僕の通っていた中学校は、1学年が約200人という結構な大規模校だったんですけど、当時は、運動部至上主義でしたので、文化系の部活は、吹奏楽部と休部状態の科学部しかありませんでした。僕は運動が苦手でしたので、卓球部にでも入ろうかなって思ってたのですが、ひょんなことから、吹奏楽部に入ることになりました。
もう40年以上も前の話なんですけど、歳をとるとこんな昔話ばかり思い出してしまいます。まあ、僕の音楽活動の原点とも云えることですので、宜しかったらお付き合いください。
吹奏楽部の練習場は、鉄筋校舎群の外れにぽつんと残された木造校舎にありました。僕と友人は、部長の前に立ちました。部長は、トランペットを担当しているT先輩でした。T先輩は、僕たちを見て、まず友人に「お前は、体が大きいからユーホニューム。」僕には、「お前は、小さいからトランペット。」と言いました。
吹奏楽部は、部員が30人程しかいない、弱小部でした。顧問は全く姿を見せず、放任状態で、吹奏楽コンクールにも参加できないような部でした。
部室にあてがわれた木造校舎は、吹奏楽部専用の部屋でした。入り口には、錠前が掛かっていて、鍵は部長が持っていましたが、まず僕らは、鍵を使わずに錠前を開ける方法を伝授されました。中学生が校内に自分たちだけの部屋をあてがわれていたわけで、部室は完全に秘密基地状態でした。先輩も後輩も男子も女子も仲が良く、遊んでばかりいました。そんな吹奏楽部が崩壊することも無く、部活動としての体裁を保つことができたのは、T先輩を中心とした3年生の存在があればこそでした。
T先輩は、頃合いを見計らって、遊んでいた僕たちを集めました。僕らは、円く椅子を並べて座ります。「教則本5ページ。いくぞ、せーのーで」顧問のいない僕らは、T先輩のかけ声に合わせて、演奏を始めました。それが僕らの全体練習でした。
T先輩は、足に障害を持っていました。差別用語で云うところの「びっこ」でした。大人たちの噂によると、小さい頃、交通事故に遭ったとのことでした。
僕の住んでいた町は、街道に沿って東西に長く延びた宿場町でした。僕の家は、街道の東側にありましたが、T先輩の家は、同じ東側でも一番端の地区にありました。足に障害のあるT先輩は、特別にバス通学の許可をもらっていました。
僕は、T先輩に誘われて、よく一緒に帰りました。そんな時、T先輩は、学校の近くのバス停でなく、駅前のバス停まで一緒に歩いてからバスに乗りました。話が弾んだときなどは、僕の家のところまで歩いて、そこからバスに乗ることもありました。
ある時、T先輩は、「腹が空いたから、お好み焼きを食べよう」と言いました。僕は、驚きました。登下校中の飲食店への出入りは、禁止されています。誰かに見られて、チクられでもしたら大変なことになります。この頃の先生たちは、さすがにグーでは、殴りませんでしたが、ゲンコツやビンタは日常茶飯事でしたからねw
T先輩は、周りを見回して誰もいないことを確かめると、お好み焼き屋に入っていきました。店のおばちゃんと先輩は、知り合いのようでした。僕は、先輩からお好み焼きを奢ってもらいました。食べ終わると、おばちゃんは、外を覗いて、「今なら大丈夫だよ」と言って、僕らを送り出しました。
僕は、T先輩が大人に見えました。
夏になりました。
当時は、野球部至上主義でした。今では信じられないことですが、野球部だけは特別で、中体連の試合は、市営球場で行い、全校応援が常識でした。吹奏楽部も応援に参加しました。やっていることは、高校野球の応援の真似ごとでした。
応援団長が僕らの部室を訪ねてきました。団長は、3年生で、部活のレギュラーになっていないお調子者が、任命されていたみたいです。団長は、高校野球でやっている「コンバットマーチ」を応援でやりたいと言いました。T先輩は、コンバットマーチの音階をトランペットで探りながら、紙にメモしていきました。
T先輩は、「できたぞ」と言って、黒板に、音符でなくって、「ドー・ラファラドー」って階名を書きました。皆で黒板を見ながら、演奏しました。何回もやっていくなかで、それぞれのパートが勝手にアレンジを加えて、僕らのコンバットマーチができあがりました。
