2017年2月19日日曜日

ウォーターライン製作記② ~戦艦「山城」とレイテ海戦~ オタクと共に歩むアオシマ編

 僕が子どもの頃のアオシマの製品は、酷いものでした。子どもだった僕にも分かりました。ウォーターラインで各社がどの艦船を担当するかは、「大和」が「タミヤ」である以外、くじ引きで決まったそうですけど、組み立てたい艦がアオシマの担当だったりしたら、かなり落ちこみました。
 ただ、近年、「艦これ」とコラボしたりして、ウォーターラインシリーズに一番力を入れているのが「アオシマ」なんです。

  僕が組み立てたリテイク版「山城」は、アオシマの新作です。技術の進歩とはこういうことかと思い知らされました。今の金型って、職人さんがコツコツ作っているわけじゃなくって、コンピュータ制御の工作機械で作っているでしょうから、設計データさえしっかりしていれば、どのメーカーが作っても差は無いみたいです。メーカーに関係なく、新しいものほど良いという時代になったわけです。
 ただ、それはあくまでも部品の成形に関しての話であって、どのようにパーツ分けをするのかなどの設計に関しては、各メーカーのセンスが問われることになります。  

 ウォーターラインには、メーカー共通部品というのがあって、三連装機銃なんかは、どの箱にも同じパーツが入っています。しかも古い。新型の金型ならばもっとディテールにこだわった部品が作れるはずなんですが、こういうところは、共同企画の弊害だと思います。
 まあ、ヨドバシの模型売り場とかに行けば、専門メーカーによるアフターパーツもあるんですけど、入れ込み始めるとキリがないですからね。

 「艦これ」が「ウォーターライン」に与えた影響は計り知れませんが、現在ではプラモデル全般にその影響が表れています。
 プラモデル売り場を久しぶりに訪れたとき、何より驚いたのは、戦車も、城も、飛行機も、全てと云って良いくらい、箱に女の子のイラストが描かれていたことです。あれでは、オジさんが一般のおもちゃ売り場のレジに持って行くには、かなりの勇気が必要です。
 ウォーターラインの「艦これ」コラボ製品には、キャラクターの女の子がデカデカと描かれていて、肝心の船のイラストがありません。知らない人が見たら、女の子のフィギュアを買ったんだって思うはずです。中には、シールとかカードが入っているそうですけど、それだけで値段が倍近く跳ね上がります。

 でも、艦これ人気のおかげで、製品のリニューアルが進んだり、給糧艦「間宮」なんていう余程のオタクでなければ知らなかった艦まで製品化されたわけですから、モデラーさんとしては、微妙なところのようです。

 今回製作した戦艦「山城」は、生まれ変わったアオシマの渾身の作品で、1944年リテイク版です。1944年というのは、レイテ海戦の年ですから、「山城」の最終形になります。


 箱絵は、一見すると「上田毅八郎」氏のタッチなんですが、海も空も何となく違和感があります。箱絵にサインが無いのは、毅八郎氏にもあることですが、説明書にも作者名の紹介がありません。あと、アメリカの魚雷艇と交戦している場面なんですよね。以前も書きましたけど、毅八郎氏が戦闘場面を描くことはほとんどありませんし、この時の海戦(スリガオ海峡夜戦)は、深夜に行われましたから、史実とも違います。やはり、このイラストは別の作家さんなんでしょうか。

 リテイク版は、一部のパーツを新規に作り替えた物のようですが、旧部品をそのままにして、新規のパーツを加えるという形をとっています。これだと必要最小限の金型で済みますからね。差し替えよりも追加の方が簡単なのでしょう。これによって、大量の旧部品が使われずに残りますけど、原材料のプラスチックなど、タダみたいなものですからね。
 あと、旧部品と新部品の両方が箱に入ってますから、どこが変わったのか比べることができます。「山城」の場合は、煙突がリテイクされてましたけど、旧部品では一体成形されていた配管が別パーツになっていて、かなりリアルになってました。

 現実世界の「山城」は、大正6年に竣工した初めての純国産戦艦でした。それまでの日本には戦艦を建造する技術はなく、山城以前の戦艦は、イギリスなどに発注して購入したものでした。
 昭和2年には、昭和天皇の御召艦に指定されたり、昭和3年には、連合艦隊旗艦になるなど、日本海軍の主要艦として活躍しますが、太平洋開戦時は竣工から既に30年近く経ち、最大速力23ノットでは機動部隊の護衛にも使えず、開戦後は、内地待機、練習艦として使用されていました。

