2017年9月30日土曜日

駿河湾の鯵と「えびす丸」の遭難

 静岡県東部に沼津という街がある。長らく県東部地区の商都として栄えてきたが、最近は元気が無い。駅前のデパートは、居酒屋が入居する雑居ビルになってしまったし、商店街はシャッターが目立つ。そんな沼津市で唯一賑わっているところが、沼津港の周辺だ。海産物を売る店や、海鮮料理屋が並んでいて、観光バスが次々とやってくる。お目当ては「アジの干物」「生シラス」「生桜エビ」といったところだろうか。観光地価格でボッタくらないのが人気の理由らしい。
 沼津という地名は、狩野川河口の「沼沢地にある湊」という意味だから、港周辺が栄えるのは、古の姿に戻ったようで面白い。
 沼津の港には、西伊豆で捕れた豊富で多様な海産物が集まり、周辺には加工場が多く作られた。とくに「鰺の干物」の生産量は、現在まで不動の全国一位である。干物の材料のアジは、今では外国産や養殖物になってしまったが、干物業者が云うには、材料がどこであっても、沼津で干物に加工しているのだから立派な国産品だそうだし、養殖業者が云うには、駿河湾の鰺の養殖技術は抜群で、味も安全性も天然物を超えているそうだ。


 僕は、伊豆半島のとある漁村で生まれ、僕の祖父は漁師だった。僕が言葉を覚え始めた頃、家には魚の図鑑があって、魚を見ると「オトト」「オトト」と言っていたらしい。どの魚を指しても全て「オトト」というので、家族は、「これは?」「これは?」と、面白がって聞いていたが、あるとき、突然「アジ」と言ったそうである。駿河湾でアジがたくさん捕れていた時代の話である。

 当時、駿河湾のアジは、巻き網で捕っていた。巻き網漁は、2隻の網船でイワシやアジの群れを囲い込んで捕る漁法である。今では、どんな小さな漁船だってエンジンくらい付いているだろうが、当時の網船は大型の伝馬船でエンジンは無く、漁場まではエンジン付きの漁船に曳航されていたそうである。
 漁は夜間におこなわれた。漁師たちは、夕方になると弁当を持って出かけ、夜が明けると帰ってきた。納戸という部屋が家の奥にあって、昼間はそこで寝ていた。僕らが、家の近くで大騒ぎして遊んでいると、「寝ているから静かにしろ」って、近所のおばさんに叱られたものである。
 月夜の晩は、漁は休みであった。それから、風が強かったり、波が高かったりする日も漁を休んでいた。村の爺さんたちは、ベンチに座って海をよく見ていた。「今日はニシ(西風)が強い」とか「今日はナライ(東風)だ」とか、風の話が挨拶代わりだった。
 だから、なんだかんだで、漁に出ない日も多かった。近隣の村では、大型の漁船を使って遠く太平洋まで出かけていったり、多少の荒波でも漁に出ていたので、「うちの村の漁師は怠け者だ」なんて揶揄する者もいたが、使っている船が船だからってこともあるし、資源保護の意味合いもあったように思う。
 漁に出ない日は、網の修繕などをしていた。仕事で縫い物をしていたので、漁師はみんな裁縫が得意だったそうだ。でも、休みの日のほとんどは、酒を飲んでいたように思う。昼間っから酔っ払いが歩いているなんてのは、漁村ならではの光景だろう。

 祖父は、自分の船を持たず、網元が運用する巻き網船にのっていた。船の名前は「えびす丸」、いわゆる雇われ漁師だった。あるとき、祖父たちの漁船が操船を誤って座礁し、乗っていた伝馬船が転覆するという事故が起こった。夜の9時頃、漁場に向かう途中のことだったらしい。漁師たちは、伝馬船(網船)の上で仮眠をしていて、夜の海に投げ出された。が、海に落ちたといっても、漁師である。夏だったし、海が荒れていたわけでもなかった。
 ところが、転覆した伝馬船には、大量の漁網が積んであった。漁師たちは、網と一緒に海に落ち、このことが、事故を大きくした。