団長は、「部活よりも楽しい」と言って、毎日のように僕らの部室に来て、応援の練習をしました。ついには、「俺も吹奏楽部に入れば良かった。」と言い出す始末でした。
野球部の大会が始まりました。初戦の相手は、小規模校でした。吹奏楽部の無い学校のようで、僕らは、応援でも試合でも、相手校を圧倒して勝ちました。
次の日の相手は、大規模校でした。この学校の吹奏楽部は、県大会の常連校でした。ところが吹奏楽部は、コンクールの練習で、応援には来ていませんでした。来ていたのは、コンクールに出られない2軍(主として1年生)のメンバーでした。吹奏楽部の強豪と言っても、1年生中心の2軍です。校歌を演奏するのがやっとみたいな連中でした。僕らは、弱小とは云え、3年生まで含めたフルメンバーでした。オリジナルのコンバットマーチも持っていました。僕らは、応援で圧倒しましたが、肝心の野球部が負けてしまったので、野球部共々、僕らの夏も終わりました。
秋の文化祭に向けての練習が始まりました。T先輩は、皆を集めて、どんな曲をやりたいのか聴きました。あれこれ話し合った末、何曲か候補曲が決まりました。その頃流行っていた、カーペンターズとかだったと思います。T先輩は、今度の日曜日に楽譜を買ってくるから、明日、一人100円ずつ持ってくるように言いました。
日曜日、T先輩は、皆から集めたお金を持って、電車で隣町の楽器屋へ出かけました。僕と2年生の先輩も一緒について行きました。楽器屋で楽譜を探しましたが、話し合いで出てきた曲は売っていませんでした。先輩は、売っている中で、同じようなジャンルの曲を買うことにしました。文化祭で演奏する曲が揃いました。
演奏曲には、トランペットのソロパートがありました。ちょうど3曲あるから、一人1つずつやろうってT先輩が言いました。僕は、「十字勲章」という曲のソロパートをもらいました。8小節ありましたが、中音域で吹きやすく、僕の得意なスラーがたくさん付いているメロディーでした。
文化祭まで、あと1週間ほどになった時、顧問がやってきました。文化祭のステージでは、顧問が指揮をすることになっていたので、合わせに来たのでした。「どんな曲をやるの、楽譜見せて」と顧問は言いました。顧問は、曲の出だしや、終わり、いくつか気になったところを指摘して帰りました。それは、僕が顧問から受けた、初めての指導でした。
僕は、2年生になりました。木造校舎は取り壊され、練習場は鉄筋校舎の中の音楽室になりました。それ以外は、何も変わりませんでした。
T先輩は、高校へ進学し吹奏楽部に入っていました。先輩は、障害を持っていたので私学の受験ができませんでした。噂によると市内でも№1の進学校に入れるくらい勉強ができたそうですが、私学の併願ができないため、志望校を1ランク落として受験をしたとのことでした。
新学期が始まって間もなく、T先輩がやってきました。いろいろと雑談をした後で、皆を集めました。T先輩は僕らに向かって、指揮者を決めるように提案しました。「お前たちに必要なのは、指揮者なんだ」と力説しました。
僕らは、面食らってしまいました。それは無理な話に思えました。みんな楽器が演奏したくて部活をやっていました。その楽器を捨てて、指揮者に専念するなんて考えられないことでした。第一、指揮者は、先生がやることで、生徒がやるものではありませんでした。それに、僕たちは、今までずっと指揮者無しでやってきたんですから。
僕は、T先輩が進学した高校の定期演奏会を見に行きました。先輩の学校の吹奏楽部は、特に上手くも下手でもないレベルと云われていましたが、高校生の大規模編成の吹奏楽の演奏は、さすがに迫力があって、僕は圧倒されました。そして、何より驚いたのは、T先輩が1年生でありながら、1曲だけとはいえ、ソロパートを任されていたことでした。
僕は、T先輩を誇りに思いました。
僕は、3年生になりました。吹奏楽部は、相変わらずの弱小部でしたが、男子部員がほとんど入ってこなくなりました。入ったものの、親に反対されて、運動部に転部する子もいました。それまでは、男子は金管楽器、女子は木管楽器というような雰囲気があったのですが、金管楽器のいくつかは、女子が担当するようになりました。
実は、それ以上に変わったことがありました。新しい顧問がやってきたのです。
