2017年11月23日木曜日

「ごんぎつね」~自筆版で味わう新美南吉の魅力~

 1年半ほど前に、新美南吉の自筆版「ごんぎつね」に関する記事を10回にわたり投稿させていただきました。以来、学校の先生と思しき方々のアクセスがあり嬉しく思います。自筆版の「ごんぎつね」など知ったところで、学校の授業には何の役にも立ちませんでしょうが、その存在を知ることは、新美南吉を語るために必要なことと思います。今回、自筆版「ごんぎつね」を一人でも多くの方に知っていただきたく、1本の記事にまとめて再掲載することにしました。 

                                                
(1) ~3つの「ごんぎつね」~

 「ごんぎつね」として伝わる話は、3つあるとされています。

 1つめは、知多半島の猟師の間で口伝されてきたといわれる「権狐」です。物語の冒頭にある、南吉少年が茂助(茂平)から聞いた話と推測されます。茂助爺が実在の人物かどうかは、分からないそうですが、いわば「茂助爺のごんぎつね」です。
 2つめが、新美南吉が17才の時に創作した「自筆版ごんぎつね」です。
 そして3つめが、1932年に雑誌「赤い鳥」1月号に掲載されるにあたって、「鈴木三重吉」氏によって改作された「赤い鳥版ごんぎつね」です。教科書に掲載され、書店に並んでいる「ごんぎつね」は全てこの赤い鳥版になります。

 1つめの「茂助爺のごんぎつね」は、童話ではなく、民間伝承です。民間伝承は、不思議ではあるが事実とされていることを、後の人々に伝えるというものです。「ごんぎつね」は、よくある「昔々ある処に」ではなく、具体的な地名、人名で始まります。この、童話としては異色の始まり方は、この物語が完全な作り話でなく、事実を元にした民間伝承であることを表していると思います。物語に真実性を持たせるための技法とも考えられますが、「ごんぎつね」には、元となる話があったと考える方が自然かと思います。
 物語に出てくる「中山様」の末裔、「中山元若」は、明治になって岩滑(やなべ)に居住し、家族ぐるみで新美南吉と交流があったと云われています。中山元若は、小学校の校長などを務め、その妻、「中山しゑ」は、幼き日の新美南吉に民話を語り聞かせていたそうですから、もしかしたら「中山しゑ」が、「茂助爺」のモデルなのかもしれません。

 「茂助爺のごんぎつね」は、兵十のおっかあの葬式の場面で終わるとされています。狐が、償いのために人間の家へ栗や松茸を持ってくると云うのは、どう考えても有り得ない話です。しかし、物語が兵十のおっかあの葬式の場面で終わるとすれば、十分に有り得る話になります。
 狐などの野生動物が村に出没して、人家や畑を荒らすことは、現在でも普通に起きています。村人が獲った魚を、狐が盗むこともあるでしょう。そして、その村人の家で葬式が出たのと時期を合わせるかのように、狐が何らかの原因で村に出没しなくなった時、村人たちは、葬式を見た狐が反省し、悪戯をやめたのだと考え、伝承が生まれたと推測できます。
 そういう観点で、改めて物語を読むと、葬式の前と後では、確かに作風の違いがあるように思えます。「ごんぎつね」は民間伝承として伝わっていた話に、新美南吉が償いをテーマにした、創作部分を継ぎ足してできた物語であると考えることができそうです。

 次は、2つめと3つめの「ごんぎつね」についてです。
 沢田保彦著「南吉の遺した宝物」によると、50年ほど前に、半田市の中学校の国語教師、間瀬泰男氏が、教え子から1冊のノートを託されたとありました。その中学生は、南吉の異母弟、新美益吉氏のご子息で、ノートは、益吉氏が兄の遺品整理の際に手に入れたものだったそうです。
 ノートには南吉の自筆で、何作かの童話が書かれ、その中に「赤い鳥に投ず」とメモ書きされた「ごんぎつね」がありました。それは、広く伝わっている「ごんぎつね」と、ストーリーは変わらないものの、大きく表現方法等が異なるものでした。赤い鳥に掲載されるにあたって、「ごんぎつね」に大幅な改作がされていたという事実が明るみになったのは、この時からだとされています。
 「ごんぎつね」は、文字数にして、約4500字の物語だそうです。そのうち削除が約800字、加筆が約700字といいますから、改作の部分は、かなりの量になります。
 ただ、このような改作は、投稿された他の作品でもおこなわれていたようです。児童文学という分野を開拓した鈴木三重吉氏から見れば、新美南吉は、期待の大型新人とはいえ、田舎の僅か17才の代用教員です。未熟だと断定した彼の文章を、掲載に値する児童文学の作品とすべく添削することは、三重吉氏からすれば当然なことでした。また、会話文が方言で書かれ、民話的要素が強い自筆版をそのまま掲載するわけにはいかなかったとも考えられます。三重吉氏にとっては、民話と童話は、はっきりと区別されるべきものだったのでしょう。
 ちなみに、鈴木三重吉氏は、同誌に投稿された宮沢賢治の作品を全て不採用にしたことでも有名です。

 とは言っても、鈴木三重吉氏が「赤い鳥」を創刊しなければ、日本に児童文学という分野が確立するのは何十年も遅れたでしょうから、鈴木三重吉氏の功績は認めざるを得ません。
 但し、三重吉氏の改作は、作品を分かりやすく、ドラマチックにするものであり、改作によって「ごんぎつね」が文学作品として完成したという意見には賛成できません。なぜならば、2つの「ごんぎつね」を読み比べれば、どちらが優れた物語であるかは、容易に理解できることだからです。

 南吉は、この改作については、生涯何も語ることがなかったそうです。


(2) ~削除されたプロローグ~

 【これは、わたしが小さいときに、村の茂平というおじいさんからきいたお話です。】

 これは、「赤い鳥版ごんぎつね」の冒頭文です。三重吉氏による最大の削除がされているのが、この冒頭部分です。「自筆版ごんぎつね」では、次のようになっています。


【茂助というおじいさんが、私たちの小さかった時、村にいました。「茂助じい」と私たちは呼んでいました。茂助じいは、年とっていて、仕事ができないから子守ばかりしていました。若衆倉の前の日だまりで、私たちはよく茂助じいと遊びました。
 私はもう茂助じいの顔を覚えていません。ただ、茂助じいが夏みかんの皮をむく時の手の大きかった事だけ覚えています。茂助じいは、若い時、猟師だったそうです。私が、次にお話するのは、私が小さかった時、若衆倉の前で、茂助じいからきいた話なんです。】

 まず、茂助爺が茂平になっています。何故、茂助では、だめなのでしょうか。この後の登場人物に、弥助とか加助が出てくるので、区別しやすくするためとも言われていますが、茂平という名前からは、何か、村の物知りのご隠居さんのような人物を想像します。村の子供たちを集めて、のんびり昔話を聞かせるような人物の名前は、茂平の方が似合うと、三重吉氏は思ったのかも知れません。このように、三重吉氏の改作は細部にわたり行われています。

【茂助じいは、年とっていて、仕事ができないから子守ばかりしていました。若衆倉の前の日だまりで、私たちはよく茂助じいと遊びました。】

 「若衆倉」ですが、一般的には、「若衆宿」と言われている、村の青年団の集会所のことだと思われます。新美南吉も13才になると地元の山車組に加入したそうです。山車組の一番の活躍の場は、村の祭りです。この祭の様子は、「狐」という話に出てきます。もっとも、南吉は、おとなしい性格だったそうですから、若衆倉での役割は、庶務や会計の仕事を手伝っていたそうです。
 これだけ現実感のある記述が出てくるということは、少なくとも、若衆倉の前の日溜まりで、子供たちがよく遊んでいたというのは、実際にあったことのように思います。

【私はもう茂助じいの顔を覚えていません。ただ、茂助じいが夏みかんの皮をむく時の手の大きかった事だけ覚えています。茂助じいは、若い時、猟師だったそうです。私が、次にお話するのは、私が小さかった時、若衆倉の前で、茂助じいからきいた話なんです。】

 「顔は覚えていないが、手の大きかったことだけは覚えている。」手を見ればその人の生き様が分かると言いますが、この一文で、今は体を壊して子供と遊んでばかりいる茂助爺が、どんな厳しい人生を歩んできたかが目に浮かびます。南吉の巧みな描写が味わえる秀文です。
 この削除された冒頭部分は、確かに、この後のストーリーとは、一切関係ありません。しかし、南吉にとって「ごんぎつね」は、自分の故郷に伝わる、そして故郷を舞台にした大切な話で、決して、「昔々在る処」の話ではありませんでした。だからこそ、このプロローグが必要だったのです