 その夜、僕は、異様な雰囲気を感じて目が覚めた。寝床から這い出すと、縁側で母と祖母が、誰かと話し込んでいた。近づいて話しかけようとしたら、「お前はあっちに行ってろ」みたいなことを言われたのを覚えている。
 事故は、南伊豆町の妻良沖で起きた。妻良の漁協から村の漁協に事故の状況を伝える連絡が続々と入ってくる。漁協に届いた連絡は、口伝いで村の人たちに広がっていった。
 父は、消防団員として、妻良に向かって出て行った。今は、車で飛ばせば1時間もかからない所だが、当時は、未舗装の曲がりくねった山道しかなかった。

 翌朝、僕は幼稚園に行くために玄関にいた。すると、祖母に連れられた祖父が、浜の方から歩いて来るのが見えた。仲間の船に乗せられて帰ってきたのだろう。祖父は裸足であったが、新しい上下の服を着ていたそうだから、妻良の人たちに着せてもらったものかもしれない。
 祖父は、玄関先に立っている僕を見つけると、僕の名前を呼び、抱きついてきた。祖父が泣いていたのを覚えている。僕は、ようやく、大変なことが起こっていたのだと分かった。

 村では、5件の葬式が出た。

 事故の状況について、「滅多なことを云うもんじゃ無い」と、祖父は家族に釘を刺していたらしい。狭い村だ。濃くて複雑な人間関係の中で暮らしていたから、不用意な発言が、どこにどう伝わっていくか分からなかった。
 妻良の人たちには、いろいろと世話になったと聞いた。救助されて最初に与えられたのは、お湯で、次に重湯が出てきたという。

 祖父は、その後も漁師を続けていたが、次第に駿河湾のアジの漁獲量は減少していった。簡単に云ってしまえば資源の枯渇だろうが、年寄りの話だと、もっと昔はアジなど捕れなかったそうだから、アジが捕れたのも、捕れなくなったのも、自然界の大きな変動の1つに過ぎないのかもしれない。

 
 「えびす丸海難事故」についての僕の記憶は、縁側で話し込んでいた祖母たちの姿と、祖父に抱きつかれたことである。これらは、僕が辿ることのできる最も古い記憶の1つだ。
 そして、この記事を書きながら気づいたことであるが、あの時、涙を流して僕に抱きついてきた祖父は、今の僕と同い年である。 

2017年9月24日日曜日

「スカボローフェア」サイモン&ガーファンクルfeat.巡音ルカ

 サイモン&ガーファンクルと云えば、映画「卒業」ですよね。ダスティン・ホフマンが主演し、1968年に封切りされたこの映画は、感動の(?)ラストシーンと全編に流れるポール・サイモンの楽曲で、青春映画の最高峰とされています。
 映画で流れてくる楽曲は、「サウンド・オブ・サイレンス」「スカボロー・フェア」「4月になれば彼女は」「プレジャー・マシーン」そして、この映画のために作られたと云う新曲「ミセス・ロビンソン」です。
 
 有名な映画なので、テレビの映画劇場でも放送されましたし、それを見た覚えもあますが、ナンと、僕は、この映画を劇場で見ているんです。

 中学校を卒業した春休みのことでした。義務教育の間はクラス替えがあるにしても、皆、同じ学校に通っていたわけで、それが高校進学では、別々の学校に進むことになります。そんな卒業式と入学式の間というのは、何とも云えない「おセンチ」な気分ですよね。そんな時に、隣町の映画館に「卒業」がやってきたんです。卒業の季節なんで、ウケるだろうってことで、何年振りかで再上映したんだと思います。
 もちろん、サイモン&ガーファンクルにハマっていた僕らは、喜んで見に行きました。男子と女子、それぞれ4人ぐらいのグループだったと思います。1対1じゃ付き合えない、典型的な中学生のグループ交際でした。まだマクドナルドなんて無い時代でしたから、中学生でも入れそうなカレースタンドで昼飯を食べて、それから・・・忘れてしまいました。

 肝心の映画の内容は、ほとんど理解できてなかったと思います。しばらくしてテレビで放映されたのを見てやっと分かったってところでしょうか。って云うか、ウブな田舎の中学生ですからね。彼女の母親と何であんなことになるのか理解不能なのも当然です。でも、何となく羨ましいなあ、なんて心の底では憧れましたが・・・。
 花嫁を奪ってしまうという、有名なラストシーンは、感動するもなにも「こんなことになって大丈夫なの?」って、不安な気分が先立ってしまい、僕的には後味の悪い作品でしたw

