2018年6月17日日曜日

丸山純奈が「ワン・コーラスだけで良いですかあ?」と歌ったドリ・カム「うれしい!たのしい!大好き!」の完成度

丸山純奈さんがボーカルを担当する「POLU」ですが、先日は「松山」で合同ライブ、今週末は「沖縄・宮古島」、そして、7月の始めには北海道の「新ひだか町」のイベントに呼ばれているみたいです。8月までは、週末ごとに何かしかのイベントに呼ばれているようで、なんか絶頂期のWinkみたいで、他人事ながら心配になってきます。

また、合同ライブでは、トリを務めることが多くなってきているようで、インディーズ系のバンドの中では、頭一つリードの感があります。とは云っても、先日の大阪ワンマンライブでは、スタンディング500人のライブハウスでチケット完売とはならなかったようですから、音楽の世界というのは、なかなか厳しいところのようです。

最近は、動画の撮影も厳しくなってきていて、ライブテイクがYouTubeに上がり難いようです。少しづつ有名になっていくのは、嬉しいことですが、淋しくもあります。

で、今回貼り付けさせていただくライブテイクは、2018年の2月10日に国営讃岐まんのう公園で開催されたバレンタインコンサートからになります。予定では、イルミネーションに照らされた野外ステージでのライブだったようですが、雨のために、急遽、場所をビジターセンターに移しておこなったとのことでした。

どうやら、突然のアンコールで、DREAMS COME TRUEの「うれしい!たのしい!大好き!」をワン・コーラス限定で披露する場面のようです。           


練習していないと云っているわりには、なかなかの完成度だと思います。サポートギターの「熊五郎」君との相性も良いようです。彼女にとっての練習とは、即ち、歌詞を覚えることなのでしょう。

実は、同じライブで、広末涼子さんの「MajiでKoiする5秒前」も歌っているのですが、足元に歌詞カードを置いてあるみたいで、歌っている時に下ばかり見ています。
ですから、彼女の場合、練習云々というよりも、歌詞カードを用意して有るか無いかが、重要なことのようです。

一般撮影されたライブテイクとしては、今のところ、これが最後になっていると思います。POLUの活動については、徳島新聞さんも精力的に動画をアップしてくださっているんですけど、ダイジェスト版が多いし、プロのマスコミさんにしては、動画の撮り方が、どうもイマイチなんですよね。

さて、丸山純奈さんは、バンドのボーカリストであること以上に、バラードシンガーの活動が高評価なのですが、僕が思うに、彼女の魅力が最も現れるのは、ギター伴奏1本での、いわゆるストリートシンガーを演じているときではないかと思います。

こちらは、一年前のテイクになります。同じ中学2年生なんですけど、日付が5月5日となっていますから、まだ13歳ですね。8ヶ月違うだけで、だいぶ幼く見えます。

   
「祈り~ユー・レイズ・ミー・アップ~」については、一流ミュージシャンたちの素晴らしいテイクがYouTube上に溢れかえっていますので、比較するのも酷な話ですけど、まあ、流行っているから挑戦してみようかというノリでしょうか。

歌が、細切れになっているのが気になりますが、これは、サポートギターの「バン」さんの責任もあるかと思います。もちろん、一言一言つぶやくように歌うというのもアリですが、彼女の場合、この歌い方はちょっと勿体ないように思います。

で、歌が2番になったときに、こっそり譜面をのぞきに来るところが、ナンとも可愛らしいです。これだけきっちり歌えているのに、歌詞は覚束ないのが、彼女らしいところであります。


国営讃岐まんのう公園といえば、彼女たちにとって、この夏、最大のイベントであろう「MONSTER baSH」が開催されるところでもあります。POLUは、サブ会場でのライブということになるでしょうが、フェスには、アコースティック用のステージもあるとのこと。いっそのこと、こちらに出演させてもらっても、面白いかもしれません。

できれば、「竹原ピストル」さんの次あたりで・・・w

2018年6月16日土曜日

「初音ミク×鼓童」スペシャルライブ参戦報告 後編 ~和太鼓とボカロ超高速歌唱の共演は最早カオス~

前編では”このライブは無料でも良かったのでは”などと書いてしまいましたが、鼓童のライブだと思えば、妥当な料金かもしれません。プロの和太鼓演奏など、こんな時でなければ聴くことも無かったわけですし。で、鼓童だけでの演奏は3曲ほど有ったように思います。見たことも無い大太鼓とか、目にも止まらぬバチさばきとか、さすがに格好良かったです。

一方、ボーカロイドだけの演奏も3曲ほどありましたが、面白いことに全てが鏡音リン・レンの曲で、こちらはいつものライブのノリでしたよ。

今回のセットリストの中で印象に残っているのは、何と云っても「南部牛追い歌」です。鼓童のお姉さんがソロで歌を披露してくれたんですけど、途中から初音ミクとのデュエットになりました。人間とボーカロイドの歌の共演。これこそ、僕が待ち望んでいた演奏で、こういうことが、もっと自然に、広く演奏されるようになってくれれば嬉しい限りです。この一曲が、今回のライブにおける最大の収穫だったと云えます。

