2016年6月27日月曜日

突然ですが「餃子」について語ります

 僕は、餃子が好きです。隣町にある「餃子の王将」にも行きますし、浜松へお寺巡りに行くと、浜松餃子の「石松」へ行きます。石松は、新東名の浜松SAにもあります。本店だと1時間待ちは当たり前ですけど、SA店は待ち時間ゼロで食べられます。浜松餃子独特の円く並べた形では焼いてくれませんが、ゆでモヤシは付いてきます。
 栃木に仏像巡りに行った帰りには、必ずってくらい宇都宮の「みんみん」に行きます。「みんみん」だって「石松」だって、自社工場で大量生産している餃子を、店で焼いて出しているだけなんですけど、僕は、美味しいと思います。
 「みんみん」に行くと必ず「水餃子」を注文します。今日は、その「水餃子」について語らせていただきたいと思います。


 僕の母方の曾祖父は、旧陸軍に薬剤師として務めていた軍属でした。で、朝鮮のソウルに赴任したときに軍を退職し、ソウルに薬局を開き、そこで暮らすことにしたそうです。戦前の、朝鮮が日本の植民地だった頃の話です。
 曾祖父は、ソウルで亡くなりました。祖父は、ソウルで育ち、ソウルで就職し、ソウルで結婚して暮らしていたのですが、やがて敗戦となり、まだ幼かった母たちを連れて、命からがら日本に引き揚げてきたとのことでした。

 祖父は、戦前の人にしては珍しく、料理が好きな人でした。朝鮮で長く暮らしていたので、キムチ(当時は「朝鮮漬け」と云ってました)などもよく食べていました。
 そんな祖父の得意料理が「餃子」でした。戦前の朝鮮には、多くの満州人なども行き来していましたので、祖父もそういった中国人から餃子の作り方を学んだのだと思います。

 終戦間もない頃の話です。ほとんどの日本人は、餃子を見たことも、聞いたこともないという時代です。もちろん、餃子の皮など店に売っていませんから、皮から手作りしたそうです。
 祖父は、胃が弱かったので、餃子には、ニンニクの代わりにニラならぬ長ネギを入れ、あと、キャベツを使ったり白菜を使ったりして、いろいろと試行錯誤していたようです。
 それから、これが最大の特徴なんですけど、祖父の作る餃子は、「水餃子」でした。
 現在の日本では、「焼き餃子」が一般的ですけど、餃子は本来、茹でて食べるものでした。今でも本格的な中華料理屋では、料理の〆として出てくるのは水餃子です。

 焼き餃子の始まりについては、こんなエピソードがあります。
 中国では、客人をもてなす際には、食べきれないほどの料理を出すのが礼儀とされていました。で、宴会料理で残ったものは、使用人たちがもらうことになっていました。あるとき、宴会で出した水餃子が大量に余ったのですが、茹で直しても美味しくありません。そこで、試しに焼いてみたところ、美味しく食べることができたそうです。焼き餃子は、余った水餃子を美味しく食べるための工夫であり、使用人たちが食べる卑しい調理法でした。
 戦後、日本に餃子が入ってきたときに、水餃子でなく、焼き餃子が広まったのは、ご飯と味噌汁が必ずセットされる日本の食卓では、ご飯のおかずに合い、お総菜としてそのまま食べられる焼き餃子の方が好まれたからだと云われています。水餃子を食べると分かるんですけど、ご飯を食べるタイミングがつかめないんですよね。

 祖父は、晩年、餃子の店をやれば良かったと、よく話してました。もし、祖父に多少の商才と実行力があれば、今頃は、日本の水餃子発祥の店として、ちょっとは有名になっていたかも知れません。

 母も、よく餃子を作ってくれました。その頃になると、餃子は一般的な食べ物でしたから、皮は手作りしなくても、お店に行けば売っていました。母が作る餃子も水餃子でした。たまに、今日は焼いてみようか、などという日もありましたが、基本的には水餃子でした。