 音楽は、分かりましたよ。あっ「サウンド・オブ・サイレンス」だとか、「スカボローフェア」だとか。当時は、知っている音楽が流れてきただけで、嬉しかったんですけど、今思うと、とってつけたような感じに思います。もともと、既存の楽曲を当てはめたわけですから、歌詞の内容が、映画の中身とリンクしている訳でもないし。主題歌はともかく、歌詞付きの音楽がサウンドトラックというのは、映画的には、どういうものなんでしょうか。

 映画にも使われていた「四月になれば、彼女は」です。僕は、この楽曲に憧れて、ついにピアノでスリーフィンガーが演奏できるようになったんですよ。


 今回貼り付けさせていただくボカロカバーは、「スカボロフェア」になります。この曲は、世界中でホントにたくさんのボーカロイド作品が発表されています。他の楽曲と桁が違います。唄わせやすいとか、挑戦させたくなるとか、様々な理由があると思いますけど、優れたカバー作品が、新たなカバー作品を誘発するってこともあったかと思います。伴奏のMIDI音源が公開されたりすれば、カバー作品作成の敷居も少し下がるでしょうし。
 で、たくさんの作品からセレクトさせてただいたのが、こちらになります。


 S&Gファンの方でなくともご存じかと思いますが、「スカボローフェア」は、正確に云うと、彼らの楽曲ではありません。映画で使われていた「スカボローフェア」は、イギリスで古くから歌われていた作者不詳の伝統的バラッド「Scarborough Fair」に、彼ら創作の歌詞(反戦歌)とメロディーを被せたものを「スカボローフェア/詠唱」として1966年に発表したものになります。「Scarborough Fair」は、400年近く前には原詞が存在していたことが確認できるそうですから、ものすごい古謡になります。
 オリジナルの部分と、加えられた部分、ともに意味深な歌詞の解釈は、僕の手に負えるものではありませんが、単純に1つの楽曲、歌詞の意味もよく分からない洋楽の1つとして聴いた場合、この詠唱の部分があればこその名曲に思いますし、このデュオこそがサイモン&ガーファンクルの真骨頂に思います。

 ボカロカバーにも、詠唱の部分の付いている作品と付いていない作品があります。同じ、又は異なる2体のボーカロイドに歌わせた場合、最も難しいのが2つの旋律のバランスだと思います。ポール・サイモンとアート・ガーファンクルだったら、阿吽の呼吸ってところでしょうけど、機械はそういうわけにはいきませんからね。

 ところが、YouTubeにアップされている彼らのライブ動画の「スカボローフェア」は、詠唱タイプのものではありません。確かに、主旋律でハモった場合、3人いないと歌えないんですが、何故、詠唱の部分の方をカットするのでしょうか。あからさまな反戦歌としての部分が敬遠されたのでしょうか。この辺の事情は、S&Gファンの方々に御教授いただきたいところです。

 そういえば、中学生の時「スカボローフェア」と云ったら、「違う!スカボローフェア/詠唱だ。」って、偉そうに言い返されたことを思い出しました。でも、今は、そんなウンチクを云う奴はいないんじゃないでしょうか。カバー作品を投稿しているボカロPさんも、それほど意識して無いように感じますし、詠唱の部分は、単なるバックコーラスであって、有っても無くても、という扱いになった感すらあります。

 イングランドの伝統的バラッド「Scarborough Fair」は、サイモン&ガーファンクルによって、「スカボローフェア/詠唱」として、世界中に広まり、スタンダードになるにつれ「スカボローフェア」に戻っていった。

 と、巧いこと云ったつもりになったところで、お終いは「スカボローフェア/【詠唱】」です。映画の名場面集とともにサウンドトラック盤で。

2017年9月23日土曜日

「明日に架ける橋」サイモン&ガーファンクルfeat.巡音ルカ

 サイモン&ガーファンクルに出会ったのは、中学生の時だった。もちろん「サウンド・オブ・サイレンス」とか「コンドルは飛んでいく」などは、もっと前から聞いていたと思うが、これらの作品が、彼らの楽曲であることを認識したのが、その頃ということである。

 僕も、当時の中学生が、皆そうであったように、ギターにハマり、「ビートルズ」にハマり、「NSP」や「かぐや姫」にハマっていたから、当然「サイモン&ガーファンクル」にもハマることになった。ただ、ギター仲間が集まってコピーしようにも、彼らの楽曲は、とても中学生の手に負えるような代物では無かった。僕らにとって、サイモン&ガーファンクルは、演奏するもので無くって、聴くものだった。

