸水も経験しました。もっとも、床上20センチ程度でしたので、命の危険を感じるようなことは無かったです。ただ、ご両親のお話にあるとおり、水が引いた後にヘドロのような悪臭を発する泥が残り、これを洗い流すのが大変でした。当時、父親が既に使用が禁止されていたDDTを床下に撒いていたのを覚えてます。
私も狩野川台風について、大変に勉強になりました。ありがとうございました。
DDTって、何十年ぶりかで聞きました。
洪水は衛生面でも厳しいようですね。
昔は、トイレとかも汲み取りでしたから、尚更だったようです。
体験談にも、想像しただけで気分が滅入るような記述がありました。
狩野川台風については、改めて調べてみると、
いろいろと知らないこともあって、
僕自身の勉強になりました。
今年は、各地でいろいろな行事が組まれていたようですが、
完全に昔話になりつつあります。
60年も前の話ですから、致し方ないことですが・・・。
DDTは、父親が県の職員で洪水の当時は出先機関にいて、そこに保管されてたもののようです。それを勝手に?持ち出して撒いてました。今じゃとても許されないでしょうが、昔だし洪水だしお咎め無しでした。笑笑
高3の時に今度は床下浸水をやったので、流石にこれはいかんと家を1メートルくらいジャッキアップしました。
平屋でしたが、居住しながらアップしてしまうのには驚きました。
のんびりした時代だったようですね。
実際に浸水を体験した方で無ければ
分からないご苦労があったことと思います。
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