でも、「ビバハピ」を演奏したときは、ビックリしました。何が凄いかって・・・。ボカロファンには有名な曲ですけど、知らない人も多いと思うので、貼り付けさせていただきますね。


この曲を和太鼓と合わせたら、どうなるか想像できますでしょうか。まあ、何事も、挑戦することは大切ですけど。

で、さらに凄かったのは、「初音ミクの激唱」です。


初音ミクの単独ライブでさえ、こんな感じなのに、これに和太鼓の音が、もろに被さってくるんですよ。最後の方なんて、何が何だか全然分からなくって、いろいろな音がNHKホールにわんわん響き渡ってました。もう、現代音楽など超越して、もはやカオス。笑うしかありません。

ただ、ライブレポートには、この曲で「感動した」とか、「凄く盛り上がりました」とか書き込まれていましたので、新人類(ニュータイプ)の人たちは。こういう音楽をちゃんと聞き分けることができるのでしょうね。

「ハジメテノオト」とか「桜の雨」の時は、和太鼓の音も控えめで、初音ミクの歌もちゃんと聞こえていたので、少しほっとしました。鼓童さんには、申し訳ありませんでしたけど。

それから、「千本桜」の時は、不思議と合っていたんですよ。僕にもちゃんと聞こえてきました。どうやら、和太鼓には和太鼓独特の音階があって、それが千本桜に合っていたのかと思います。って云うか、ただ単に、千本桜=和風という先入観に影響されていただけかもしれません。

伝統的な和太鼓と、近未来的なボーカロイド、日本が誇る2つの芸術文化を融合させようと云う試みが、成功していたのかどうか、僕には分かりません。
ただ、これは、初音ミクだからどうと云う話ではないように思います。安室奈美恵さんだって、松浦亜弥さんだって、和太鼓の伴奏でライブができるとも思えません。
そもそも和太鼓という楽器を、伴奏用として使うことが正しかったのでしょうか。だとすれば、人間では無い初音ミクだから、つまり、初音ミクの楽器としての側面で、かろうじてライブを成立させていたのでは無いか、なんて考えてしまいました。

まあ、いずれの演奏も、BS放送の時は、音声を調節してくれるでしょうから、NHK的には問題ないかと思います。せっかく、ハイビジョン4Kで放送してくれるって云うのですから、旧人類である、おじさんは、参戦するよりもテレビで見てた方が良かったかもしれません。

しかし、それでは、和太鼓が伴奏用の打楽器として、つまり単なる脇役として使われていただけになってしまい、今回のライブの主旨とは云えません。
やはり、初音ミクと鼓童が対等にパフォーマンスすることによって、生じるカオスこそが、今回のライブの本質だったのではないかと思います。・・・・おじさんにはキツいことでしたけど・・・・。

2018年6月9日土曜日

「初音ミク×鼓童」スペシャルライブ参戦報告 前編 ~和太鼓の破壊力はバーチャルをも粉砕!?~

6時過ぎとは云え、まだ明るい渋谷の街を僕は歩いていた。相変わらず若者と外人でごった返している騒がしい街だ。
「渋谷」は、その名の通りの「谷」である。スクランブル交差点が渋谷の谷底にあたる。だから、交差点に立つと、ぐるりと周りにあるビルとネオンが覆い被さってくる。まるで、武道館のアリーナに立って、スタンド席を見上げてるみたいだ。この街が異様にハイテンションなのは、この地形のせいなのだ。って大発見したつもりでいたのだが、「ブラタモリ」でも云ってたかもしれない。

渋谷なんて馴染みの無い街に、こんな短期間で2度も来てしまったのは、「初音ミク×鼓童」のスペシャルライブに参戦するためだ。僕は、NHKホールに向かって坂道を登っていった。「NHKホール」・・・なんという文化的な響きだろう。

先月おじゃましたライブハウス「eggman」の前の信号をわたると、NHKホールが見えてきた。グッズ売り場をスルーして、入り口でチケットを提示する。チケットもぎりのお嬢さんからして、品格があるように思う。マジカルミライで行った幕張メッセのお姉さんとは明らかに違う(ゴメンナサイ)。

NHKホールのキャパは3500人。今では、ドームとかアリーナとかの大箱でライブをすることが普通になってきたから、たいしたことないように思うが、正規のコンサートホールとしては、日本屈指の大ホールなのだ。入ったときは、それほど大きく感じなかったのだが、とてつもなく高い天井と、遥か彼方の三階席を見たとき、その大きさを実感した。
今回ゲットしたのは、P席である。コンビニで発券してチケットの「P」って字を見たときは、A、B、C、・・・随分後ろだなあって思ったのだが、「P」はオーケストラピットの「P」だと分かった。まあ、端っこの方ではあるが、それでも前から3列目という、ライブ参戦史上最前席だ。
目の前には、テレビカメラを載せたトロッコのレールが敷かれていて、隅には、ケーブルさばきの兄ちゃんがつまらなそうにしゃがんでいる。今回は、ハイビジョン4Kの撮影も入っているらしい。