 僕は、「グレーテスト・ヒッツ」というベストアルバムを借りてきて、カセットテープにダビングして聴きまくっていた。さらに歌集を買ってきて、なんとか伴奏ができないものかと、オルガンを弾きまくった。おかげで、完全に自己流ながら、ピアノでスリーフィンガーができるようになった。
 「明日に架ける橋」も、ギターコードを頼りに耳コピでピアノ伴奏に挑戦した。他の曲に比べれば、コピーしやすい方だったと思う。もちろん、人に聴かせられるレベルでは無かったけど。
 
 僕が中学生の時には、彼らはすでに解散していた。当時、僕が知っている楽曲は20曲あまりだったと思う。彼らには、僕の知らない名曲がまだまだあるものだと勝手に思っていた。彼らの活動期間が、わずか6年間だったということを知ったのは、すっと後のことだった。彼らがリリースしたアルバムは、数枚しかないそうだから、おもだった曲は大体知っていたことになる。
 
 それらの楽曲群の中で、「明日に架ける橋」が異質であったのは、子どもだった僕にも分かった。まとわりつくようなデュオでなかったし、ピアノ伴奏だったし。
 
 S&Gファンに云わせると、「明日に架ける橋は、良い曲なんだけど、好きな曲では無いかな」ってところだろう。この曲が、サイモン&ガーファンクルの代表曲とされることには異論も多いと思う。
 確かに、サイモン&ガーファンクルがやらなくても、って感じはある。でも、ポール・サイモンが作ったことには違いないし、彼はこの曲ができたとき、生涯最大の傑作だと、周囲に語っていたらしい。

 ウィキペディアによると、この曲は、ポール・サイモンがゴスペルに影響を受けて作った曲なんだそうだ。Gのキーで作曲され、ポールはファルセットで歌うつもりだったらしいが、うまくいかなかったので、キーをE♭に下げて、アート・ガーファンクルが歌うことになったとのことだ。


 この曲が作られたのは、二人の関係が危機的状態に陥っていた頃だった。

 全く同じ頃に、ポール・マッカートニーも「レット・イット・ビー」を出している。この2つの楽曲は対比されることが多い。ピアノ伴奏だし、ゴスペルの影響を受けているし、グループ解散の危機の時期だったし。名曲とは、悩み苦しんだときに生み出されるもの、と云うことだろうか。
 ただ、ポール・マッカートニーが、「Let It Be」と、全てを悟り、放り投げてしまったのに対して、ポール・サイモンは、「Like a bridge over troubled water」と、もがき続けた。

 1970年、アルバム「明日に架ける橋」を最後に、サイモン&ガーファンクルは解散してしまう。

 ポール・サイモンとアート・ガーファンクルは、完全に決別したわけではなくって、その後も、二人でステージに何度か立っている。復活ステージのライブ動画も、YouTubeにはたくさんアップされている。
 でも、「明日に架ける橋」を歌うときは、何となく、しっくりきていない感がある。ヒット曲だから歌わないわけにはいかないし、仕方なく・・・、って感じだ。
 最大ヒット曲が、最も「らしくない曲」って云うのは、あることかもしれないが、ここまであからさまなのも珍しい。

 「明日に架ける橋」は、プレスリーをはじめ、多くのアーティストにカバーされることになる。普通、カバー曲っていうのは、「やっぱり本家には敵わない」ってことになるものだが、この曲に限れば、誰が歌っても、それなりに似合っている。「レット・イット・ビー」が、誰がどうカバーしても、ビートルズの楽曲でしか有り得ないのと対照的である。
 特に、反アパルトヘイトの象徴歌となった、ソウル歌手「アレサ・フランクリン」のゴスペルカバーは有名で、南アフリカでは現在も学校や教会で歌い継がれているとのことだ。ところが、この曲がポール・サイモンによるものであることを、ほとんどの南アフリカの人は知らないらしい。名曲とはそういうものなのかもしれない。

 「明日に架ける橋」は、サイモン&ガーファンクルの代表曲とすることに異論があるにしても、ポール・サイモンが生み出した名曲であるのは確かだ。

 で、いくつかあるボーカロイドカバーで、貼り付けさせていただくのは、この作品。かなり初期の作品なのだが、ボカロが最も盛んだった頃の作品には優れたものが多い。バージョンアップを重ねた最新型のボーカロイドも、当時のボカロPさんの熱意には敵わないというのだろう。


 サイモン&ガーファンクルについて語っておきながら、「明日に架ける橋」だけでお終いというのもナンですけど、今日のところは、ここまでです。

2017年9月18日月曜日

松浦亜弥さん移籍について、アップフロントの神対応が話題になってる!?

