2017年3月27日月曜日

ウォーターライン製作記⑤ ~巡洋艦「天龍」とウェーク島の戦い~

 軽巡洋艦「天龍」はハセガワの製品で、2015年3月に完全リニューアルしたモデルです。では、早速ハセガワの製品紹介を見てみましょう。
 
【第一次大戦直後に竣工した天龍型は、日本海軍軽巡洋艦の始祖に当たる艦艇です。キットは最新の考証に基づいて設計を行い、現在の金型技術を駆使したハイディテールな精密モデルとして生まれ変わりました。14cm砲の砲身や25mm連装機銃の銃身の細さなどは感動ものです!】

 自社製品を「感動もの」と言い切ってしまうところが何ともですね。砲身をリアルに再現するのも良いんですけど、細さまで700分の1にしなくても良いかなって思います。折れたらお終いですから。
 ただ、連装機銃や内火艇など、共通部品であったものを、専用部品に入れ替えるなど、ハセガワのディテールに対する意気込みは大変なものです。写真では、お分かりいただけないかもしれませんが、魚雷発射管などは確かに感動ものです。プラモデルの精密化は、パーツを細分化することでなく、パーツ個々のクオリティーを高めることにある、というハセガワの信念に深く共感した次第です。
 まあ、共通部品を新しい精密金型でリニューアルすれば良いだけの話なんですけどね。その辺の各社の足並みの揃わなさが、残念なところではあります。

  上がタミヤの従来品、下がハセガワのリニューアル品です。


 船体を左右に分割しているのは、「赤城」と同じです。このやり方は、艦船の大小に関わらずハセガワのスタイルのようです。あと、前部の三本足のマストの長さがどうしても合わなくって、仕方なく、前足を少し切り落として接着しました。で、先輩方の作品を見たら・・・・あれっ「天龍」のマストって斜めだったんですか。マストは垂直に立っているという固定観念に捕らわれて、こりゃ部品の成形ミスだ、なんて思ってしまいました。ハセガワさんゴメンナサイ。

 こちらがネットから拾ってきた「天龍」の画像です。当初は、艦橋の天井が天幕なんですね。昔の船乗りは、吹き曝しのなかで操艦していたわけです。
 で、マストは・・・改装前ってことでしょうか。


 箱絵は、「加藤単駆郎」氏が担当しています。右旋回中の「天龍」です。「外方傾斜」によって、船体が左側に傾いているのが分かります。その傾斜を利用して甲板上を描いています。そう云えば、セウォル号の沈没原因も外方傾斜で積み荷が崩れたからでした。
 それから、主砲の周りにいるのは、弾込めしている水兵さんです。「天龍」の14cm速射砲は、人力装填だったそうです。
 このこだわり感こそ精密イラストですね。ますます単駆郎氏のファンになってしまいました。で、マストは・・・こちらは改装後ですね。


 先ほどから、一緒に写ってるのは、タミヤの駆逐艦「暁」です。比べて分かるように、天龍型は排水量3500トンですから、大型の駆逐艦サイズってところですね。


 「天龍」は、前述の通り、第一次世界大戦直後の1919年に竣工した小型の軽巡洋艦です。主に夜戦に際して駆逐艦を率いて敵主力艦に雷撃を行う水雷戦隊の旗艦としての役割を期待され建造されました。日本の軽巡洋艦の元祖とも云われています。傑作艦といわれた「天龍」ですが、居住性に難があり、小型であるが故に大規模な改装も不可能で、姉妹艦「龍田」の2隻しか建造されませんでした。この後、軽巡洋艦のサイズは、航空機の搭載が可能な5500トンクラスが標準となっていきます。

 太平洋戦争が始まったとき、「天龍」は、竣工から20年を越えていました。しかし補助艦艇が絶対的に不足していた海軍において、旧式ながらも最前線に送られ、ウェーク島攻略作戦、珊瑚海海戦、ポートモレスビー作戦、第一次ソロモン海戦、第三次ソロモン海戦など太平洋戦争を代表する作戦の支援任務に従事しました。

 特に、第一次ソロモン海戦は、老艦であることを理由に夜襲作戦から外されていたのを、戦隊参謀らが参加を懇願して急遽認められたものでした。艦隊の足手まといにならないようにと、最後尾に配置されていたのですが、乱戦の中、米巡洋艦を雷撃で撃沈、駆逐艦を砲撃で撃破するなどの思わぬ大戦果をあげます。
 しかし、開戦からわずか1年後の1942年12月、ビスマルク海にて輸送船の護衛の最中、潜水艦の雷撃により撃沈しました。この時は、沈没まで2時間ほど時間があり、救助活動の結果、乗組員の多くが生還することができたようです。