(3) ~中山様というお殿様~

 冒頭部分には、茂助爺ともう1つ、中山様の記述があります。赤い鳥版です。

【むかしは、わたしたちの村のちかくの、中山というところに小さなお城があって、中山さまというおとのさまがおられたそうです。
 その中山から、すこしはなれた山の中に、「ごんぎつね」というきつねがいました。】

 自筆版です。
【むかし、徳川様が世をお治めになっていられた頃に、中山に小さなお城があって、中山様というお殿さまが少しの家来とすんでいられました。
 その頃、中山から少し離れた山の中に、権狐という狐がいました。】
 
 まず、「徳川様が世をお治め・・・」という部分が削除されていますが、沢田保彦氏の著書「南吉の遺した宝物」によると、氏は、この作品が投稿された昭和7年という時代が関係しているのでは、という分析をされています。昭和7年という年ですが、3月には、満州国が建国され、5月には、「5・15事件」が起きています。南吉が「ごんぎつね」を発表したのは、正に、日本が太平洋戦争への道を突き進んでいた時代です。「皇国史観、日本は万世一系の天皇陛下が治められていた国」という思想が支配していましたから、「徳川様が世を治める」という記述は、都合が悪かったと言えます。南吉は尾張の国の人間ですから、徳川家に対して親しみを持っていたのかも知れません。しかし、一歩間違えば「赤い鳥」そのものが発行禁止の処分を受けたかも知れない、そんな時代だったのです。
 
 ところが、不思議なことに、削除された部分に「わたしたちの村の近くの中山」という一節が加筆されています。ごんぎつねの舞台である「岩滑(やなべ)」は、今は半田市と合併して、半田市岩滑ですが、当時は岩滑村でした。中山は、岩滑村の地名の1つです。ですから、「わたしたちの村の中山」で良いのです。「近くの」を入れてしまうと、中山は、岩滑村の外にあることになると沢田保彦氏は指摘しています。
 三重吉氏の感覚では、村の中にお城があるのは、不自然と思ったのかも知れません。しかし、この「村にお城があった」というのが、岩滑村の人々の誇りだったのです。
 岩滑村の隣は、半田市(当時は半田町)です。半田は、古くから酒や酢の醸造業が盛んで、「ミツカン」の大きな工場もあります。運河があり、鉄道もひかれている大きな町です。隣の岩滑村は田舎の農村に過ぎません。この「村」が「町」に抱くコンプレックスなどは、南吉の作品「疣」などに面白く書かれています。
 ところが、この地を治めていた中山氏の居城は、半田でなく、岩滑にありました。岩滑は田舎だが城があった、というのが村の誇りでした。この心情が、次の記述に表れます。

【中山様というお殿さまが少しの家来とすんでいられました。】

 「小さなお城に少しの家来と住んでいる。」何て、ほのぼのとした表現でしょう。おとぎの国の王様みたいです。この一文で、中山様がどのような殿様で、いかに村人たちから慕われていたかが分かります。ところが、三重吉氏は、これを

【中山さまというおとのさまがおられたそうです。】

 と、書き換えました。簡潔な記述です。氏が追求していることは、児童文学として、子供にも分かりやすい表現でした。しかし、村人にとっての中山様は、時代劇に出てくるような、農民から厳しく年貢を取り立てるような、お殿様では無いのです。

 さて、この中山様ですが、どのような殿様だったのでしょうか。
 戦国時代に岩滑城主となり、この地を治めたのは、「中山勝時」という武将のようです。ただ、岩滑城については、物語に出てくる「中山」ではなく、1kmほど離れた半田市岩滑中町の常福院にあったとされています。中山に在った城は、中山城と記述されています。どちらも城主は、「中山勝時」とされていますが、2つの城の関係や、物語の城がどちらを指しているのかは、よく分かりません。
 中山勝時は、本能寺の変で織田信忠に従い討ち死にしたと伝わっています。その子孫たちは、徳川将軍家の旗本となったり、水野家に仕えたりしたようです。勝時以降の中山氏、つまり江戸時代の中山氏は、主君に仕える武家であり、大名ではありません。中山様が岩滑の城に住み、この地を治めていたのは、戦国時代のことで、中山様というのは、「中山勝時」に限定されることになります。

 【その頃、中山から少し離れた山の中に、権狐という狐がいました。】

 自筆版の「ごんぎつね」は、このように話が始まっていきます。「その頃」とは、中山様がいた頃ですから、この記述通りだとすると、「ごんぎつね」は戦国時代の話ということになります。しかし、兵十や村人たちの記述(百姓たちが集まって念仏を唱えているなど)から考えると、時代は、江戸時代末期、あるいは明治時代初期のような印象を受けます。兵十のモデルになったとされる「江端兵重」という人の存在も知られています。「その頃」が戦国時代を指し、「ごんぎつね」の元話が戦国時代まで遡るような古い話であると結論づけるのは、難しいと思います。
 ただし、物語を兵十の母親の葬式まで、すなわち「茂助爺のごんぎつね」に限れば、時代を遡ることは可能です。やはり、ごんぎつねは、古くから伝わっていた伝承に、南吉が継ぎ足して成立させた物語なのかもしれません。

 中山勝時の子孫の中に、尾張徳川家に仕えた系統がいて、御馬廻役や武術師範などを務めていたようです。その末裔「中村元若」氏は、明治になって岩滑に移住しました。中山勝時の子孫が、先祖がかつて治めていた土地に帰ってきたということになります。この中山家は家族ぐるみで新美南吉と交流があり、妻「中山しゑ」は南吉に民話を語り聞かせ、六女「ちゑ」は南吉の初恋の人として知られています。
 中山様は、茂助爺と同じく、物語には、全く関わらない人物です。その中山様を好意的に、物語に登場させたのは、中山家と南吉の個人的なつながりがあったからだと言われています。




(4) ~兵十の殺意を検証する~

自筆版です。
【その日も権狐は、栗の実を拾つて、兵十の家へ持つて行きました。兵十は、納屋で縄をなっていました。それで権狐は背戸へまわつて、背戸口から中へ入りました。】

続いて、赤い鳥版です。
【その明くる日も、ごんは、栗を持って、兵十の家へ出かけました。兵十は、物置で縄をなっていました。それでごんは、家の裏口から、こっそり中へ入りました。】

 「その明くる日」とか「こっそり中へ」など、表現を強調して印象づけようとする傾向があるようです。「栗を拾って持って行く」のと「栗を持って出かける」は、いかかでしょうか。やっていることは、同じなのですが、拾った物を持って行くというのは、できる範囲でやっているという感じです。しかし、ごんが頑張ってるイメージが強い程、最後の悲劇とのギャップが強調されますから、三重吉氏の意図も理解できないわけではありません。

 当時は、正しい日本語を教育して、普及させるということが重要とされていましたから、恥ずかしいものとされた方言や地方色のある表現を書き換えようとする傾向があります。ここでは、「背戸口」を「裏口」に、そして、もう1つが「納屋」です。納屋は立派な日本語だと思いますが、これを赤い鳥版では、「物置」と書き換えています。物置小屋ならまだ分かりますが、「納屋」と「物置」は、似て非なるものだと思うのですが。

 「納屋」についての世界大百科事典の解説です。
【物を収めておくため,独立して作られた建物。同じ性格の建物には倉と物置があるが,倉が物を長期にわたって保存格納する性格であるのに対して,納屋はある行事や作業に必要な道具を格納し,ときには作業場として使われることもある。また,物置は雑多な物を入れておく建物であるのに対し,納屋は使用目的がしぼられた物を収納する。】

 この中の「作業場として使われる」のいうところが重要です。兵十が、縄をなっているのは、納屋です。ごんぎつねは、栗を納屋に置きますが、物置だったら、気づいてくれるまで何日かかるか分かりません。
 しかし、ここが悲劇の始まりです。今日に限って、兵十が納屋にいるのです。そこで、ごんぎつねは、仕方なく、背戸に回ることにします。今までだったら、納屋に栗を置くだけですから、誰にも気づかれずに済んでいたわけです。

 自筆版です。 
【兵十はふいと顔をあげた時、何だか狐が家の中へ入るのをみとめました。兵十は、あの時の事を思い出しました。うなぎを権狐にとられた事を。きっと今日も、あの権狐がいたずらをしに来たに相違ない。
「ようし!」
 兵十は、立ち上がって、ちょうど納屋にかけてあった火縄銃を取って、火薬をつめました。そして、足音を忍ばせて行って、今、背戸口から出て来ようとする権狐を「ドン!」と撃ってしまいました。権狐は、ばったり倒れました。】