鼓童からは、9人のメンバーが参加してきていた。初音ミクのバックバンドは、今回4名だったから、出演者は13人の人間と、4体のバーチャルシンガーである。
ライブは、19時きっちりに始まって、終わったのは、21時ちょうど。機械のように正確なのは、初音ミクが機械だからだ。

観客は、基本的には、マジカルミライと同じような感じだったが、夜の部のためか、親子連れは1組くらいしか見なかった。中年夫婦みたいなカップルが多いのは、ファンの年齢が毎年上がっていくからで、当たり前のことなのに、初音ミクが永遠の16歳のせいで次第に違和感が出てきている。一緒に歳をとっていれば、初音ミクも26歳の立派な大人なのだ。観衆が中年男女でも、26歳のシンガーのライブだったら、全く問題ないだろうに。
僕の斜め前に、明らかに後期高齢者のお爺さんが一人で来ていた。鼓童のファンなのだろうか。これから始まるライブのことを思うと、大丈夫なのか心配になってしまったが、いざ始まると、控えめながらもペンライトを振っていたので、安心した。

今回のライブは、オリジナルペンライトが全員に支給されていた。それで鼓童と初音ミクが出ていて、NHKホールのS席7500円は安い、って云うか、マジカルミライの9000円がぼったくりなんだろう。
両手にペンライトを持っているのは、昼の部にも参戦した奴だろう。マジカルミライは、毎年SOLD OUTだが、このライブは、当日券も出ていたようだ。


鼓童の和太鼓から、ライブは始まった。すぐに初音ミクが出てきて、共演となったのだが、これがトンデモナイことだった。

僕の席は、端の方なので、片方のスピーカーの音ばかりが聞えてくる。それだけでも聞き取りにくいのに、それに鼓童の和太鼓から直に出てくる音が、もろに被さってきたのだ。鼓童の皆さんの鍛え上げられた腕っぷしで、力いっぱい叩かれた和太鼓の生音は、アンプで電気的に増幅された楽器音など、いとも簡単に粉砕してしまった。
テレビ放送やDVDの音は、PAによって調整されるから、問題なく聴くことができるのだろうが、和太鼓から直接ホールに聞えてくる音は、PAでは制御できない。初音ミクの歌が、和太鼓の音でかき消されてしまうという、予想もしない事態に戸惑うばかりである。
まあ、これは、僕の席でのことなので、中央の後ろの方だったら、もう少しちゃんと聴こえているかもしれない。前席の端というのが、完全に裏目に出てしまったということにしておこう。だとしても、ホール内の音のバランスは、崩壊していたことに変わりない。

まあ、NHKとしては、良い番組を作ることが、最優先の目的なのだろう。僕らは、いわゆるスタジオ見学の視聴者代表の扱いだったのだ。お笑い番組などで見られるように、演者は、誰かに見られている方がやりやすいと云う。僕らは、鼓童の皆さんが演奏しやすいよう呼ばれた観客なのだ。さらに、ホールに響くコールとか歓声とか、ペンライトを振る姿とかを撮影すれば、ライブの盛り上がりや臨場感を伝えることができるわけだし。って、だったら無料でも良くないか?

というわけで、ちゃんとPAを通した演奏を貼り付けさせていただきます。しつこいようですが、ホールでは、こんな風に聞えてませんでしたよ。


まあ、和太鼓の生音を侮ってはイケないということを思い知らされたわけである。

お終いに、テープ砲が発射されて、頭上から大量のテープが振ってきた。せっかくだから、2本ほど記念にもらうことにした。こういうのって、ただのキラキラテープだと思っていたのだが、ちゃんとライブ名が印字されている専用のテープだってことを初めて知った。それとも、NHKだからなのか。比べようも無いので分からないままである。


というわけで、まずは悪口をまとめて書かせていただきました。ライブには、もちろん良かったこともあったわけで、それについては、後編で。

2018年6月7日木曜日

人工知能搭載型ボーカロイド「初音ミクAI」への道 その3 ~歌詞ってナンだろう~

歌うことに関して云うと、日本語は特殊な言語だと云う。

歌うとは、言葉を音にのせることである。1つの音には、1音節または1拍の音声が対応する。例えば、「ILove You」は、文字数は8であるが音節数は3だから、歌うためには音符が3つあればよい。
ところが、「オレはオマエを愛してる」と歌うと、日本語は、ほぼ「文字数=拍数」だから12拍となり、12個の音符が必要になる。
夏目漱石みたいに「月がきれいですね」と意訳すると9文字9拍、二葉亭四迷の「死んでもいいわ」でも7文字7拍である。
中国語は音符1つに漢字1文字だと思うが、漢字はそれ自体に意味を持つので、7文字歌えばかなりの情報量になる。

