静岡県東部に沼津という街がある。長らく県東部地区の商都として栄えてきたが、最近は元気が無い。駅前のデパートは、居酒屋が入居する雑居ビルになってしまったし、商店街はシャッターが目立つ。そんな沼津市で唯一賑わっているところが、沼津港の周辺だ。海産物を売る店や、海鮮料理屋が並んでいて、観光バスが次々とやってくる。お目当ては「アジの干物」「生シラス」「生桜エビ」といったところだろうか。観光地価格でボッタくらないのが人気の理由らしい。
沼津という地名は、狩野川河口の「沼沢地にある湊」という意味だから、港周辺が栄えるのは、古の姿に戻ったようで面白い。
沼津の港には、西伊豆で捕れた豊富で多様な海産物が集まり、周辺には加工場が多く作られた。とくに「鰺の干物」の生産量は、現在まで不動の全国一位である。干物の材料のアジは、今では外国産や養殖物になってしまったが、干物業者が云うには、材料がどこであっても、沼津で干物に加工しているのだから立派な国産品だそうだし、養殖業者が云うには、駿河湾の鰺の養殖技術は抜群で、味も安全性も天然物を超えているそうだ。
僕は、伊豆半島のとある漁村で生まれ、僕の祖父は漁師だった。僕が言葉を覚え始めた頃、家には魚の図鑑があって、魚を見ると「オトト」「オトト」と言っていたらしい。どの魚を指しても全て「オトト」というので、家族は、「これは?」「これは?」と、面白がって聞いていたが、あるとき、突然「アジ」と言ったそうである。駿河湾でアジがたくさん捕れていた時代の話である。
当時、駿河湾のアジは、巻き網で捕っていた。巻き網漁は、2隻の網船でイワシやアジの群れを囲い込んで捕る漁法である。今では、どんな小さな漁船だってエンジンくらい付いているだろうが、当時の網船は大型の伝馬船でエンジンは無く、漁場まではエンジン付きの漁船に曳航されていたそうである。
漁は夜間におこなわれた。漁師たちは、夕方になると弁当を持って出かけ、夜が明けると帰ってきた。納戸という部屋が家の奥にあって、昼間はそこで寝ていた。僕らが、家の近くで大騒ぎして遊んでいると、「寝ているから静かにしろ」って、近所のおばさんに叱られたものである。
月夜の晩は、漁は休みであった。それから、風が強かったり、波が高かったりする日も漁を休んでいた。村の爺さんたちは、ベンチに座って海をよく見ていた。「今日はニシ(西風)が強い」とか「今日はナライ(東風)だ」とか、風の話が挨拶代わりだった。
だから、なんだかんだで、漁に出ない日も多かった。近隣の村では、大型の漁船を使って遠く太平洋まで出かけていったり、多少の荒波でも漁に出ていたので、「うちの村の漁師は怠け者だ」なんて揶揄する者もいたが、使っている船が船だからってこともあるし、資源保護の意味合いもあったように思う。
漁に出ない日は、網の修繕などをしていた。仕事で縫い物をしていたので、漁師はみんな裁縫が得意だったそうだ。でも、休みの日のほとんどは、酒を飲んでいたように思う。昼間っから酔っ払いが歩いているなんてのは、漁村ならではの光景だろう。
祖父は、自分の船を持たず、網元が運用する巻き網船にのっていた。船の名前は「えびす丸」、いわゆる雇われ漁師だった。あるとき、祖父たちの漁船が操船を誤って座礁し、乗っていた伝馬船が転覆するという事故が起こった。夜の9時頃、漁場に向かう途中のことだったらしい。漁師たちは、伝馬船(網船)の上で仮眠をしていて、夜の海に投げ出された。が、海に落ちたといっても、漁師である。夏だったし、海が荒れていたわけでもなかった。
ところが、転覆した伝馬船には、大量の漁網が積んであった。漁師たちは、網と一緒に海に落ち、このことが、事故を大きくした。
その夜、僕は、異様な雰囲気を感じて目が覚めた。寝床から這い出すと、縁側で母と祖母が、誰かと話し込んでいた。近づいて話しかけようとしたら、「お前はあっちに行ってろ」みたいなことを言われたのを覚えている。
事故は、南伊豆町の妻良沖で起きた。妻良の漁協から村の漁協に事故の状況を伝える連絡が続々と入ってくる。漁協に届いた連絡は、口伝いで村の人たちに広がっていった。
父は、消防団員として、妻良に向かって出て行った。今は、車で飛ばせば1時間もかからない所だが、当時は、未舗装の曲がりくねった山道しかなかった。
翌朝、僕は幼稚園に行くために玄関にいた。すると、祖母に連れられた祖父が、浜の方から歩いて来るのが見えた。仲間の船に乗せられて帰ってきたのだろう。祖父は裸足であったが、新しい上下の服を着ていたそうだから、妻良の人たちに着せてもらったものかもしれない。
祖父は、玄関先に立っている僕を見つけると、僕の名前を呼び、抱きついてきた。祖父が泣いていたのを覚えている。僕は、ようやく、大変なことが起こっていたのだと分かった。
村では、5件の葬式が出た。
事故の状況について、「滅多なことを云うもんじゃ無い」と、祖父は家族に釘を刺していたらしい。狭い村だ。濃くて複雑な人間関係の中で暮らしていたから、不用意な発言が、どこにどう伝わっていくか分からなかった。
妻良の人たちには、いろいろと世話になったと聞いた。救助されて最初に与えられたのは、お湯で、次に重湯が出てきたという。
祖父は、その後も漁師を続けていたが、次第に駿河湾のアジの漁獲量は減少していった。簡単に云ってしまえば資源の枯渇だろうが、年寄りの話だと、もっと昔はアジなど捕れなかったそうだから、アジが捕れたのも、捕れなくなったのも、自然界の大きな変動の1つに過ぎないのかもしれない。
「えびす丸海難事故」についての僕の記憶は、縁側で話し込んでいた祖母たちの姿と、祖父に抱きつかれたことである。これらは、僕が辿ることのできる最も古い記憶の1つだ。
そして、この記事を書きながら気づいたことであるが、あの時、涙を流して僕に抱きついてきた祖父は、今の僕と同い年である。
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