 赤い鳥版です。
【その時、兵十は、ふと顔を上げました。と、きつねが家の中へ入ったではありませんか。こないだ、うなぎを盗みやがったあのごんぎつねめが、またいたずらをしに来たな。
「ようし。」
 兵十は、立ち上がって、納屋にかけてある火縄銃を取って、火薬をつめました。
 そして足音を忍ばせて近よって、今、戸口を出ようとするごんを、ドンと、撃ちました。ごんは、ばたりと倒れました。】

 ニュアンスがだいぶ違います。赤い鳥版は、「こないだ、鰻を盗みやがった、あのごんぎつねめが」です。自筆版は、「あの時のことを思い出しました。」です。兵十は、ごんぎつねに鰻を盗られたことを忘れていたのです。許せないこととはいえ、その程度の出来事だったのです。それを赤い鳥版では、「盗みやがった」「狐めが」と表現しています。下品な表現ですが、それくらい、鰻を盗られたことを片時も忘れていないし、もの凄く憎んでいることになっています。

 自筆版は、「ちょうど掛けてあった火縄銃をとって、撃ってしまいました。」とあります。兵十は、今日に限って納屋にいたんです。そして、納屋には火縄銃があった。兵十が火縄銃を使ったのは、たまたまそこにあったからです。だから悲劇なんです。偶然に偶然が重なってしまった。素晴らしいストーリーの構成です。
 ところが、赤い鳥版には、不思議な記述があります。「納屋(?)にかけてある火縄銃を取って」と、ここまで、納屋は全て物置と書き換えていたのに、ここだけ納屋のままです。これが最大のミステリーになります。この記述のために、兵十の家には、物置と納屋と2つあることになります。物置にいた兵十は、納屋まで行って火縄銃を取ってくるという記述です。偶然そこにあった凶器を使うのと、わざわざ凶器を持ってくるのでは、心証が随分変わってくると思います。

 多くの研究者は、これを単なる書き換えの見落としとしています。だとすれば、国語の教科書でこの文章を学んだ7000万人ともいわれる国民は、単なるミスのために50年間も物置から納屋へ銃を取りにいったという間違った読み取りをさせられていたことになります。
 三重吉氏の執拗な添削を見る限り、氏が見落としをするとは思えません。これは、あえて残したと推理できないでしょうか。物置と納屋があることにして、兵十の強い殺意を印象づけるために、わざわざ取りに行ったように読みとらせたのではないかと思うのです。(納屋から物置に火縄銃を取りに行くのが普通ですが。)
 自筆版の兵十ならば「殺すつもりは無かった」という言い訳もできましょうが、赤い鳥版の兵十から伝わるのは、明確な殺意です。殺そうとして撃ったのか、思わず撃ってしまったのか。納屋という言葉を1つ書き換えないだけで、これだけの違いが出てきます。

ラストシーン、赤い鳥版です。
【兵十はかけよって来ました。家の中を見ると、土間に、栗がかためて置いてあるのが目につきました。「おや。」と、兵十は、びっくりしてごんに目を落としました。「ごん、お前だったのか。いつも、栗をくれたのは。」ごんは、ぐったりと目をつぶったまま、うなづきました。兵十は、火縄銃をばたりと、取り落としました。青い煙が、まだ、筒口から細く出ていました。】

自筆版です。
【兵十はかけよって来ました。ところが兵十は、背戸口に、栗の実が、いつものように、かためて置いてあるのに眼をとめました。「おや。」兵十は権狐に眼を落としました。「権、お前だったのか……。いつも栗をくれたのは。」権狐は、ぐったりなったまま、うれしくなりました。兵十は、火縄銃をばったり落としました。まだ青い煙が、銃口から細く出ていました。】

 ラストシーンの書き換えは、最も有名なところです。「うれしくなりました。」を「目をつぶったまま、うなづきました。」と書き換えています。余韻を持たせた終わり方といえます。この「うなずく」というのは、行動であって心情ではありません。「うなずいた時のごんの気持ちを考えましょう。」と質問すると、生徒たちは、何と答えるでしょうか。「最後に分かってもらって良かったな」「撃たれるのは仕方ないな」「何も撃つことは無いだろう」自由に考えて良いのですから、どれが正解でどれが間違えているかを判定することはできません。ただ南吉は自筆版でこう書いています「嬉しくなりました」と。ですからこれが正解となります。
 大方は、三重吉氏の書き換えに好意的です。やはり、作者自ら答えを書いてしまっては、面白くないということのようです。いっそのこと、「ぐったりなったまま、二度と動きませんでした」でも良かったかも知れません。

 赤い鳥版では、兵十の問いかけに、ごんは頷いて答えます。遅すぎたとはいえ、最後の最後に心が通じ合ったと云えます。
 しかし自筆版では、ごん狐は、「ぐったりなったまま、うれしくなりました」です。全てを理解し後悔する兵十の目の前にあるのは、ぐったりなったままのごんぎつねです。兵十の呼びかけにも応えることも無く、「嬉しくなった」というごん狐の想いが、伝わることもありません。兵十は深い後悔の念のまま立ち尽くしているだけです。

 新美南吉生誕100年の時に、ある小学生の感想がネットで話題になりました。それは、「やったことの報いは必ず受けるもの、こそこそした罪滅ぼしは身勝手で自己満足でしかない、ごんは撃たれて当然」というものでした。
 一般的な小学生の感想は、「ごんがかわいそう」でしょうから、結果として、撃ち殺した兵十が非難されるかたちになります。ですから、この児童のように兵十を弁護する立場からの意見が出てくること自体は、悪いことではないと思います。
 ただ、こういう感想が出てくる遠因の1つに、赤い鳥版の改作があるように思えてなりません。兵十の殺意を強調した結果、ごんが大変重い罪を犯しているかのような印象を与えてしまったと言えないでしょうか。
                                       
 兵十は、確かにごんを撃ち殺してしまいましたけど、殺したいほど憎んでいたわけではありませんでした。そして、ごんは、確かに悪戯をしましたが、兵十の母親の死とは無関係です。死をもって償うべきことなんてしていないし、兵十だって、ごんのせいで母親が死んだとは思ってもいないはずです。思っていれば、栗を持ってきたことぐらいで許せるはずなど無い。

 事件の真相は「母親の死に関して、日頃からゴンに恨みを抱いていた兵十が、絶好の復讐の機を得て、ゴンを撃ち殺した」のではありません。「病床の母親に鰻を食べされられなかったことを思い出して、ちょっと懲らしめてやろうと思っただけだった」これが新美南吉が書きたかった真相なのです。


(5) ~ごんのプロファイル~

 自筆版です。  
【その頃、中山から少し離れた山の中に、権狐という狐がいました。権狐は、一人ぼっちの小さな狐で、いささぎの一ぱい茂った所に、洞を作って、その中に住んでいました。そして、夜でも昼でも、洞を出ていたずらばかりしました。畑へ行って、芋を掘ったり、菜種がらに火をつけたり、百姓屋の背戸に吊してある唐辛子をとって来たりしました。】

 赤い鳥版です。
【その中山から、少しはなれた山の中に、「ごんぎつね」というきつねがいました。ごんは、ひとりぼっちの小ぎつねで、しだのいっぱい茂った森の中に穴をほって住んでいました。そして、夜でも昼でも、辺りの村へ出ていって、いたずらばかりしました。畑へ入って芋をほり散らしたり、菜種がらの、ほしてあるのへ火をつけたり、百姓家の裏手に吊してあるとんがらしをむしり取っていったり、いろんなことをしました。】

 権狐がどこに住んでいたのかという問題は、岩滑の町おこしにも関わる重要な問題です。一般的には、新美南吉記念館から見て北側、矢勝川(背戸川)の向こうに見える権現山(ただし川が境界線なので、此所は、半田市岩滑では無く、隣の阿久比町になる)と考えられています。確かに、記念館前の公園に立ってぐるりと見回すと、権現山は良く目立ちます。
 沢田保彦氏は、権狐の洞を中山の城の近くに設定しています。権狐が川を渡っている描写が無いことのがその根拠のようです。しかし「少し離れた山」という記述を考えると、やはり、記念館から直線で600mほど北側にある、権現山が第一候補のように思います。権現山は、山といっても、比高は32m。こんもりと木が茂っている丘みたいな所です。


 自筆版では、権狐は「一人ぼっちの小さな狐」とありますが、赤い鳥版では「一人ぼっちの小ぎつね」になっています。「小ぎつね」は「子ぎつね」に通じる言葉なので、どうしても「幼い狐」「可愛い狐」という印象がつきまとってきます。ここでは、「小さな」という中に有る「ちっぽけな存在」「とるに足らないもの」という意味が重要になってきます。「小ぎつね」にしてしまうとその辺が弱くなってしまいますから、ここは、やはり「小さなきつね」のままにすべきだったと思います。