これは、俳句の世界でも同じで、日本語の俳句は、5・7・5の17拍の中にいかに情報を盛り込むかを工夫するものだが、英語俳句では、17音節だと情報量が多すぎて俳句っぽくなくなるそうで、2・3・2の7音節とか、3・4・3の10音節で作ることが普通らしい。

日本語は、歌うにあたって音符を大量消費する世界的にも珍しい言語なのであり、同じ音符数で比べた場合、日本語の歌は英語の約半分の情報量しか持っていないのである。

 例えば、Norah Jones「Don't Know Why」で繰り返し歌われるフレーズ「I don't know why I didn't come」(どうして行かなかったのか、自分でも分からない)は音符8個で歌われるが、この文を8文字の日本語に意訳するのはかなり難しい。「私、ここに居たの」とか「立ち尽くすばかり」などと意訳して歌ってるテイクがYouTubeにあって、なかなか健闘しているとは思うが、「愛していたはずなのに、最後の最後でためらったことへの後悔」というニュアンスを伝えきれてるとは言い難い。

そんな日本語が持つ弱点の対応策として、いくつかのチャレンジがなされてきた。1つは、70年代のフォークソングに見られる、16分音符を大量に用いて歌いまくる方法である。
他にも、1音に複数の文字を当てはめ、英語っぽく歌ってしまうというやり方があるそうで、近年、実践しているアーティストも多くなっているとのことである。

そして何より、日本の作詞者は、限られた文字数の中で、いかに想いを伝えるかを工夫してきた。

演歌などは、あれこれ欲張らずに、7・5調の短い場面描写だけで、楽曲を成立させている。修飾語で飾り立てることが難しいから、名詞中心のシンプルな歌詞になる。
さらに言葉が省略されたり、抽象的な言い回しも多い。「I Love You」だって「好きだ」だけなら3拍でOKだ。
ただ、こういうことをしていると、多くのJ・POPの歌詞がそうであるように、聴き心地の良い単語やキーワードの羅列になり、読み取りは、どんどん難しくなる。

前回紹介させていただいた、丸山純奈ちゃんの「始まりのバラード」だって、平均的学力(?)の中学2年生が、歌詞の内容をどこまで読み取れているのか疑問である。(ちなみに彼女は、「得意教科は?」と聞かれて「体育です!」と即答したらしい。)

あなたの「強さ」と名付けられる愛のために、私が「情熱」をなくすってことは、見栄っぱりの彼に、彼女がドン引きしたってことだし、その二人が「またロマンスに抱かれる」のだから、焼け木杭に火が付いたという話になる。いったい「始まりのバラード」って、何が始まったことを伝えたいのだろう。僕には、「アンジェラ・アキ」さんがこの歌に込めた想いを、正しく読み取る自信がない。

そもそも、この歌は、1番が「あなた」であり、2番が「わたし」を歌っているようなのだが、ハッキリしない。純奈ちゃんが「わたし」と「あなた」と「ふたり」をごちゃ混ぜにして歌ってしまうのは、誰が何をどうしたかを、ちゃんと書ききることが難しい日本語の歌詞が原因とも云えるのだ。

以前、人工知能搭載型ボーカロイド「初音ミクAI」の記事で、歌詞は限定された文章なので、AIでも読解は可能だろうなどと気軽に書いてしまったが、細かく描写しなくても、日本人同士なら分かり合えるだろうって前提で書かれた文と、その文で構成された文章の行間を、AIが読み取れるとは思えない。

しかし、歌を聴くのは、文章を読むのとは異なる。聴き手は、必ずしも歌詞全体の構成をとらえながら聴いているわけではない。歌は、その場限りで消えて無くなっていくものだから、今聴いているワンフレーズやワンセンテンスに違和感を感じなければ、全体の構成が理解できなくても、感動できてしまうのだ。
純奈ちゃんが「世界一長い夜にも必ず朝は来る」ってサビで歌うとき、僕がうるっときてしまうのは、その部分しか意識にないからである。

僕は、学校で歌わされた校歌が嫌いだった。1番が「光あれ」で、2番が「力あれ」とかになっていると、必ず間違えたものだった。歌詞が入れ替わっても通用してしまうからだ。
そもそも「光」と「力」は同じではない。それが交換可能になってるのは、歌詞が、校歌にありそうな言葉を単純につなげただけだからだ。そして、そういう歌詞って、結構多いと思う。
実は、純奈ちゃんが間違えるところも、こういった部分に思える。どっちでもイイから、間違える。
優れた歌詞は、必然だから、語句の交換など不可能だし、人の心に刻まれるし、当然、破綻もしない。そんな歌詞なら、きっと純奈ちゃんも歌い間違えることは無いだろう。

