2017年11月13日月曜日

エーリッヒ・ケストナー作「ふたりのロッテ」と「追憶のヒロイン」Wink

 「追憶のヒロイン」は、アニメ「わたしとわたし~ふたりのロッテ~」のエンディングテーマ(ED)である。OPとEDで両A面という扱いだったが、歌番組で2曲披露するわけにはいかないから、どちらかを選択しなければならない。で、どうやらこちらが選ばれたようだが、MVがOPしか作られていないところを見ると、この決定までには紆余曲折があったのかもしれない。
 ラテンのリズムは、ドイツ・オーストリアを舞台としたアニメ作品とはかけ離れているが、まあ、EDというのは、そういうものである。

 この楽曲はMVが無いものの、ライブ動画が多く撮られている。現在、最も視聴回数の多いのは、こちら。


 コンサートライブからのテイクのようである。で、ライブテイクは、もう1つある。


 実は、最初の動画はCD音源である。ライブ映像にCD音源を被せて、さらにライブ動画の方が短いものだから、別の映像を挟み込んで合わせたという力作だ。MVが無いのなら自分たちで作ってしまう、Winkファン恐るべしである。
 では、ライブ動画がそれほどまでにデキが悪いのかというと、そんなことは全然無くって、会場のかけ声や間奏のギターソロなんてイイ感じだし、何より、ちゃんと歌えている。
 そりゃあ、「あやや」のようにライブの方がCDより歌が上手いなんてことは無いが、彼女たちは、ちゃんと歌っているのである。それが、Winkの最大の魅力であって、僕だって、アイドルならば何でもイイわけでは無いのだ。



 アニメの原作「ふたりのロッテ」は、ドイツの児童文学作家エーリッヒ・ケストナーが1949年に発表した小説である。戦前、ケストナーは、反ナチ的な態度をとっていたので、発禁や焚書などの弾圧を受けていたが、投獄されることはなかったらしい。彼は国民的人気作家だったから、国民感情を考えると、当局も手荒なマネはできなかったのだろう。「ふたりのロッテ」は、ケストナーがナチスの弾圧から逃れるために偽名を使って書き上げた映画の脚本だった。地の文が現在形になっているのはそのためだ。映画の制作は当局に発覚して中止になったが、ナチスの迫害を受けながら、そして祖国が連合軍の無差別爆撃で焦土と化していく中で、双子の女の子が主人公で離婚がテーマの映画を作ろうなんて考えていたことに驚かされる。
 まあ、とにかく有名な話だから、読んだ人も多いはずだし、どんな小さな街の図書館にだって置いてあるだろうし、ブックオフへ行けば100円で手に入る。今さら、ネタバレのことなど気にする必要もないだろう。
             
 児童文学だから、本の裏表紙には対象年齢が書いてあって、小学校4年生以上だそうだ。これは、ロッテとルイーゼの設定年齢がもうすぐ10歳というところからきているのだと思う。主人公が自分と同年齢ならば感情移入がしやすいと云う教育的配慮だ。でも、感情移入という観点で云うならば、もう1つの対象年齢は25歳以上である。もちろん、パルフィー氏とケルナーへの感情移入を考慮してのことだ。
「ふたりのロッテ」を子どもの時に読まなかったことは不幸だが、子どもの時に読んだだけで終わってしまうのも、勿体ないことなのである。


 物語のタイトルは「ルイーゼとロッテ」でも良かったはずなのに、何故、「ふたりのロッテ」なのか。それは、物語の重要なアイテムであるツーショット写真がロッテの髪型だったからに他ならない。でも理由はそれだけでは無いと思う。物語の主人公は、明らかに「ロッテ」と云えるからだ。
 ルイーゼとロッテ、貧乏くじを引いたのはロッテである。ミュンヘンでは、シングルマザーのケルナーと共に「小さな主婦」として家庭を支えなければならなかったし、ウイーンでは、崩壊状態にあった家庭を再建し、父親の婚約者ゲルラッハ嬢と壮絶な女のバトルを繰り広げたあげく、病んでしまうからだ。可哀想過ぎる。これで脇役扱いだったら、「やってらんねえ」ってなるだろう。

 夏休みの林間学校で出会ったルイーゼとロッテは、お互いが生き別れた双子であることを知り、入れ替わって帰宅することを思い立つ。書評では「分かれた両親を仲直りさせるため」となっているが、これは間違っている。そんなことは、何処にも書かれてないし、ケストナー自身も、彼女たちもそんなことが出来るとは思ってないと書いているからだ。彼女たちが入れ替わったのは、もう片方の愛情を手に入れるためであり、子どもらしい冒険への憧れからに過ぎない。