 とにかく、めでたい。ありがたい。
 何がありがたいかって、ブログのネタを提供してくれたことです。
  ここんところ、このブログって何なんだか、自分でも分からなくなってましたからね。

 何の活動もしてないのに、移籍話がネットニュースになるんですから、松浦亜弥さんもまだまだ捨てたもんじゃ有りません。
 自慢になりますけど、「松浦亜弥さんが活動を再開するとすれば、それは慶太氏の後押しがあったとき。」って、今年の3月に書いた通りになりつつありますしね。

 ただ、ネットニュースに対するコメントの多くが、松浦亜弥さんの活動再開についてでなく、事務所の対応についてなんですよ。どうも、そっちに注目がいっちゃってるみたいです。

 アップフロントのホームページによると、

 【・・(略)・・・この度の契約期間満了に伴い今後の活動に関して本人と話し合った結果、弊社との専属マネージメント契約を円満に終了する結論へと至りました。】

 と、あります。自ら「円満に」って言っちゃうところが面白いですね。で、この後、「長い間、応援ありがとうございました。」で終わっていいのに、何故か続きがあるんですよ。

 【松浦は、今後は夫である橘慶太氏の個人事務所に籍を移しますが、本人に関する問い合わせ等は、しばらくの間、弊社にて対応させていただきます。】

 「夫である橘慶太氏の個人事務所」って、やめたタレントがどこに行こうが関係ない話だと思うんですけど、しかも、「夫である橘慶太氏」ってわざわざ云うんですから。さらに、9月15日付けで契約満了なのに、「しばらくの間、弊社にて対応」するんだそうです。

 そして、結びの言葉が、

 【今後とも松浦亜弥へ皆様のお引き立てのほど、宜しくお願い申し上げます。】

 円満移籍と云われる所以ですね。このコメントが、今時珍しいと話題になって、アップフロントの好感度が上昇しています。解雇されても仕方ないくらい何もしてませんでしたからね。

 アップフロントに在籍したままでは、松浦亜弥さんの活動を慶太氏がプロデュースするのは、無理な話だったのでしょう。ただ、文面から判断すると、アップフロントは完全に縁を切ったわけでも無いように思えます。
 何としても夫のプロデュースを受けたい松浦亜弥さんと、活動を再開させ影響力を残したいアップフロント、その妥協点が「個人」事務所への移籍だったのではないでしょうか。松浦亜弥さんが「独立」でも良かったように思いますが、「夫の事務所に移籍」にしたのは、今後の活動への強い想いからかもしれません。

 アップフロントが「円満」を強調しているってことが何よりです。個人事務所では、ライブ1つ開くのも、いろいろと苦労があると思いますが、コットンクラブとか、使わせてもらえるかもしれませんし。

 とは云っても、厳しいことは確かだと思います。それなりの覚悟が無くてはできない決断だったはずです。悠々自適に暮らしていくんだったら、面倒見の良いアップフロントにずーーーっと在籍していれば良かったんですからね。
 こうなったからには、「何も無いということだけは無い」のは確かなことかと思います。

 まあ、あまり期待しすぎるのも、後が辛いですから、このくらいにしておきます。「解雇」だと格好悪いから「移籍」にしただけかもしれないし・・・・。

2017年9月10日日曜日

竹内まりや「SEPTEMBER」feat.初音ミク

 たまには、季節感のある投稿をということで。

「SEPTEMBER」は、竹内まりやさんの3枚目のシングルで、大ヒット曲「不思議なピーチパイ」の1つ前の楽曲になります。作詞:松本隆、作曲:林哲司という当時の最強コンビ。オリコンチャートは、最高39位ながら、セールスは10万枚越えだそうですから、ロングヒット曲だったんですね。1979年リリースですから、もう40年近く前になります。