初音ミクのライブでは、最後に「桜の雨」をみんなで歌うのが定番になっている。「桜の雨」の歌詞も、卒業の検索関連ワード集みたいな感じで、ツッコミどころ満載なのだが、歌うとそれなりに感動するし、中には泣いている奴だっている。たとえ歌詞が、ただの自己満足で、聴き心地の良い単語やキーワードの羅列に過ぎなくとも、ちゃんと感動できるのが「歌」であり、「歌う」という行為なのだ。

だから、文字だけで勝負する詩や俳句と違って、歌うための作詩ならば、誰にだって書けると思う。伏線を張り巡らせる必要も無いし、関連ワードを検索してつなげるだけならAIにだってできる。作詞のハードルは決して高くない。それでアーティスト扱いしてもらえるのなら、松浦亜弥さんだって、遠慮せずにどんどん書けば良かったのだ。

歌詞は、文章ではあるけれど、全体の構成の理解が必須でなく、無理して行間を読み取る必要のないものと云える。歌は、フレーズの単純な集合体と云う考えが、歌唱についてだけでなく、歌詞の構成と読解に関しても通用するならば「初音ミクAI」の未来は明るい。

って、思いのままに書いてきて、読み直してみたら、論点がズレまくってることに気がついた。文章としてはいただけなないが、歌詞だったらスルーしてもらえる・・・かな?

お終いに。あっちこっちからパクりまくって書いた「Don't Know Why」の直訳詞です。松浦亜弥さんの歌と共にどうぞ。
             

「Don't Know Why」     直訳詞
夜明けを ずっと待っていた
でも私 行かなかった 何故だか分からないけど
あなたを思い出の傍らに置いたまま
どうして私 行かなかったんだろう
どうして私 行かなかったんだろう
夜明けを見た時、飛んで行けたらいいのにと思った
砂の上にひざまずき この手で涙を受け止めても
心をワインに浸してみても あなたを忘れることなんてきない
果てしない海の彼方なら エクスタシーに浸れるのかも
でも 私は消えてしまいそう 孤独に車を走らせながら
心をワインに浸してみても あなたを忘れることなんてできない
何があなたを逃がしたの
でも私 行かなかった 何故だか分からないけど 
心は ドラムみたいに空っぽ
どうして私 行かなかったんだろう
どうして私 行かなかったんだろう

外国の歌だから、そのまま外国語で歌ってしまっても良いのだろうけど、西城秀樹さんの「ヤングマン」だって日本語で歌ったからこそ、ずっと人々の心に残っているわけだし、そのまま歌える日本語の意訳詞をお願いしたいものである。

できれば、聴き心地の良い単語やキーワードの羅列のみでないものを。

2018年6月1日金曜日

伊豆の白枇杷(びわ)の話 (再掲)

 今年も枇杷の季節になった。僕の住んでいる町には、家の庭先とか、畑の一角とか、公園の片隅とか、思わぬところに枇杷の木があって、たわわに実をつけている。枇杷の木は、実を食べた後の種を埋めておくなどすれば、実生で簡単に増やせるそうだから、そうやって増えていったのだろう。
 ただ、その実は、いわゆる「琵琶」の形をしている一般的な枇杷と違って、丸くて小さい。これは、「白枇杷」と呼ばれているもので、伊豆半島で栽培されていた品種だ。


 僕が生まれた村は、かつて「白枇杷」の栽培が盛んだった。今は、限られた農園でしか栽培されていないとのことだが、僕が子どもの頃は、村には「枇杷山」と呼ばれている果樹畑があちらこちらにあった。

 枇杷の収穫は短期決戦だ。枇杷山を所有しているのは、本家と呼ばれている、地主クラスの家だった。季節になると、村の女性たちは、枇杷山へ収穫の手伝いに行った。
 僕の祖母も、朝早くから日の暮れる頃まで、枇杷山で働いていた。そして、ザルいっぱいの枇杷を持って帰ってきた。たぶん、虫食いや傷みがあって市場に出せないやつをもらってきたんだと思う。今だったら、ジャムなどの加工用にまわすのだろうけど、当時は、そんなことを考えもしなかったのだろう。
 僕らは、ザルの周りに群がって枇杷を食べた。腹一杯、飯が食えなくなるくらい食べまくった。で、次の日になると、また、ザルいっぱいの枇杷を持ってきた。この季節は、村のどの家にも枇杷が置いてあって、食べ放題だった。冬、こたつに入って蜜柑を食べるような感覚で枇杷を食べていた。
 枇杷の実には渋があって、たくさん食べると、指先が茶色に染まった。この渋は、ちょっとやそっと手を洗っただけではとれなかったから、村の子どもたちは、この時期、みんな指先を茶色に染めていた。
 枇杷という果物が、高級で、腹一杯食べるようなものでは無いということを知ったのは、大人になってからである。