 艦これの「天龍」です。名前のイメージからか、ソロモン海戦の活躍からか、艦これには珍しく武闘派キャラです。隻眼なのは、ソロモン海戦で、探照灯を破壊されたという史実からと思われます。って、よく考えるものですね。


 で、今回紹介させていただく「ウェーク島の戦い」は、太平洋戦争の中では、あまり知られていない戦いではないでしょうか。島を守っていた米海兵隊が、僅かな戦力と知恵と勇気によって、迫り来る大軍を撃退するという、アメリカの戦争映画そのままみたいな戦いです。


 アメリカ領ウェーク島は、太平洋のど真ん中にある珊瑚礁の島です。日本軍は1941年12月8日の日米開戦と同時にウェーク島を空襲。三日後に軽巡洋艦、駆逐艦、輸送船で構成された攻略部隊が島に接近。軽巡「天龍」も支援部隊として艦砲射撃をおこないました。
 空襲により米戦闘機部隊及び島の砲台は壊滅という報告を受けていた攻略部隊ですが、島に接近した艦隊は、島の砲台から思わぬ反撃を受け混乱します。
 駆逐艦「疾風」は直撃弾を受けて轟沈。さらに、米軍は、残存していた4機の戦闘機で敗走する艦隊を追撃します。F4F戦闘機に100ポンド爆弾をロープで吊り下げて爆撃機に仕立てるという、どこかの映画みたいな攻撃により駆逐艦「如月」は爆沈。「天龍」も機銃掃射を受けて多数の死傷者を出しました。

 ウェーク島攻略に失敗した日本軍でしたが、その10日後に第2次攻略部隊を派遣します。前回の攻略部隊がたった4機の戦闘機に翻弄されたことから、真珠湾攻撃から帰投中の第2航空戦隊(飛龍・蒼龍)に支援を依頼。さらに、グアム島攻略を終えた重巡洋艦4隻を加えるなど、戦力を大幅に増強しての出撃でした。
 一方、真珠湾攻撃による混乱が続いていたアメリカ軍は、ウェーク島への支援を断念してしまいます。孤立無援となった米守備隊ですが、大軍を相手に激しく抵抗しました。
 残存2機となっていた米戦闘機は、2航戦の精鋭部隊に奇襲を仕掛け、攻撃機2機を撃墜するという大戦果をあげますが、直後に零戦に撃墜されます。海岸では、上陸した海軍陸戦隊に米海兵隊が応戦しました。
 激戦の末、アメリカ軍は降伏しますが、アメリカ軍の戦死者122名に対し、日本軍の戦死者は少なくとも469名に及んだと云われています。

 捕虜となった米兵に滑走路の修復を命じたところ、倉庫からブルドーザーとパワーシャベルを持ち出し、半日で作業を終えてしまったのを見て、人力の土木作業しかやったことのない日本兵は大変驚いた、というエピソードが伝わっています。

 開戦直後のこの戦いは、この後3年半にわたって太平洋で繰り広げられる離島の攻防戦について、多くの教訓を残しました。
 航空機支援の重要性。空爆の効果を判定することの難しさ。太平洋の高波が押し寄せる海岸での上陸作戦が、いかに困難であるか。機銃陣地に向かって歩兵を突撃させることが、いかに愚かなことか。そして何より、アメリカの正規軍が、いかに強い軍隊であるか。
 しかし、日本海軍の上層部は、これら実戦部隊からの報告を、次の戦いに生かすことはできませんでした。この8ヶ月後、日本軍は、ガダルカナル島において、同じ過ちを繰り返すのです。それも何倍もの規模で。

 ウェーク島に残った日本軍の状況も凄惨を極めていきました。戦局が悪化するにつれて補給も滞りがちになり、米軍の大空襲により物資は焼失、混乱の中、抑留していた米兵98名全員を虐殺するという事件も起きています。

 やがて、太平洋戦争の主戦場はマリアナやフィリピンへ移り、戦略的価値を失ったウェーク島は、敵からも味方からも見捨てられました。

 そして、島には飢餓が訪れました。椰子の木しか生えていないような絶海の小島に4,000人もの兵士が駐留していました。彼らは全員が極度の栄養失調に陥りました。島にある食べられそうなものは全て食べ尽くし、時折、潜水艦が決死の思いで運んでくる僅かな物資によって、辛うじて命を繋いでいるという状態でした。
 ウェーク島守備部隊は、終戦までに1,331名の戦死・戦病死者を出しますが、そのうちの1,000名以上が餓死だったと云われています。

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