 あと「洞」が「穴」になってます。確かに「洞を作る」というのは、違和感が有りますが、恐らく、南吉は「洞は横に広がるもの」「穴は下に広がるもの」と考えていたと思います。
 南吉は、「洞」ともう1つ「洞穴」という記述をしているところもあるのですが、これは、「穴」と書き換えたところと「ほらあな」とそのままで書き換えていないところがあって、三重吉氏の添削も意外と適当なことがわかります。


 その洞(穴)がある所ですが、「いささぎの一ぱい茂った所」となっています。この「いささぎ」ですが、「ヒサカキ」の方言だとのことです。「ヒサカキ」は、仏壇やお墓に供える、いわゆる「仏さんの木」です。権現山には、今でも「ヒサカキ」が沢山あるそうですから、地元の人たちが、お墓参りの季節になると、権現山へ木を取りに行っていて、南吉少年もそのことを知っていたという推理も可能になります。やはり、権狐は、権現山に棲んでいたのでしょうか。
 赤い鳥版は、「しだのいっぱい茂った森の中」になっています。方言を直すのであれば、「いささぎ」を「ひさかき」にすれば十分なんですが、子供は「ひさかき」など分からないだろうと、シダに変えたのでしょうか。どうも、三重吉氏は、権狐の住んでいるところを「ある程度大きな山の奥の薄暗い森の中」に設定したかったようです。そのほうが、権狐の孤独感が強調されると考えたのでしょう。ただ、権狐が、村に悪戯をするためにはるばる山奥からやって来るという設定では、村のことにやたら詳しいことが不自然になります。やはり、権狐は村人の近くで、村の営みを感じながら生きていたと思います。「離れて暮らす」より、「近くにいるのに関われない」方が、孤独感が強いと思いますが如何でしょうか。

 最後に権狐の悪戯が具体的に書かれています。赤い鳥版では、「掘る」→「堀り散らす」、「取る」→「むしり取る」というふうに表現が強調されています。「散らす」を加えて「堀り散らす」としただけで、畑全部を滅茶苦茶にしてしまったような印象を与えます。権狐1匹のせいで、村がメチャメチャにされているかのようにも受け取れます。さらに「いろんなことをしました」と付け加える念の入れようです。ただ、あまり強調し過ぎると「ごんは、殺されて当然」みたいな感想を引き出してしまいますし、第一、そんな危険な狐は、兵十が手を下す前に、誰かがとうに撃ち殺しているでしょう。
 では、何故、南吉は「掘る」とだけにしたのでしょうか。
 1つは、狐の獣害の実態に合わせているのではないかと思います。狐は、肉食が基本ですが雑食性だそうで、餌不足の時は、畑の芋を食べることもあるそうです。さらに、沢田保彦氏によると、菜種殻は、自然発火することがあるそうで、これを土地の人たちは、「狐火」と読んでいたそうです。
 もう1つは、南吉は、権狐をそこまで悪者にするつもりが無かったのでは、ということです。南吉の設定では、兵十が権狐を撃ったのは、偶然が重なった悲劇です。ラストシーンでの兵十の台詞は、自筆版も赤い鳥版もどちらも同じ「ようし」ですが、込められている気持ちは、異なります。赤い鳥版は、「ようし、ぶっ殺してやる」ですが、自筆版は「ようし、懲らしめてやる」です。銃を使ったのは、偶然に過ぎません。兵十は、懲らしめることができれば、使う物は、石でも棒でも良かったはずです。
 南吉は、権狐が、一人ぼっちであることと、悪戯好きであることが、読者に伝われば十分だったのではないでしょうか。


(6) ~鈴木三重吉という人~

 鈴木三重吉氏は、1882年(明治15年)生まれ、広島県出身で東京帝国大学英文学科卒。夏目漱石の門下生。童話雑誌「赤い鳥」を創刊し、日本の児童文化運動の父とされています。
 「赤い鳥」の発刊については、かなりのご苦労があったようで、有名作家に原稿を依頼しても、童話なんて誰も書いたことがないという時代で、なかなか原稿が集まらなかったそうです。そこで、ゴーストライターに書かせて名前だけもらった、などという逸話が伝わっています。
 芥川龍之介が「赤い鳥」に「蜘蛛の糸」を投稿することになった時、彼は、当時すでに大作家でしたが、自分の文章が児童文学として通用するのか自信が無かったようで、鈴木三重吉氏の添削を受け入れる旨の書簡を書いています。三重吉氏の添削は、それほど有名で、一目置かれていました。


 三重吉氏本人は、どのような文章を書いていたのでしょうか。鈴木三重吉氏の代表作「千鳥」の一部分です。夏目漱石が絶賛し、雑誌「ホトトギス」に掲載されたという、氏の出世作になります。

【すると、いつの間にか、年若い一人の婦人が自分の後に坐っている。きちんとした嬢さんである。しとやかに挨拶をする。自分はまごついて冠を解き捨てる。婦人は微笑ながら、
 「まあ、この間から毎日毎日お待ち申していたんですよ」
という。
 「こんな不自由な島ですから、ああはおっしゃってもとうとお出でくださらないのかもしれないと申しまして、しまいにはみんなで気を落していましたのでございますよ」
と、懐かしそうに言うのである。自分は狐にでもつままれたようであった。丘の上の一家の黄昏に、こんな思いも設けぬ女の人がのこりと現れて、さも親しい仲のように対してくる。かつて見も知らねば、どこの誰という見当もつかぬ。自分はただもじもじと帯上を畳んでいたが、やっと、
 「おばさんもみんな留守なんだそうですね」
とはじめて口を聞く。
 「あの、今日は午過ぎから、みんなで大根を引きに行ったんですの」
 「どの畠へ出てるんですか。――私ちょっと行ってみましょう」】

 一番気になったのは、一文が短いことです。「何がどうした」「何がどうした」「誰が何と言った」って感じで文が続いていきます。表現も明確で、何より主語と述語の関係がはっきりしています。
 もう1つは、「と」が多い。「と、言いました。」とか「と、その時」という表現を好んで使っています。これは沢田保彦氏も指摘されているところで、「ごんぎつね」についても、自筆版には無い「と」が、赤い鳥版では加えられていて、こういうところに、添削者の癖が出ているように思います。
 三重吉氏の文体は、氏が英文学者であったということが関係しているように思えます。氏の文章には、英文の翻訳文のような印象があります。情景描写についても、1つ1つの文がクリヤーで、たたみかけるように書いている。ちょうどスライド写真を見ているかのようです。
 それに対して、新美南吉氏の文章のイメージは、ほんわかした感じで、暖かみのある文章です。ただ、ピンぼけ写真みたいなところがあって、何が言いたいのか分からなかったり、その表現必要なのかなと思うものもあったりします。
 そういう観点を持って読んでいくと、赤い鳥版の「ごんぎつね」には、あちらこちらに、三重吉氏らしさが出ています。それは氏が添削をしている以上致し方のないことです。もちろん、三重吉氏は、「ごんぎつね」のストーリーを改ざんしているわけではありませんから、ストーリー展開を追って読んでいる限りは、三重吉氏の文体であろうが、南吉の文体であろうが、あまり気にならないのかもしれません。

 しかし、赤い鳥版「ごんぎつね」を「手袋を買いに」などの他の南吉作品と読み比べたときに、何となく感じる違和感は、やはり改作が原因と言えます。教科書の「ごんぎつね」からは、真の新美南吉像を語ることはできないのです。


(7) ~はりきり網の現場を検証する~


 まず、舞台となった「はりきり網」についてですが、記念館のHPに解説がありました。

 【大雨が降った後に池から落ちてくるウナギを川の下流で捕るための網。普通は待ち網といいますが、川幅いっぱいに“張りきって”使うため、岩滑では“はりきり網”と呼んでいました。】

 2つのことが分かります。1つは、「はりきり網」が方言であると云うことです。にもかかわらず、赤い鳥版でも、そのまま「はりきり網」と書かれています。三重吉氏は、「はりきり網」がどのようなものか分からなかったので、書き換えようが無かったのでしょう。
 そして、もう1つ。「はりきり網」は川が増水した時に使うということです。兵十が増水した川で漁をしたのは、母親にウナギを食べさせるために、危険を承知で敢えてしたわけではありません。木ぎれや枝が網に入ってしまう悪条件の中、何が何でも、今日、ウナギを捕る必要があったわけでもありません。兵十がはりきり網を持ち出したのは、この日がはりきり網の漁にとって好条件の日だったからにすぎません。
 母親にウナギを食べさせたいという想いは同じですが、うなぎを捕るということが、切羽詰まった緊急を要するような事態ではなかったということになります。