 幼いときの記憶ではあるが、枇杷山に遊びに行ったことがある。山には、収穫小屋(と云っても普通の平屋の一軒家くらいあったと思う)があって、枇杷の絵が描かれた紙を貼った木箱が積まれていたのを覚えている。
 枇杷山は、果樹園というよりは、自然林に近かった。枇杷の木は人々が植えたのであろうが、整然と並んでいるわけでは無くて、山をめぐり、高木に梯子をかけて、実を収穫していたように思う。

 「白枇杷」は、一般的な「茂木枇杷」などと比べて、実が丸く小さいのが特徴である。ところが、実が小さいのにかかわらず、種の大きさだけは他の枇杷と同じときている。ただでさえ、枇杷は食べる部分が少ないのに、白枇杷はさらに食べる部分が少ない。枇杷の可食率は65%程度と云われているが、白枇杷は50%も無いと思う。実が薄いので缶詰などに加工することもできない。さらに、白枇杷の実は柔らかく傷つきやすいので、長距離の輸送に耐えられないし、日持ちも極めて悪かった。
 そんな厄介な品種であるのにもかかわらず、白枇杷が珍重される理由は、その味の良さにあった。濃くて上品な甘さは、他品種とは別物と云えるほど美味しい。嘘では無いが、こればかりは実際に食べてもらわないと理解していただけないだろう。
 ただ、欠点が1つあった。白枇杷は、味のバラツキが極めて大きいのだ。もの凄く美味しい実があると思えば、ほとんど味のしないものもあって、それが、外見からは全く判別できないのである。まさにロシアンルーレット状態。白枇杷を食べていると、時々「うおー」という声が出る。これは、当たりを引いた時の、思わず発する至福の叫びだ。

 そんな枇杷の中に、比較的実が大きくて、いわゆる琵琶の形をしたものが混じっていることがあって、これは「ツクモ」と呼ばれていた。果肉は厚めで赤っぽく、味は大味で、可も無く不可も無くといったところだろうか。大人たちの話によると「田中枇杷」との交配によってできた雑種だという。この交配が人為的なものか、自然交配なのか、僕は知らない。が、みんなは、この「ツクモ」を蔑んでいた。村の人たちにとっては、「白枇杷」こそが枇杷であり、誇りだった。
 でも、僕は、この「ツクモ」が好きだった。肉厚で、何より、味にハズレが無いのが良かった。僕が「ツクモが好きだ」と云うと、変わり者あつかいされた。
 
 やがて、食生活が豊かになり、様々な果実が流通するようになって、枇杷の生産量は減少していく。収穫期間が短く、多くの人手を必要とし、デリケートな「白枇杷」は、市場に流通させるには、あまりにも不向きな品種だった。
 村では、枇杷を使って羊羹を作ったり、ワインを作ったりしたようだが、成功したという話は聞いていない。結局、生食以上のものなど有り得なかったのだろう。
 だが、最も深刻な問題は、村の急激な過疎化と高齢化だった。管理する人手の無い枇杷山は、次々と荒廃していった。

 今、伊豆の「白枇杷」は、生産量が極めて少なく、その全てが観光農園と特売所で消費されてしまうので、一般の市場に出てくることは無いという。「初夏の宝石」とか「幻の果実」とか云われているそうだ。観光農園の枇杷狩りは、40分で1500円だと聞いた。
 「以前は枇杷を腹一杯食べたものだ」なんていう話は、完全な昔話になった。もっとも、今ではそんな話をする者もいないだろうし、聞いてくれる者もいないだろう。


 実は、ここだけの話、現在「白枇杷」として売られている品の中には、かなりの比率で「ツクモ」が入っている。恐らく、純粋な白枇杷だけでは、出荷量を確保できないのだろう。でも、これを偽装表示だとか詐欺だとか云う気は無い。「ツクモ」だって僕の故郷が誇る枇杷に変わりないからだ。

 ただ、年寄りたちが生きていれば、何というだろうか。

2018年5月29日火曜日

「始まりのバラード」を歌う「丸山純奈」の高音が透き通り過ぎて音漏れして困る

「アンジェラ・アキ」「米津玄師」「丸山純奈」・・・徳島県が誇る三大ミュージシャンらしいです。
まあ、3番目については、異論もあろうかと思いますが、「三大○○」の3番目というのは、どれも名乗った者勝ちのようですからね。

先日、ツイッターで、6月22日からの宮古島のロックフェスにソロで出演するとの告知がありました。さっそく「学校はどうするんだ」とか云われてましたけど、本当に行くんですかね。出演者のリストには無いので、誰かのステージにゲストで出ていって、1曲歌わせてもらうってパターンでしょうか。
でも、出演者って、「Dragon Ash」「KICK THE CAN CREW」「ORANGE RANGE 」「10-FEET」とかですよ。そんな暑苦しい男たちの中に「こおんにちわあ、徳島から来ましたあ、丸山純奈、14歳でえすう」とか言いながら一人で出て行くのって、危険すぎると思うんですけどw
まあ、保護者同伴でしょうから、お母様が動画を撮って、ツイッターにアップしてくれると思うんで、楽しみに待ちたいと思います。