 竹内まりやさんの楽曲は、カバーがとても多いんですけど、この楽曲も、たくさんの歌手がカバーしています。その中の1つ、「原田知世」ちゃんのテイクです。


 良いですねえ。フルコーラスで聴きたければ、CDを買いなさいってことですね。

 デビューした時、竹内まりやさんは、すでに立派な大人だったのですが、アイドル歌手的な扱いをされ、かなりご不満だったようですね。その後、山下達郎氏と結婚をして、テレビには出なくなっていったように思います。
 失礼な話ですけど、僕は、一発屋のアイドルが結婚して引退したみたいに思っていたものですから、「元気を出して」が出てきた時は「へえ~作曲とかするんだ」ってびっくりしたことを覚えています。


   いかがですか。なかなか可愛いテイクだと思います。

 気になる点をあげるとすると、英語の発音の部分でしょうか。「セプテンバー」の「プ」が強く発音されているのが気になります。「セッテンバー」って歌わせて欲しかったところです。もう1つは、「グッバイ」の「イ」ですかね。ここも「グッバー」で良いかと・・・、だったらオマエが作れと言われそうですから、このくらいで。

2017年9月6日水曜日

「マイカルミライ2017」で、鏡音リンのコスプレしてる女の子が、喫煙コーナーで煙草吸ってたのがシュール過ぎ!!

 鏡音リンは、永遠の15歳ですから、明らかに補導の対象となるはずです。

 とはいえ、ライブでリンちゃんが出てくると盛り上がります。今日は、14曲目に演奏された「ココロ」から貼り付けさせていただきます。


 今回のマジカルミライは、3日間で、のべ3万人だったそうです。その中の2人は僕です。客層は、相変わらず幅広いのですが、ファミリーとか、ヲタクさんとか、熱狂的なファンは減ったように思います。コスプレの方のための更衣室(男性用も)が用意されていましたけど、そんなに多くはなくって、普通の若者が中心って感じでした。男女比は、僕の周りでは、7:3くらいでしょうか。外人さんも思ったほどでは、ありませんでした。ただ、同じブロックにイスラムのお嬢さん(インドネシアかマレーシア?)がいて、ライブが終わると感動されて泣いていたのが印象的でした。
 まあ、賑わいを実感できないのは、幕張メッセが広すぎて熱気が拡散してしまっているからで、神社の境内みたいなところで開催されていれば、印象も変わるかもしれません。

 同じ日に、イベントホールでは「三森すずこ」さんのライブが開かれていたみたいです。夕方になると、男の子の集団が集まっていて、あちらは、声優ライブ、こちらはボーカロイドライブ、まあ世間的には、どちらも同じように思われているかもしれませんけど、集団の雰囲気が何となく違っていて面白かったです。

 17曲目の「気まぐれメルシィ」です。こんな激しいステージだったんですね。かけ声ばかりで、ステージ見てませんでしたw



 今年の初音ミクは、ダンスもキレッキレで上手だったような気がします。モーションキャプチャーのダンサーさんが上手だったんでしょう。

 企画展ですけど、オジさん的には、見るべきものは乏しかったです。カメラは持参しませんでしたけど、持っていたとしても、撮るところは無かったと思います。物品販売が主になるのは致し方ないんですけど、昨年は、痛車の展示とかありましたからね。

 企画展ステージは、盛り上がっていたようです。初音ミクのCGが無くっても、DJなどによるボカロ曲を楽しみたい人も多いだろうし、少なくなったとはいえ、歌ってみた動画や踊ってみた動画もあるわけですから、音楽の様々な楽しみ方と、その発表の場として、企画展のミニライブ会場が運営されていくのは、良いことだと思います。
 ボーカロイドライブの原点は、楽曲の発表の場でしたし、ステージには、スクリーンに映されたCGでなく、楽曲の制作者が上がるのが本来の形ですからね。

 会場を仕切って、覗けないようにして、別料金を取るのも運営上仕方ないことですけど、音だけ聞こえるというのも悲しいです。もっと会場を大きくして、入退場フリーのイベントステージみたいだったら、賑わいを共有できて嬉しいんですけどね。

 アンコールの1曲目「砂の惑星」です。ミクの衣装が、MVみたいので無くって、可愛いやつだったので良かったです。


 来年の告知がありました。「マジカルミライ2018」は、「インテックス大阪」と「幕張メッセ」の2会場だそうです。って、本当に幕張が好きなんですね。会社の忘年会みたいに、今年の打ち合わせに行ったついでに、来年の予約をしちゃうみたいな感じでしょうか。

 だからといって、マンネリだとかは決して云いませんよ。いつまでも、少なくともあと1年は楽しめる。ファンにとっては、これ以上の幸せはありませんから。

2017年9月3日日曜日

初音ミク「マジカルミライ2017」に参戦したのだが、五十肩でペンライトが振れない!!