自筆版です。
【兵十がいなくなると、権狐はぴょいと草の中からとび出して行きました。魚籠にはふたがなかったので、中に何があるか、わけなく見えました。権狐は、ふといたずら心が出て、魚籠の魚を拾い出して、みんなはりきり網より下の川の中へほりこみました。】

赤い鳥版です。
【兵十がいなくなると、ごんは、ぴょいと草の中からとび出して、びくのそばへかけつけました。ちょいと、いたずらがしたくなったのです。ごんはびくの中の魚をつかみ出しては、はりきりあみのかかっている所より下手の川の中を目がけて、ぽんぽん投げこみました。】

 やっていることは、同じに思えるんですが、微妙にニアンスが違います。自筆版では、魚籠の中の魚を見たときに、ふと悪戯心が出る、いわゆる「できごころ」ってことですが、赤い鳥版では、最初から、悪戯をするつもりで、魚籠に近づいて行くことになってます。
 自筆版の場合、蓋が無いから、狐でも中の魚が見えた、だから悪戯したくなったという流れです。まるで、蓋さえあれば悪戯しなかったみたいな言い方です。

 では、ウナギの件です。自筆版です。
【とうとう、権狐は、頭を魚籠の中につっ込んで、うなぎの頭をくわえました。うなぎは、「キユッ」と言って、権狐の首にまきつきました。その時兵十の声が、
「このぬすっと狐めが!」
と、すぐそばでどなりました。】

 赤い鳥版です。
【ごんは、じれったくなって、頭をびくの中につっこんで、うなぎの頭を口にくわえました。うなぎは、キュッといって、ごんの首へまき付きました。そのとたん、に兵十が、向こうから、
「うわあ、ぬすっとぎつねめ。」
と、どなりたてました。】

 自筆版ですが、面白い表現を使っています。「兵十の声が、すぐそばで怒鳴りました。」です。「声が怒鳴る」とは変わった表現です。赤い鳥版では、「兵十が向こうから怒鳴り立てました。」と一般的な表現に書き換えられています。南吉にとっては、実験的な表現だったのでしょうが、削除されてしまいました。

 ここで、考えたいのは、その時の台詞です。自筆版は「この盗人狐めが」ですが、赤い鳥版は「うわあ盗人狐め」です。赤い鳥版は明らかに慌ててます。落胆の色も隠せません。ただ、慌てながら怒鳴るのは、いささか不自然ですから、「わめく」とか「叫ぶ」が適当かと思います。
 自筆版の方は、叱り飛ばしている感じです。悪戯する方も、される方もお互い相手のことを承知している。村人たちは、権狐の悪戯に迷惑してますけど、追い払えば良しって感じで、権狐は、ギリギリのところで存在を黙認されているように思えます。
 考えてみれば、網は、まだ張った状態ですので、もう少し待てば、次の魚がかかってくるわけで、逃げた狐に関わっている暇があったら、次の漁の支度をした方が良いはずです。だから追いかけて行かなかったのでしょう。

自筆版です。
【権狐は、ほっとしてうなぎを首から離して、洞の入口の、いささぎの葉の上にのせて置いて洞の中にはいりました。うなぎのつるつるした腹は、秋のぬくたい日光にさらされて、白く光っていました。】

赤い鳥版です。
【ごんはほっとして、うなぎの頭をかみくだき、やっと外して穴の外の、草の葉の上にのせておきました。】

 自筆版の「うなぎのつるつるした腹は、・・・」というのは、南吉が好んで書きたがる表現です。赤い鳥版では、物語の進行に不要と云うことで削除されていますが、南吉の作品を味わうという目的で「権狐」を読むならば、こういう記述は無くてはならない部分だと思います。
 気になるのは、「鰻の頭を噛み砕き」のところです。ずいぶん残酷な表現です。三重吉氏の意図は、何だったのでしょうか。権狐の残忍さを表したかったのか、野生の一面を見せたかったのか、童話ですからもう少し気の利いた表現がなかったんでしょうか。そもそも、この記述、必要だったのでしょうか。
 権狐は、鰻を聖なる木である「いささぎ」の葉の上にのせます。これが何を意味するのか分かりませんが、捨てたのでは無いことだけは確かです。赤い鳥版は、「いささぎ」を「シダ」に書き換えてしまったので、草の上にのせましたと書かざるをえません。頭を噛み砕かれた鰻が草の上に置いてあるという残念な情景になってしまいました。

 兵十が、はりきり網を持ち出した本当の理由や、兵十の母親の死と鰻との関係は、はっきりと書かれていませんが、子どもだったら、鰻を食べれば病気が治るって考えるかもしれません。権狐が兵十の母親の葬式に出会うのは、この10日後のことです。この後、ごんは、兵十の母親の死と、自身がウナギを盗ってしまったことを結びつけて、勝手に自己反省します。これは、10日後という絶妙な設定がそう思わせたのであって、この物語の良くできているところです。
  

(8) ~栗は鰻の償いなのか~

 兵十の母親の死を知った権狐は、一人(一匹)穴の中で思いを巡らせます。

自筆版です。
【その夜、権狐は、洞穴の中で考えていました。
「兵十のおっ母は、床にふせっていて、うなぎが食べたいと言ったに違いない。それで兵十は、はりきり網を持ち出して、うなぎをとらまえた。ところが自分がいたずらして、うなぎをとって来てしまった。だから兵十は、おっ母にうなぎを食べさせることができなかった。それで、おっ母は、死んじゃったに違いない。うなぎが食べたい、うなぎが食べたいと言いながら、死んじゃったに違いない。あんないたずらをしなけりゃよかったなー。」
 こおろぎが、ころろ、ころろと、洞穴の入口でときどき鳴きました。】

 赤い鳥版も此所のところは、大体同じようなものです。ただ、自筆版では、権狐は自分のことを「自分」か「俺」と言いますが、赤い鳥版では、「俺」と「わし」です。「俺」と「僕」などは、併用したり、使い分けたりすることもありますが、「俺」と「わし」を併用する人は、いませんから、ここは、どちらかに統一した方が良いと思います。
 あと、自筆版は「鰻が食べたいと言いながら死んじゃった」ですが赤い鳥版は、「思いながら死んじゃった」です。言いながら死ぬというのは、もの凄い場面です。死ぬ間際の言葉が、鰻が食べたいですから。この部分に関しては、珍しく赤い鳥版の方が、ソフトな表現になっています。

【兵十は、赤い井戸の所で、麦をといでいました。兵十は今まで、おっ母と二人きりで、貧しい生活をしていたので、おっ母が死んでしまうともう一人ぽっちでした。
「俺と同じように一人ぽっちだ」
兵十が麦をといでいるのを、こっちの納屋の後から見ていた権狐はそう思いました。】
 
 「赤い井戸」というのは、井戸囲いに常滑焼の土管を使っている井戸のことです。半田の隣町が、焼き物で有名な常滑です。常滑では、昔から焼き物で土管を作っていて、商品にならなかった土管をブロック代わりに再利用しています。この常滑焼の赤い土管を井戸囲いに使うという記述は、「牛をつないだ椿の木」にもでてきます。だから、絵本で木枠の赤い井戸が描かれている本は、間違えているということになります。


 権狐が、盗んだ鰯を兵十の家に投げ込む場面です。自筆版です。

【いわし売りは、いわしのはいった車を、道の横に置いて、ぴかぴか光るいわしを両手でつかんで、弥助の家の中へ持って行きました。そのひまに、権狐は、車の中から、五六匹のいわしをかき出して、また、もと来た方へかけだしました。そして、兵十の家の背戸口から、家の中へ投げこんで、洞穴へ一目散に走りました。はんの木の所で立ち止まって、ふりかえって見ると、兵十がまだ、井戸の所で麦をといでるのが小さく見えました。権狐は、何か好い事をしたように思えました。】

 いきなり、栗を持って行くので無く、その前に「鰯」の場面があるというところが、この物語が良くできているところだと思います。自筆版はこのように続いています。

【次の日には、権狐は山へ行って、栗の実を拾って来ました。それを持って、兵十の家へ行きました。背戸口からうかがって見ると、ちょうどお正午だったので兵十は、お正午飯のところでした。兵十は茶碗をもったまま、ぼんやりと考えていました。変な事には、兵十のほっぺたに、すり傷がついていました。どうしたんだろうと、権狐が思っていると、兵十が独言を言いました。
「いくらかんがえても分からない。いったい誰がいわしなんかを、俺の家へほりこんで行ったんだろう。おかげで俺は、盗人と思われて、あのいわし屋に、ひどい目に合わされた。」
まだぶつぶつ言っていました。
 権狐は、これはしまったと思いました。かわいそうに、あんなほっぺたの傷までつけられたんだな。権狐は、そっと納屋の方へまわって、納屋の入口に、持って来た栗の実を置いて、洞に帰りました。次の日も次の日もずっと権狐は栗の実を拾って来ては、兵十が知らんでるひまに、兵十の家に置いて来ました。栗ばかりではなく、きのこや、薪を持って行ってやる事もありました。そして権狐は、もういたずらをしなくなりました。】