新顧問は、音楽の若い女教師でした。前任校は吹奏楽部が無かったらしく、顧問になれて嬉しいと言いました。こんな弱小吹奏楽部でも、彼女にとっては、宝物に思えたのでしょう。
新顧問は、毎日のように部活に来ました。3年生の僕は、ご想像の通り、新顧問に反抗的な態度をとりましたが、所詮、子どもが大人に敵うはずも無く、吹奏楽部の活動は、新顧問のペースで進んでいきました。
新顧問は、講師を連れてきて、僕らの練習を見てもらいました。僕らは、演奏について細かい指導を受け、注意されたことを赤鉛筆で楽譜に書き込みました。
合同練習にも参加しました。市内の吹奏楽部員が集まって指導を受けました。トランペッターも1つの部屋に集まって練習しました。中には、県大会常連校の部員もいました。僕は、強豪校の部員は、凄い演奏技術を持っているのだと勝手に思っていましたが、実際に会ってみると、技能的には、僕とさほど違わないように思いました。僕はちょっと拍子抜けしました。
僕は、1年生でありながらソロパートを任されたT先輩を思い出しました。僕ら個々の演奏技術は、強豪校とさほど違わないのなら、その差は、どこで生まれるのだろうか。
「お前たちに、必要なのは、指揮者なんだよ」
僕は、T先輩の言ったことがようやく理解できました。必要なのは、個々の技術を引き出して、1つにまとめる力。高校の吹奏楽部では、顧問以外にも、生徒が指揮を担当します。T先輩は、それを見て指揮者の必要性を思い知り、それを僕らに伝えたかったのだと思いました。
今、僕らの指揮者の位置にいるのは、新顧問でした。
僕らは、吹奏楽コンクールに出場することになりました。部員30名の小規模編成の部です。学校によっては、部員を30名に選抜して参加するところもあるようですが、僕らは、補欠無しの全員合わせての30名でした。
夏になり、野球の応援が始まりました。新顧問は応援の練習などより、コンクールの練習をしたかったようですが、長いこと続けてきた伝統でしたから、簡単に変えることもできないようでした。新顧問は、応援の時も付いてきました。
応援の演奏というのは、テンション物ですから、やっているうちにどんどんテンポが速くなります。新顧問は、指揮をしながら「速い速い」と叫んでいましたが、やがてあきらめたと見えて、何も言わなくなりました。
僕は、愉快に思いました。
野球の応援も終わり、いよいよコンクールの練習が本格的に始まりました。が、僕は、何故か突然のスランプに陥りました。楽曲の中に、2小節のファンファーレのソロパートがあるのですが、それが上手く吹けなくなってしまいました。高音域の音とは云え、出せない音ではありませんでした。普段なら問題なく吹ける音のはずなのに、2回に1回の割合で失敗してしまうのです。
応援で頑張りすぎたかな、なんて考えましたが、有り得ないことです。特に緊張しているつもりもないのですが、どうしても、2回に1回の割合で失敗してしまうのです。僕は、だんだん自信を無くしていきました。
コンクールの日がやってきました。僕は、相変わらず2回に1回の割合で失敗していました。まあ、逆に考えれば、2回に1回は成功しているのですから、本番で成功すれば良いだけのことです。僕は、できるだけ気にしないようにしました。
そして、本番で、僕は失敗しました。
僕らの結果は、次点でした。上の大会へは、進めませんでした。採点表をもらってきた新顧問は、「入賞校とは少しの差だった」と言いました。「審査員の中には、私たちの方を高く評価してくれた人もいた」と慰めてくれました。でも、それは、僕にとって慰めの言葉でもなんでもありませんでした。
「僕が失敗しなければ、入賞したということじゃないか」
秋の文化祭が終わって、僕は、バンドに誘われました。僕は、受験勉強そっちのけで、3月の予餞会へ向けて、バンド活動に熱中しました。
高校では、アマチュア無線に熱中して、理系オタクの道を進みました。2年生の時、再びバンドに誘われました。この辺りの話は、以前、昔話として、投稿させていただいた通りです。
高校でも、吹奏楽部に入れば良かったと思うことは、ありませんでした。
入っていたらどうなっていただろうと考えてみましたが、結局、何も思い浮かびませんでした。
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