 前々から、違和感があったんですけど、ついに五十肩になってしまいました。左腕を上げるのがつらいです。僕は利き手が左なんで困ります。上げた腕を下げる時は、もっとつらいです。肩が痛くてたまりません。でも、痛いのが分かっているのに、何故か腕を上げてしまいます。で、下げられなくなって「何で腕を上げたんだろう」って、後悔します。

 と、云うことで「マジカルミライ2017」は、最悪のコンディションの中、ロキソニンを飲みながらの参戦になりました。会場で、両手にペンライトを持っているのに、左腕を下げたままのオジさんを見かけましたら、それが僕です。

 とりあえず、印象に残った曲をいくつか貼り付けさせていただきます。まずは、鏡音レンによる「Fire◎Flower」、この動画はニューヨークでのライブテイクのようですね。


 バックモニターのCGとか、今回と同じみたいです。でも、さすがアメリカですね。盛り上げ方が違いますw

 僕が、参戦したのは、9月2日(土)の昼と夕の2公演でした。今回は、SS席が取れなかったので、どちらもS席での参戦となりました。

 ギリギリまで、ファミレスとかで時間を潰してから行きました。もうオジさんですから、長時間立ってられませんし、しかも五十肩ですから・・・。
 開場待ちで並んでいた人のつぶやきによると、リハーサルの音漏れがすごくって、セットリストが事前に全部分かっちゃったみたいですね。

 昼公演は、前の方だけど端っこのB8ブロック。ほんとに端っこの方でしたけど、スクリーンは、思いのほか見やすかったです。横から見ても見やすいように改良されてきているのでしょうか。
 それから、隣が通路なのは、動きやすくって良かったんですけど、係のお兄さんが頻繁に見回りに通るので、気になって仕方ありません。職務に忠実なのは良いんですけど、刑務所の看守みたいに歩くのは、やめて欲しいです。ライブのリズムに合わせて、ちょっと体を揺らすだけでも、雰囲気壊さなくなるんですけどね。一緒に楽しんでいるっていう姿勢を演出してくれれば、「通路にはみ出さないで」って云われても、素直に聞くことができるんじゃないかなって思います。

 夕公演は、真ん中だけど後ろのG3ブロックです。ブロックの中でも最後列でしたから、ほんとに後ろの方でした。でも、今年の会場は展示場の第3ホールのみと狭めで、座席のほとんどがSS席扱い、S席は、その周りだけでした。これでも、武道館だったら、アリーナー後ろの方って感じでSS席扱いだと思います。2公演目でしたし、さすがにスクリーンは遠かったんで、見ると云うよりも、声出しに集中でしたね。
 まあ、広い会場で一度にやるよりも、このくらいの所で、5公演やってくれるほうが、良心的かもしれません。コンサートホールならもっと良いんですけどね。

 肝心のライブですけど、昨年と同じ幕張メッセで、バックバンドも同じ、楽曲もいくつかは、かぶってますから新鮮さはありませんが、それでも、同じ楽曲でもキャラクターを複数登場させて、合いの手を入れさせたり、ダンスさせるなど、所々では、趣向を変えてきていました。
 あと、ボーカロイドの歌は聴き取れないことが多いんで、いくつかの曲でバックモニターに歌詞を映してくれたのは嬉しかったです。
 それから、初音ミク発売10周年、マジカルミライも5回目という節目を迎えて、今までの歩みを振り返るような演出が印象的でした。今回のライブが「みくみくにしてあげる」で始まって、ラストが「メルト」というのも、その流れからきているのでしょうか。
 ライブの中盤で、過去のライブを振り返るみたいなコーナーがあって、「エレクトリック・エンジェル」とか演奏したんですけど、昔のCGを使っていたように見えました。
 で、最後の1曲が、ずいぶん早いなあと思ったら、アンコールで5曲もやりました。これも、今までになかった流れでしたね。