 赤い鳥版では、「いわし屋の奴にぶん殴られて」という記述になるのですが、自筆版では、「いわし屋にひどい目にあわされた」とあるだけです。兵十は、ほっぺたに「すり傷(かすり傷)」をつけていますが、殴られて受ける傷は、打撲です。「ひどい目」を読者(この場合は、子供たち)に分かり易いように「ぶん殴られた」と書き換える一方で、「かすり傷」は、そのままにするという不徹底なところが気になります。「ひどい目」で十分だと思います。それから、いわし屋に罪が無いことは兵十も承知しているでしょうから、いわし屋の「奴」という表現も不適切といえます。

 権狐が持って行く物について、「栗ばかりでなく、きのこや、薪を」とありますが、赤い鳥版では、「栗ばかりでなく、松茸も二,三本」となって、きのこと薪が、松茸に変わります。知多半島では、松茸は採れないそうですが、山で松茸を見つけて、大事そうに持って行く権狐を思い浮かべると、何とも可愛い感じなので、これはこれで面白いと思います。
 ただ、薪を持ってくるという記述も、素朴で捨てがたいです。償いのメインは、栗でなく薪でも良かったのではないかと思います。

 さて、栗は鰻の償いであるのかという問いについてですが、当然「償いである」となります。赤い鳥版では、鰯を投げ込んだ時に、「ごんは、鰻のつぐないに、まず一つ、良いことをしたと思いました。」と書いてあるからです。まず償いの1つめが鰯なのですから、その後の栗も松茸も、償いの延長線上の行為と考えるのが普通です。

 ところが、自筆版では、「権狐は、何か好い事をしたように思えました。」とあるだけです。償いという直接的な表現が無いこともそうなのですが、「好い事をしたように思える」という記述がなんとも微妙です。権狐は、自分の行為について、自分でも上手く説明ができず、ただ、おこなった後の心地良さだけを味わっているんです。
 確かに、鰻の件で権狐は反省し、一人ぼっちになった兵十に共感していますけど、鰻を盗んだことを償うとは書いてない。兵十に好いことをしてあげようと思っているんです。「よい」っていうのは「好い」「善い」「良い」ってありますけど、正に「好い」です。今度は、兵十に好かれるようなことをしたい、ということです。
 権狐は、初めて尽くす相手を見つけたわけです。もちろん、鰻を盗んだことの罪滅ぼしの気持ちもありますし、同じ一人ぼっち通しという連帯感もあるでしょうが、好いことをしているときの心地よい思いを知ったのだと思います。
 だから、この後に「そして権狐は、もういたずらをしなくなりました。」となります。悪戯をやめるのは、鰻の件を反省したからで無く、悪戯よりも楽しいことを見つけたからだったのです。
 普通は、「鰻の件を反省」→「悪戯をやめる」→「償いをする」という流れでしょうから、この文を入れるとすれば、穴の中で反省した次に入るのが自然なのですが、南吉にすれば、この文は、此所に入れるべきものだったんです。

 不思議なことが続いた兵十は、このことを加助に話します。加助は、それは神様の仕業だから、神様にお礼を言うがいいと答えます。
 
 自筆版です。          
【権狐は、つまんないと思いました。自分が、栗やきのこを持って行ってやるのに、自分にはお礼言わないで、神様にお礼を言うなんて。いっそ神様がなけりゃいいのに。権狐は、神様がうらめしくなりました。】

 赤い鳥版です。
【ごんは、「へえ、こいつはつまらないな。」と思いました。「俺が、栗や松茸を持っていってやるのに、その俺にはお礼を言わないで、神さまにお礼を言うんじゃあ、俺は、引き合わないなあ。」】

 ここの記述については、償いの気持ちで始めたことにもかかわらず、感謝して欲しいと願う権狐の身勝手さということになっています。特に「つまんない」という記述のために、権狐って偉いと思ってたのに案外、見下げた奴だなあ、ってことになってしまいます。
 赤い鳥版では、「償い」を強調してしまったことと、「神様がいなけりゃあ」という表現を憚って「俺は引き合わないなあ」と書き換えたことで、より一層がっかりイメージが強く出てしまいます。
 しかし、権狐にとって、栗は賠償でなくてプレゼントです。秘密のプレゼントなので、贈り主が分からないのは仕方ないとしても、無関係な人と間違えられたら厭です。そこで、神様がいなけりゃあになる訳です。贈り主がずっと分からないままの方が、まだ良いわけです。何もしないのに感謝される神様がうらめしいわけです。決して、損得勘定でものを云っているわけではないということです。
 昭和初期という時代に「神様」について記述することは、デリケートなことだったでしょうから、「引き合わない」と書き換えた三重吉氏の行為も理解できますし、上手いこと書き換えたと思いますけど、やはり損得勘定が出てしまいます。
 ただ、ここでは、三重吉氏の書き換えを批判するよりも、そうせざるを得なかった時代を悲しむべきなのでしょう。


(9) ~田舎の葬式~

 兵十の母親の葬式の場面の分析については、沢田保彦著「南吉の遺した宝物」に詳しく出ています。ここでは、自筆版の本文の表現に注目して、進めていきます。

 自筆版です。 
【十日程たって、権狐が、弥助というお百姓の家の背戸を通りかかると、そこのいちじくの木のかげで、弥助の妻が、おはぐろで歯を黒く染めていました。鍛冶屋の新兵衛の家の背戸を通ると、新兵衛の妻が、髪をくしけずっていました。権狐は、
「村に何かあるんだな。」
と思いました。
「いったいなんだろう。秋祭りだろうか。でも秋祭りなら、太鼓や笛の音が、しそうなものだ。そして第一、お宮に幟が立つからすぐ分かる。」】

 「くしけずる」【梳る】は「櫛で髪の毛を梳かす」という意味です。
 ここで如何にも南吉らしい表現がでてきます。最後の「そして第一、お宮に幟が立つからすぐ分かる。」です。「すぐ分かる」というのは、可愛らしい表現です。自分は村のことなら何でも分かるんだという、権狐の得意そうな顔が目に浮かびます。赤い鳥版では、「第一、お宮にのぼりがたつはずだが。」と普通の表現になっています。

 自筆版です。
【こんな事を考えながらやって来ると、いつの間にか、表に赤い井戸のある、兵十の家の前に来ました。兵十の小さな、こわれかけの家の中に、大勢の人がはいっていました。腰に手ぬぐいをさげて、常とは好い着物を着た人たちが、表の、かまどで火をくべていました。大きな、はそれの中では、何かぐつぐつ煮えていました。
「ああ、葬式だ。」
権狐はそう思いました。こんな事は葬式の時だけでしたから、権狐にすぐわかりました。
「それでは、誰が死んだんだろう。」
とふと権狐は考えました。
 けれど、いつまでもそんな所にいて、見つかっては大変ですから、権狐は、兵十の家の前をこっそり去って行きました。】

 ここにも出てきました。「こんな事は葬式の時だけでしたから、権狐にすぐわかりました。」狐にだって分かるくらい当たり前のことという表現です。いかにも南吉的表現ですが、赤い鳥版では、丸ごと削除されています。

 この部分は、珍しく赤い鳥版での書き換えが少ない部分ですが、「腰に手ぬぐいをさげて、常とは好い着物を着た人たちが、表の、かまどで火をくべていました。」を「よそいきの着物を着て、腰に手ぬぐいを下げたりした女たちが、表のかまどで火をたいています。」と書き換えています。
 この「常とは好い着物」という表現ですが、単純に考えれば、「普段着より良い」となります。これを三重吉氏は、「よそいきの着物」と書き換えています。最近の葬儀は、葬祭会館などで行い、手伝う事などありませんから、皆さん最初から喪服を着てくることが多いと思いますが、葬式の手伝いに行く時に「よそいき」を着ますでしょうか。
 服装に関する言葉ですが、イメージ的には、「野良着」<「普段着」<「常より好い着物」≦「よそいき」≦「晴れ着」でしょうか。「常より好い」というのは、権狐の目線から出た表現と考えられます。狐にとっては、晴れ着もよそいきも全部まとめて常より好いと思っているのでしょうから、無理に「よそいき」などと書き換えなくても「いつもより好い服を着た」で十分だったと思います。
 それから、三重吉氏は「人たち」を「女たち」に直してますが、葬式の準備で火を焚くのは、知多半島では、男の仕事だそうです。