 そんな旧式戦艦「山城」が実戦投入されたのが、レイテ沖海戦です。「山城」は、同型艦「扶桑」とともに戦艦2、巡洋艦1、駆逐艦4で編成された「西村艦隊」の旗艦として出撃します。
 レイテ沖海戦(捷一号作戦)は、日本海軍が残る戦力のほぼ全てを投入して行った、太平洋戦争最後で最大の作戦でした。攻撃の主力は、戦艦「大和」「武蔵」を中心とする「栗田艦隊」。「西村艦隊」は、別動部隊としてレイテ島を目指しました。本隊と別行動となったのは、補給の遅れで同時に出撃できなかったこと、低速の山城との行動を栗田司令官が危惧したことなどがあげられています。
 
 これに対して、アメリカ軍は、新鋭戦艦を有する栗田艦隊に機動部隊の攻撃を集中させ「武蔵」を撃沈。一方、旧式戦艦で構成された西村艦隊には、戦艦を中心に構成された艦隊を待ち伏せさせました。スリガオ海峡夜戦と呼ばれたこの海戦は、太平洋戦争では珍しく、航空機が関与しない、水上艦同士の海戦となりました。戦艦同士で撃ち合った最後の海戦とされています。


 夜間戦闘をイメージして撮りました。主砲を6基12門搭載した姿は、プラモデル的には、格好いいのですが、構造的に多くの欠陥を抱え、失敗艦とされていました。まあ、初の国産戦艦ですから致し方ありません。この教訓は、後の戦艦大和へと生かされていくわけですし。
 レイテ作戦時の山城には、航空機の攻撃に対抗するため、多数の機銃が増設されていました。3連装機銃1基について9人の兵士が配属されていたそうです。しかし、高速で防御力の高いアメリカ軍機を撃ち落とすのは容易でなく、防盾が無いため、爆弾や銃撃により多くの命が失われることになりました。

 アメリカ艦隊は、戦艦6隻、重巡洋艦4隻、軽巡洋艦4隻、駆逐艦28隻、魚雷艇39隻で構成された大艦隊でした。この戦艦群は、真珠湾攻撃で日本の機動部隊が撃沈した戦艦で、引き揚げられた後、修理・改装された艦だったそうです。

 西村艦隊は、栗田艦隊の到着を待たず、単独で夜の海峡へ突入しました。アメリカ艦隊は、戦艦、巡洋艦のレーダー射撃と駆逐艦の魚雷攻撃で迎え撃ちます。この艦隊対艦隊の砲雷撃夜戦というのは、日本海軍が絶大な自信を持ち、待ち望んでいた戦闘でしたが、戦力差はあまりにも大きく、一方的な戦いになります。
 帰還できたのは、駆逐艦1隻のみ。戦闘が夜間に行われたこと、艦隊がほぼ全滅したことで、救助活動が行われず、艦隊全体では4000人以上の戦死者を出し、山城も1500人いた乗組員の内、生還できたのは10人だったそうです。
 「山城」は、艦橋が崩れ落ち、撃沈する直前まで、主砲を発射し続けていたという証言があります。「山城」は、本来ならば実戦に投入されるべきもないような旧式戦艦でしたが、その最期は最も戦艦らしいものだったといえます。

 西村艦隊が、単独での突入を敢行した理由は不明ですが、この日送られた、連合艦隊司令部からの悪評高い電報が知られています。
「天佑ヲ確信シ全軍突撃セヨ」
 司令部の最大の役割は、後方からの情報支援のはず。実戦部隊に対して、内地から頑張れと云っているだけの、全く内容の無いこの電文は、現場に混乱と反発を招き、何より、この作戦が「天佑」を前提にしたものであったことを語っています。

 僕が子どもの頃、レイテ沖海戦というと栗田艦隊の敵前ターンが有名でした。戦艦大和がレイテ湾に突入していれば、歴史が変わったかのような論議は、作戦そのもの問題点を司令官個人の判断ミス(英断だったかもしれない)に矮小化しただけのことでした。
 この時期の戦闘は、全て負けるために行われていたように思えます。しかし、負けたことによって現在の日本があるとすれば・・・、それがあの戦争の唯一の意味だったのかもしれません。

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