 2曲目は「ツギハギスタッカート」。抽象的な表現が多い歌詞ですから、いろいろな解釈がされているみたいです。


 この手の歌は、初音ミクがお似合いですね。人間の女の子だと誰でしょうか。昔だったら、「谷山浩子」とかでしょうけど。

 最初に「みくみくにしてあげる」が流れてきたときは、ちょっと泣きそうになりました。その後、知らない曲が続いて困ってしまいましたけど・・・。昨年のライブが、ノリの良い曲がほとんどだったのに対して、今回は、バラードっぽいのとか、メッセージソングとか、バランスのとれた良いセットリストだったと思います。
 ただ、「これ、良い曲だな~」って思った曲のほとんどが、昔のものだったんですよね。「名曲は過去に有り」っていうのも寂しいですけど、考えてみれば、偉大なアーティストのライブでも、過去のヒット曲をやるときが一番盛り上がるわけで、これも10年間の積み重ねの賜と云うことでしょうか。

 それから、ライブの中盤に演奏した5曲分ですけど、初日とセットリストを変えてきたとのことでした。先ほど、3日目のセットリストの情報も入ってきましたけど、全部取っ替えっていうわけでもないようです。でも、新しい試みで面白いです。
 ただ、1日目と2日目は、セットリストを変えても、昼の部と夜の部は同じなんですよ。これって、どうなんでしょうか。2日間続けて通える人って、そういないと思います。僕的には、日替わりでなくって、昼夜で変えて欲しかったです。それとも、昼夜2回参戦する方が珍しいのかなあ。

 ラストソングは、今回も「ハジメテノオト」をみんなで歌いましたが、ラス前は、livetune氏の「DECORATOR」でした。最後にボーカロイドの皆さんがスクリーンに勢揃いしてお終いという演出でした。


 今回も、全27曲を再生リストにまとめましたから、よろしかったらどうぞ。

  初音ミク マジカルミライ2017(いろいろ集めて再現しました)

 思いつくままに書きました。今日のところは、ここまでにさせていただきます。

パソコンが壊れてしまいました

 パソコンが動かなくなりました。ハードディスクだと思います。

 ブログを始める少し前、頻繁にYouTubeを見るようになってから買い換えたので、そんなに古くないはずです。でも、無いと困りますから、新しいパソコンを買ってきました。思わぬ出費でつらいです。欲しくって買い換えるのと、壊れて買い換えるのでは、テンションが違いますから。

 それほど大切なデータが入っていた訳ではないんです。整理済みのデジカメのデータとか、YouTubeで拾い集めてきた○○とかくらいでしょうか。あと、書きかけのブログ記事が少し。

 昔だったら、パソコンを買うなんて、一大イベントでしたから、何日も前から情報を収集して、パソコン屋に何度も通いましたけど、今日は、量販店で速攻で決めてしまいました。扇風機を買ったときのほうが、いろいろと悩んでいたと思います。
 Lenovoとかありましたけど、結局、国内メーカーにしました。聞いたところによると、NECだって、今じゃあ中身はLenovoだとか云うことだし、東芝だって富士通だってMaid in Chinaですけど、昭和世代の悲しさでしょうか、国内メーカー至上主義から抜け出せません。
 というわけで、今回は、富士通にしました。Blu-rayくらい再生したいですから、「CORE i3」搭載の「中の下」くらいのにしました。これにしますって云ったら、カウンターの向こうから、持ってきて、そのままお会計です。ほんとにあっけなかったです。

 記憶をたどっていくと・・・。

 NEC8001mkⅡ→ NEC8801mkⅡ(中古)→空白の期間→FM-TOWNS(初めてのワープロソフト購入)→NECのオールインワンのやつ→NECのオールインワンの液晶のやつ(インターネット開始!)→VAIOのノートパソコン(一番の高額パソコン)→東芝のダイナブック(一太郎ワープロ専用機として今も現役)→東芝ダイナブック(クラッシュ!)→富士通ノート

 ってところです。ノートパソコンになってから4台目ですけど、買い換えるごとに、値段が安くなっていきます。でも、YouTubeの画像とか、また一段と綺麗になったような気がします。

 と、いうことで、新しいパソコンで心機一転、テンション上げていきますね。