 自筆版です。
【お正午がすぎると、権狐は、お墓へ行って六地蔵さんのかげにかくれていました。いい日和で、お城の屋根瓦が光っていました。お墓には、彼岸花が、赤い錦のように咲いていました。さっきから、村の方で、「カーン、カーン」と鐘が鳴っていました。葬式の出る合図でした。】

 権狐は、一度帰ってから、出直して来ているようです。葬儀は午前中に行って、出棺はお昼過ぎという葬式のスケジュールや、葬列のルートがちゃんと分かっているみたいです。お城の屋根瓦といい、彼岸花といい素敵な情景描写です。「さっきから、鐘が鳴っていました。」というところも秀逸です。場面全体がのんびりとした時間の流れに覆われています。
 赤い鳥版では、「と、村の方から、カーン、カーンと鐘が鳴ってきました。」と書き換えています。権狐が隠れるのを待っていたかのように葬列が出発したという描写になります。鐘の音をきっかけにして場面に緊張感が出てきます。「さっきから、~鳴ってました」を「と、~鳴ってきました。」に変えただけのことですが、情景描写が南吉っぽさから、一気に三重吉っぽさに変わった印象を受けます。

 自筆版です。
【やがて、墓地の中へ、やって来る葬列の白い着物が、ちらちら見え始めました。鐘の音はやんでしまいました。話し声が近くなりました。葬列は墓地の中へ入って来ました。人々が通ったあと、彼岸花は折れていました。権狐はのびあがって見ました。兵十が、白い裃をつけて、位牌を捧げていました。いつものさつま芋みたいに元気のいい顔が、何だかしおれていました。
「それでは、死んだのは、兵十のおっ母だ。」
権狐はそう思いながら、六地蔵さんのかげへ、頭をひっこめました。】

 ここにも、南吉らしい表現があります。「やって来る葬列の白い着物が、ちらちら見え始めました。」つまり「白い着物が見えた」とあります。赤い鳥版では「白い着物を着た者たちが見えた」です。見えたのは、「着物」か「人」かということです。
 ちなみに、知多半島の風習では、葬列で白装束になるのは、喪主や近親者で、それ以外の者は、黒い服で歩くそうですから、絵本の挿絵で、全員が白装束なのは、間違いなのだそうです。

 それから、岩滑の葬式では、喪主が「白い裃をつけて位牌を捧げる」のは、目上の葬式の場合で、自分の家内や子どもの葬式では、裃は着けないとありました。そこで、裃を着けていることから、兵十にとって目上の家族、つまり母親(もしくは父親)の葬式となるそうで、権狐の「それでは、死んだのは、兵十のおっ母だ。」の台詞につながるそうです。
 権狐は、葬式の支度を見ているときに「誰が死んだのだろう」と考えます。これは、権狐が、兵十が母親との二人暮らしであることを知らなかったということを表しています。権狐が、兵十の母親の葬式だということが分かったのは、葬列での兵十が裃を着けていたのを見たからです。兵十の顔が萎れていたからではありません。

 権狐は、それほどまでに岩滑のしきたりに精通している狐である、ということになります。言い方を変えれば、南吉は、岩滑のしきたりについては、説明するまでもなく、理解されるものと考えていたということです。






 「赤い鳥」に掲載された「ごんぎつね」は、そのストーリーの巧みさにより評判を呼びます。南吉は、改作については何も語らず、赤い鳥版のごんぎつねを自らの作品として受け入れたといわれています。17才の代用教員、新美南吉にとっては、世間に発表できたこと、それで充分だったのでしょう。
 ところが、「ごんぎつね」が「赤い鳥」に掲載された翌年、南吉が尊敬する北原白秋が鈴木三重吉と絶交するに至り「赤い鳥」と絶縁、南吉も「赤い鳥」への投稿をやめてしまいます。これは、南吉が北原白秋に追従したためと云われてきましたが、僕には「ごんぎつね」掲載にあたっての三重吉に対する不信感が、根底にあったように思えてならないのです。

(資料)  「権狐」    新美南吉 著   

 茂助というお爺さんが、私たちの小さかった時、村にいました。「茂助爺」と私たちは呼んでいました。茂助爺は、年とっていて、仕事ができないから子守ばかりしていました。若衆倉の前の日だまりで、私たちはよく茂助爺と遊びました。
 私はもう茂助爺の顔を覚えていません。ただ、茂助爺が夏みかんの皮をむく時の手の大きかった事だけ覚えています。茂助爺は、若い時、猟師だったそうです。私が、次にお話するのは、私が小さかった時、若衆倉の前で、茂助爺からきいた話なんです。

(1)
 昔、徳川様が世をお治めになっていられた頃に、中山に小さなお城があって、中山様というお殿さまが少しの家来と住んでいられました。
 その頃、中山から少し離れた山の中に、権狐という狐がいました。
 権狐は、一人ぼっちの小さな狐で、いささぎの一ぱい茂った所に、洞を作って、その中に住んでいました。そして、夜でも昼でも、洞を出ていたずらばかりしました。畑へ行って、芋を掘ったり、菜種がらに火をつけたり、百姓屋の背戸に吊してある唐辛子をとって来たりしました。

 それはある秋のことでした。二三日雨が降りつづいて、権狐は、外へ出たくてたまらないのをがまんして、洞穴の中にかがんでいました。雨があがると、権狐はすぐ洞を出ました。空はからっと晴れていて、百舌鳥の声がけたたましく、響いていました。
 権狐は、背戸川の堤に来ました。ちがやの穂には、まだ雨のしずくがついて、光っていました。背戸川はいつも水の少ない川ですが二三日の雨で、水がどっと増していました。黄くにごった水が、いつもは水につかっていない所のすすきや、萩の木を横に倒しながら、どんどん川下へ流れて行きました。権狐も、川下へ、ぱちゃぱちゃと、ぬかるみを歩いて行きました。
 
 ふと見ると、川の中に人がいて何かやっています。権狐は、見つからないように、そーっと草の深い方へ歩いて行って、そこからそちらを見ました。
「兵十だな。」
と権狐は思いました。兵十は、ぬれた黒い着物を着て、腰から下を川水にひたしながら、川の中で、はりきりと言う、魚をとる網をゆすぶっていました。鉢巻きをした顔の横に、円い萩の葉が一枚、大きな黒子みたいにはりついていました。

 しばらくすると、兵十は、はりきり網の一番後ろの、袋のようになったところを水の中から持ち上げました。その中には、芝の根や、草の葉や、木片などが、もじゃもじゃしていましたが、ところどころ、白いものが見えました。それは、太いうなぎの腹や、大きなきすの腹でした。
 兵十は、しばらくすると、兵十は、はりきり網の一番うしろの魚籠の中へ、ごみも一緒に、そのうなぎやきすを入れました。そしてまた、袋の口をしばって、水の中に入れました。兵十は魚籠を持って川から上がりました。そして、魚籠をそこに置くと、着物の端から、ポトポトとしずくを落としながら、川上の方へ何か見に行きました。

 兵十がいなくなると、権狐はぴょいと草の中からとび出して行きました。魚籠にはふたがなかったので、中に何があるか、わけなく見えました。権狐は、ふといたずら心が出て、魚籠の魚を拾い出して、みんなはりきり網より下の川の中へほりこみました。どの魚も、「とぼん!」と音を立てながら、にごった水の中に見えなくなりました。
 一番おしまいに、あの太いうなぎをつかもうとしましたが、このうなぎはぬるぬるして、ちっとも権狐の手にはつかまりません。権狐は一生懸命になってうなぎをつかもうとしました。とうとう、権狐は、頭を魚籠の中につっ込んで、うなぎの頭をくわえました。うなぎは、「キユッ」と言って、権狐の首にまきつきました。その時兵十の声が、
「このぬすっと狐めが!」
と、すぐそばでどなりました。権狐はとびあがりました。うなぎをすてて逃げようとしました。けれど、うなぎは、権狐の首にまきついていてはなれません。権狐はそのまま、横っとびにとんで、自分の洞穴の方へ逃げました。
 洞穴近くの、はんの木の下でふり返って見ましたが、兵十は追って来ませんでした。
 権狐は、ほっとしてうなぎを首から離して、洞の入口の、いささぎの葉の上にのせて置いて洞の中にはいりました。うなぎのつるつるした腹は、秋のぬくたい日光にさらされて、白く光っていました。
 