で、「丸山純奈」さんは、尊敬するミュージシャンを聞かれると、「アンジェラ・アキ」さんの名前をあげることに決めてるみたいです。実際、アンジェラ・アキさんの楽曲をたくさんカバーしていて、今回紹介させていただく「始まりのバラード」もその1つになります。

動画の日付は、2017年4月30日とありますから、丸山純奈さん13歳、1年ちょっと前のテイクになります。
YouTubeには撮影位置の異なる2つのテイクがアップされています。再生回数は、多い方が5000回で、こちらは400回です。400回と云ってもそのうちの100回くらいは僕です。音質にも画質にも若干難アリのこちらを敢えてセレクトさせていただいたのは、序盤の辛そうな低音部分が比較的気にならないという理由によるものです。

           
透明なのに質感のある声、バラードなのに感情移入は、ほぼゼロ。ノーテクニックの歌唱は「鳴くことを覚えた小鳥が、本能のままにさえずっているだけ。」と云ったところでしょうか。

カラオケライブのようで、気持ち良いくらいにエコーがかかっています。歌手になろうって子ですから、もともと声の通りは良いはずですが、さらにエコーでキンキンに響くので、ヘッドホンで聴いていても、音が漏れちゃって、漏れちゃって、「なにニヤニヤ、女の子の歌なんか聴いてるんだ」なんて、家族にバレてしまいました。

で、何事も無かったように歌っているので、漠然と聴いているときは気づかなかったのですが、実は、このテイク、歌詞を5カ所も間違えています。それも、一文字間違いとかじゃありません。
「ふたり」と「あなた」と「わたし」がランダムに入れ替わってますし、最後のサビのところなどワンフレーズ丸ごと入れ変わってしまっています。

「私は出会うよ。心に響かせる、終わりのない歌を。」って、だったら、その歌は誰が歌ってるんじゃい!

YouTubeのコメント欄では、「純奈ちゃんは、歌詞を覚えるのが苦手なんですぅ。」とか云って、ファンが代わりに謝っていますが、それにしても、彼女の歌詞覚えの悪さと、間違いの多さは、有り得るのレベルを明らかに越えています。

しかし、13歳の丸山純奈さんは、歌詞の世界を聴者に届けようなんて、これっぽっちも考えていないと思います。しなさいと歌の先生からは云われてるかもしれませんけどね。
「太陽に抱かれ、ロマンスは目覚め」のところを「ロマンスに抱かれ、太陽に抱かれ」って歌うんですけど、そんな歌詞で、なんの躊躇もなく声を張り上げられるのは、彼女の歌唱が、声さえ出せれば、言葉の意味など二の次であるからだと思います。
まさに「鳴くことを覚えた小鳥が、本能のままにさえずっている。」ただそれだけ。そして、そんな彼女の歌唱を支えているのが「声だけで97点」と評された天性の歌声なのです。

このテイクは、もう1年以上前のものですから、今の丸山純奈さんの歌い方は、少し変わってきていると思います。歌い出しの低音部は、もう少し上手い具合に切り抜けられると思いますし、サビの声の張り上げ方も、声色を変化させたりして、感情を込めようとしてくるはずです。歌詞の意味を考え、イメージを作って、聴くものに伝えようとするはずです。
それは、彼女の歌が「さえずり」から「歌唱」へと進化することであり、歌手としての成長の証であり、喜ばしいことです。

でも、僕は、この13歳の少女の歌を繰り返し聴いてしまいます。

歌は、それ自体に、人を感動させる要素を内在し、
歌うという行為は、それだけで、人の心に訴える力を持っている。

僕がこのテイクを聴いて、確信したことです。
だから、僕は、歌うことが好きな少女が、ただ歌っているだけの、この動画を何度も聴いてしまいます。

ボリュームをひかえめにして何度も、何度も。

2018年5月25日金曜日

「超絶凄ワザ!人類vsAI」に見る「初音ミクAI」の可能性

 NHKの「超絶!凄ワザ」。その前にあったフジテレビの「ほこ×たて」とともに、よく見ていました。だんだんネタ切れっぽくなっていって、視聴をスルーするようになったんですけど、最終回がAIに関する放送だったので、これだけは録画しておいたんです。

 番組は、AIが人間に挑戦する3本勝負ということで、ファッションコーディネートとか、流しのタクシーを取り上げていて、面白く視聴させていただきました。

 そして、3番目の対決が「俳句」でした。
 で、そこで紹介されていたAIに俳句を作らせる過程が、以前(2018年1月26日)に取り上げさせていただいた、人工知能搭載型ボーカロイド「初音ミクAI」による歌唱という課題と多くの共通点を持っているのではないかと。つまり、俳句と歌唱は、文字と音声という違いはあるものの、ともに人の心に訴える芸術分野ですから、AIに俳句を作らせる手順は「初音ミクAI」にも取り入れられるのではないか、と考えたんです。