 大きな鍋で茹でた餃子をどんぶりにゆで汁と一緒によそいます。それに多めの酢と少なめの醤油、七味をかけて食べます。売っている餃子の皮は、焼き餃子用に薄めに作っていますから、水餃子にした場合、箸でつつくと簡単に破れてしまいます。僕は、お行儀の悪い食べ方ですけど、どんぶりの中で全部の餃子をほぐして、最初に皮を食べて、後から具を食べるのが好きでした。
 水餃子は、サッパリしているので、幾つでも食べられました。気分が悪くなるほど食べたものでした。

 あるとき、友人と餃子の話になったことがありました。僕は、水餃子の話をしましたが、友人は、餃子を茹でて食べるなんて信じられない、有り得ないと笑いました。僕は、そのときから、水餃子の話を他人にするのをやめました。

 僕は母に連れられて、よく隣町まで買い物に行きました。お昼を食べようってことになって、母は僕を餃子の店に連れて行ってくれました。メニューは、餃子とライスしかないと云う「みんみん」や「石松」みたいな店でした。
 そこの餃子は、普通の餃子の3倍はあろうかという大きさでした。で、焼き目を付けた後に、大量の湯を入れて茹で上げるという、ふにゃふにゃの「煮餃子」と云うようなものでした。僕は、一発でこの餃子の虜になりました。気分が悪くなるくらい食べました。それから、隣町に行くたびに、その店で餃子を食べることが楽しみになりました。

 この前、急にその餃子のことを思い出しました。もう40年以上前のことでから、お店なんかとっくに閉めているだろうと思いましたが、一応ネットで検索してみました。そしたら、親子三代、60年間変わらぬ味ってことで、店は続いていました。そればかりではありません。並んでも食べたい餃子の店として、全国放送のワイドショーでも紹介されたというではありませんか。僕が行っていた頃も繁盛はしていましたが、外に並んでいる程ではありませんでした。

 僕は40年ぶりに、その店を訪ねようと思いました。1人ならば、開店前に並ぶことなど厭わないのですが、家族も食べたいと言うので、お持ち帰りの予約を入れることにしました。実家の分も持って行ってあげようと思いました。

 約束時刻の午後2時に行ったのですが、すでに暖簾は降ろされていました。椅子に座って店の名かをぐるりと見回しました。何となく見覚えがあります。4人掛けのテーブルを相席にして、食べていたことを思い出しました。
 どんなに繁盛しても、支店を出すわけでも無く、家族で作れるだけ作って、売り切れたらお終い、という商売を60年間続けていたそうです。家族で作れる餃子には限りがあります。(一説には3000個)そこから予約のお持ち帰りを除いた分がお店に出す数になります。ですから、午前11時に開店して、午後2時前には店じまいです。
 
 餃子を受け取って、店を出ようとした時、腰の曲がった小さなお婆さんが入ってきました。僕を見て「いらっしゃい」と言ったこのお婆さんこそ、40年前、子どもだった僕に餃子を焼いてくれた方に違いないと思いました。
 40年ぶりに食べた餃子は、記憶通りの大きさと柔らかさで、ご飯やビールがすすみそうな、しっかりした味の付いているものでした。思っていたより味が少し濃いように感じましたが、変わったのは、餃子でなくって、僕の味覚の方なんでしょう。
 
 とりとめもなく、書いてしまいました。

2 件のコメント:

chan Oichan さんのコメント...

前々からそう思っていたのですが、大sansanさんは文章が上手いですね。実はプロフェッショナル?

話は餃子ですが、そこに様々な感情の機微を織り込んであり、読んでいてとても暖かい気持ちになりました。

昔お母様と通ったお店のくだりは、鼻の奥がツンとなりそうでした。

とりとめのない話と結んでいましたが、この様な話しをどんどん聞かせて下さい。

大 sansan さんのコメント...

独り善がりな記事にも関わらず、目を通していただき、ありがとうございます。
そろそろ松浦亜弥さんサイドからも、ネタを提供していただかないと、
ブログの主旨と記事がどんどん乖離してしまって・・・w