(2)
 十日程たって、権狐が、弥助というお百姓の家の背戸を通りかかると、そこのいちじくの木のかげで、弥助の妻が、おはぐろで歯を黒く染めていました。鍛冶屋の新兵衛の家の背戸を通ると、新兵衛の妻が、髪をくしけずっていました。権狐は、
「村に何かあるんだな。」
と思いました。
「いったいなんだろう。秋祭りだろうか。でも秋祭りなら、太鼓や笛の音が、しそうなものだ。そして 第一、お宮に幟が立つからすぐ分かる。」

 こんな事を考えながらやって来ると、いつの間にか、表に赤い井戸のある、兵十の家の前に来ました。兵十の小さな、こわれかけの家の中に、大勢の人がはいっていました。腰に手ぬぐいをさげて、常とは好い着物を着た人たちが、表の、かまどで火をくべていました。大きな、はそれの中では、何かぐつぐつ煮えていました。
「ああ、葬式だ。」
権狐はそう思いました。こんな事は葬式の時だけでしたから、権狐にすぐわかりました。
「それでは、誰が死んだんだろう。」
とふと権狐は考えました。
 けれど、いつまでもそんな所にいて、見つかっては大変ですから、権狐は、兵十の家の前をこっそり去って行きました。

 お正午がすぎると、権狐は、お墓へ行って六地蔵さんのかげにかくれていました。いい日和で、お城の屋根瓦が光っていました。お墓には、彼岸花が、赤い錦のように咲いていました。さっきから、村の方で、「カーン、カーン」と鐘が鳴っていました。葬式の出る合図でした。
 やがて、墓地の中へ、やって来る葬列の白い着物が、ちらちら見え始めました。鐘の音はやんでしまいました。話し声が近くなりました。葬列は墓地の中へ入って来ました。人々が通ったあと、彼岸花は折れていました。権狐はのびあがって見ました。兵十が、白い裃をつけて、位牌を捧げていました。いつものさつま芋みたいに元気のいい顔が、何だかしおれていました。
「それでは、死んだのは、兵十のおっ母だ。」
権狐はそう思いながら、六地蔵さんのかげへ、頭をひっこめました。
 
 その夜、権狐は、洞穴の中で考えていました。
「兵十のおっ母は、床にふせっていて、うなぎが食べたいと言ったに違いない。それで兵十は、はりきり網を持ち出して、うなぎをとらまえた。ところが自分がいたずらして、うなぎをとって来てしまった。だから兵十は、おっ母にうなぎを食べさせることができなかった。それで、おっ母は、死んじゃったに違いない。うなぎが食べたい、うなぎが食べたいと言いながら、死んじゃったに違いない。あんないたずらをしなけりゃよかったなー。」
 こおろぎが、ころろ、ころろと、洞穴の入口でときどき鳴きました。

(3)
 兵十は、赤い井戸の所で、麦をといでいました。兵十は今まで、おっ母と二人きりで、貧しい生活をしていたので、おっ母が死んでしまうともう一人ぽっちでした。
「俺と同じように一人ぽっちだ」
兵十が麦をといでいるのを、こっちの納屋の後から見ていた権狐はそう思いました。権狐は、納屋のかげから、あちらの方へ行こうとすると、どこかで、いわしを売る声がしました。
「いわしのだらやす。いわしだ。」
権狐は、元気のいい声のする方へ走って行きました。芋畑の中を。
弥助のおかみさんが、背戸口から、
「いわしを、くれ。」
と言いました。
 いわし売りは、いわしのはいった車を、道の横に置いて、ぴかぴか光るいわしを両手でつかんで、弥助の家の中へ持って行きました。そのひまに、権狐は、車の中から、五六匹のいわしをかき出して、また、もと来た方へかけだしました。そして、兵十の家の背戸口から、家の中へ投げこんで、洞穴へ一目散に走りました。はんの木の所で立ち止まって、ふりかえって見ると、兵十がまだ、井戸の所で麦をといでるのが小さく見えました。権狐は、何か好い事をしたように思えました。

 次の日には、権狐は山へ行って、栗の実を拾って来ました。それを持って、兵十の家へ行きました。背戸口からうかがって見ると、ちょうどお正午だったので兵十は、お正午飯のところでした。兵十は茶碗をもったまま、ぼんやりと考えていました。変な事には、兵十のほっぺたに、すり傷がついていました。どうしたんだろうと、権狐が思っていると、兵十が独言を言いました。
「いくらかんがえても分からない。いったい誰がいわしなんかを、俺の家へほりこんで行ったんだろう。おかげで俺は、盗人と思われて、あのいわし屋に、ひどい目に合わされた。」
まだぶつぶつ言っていました。
 権狐は、これはしまったと思いました。かわいそうに、あんなほっぺたの傷までつけられたんだな。権狐は、そっと納屋の方へまわって、納屋の入口に、持って来た栗の実を置いて、洞に帰りました。次の日も次の日もずっと権狐は栗の実を拾って来ては、兵十が知らんでるひまに、兵十の家に置いて来ました。栗ばかりではなく、きのこや、薪を持って行ってやる事もありました。そして権狐は、もういたずらをしなくなりました。
(4)
 月のいい夜に権狐は、遊びに出ました。中山様のお城の下を通って少し行くと細い往来の向こうから誰か来るようでした。話し声が聞こえました。「チンチロリン、チンチロリン」松虫がどこかその辺で鳴いていました。
 権狐は、道の片側によって、じっとしていました。話し声はだんだん近くなりました。それは、兵十と、加助という百姓の二人でした。
「なあ加助。」
と兵十が言いました。
「ん」
「俺あ、とても不思議なことがあるんだ」
「何が?」
「おっ母が死んでから、誰だか知らんが、俺に栗や、きのこや、何かをくれるんだ」
「ふん、誰がくれるんだ?」
「いや、それがわからんだ、知らんでるうちに、置いていくんだ。」
権狐は、二人のあとをついて行きました。
「ほんとかい?」
加助が、いぶかしそうに言いました。
「ほんとだとも、うそと思うなら、あした見に来い、その栗を見せてやるから」
「変だな。」
それなり二人は黙って歩いて行きました。
 ひょいと、加助が後ろを見ました。権狐はびくっとして、道ばたに小さくなりました。加助は、何も知らないで、また前を向いて行きました。吉兵衛と言う百姓の家まで来ると、二人はそこへはいって行きました。「モク、モクモク、モクモク」と木魚の音がしていました。窓の障子にあかりがさしていました。そして大きな坊主頭が、うつって動いていました。権狐は、
「お念仏があるんだな」
と思いました。権狐は井戸のそばにしゃがんでいました。しばらくすると、また、三人程、人がつれだって吉兵衛の家にはいって行きました。お経を読む声が聞こえて来ました。

 権狐は、お念仏がすむまで、井戸のそばにしゃがんでいました。お念仏がすむと、また、兵十と加助は一緒になって、帰って行きました。権狐は、二人の話を聞こうと思って、ついて行きました。兵十の影法師をふんで行きました。
 中山様のお城の前まで来た時、加助がゆっくり言いだしました。
「きっと、そりゃあ、神様のしわざだ。」
「えっ?」
兵十はびっくりして、加助の顔を見ました。
「俺は、あれからずっと考えたが、どう考えても、それゃ、人間じゃねえ、神様だ。神様が、お前が一人になったのを気の毒に思って、栗や、何かをめぐんで下さるんだ。」
と加助が言いました。
「そうかなあ。」
「そうだとも。だから、神様に毎日お礼言ったが好い。」
「うん」
権狐は、つまんないと思いました。自分が、栗やきのこを持って行ってやるのに、自分にはお礼言わないで、神様にお礼を言うなんて。いっそ神様がなけりゃいいのに。権狐は、神様がうらめしくなりました。

(5)
 その日も権狐は、栗の実を拾つて、兵十の家へ持つて行きました。兵十は、納屋で縄をなっていました。それで権狐は背戸へまわつて、背戸口から中へはいりました。

 兵十はふいと顔をあげた時、何だか狐が家の中へ入るのをみとめました。兵十は、あの時の事を思い出しました。うなぎを権狐にとられた事を。きつと今日も、あの権狐がいたずらをしに来たに相違ない。
「ようし!」
 兵十は、立ちあがつて、ちょうど納屋にかけてあった火縄銃をとって、火薬をつめました。そして、足音をしのばせて行って、今、背戸口から出て来ようとする権狐を「ドン!」とうってしまいました。権狐は、ばったり倒れました。
 兵十はかけよって来ました。ところが兵十は、背戸口に、栗の実が、いつものように、かためて置いてあるのに眼をとめました。
「おや。」
兵十は権狐に眼を落としました。
「権、お前だったのか……。いつも栗をくれたのは。」
権狐は、ぐったりなったまま、うれしくなりました。
 兵十は、火縄銃をばったり落としました。まだ青い煙が、銃口から細く出ていました。

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