 彼女たちの父親、パルフィー氏は作曲家であり、ウイーンの国立歌劇場の常任指揮者という設定だ。ということは、率いているのはウイーン・フィルってことか。凄すぎる。いくら小説でもやり過ぎだろうw
 若くして結婚したケルナー夫人は、家庭を顧みない夫と、双子の育児に疲れ果てていたが、夫の浮気の噂を耳にして離婚話を突きつけてしまう。若き音楽家パルフィー氏は、芸術家としてやっていけるかどうか、底無しの不安にさいなまれていたから一人の時間が欲しかった。まあ、離婚の理由としては上等だろう。で、こんな記述がある。感動の場面だから、引用させていただこう。
 ”新曲をひっさげたパルフィー氏がミュンヘンでコンサートを開くたび、ケルナーは、一番安いチケットを買う。そして、一番後ろの席にうつむきかげんに座り、分かれた元の夫の音楽から、この人が幸せになったわけでは無いことを聴き取る。成功しているのに。一人になれたのに。”
 ウイーン・フィルの演奏から、元の夫の心の内を聴き取るなんて、格好良すぎだ。YouTube動画を見比べて、こっちの方が「さっちん」が可愛い、なんてやってる自分が恥ずかしくなってくる。

 ルイーゼとロッテは、双子であるが、性格は正反対という設定になっている。双子は同じ遺伝子情報を持っているから性格も似るはずなのだが、育ってきた環境があまりにも違うからだ。
 だから環境を入れ替えたとき、補完が始まる。ミュンヘンのルイーゼは細やかな心遣いを身につけるし、ウイーンのロッテは子どもらしい明るさと行動力を獲得する。
 そして、大人たちも変わり始める。ロッテの小さな主婦としての健気な振る舞いによって、パルフィー氏は家庭の温もりを求めるようになるし、ルイーゼの屈託の無い明るさは、生活に追われていたケルナーに心のゆとりをもたらす。ガルミッシュへの1泊旅行。アイプ湖のホテルでのささやかな贅沢。

 パルフィー氏は、ロッテの目に溜めた涙から、手がけていた子ども向けのオペラ、「子どもの歌」をハ短調に転調するというインスピレーションを得るのだが、ロッテの想いは彼には届かない。
 では、パルフィー氏が酷い父親かというと、そんなことは無い。ロッテが熱にうかされているとき、氏は、一晩中枕元で見守っていた。しかし、その小さな頬を撫でた時、ロッテは無意識のうちに父の手を拒絶する。ロッテは父の手を知らずに育ってきたからだ。
”父親はそっと立ち上がり、人形を取り上げて、明かりを消すと、またベッドのそばに腰を下ろす。そうやって、暗がりの中、父親は子どもの代わりに、人形を撫でる。人形なら、父親の手にもビクッとしない。”
 父親とは憐れな生き物である。

 ロッテの宿敵、ゲルラッハ嬢は、ウイーンでホテルやレストランを経営する実業家の父を持ち、指揮者夫人というステータスを手に入れることを目論む心冷たい女性と描かれている。でも、パルフィー氏はバツイチの独身男性だから、彼女は悪いことをしてるわけではないし、相手が母親の愛情を知らずに育ったルイーゼだったら「勝手に再婚すれば」みたいな感じで、めでたく結婚できたはずだ。運が悪かったとしか云いようが無い。
 アニメでは、彼女のパルフィー氏を愛する心はホンモノだと描かれているし、悲しみにくれながらも潔く身を引く姿は格好良くもある。さらにアニメでは、ケルナーの職場の上司ベルナウ編集長がケルナーに密かな恋心を持っていることになっていて、パルフィー氏とケルナーが、そう簡単には、よりを戻せない状況にあるから、人物設定に関してはアニメの方がレベルが高いと云える。

 二人の入れ替わり生活は、偶然、雑誌社に送られてきた一枚の投稿写真、「ふたりのロッテ」でケルナーの知るところとなる。母親にかまをかけられて、ルイーゼが皿を落としてしまうところは、物語で最も有名な場面だろう。
 この先は、ひたすらベタな展開の連続だが、読者が望むところなので致し方ない。

 物語の最後、パルフィー氏のオペラは、ハ短調から、さらに変ホ長調に転調されて完成する。ベートーヴェンが生涯愛した変ホ長調で。


 アニメファンは、エヴァンゲリオンのアスカとレイのように、ルイーゼ派とロッテ派に分かれているそうだ。そういえば、Winkファンも「さっちん」派と「翔子」派に分かれていて、彼女にするなら右、結婚するなら左とか云われていたらしい。その言葉を借りれば、彼女にするならルイーゼ、結婚するならロッテとな・・・誤解を招くといけないのでやめておこう。

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