 AIに俳句を作らせる手法について、番組で紹介されていたことは、次のようなものでした。
 まず、既存の6万首におよぶ俳句をデータとしてAIに入力し、次に、「切れ字」や「季語」などのルールを教えます。そして、AIに作らせた俳句を、人間が5段階で評価することによって、どのような俳句を作れば評価してもらえるのかをAIが学び、その後は、AIが作った俳句をAIが自己評価して、強化学習をするという手法だったと思います。

 これを「初音ミクAI」に当てはめると、既存の歌唱データと音楽理論の入力、ボーカロイド歌唱の人間による評価、そして、AIによる自己評価という流れになります。

 歌唱の評価については、今まで漠然と、1曲丸ごと評価するようなイメージを持っていたのですが、
楽曲は、フレーズの集合体と考えれば、フレーズごとに歌唱の評価をすれば良いのだと気づきました。
 学習の手順としては、まずはAIにワンフレーズ歌わせて、それに対して複数の人間が、「憂い」を感じたとか「切なさ」が伝わったというように評価を与えていきます。これが蓄積されていくことによって「憂い」を表現するには、どのような歌唱が好ましいかをAIが学んでいくようにします。
 そして、このような歌詞で、この曲調なら、こんなふうに歌唱すれば良いと、フレーズごとに得られた評価をデータベース化し、新たな楽曲を歌うときには、蓄積されたデータを対応させ、最終的に1曲を通したときに破綻が無いように微修正させれば良いわけです。

 で、俳句対決の方ですが、結果はAIの惨敗に終わりましたw

 講評の場で語られていたのは、人間の発想力の凄さでした。これについては、俳人さんがAIとの対決を意識してか、発想を飛ばした句を意図的に出してきた一方で、AIは、基本に忠実な正統的な作品を出してきたことによるものだと思います。

 番組に登場した「札幌AIラボ」の「AI 一茶くん」は、お題の写真から俳句を詠むために、どんな俳句がどんな写真にマッチするのかを、人間が手作業で教えたそうで、そのために、ネットで広くボランティアを呼びかけ、数十万というデータを収集したとありました。
 人類の集合知を教えたわけですが、知見というものは、データ数が多くなればなるほど平均化していきますし、最初に正統的な作品を高評価するように教えているのですから、この手法では、奇抜な発想は発現し難くなると思います。

 しかしながら、人間がAIに期待しているのが「人間の代わりに人間と同じように働くこと」であれば、あまり奇抜で冒険的な行動は好ましいものではありませんから、この結果は間違いとは云えません。
 まあ、ピカソだって画学生のときは、ちゃんとしたデッサン画を描いているように、正統的な基礎基本があってこその独創性なわけですから、修行中のAIが独創性を発揮するのは10年早いと云うことでしょう。

 と云うことで、この手法で実現される「初音ミクAI」の歌は、正統的で安心して聴ける歌唱ということになりそうです。

 では、AIに独創的な作品を作らせることは、不可能なのでしょうか。

 囲碁などのゲームの分野では、AIが人間の予想もしない手を指すことが知られています。悪手とされるには、それなりの根拠があるはずですが、AIはその先に新たな可能性があることを、気の遠くなるような試行の結果、見いだしているわけです。

 一方、俳句の世界にも「季重なり」とか「三段切れ」などのように、好ましくない手法があるのですが、あえてこれらを用いた名句というものも存在するそうです。
 AIが、このような手法を駆使して、既存の作品と全く異なる俳句を作ることは、作るだけならば十分に可能だと思います。ただ、ここで問題となるのは、AIが自らの作品を自己評価するにあたり、冒険的な作品を価値あるものと認識できるかということです。

 ゲームには、勝敗という明確な評価基準が存在しますが、芸術の評価は単純ではありません。

 人間の芸術家だって、前衛的な作品が受け入れてもらえるかなんて世間に委ねるしかないわけで、結局は、自らの感性を信じるかどうかに尽きると思います。
 そして、人間の感性と云うブラックボックスの先にあるものが独創性だとすれば、つまり、感性と云う「ワープ航法」でしかたどり着けない領域なのだとすれば、それはAIの手法の範疇の外の話になってしまいます。

 しかし、独創的な発想が、世間に受け入れられると云うことは、そこには、何らかの必然性があるはずです。ワープ航法で一気にたどり着けなくとも、気の遠くなるような論理的試行を積み重ねることにより、到着可能ではないかと期待しているのです。
 そこへ到着するための思考過程は、AIにとっては論理的必然であっても、人間にとっては、もはやブラックボックスです。

 人間の感性はAIには理解できませんし、AIの深層思考は人間には理解できません。しかし、この2つのブラックボックスこそが、独創性へのそれぞれのアプローチになるのだと僕は思うのです。